夢玄館にようこそ。こちらは昭和四十五年に建てられたアパートをリノベーションしたショッピングモールです。若く才能に溢れたショップオーナーたちによるこだわりの品々をセレクトしております。カフェやヒーリングスポットもおススメ。きっとお気に入りのショップが見つかることでしょう。
そんなキャッチコピーを載せた安っぽいチラシの横に、わたしは小さな瓶を置いた。中には水道水と、黒い小さな箱型の物体が入っている。——標本のようなそれ。
盗聴器だと、聞かされた。
なんでこんなことになったのだろうと、思う。わたしがここ、夢玄館に来たのは、ほんの二週間ほどまえだ。
その日、赤い頭をした呉竹千秋(くれたけ ちあき)が押しつけてきた宣伝チラシに、わたしは呆れていた。
「……ショッピングモールってなんですか?」
「やだ知らないのー? 花純(かすみ)ちゃん。ショッピングモールはショッピングモールだよ。小売店が沢山集まった施設のこと」
「それはわかりますけど、この夢玄館のどこがショッピングモール? しかもリノベーションだのショップオーナーだの、片仮名ばかりで意味不明なんですけど」
「そっちのほうがフィーリングに合うじゃん。内容は間違ってないでしょ」
たしかにここは四十年ほど前に、伯母の夫が近所にあった大学の学生向けに建てたアパート、玄田(げんた)荘だった。一階は伯母一家の暮らしていた2DKの部屋と、内廊下をはさんだ1Kの三室。二階も内廊下の両側に1Kが三室ずつで、トイレは共同、伯母の部屋以外には風呂はない。泡沫狂乱の時代の後も穴場価格に惹かれてくる学生はいて、伯母はほそぼそとではあるが玄田荘を営んでいた。しかし何年か前に大学が移転してしまい、最後まで残っていた留学生もいなくなり、伯母は玄田荘を畳んだ。畳んで年金暮らし、と聞いていた。ところがなぜか壁を塗り替え、業態を変え、学生が住んでいた部屋をテナントとして貸し出しているのだという。それがリノベーションしたショッピングモール、だ。さらには若く才能に溢れたショップオーナーたち、らしい。自分で言うかねえと、わたしは目の前の呉竹を眺める。
伯母が入院したという一報で、わたし、風見(かざみ)花純は管理人の仕事に引きずりこまれた。できれば関わりたくなかったけれど、我が家で現在無職なのはわたしだけだった。関わりたくないというのは、伯母に、じゃない。しばらく会っていなかったけれど、伯母のことは心配だ。小さいときに可愛がってもらった記憶もある。
……ただ。
「なに? 不満? 不満なの? じゃあ自分で作りなさいよ。だいたい、あなたまだ、うちの服着てないじゃない。一度着なさいよ。あたしの服、カッコいいんだから。人気あるんだから。絶対ファンになるから。凛子(りんこ)さんもそうだったんだから」
呉竹がまくしたてる。玄田凛子、というのが伯母の名前だ。父の、歳の離れた姉だ。
呉竹のショップは、二階の南、三部屋並びの真ん中で、レッドバンブーという名の服屋だ。しかし呉竹の創る服は派手派手しいギャル向けで、七十歳になる伯母が着たとは思えない。二十五歳のわたしにだってキツい。わたしはどちらかというと、ぐうたらとしたウエストのない服が好きなのだ。
「あんたホントにタメ? 覇気がないわよ、覇気が。もっと頑張って夢玄館を盛り上げていこうって気持ちにならなきゃ駄目じゃない。この場所に夢玄館があることを、そしてレッドバンブーっていうオリジナルのブランドがあることを、知らない人が多すぎるのよ」
「それ、人気があるとは言わないんじゃ」
「あるの! 口コミで広がってるの! 不十分なだけ。本当なら行列できるくらいなんだから。この夢玄館はあたしたちの夢を託した場所なの。ここで夢を実現させるの。あたしも、他のみんなも。凛子さんもできる限り支援してくれるって言ったの。夢のためにできることを全部しようって。それが管理人の役割。あなた、凛子さんの代わりなんでしょ」
……ああ、面倒くさい。
わたしは、夢という言葉を免罪符に、他人に自分の都合を押しつける連中は苦手だ。
関わりたくないとつねづね思っているのは、呉竹のような人々だ。
「まあまあ、最初からケンカしないで。仲良くやっていこうぜ」
猿にも似た小柄な男が、へらへらと笑いながら言った。雑貨屋モトナリのオーナー、毛利(もうり)だ。本名は正だか孝だからしいが、毛利という苗字に合う一番かっこいい名前を店名にしたらしい。周囲にも本名ではなくモトナリと呼ばせているそうだ。夢玄館のよろず相談もやっている、とは本人の触れ込みだ。
このふたりは、わたしがトイレの掃除を終えて管理人室でのんびりお茶でも飲もうと思っていたところを、強襲してきたのだ。
「チラシの内容は、夢玄館のサイトの写真やキャッチコピーを使ったものだからさ。つまり凛子さんも承認済みってわけ。俺もそんな感じでいいと思うよ、花ちゃん」
モトナリがまとめてくる。それは勝手にしてくれていいけれど。
「わたし、ハナじゃないです。カスミです。変な名前で呼ばないでください」
「親しさをこめようと思って。じゃあそういうわけで印刷するね。これ、請求書」
しれっと紙を渡された。
「内容は、サイトを流用したって言いませんでしたか。なにを請求なさるんですか」
「印刷代。コンビニのカラーコピーが一枚五十円だろ。俺のは四十五円。お徳だろ」
「たいして変わらないじゃないですか」
「五円は大きいよ。あ、でもインクがないんだ。インク代、先払いしてくれない?」
モトナリが言う。それは別払いなのか?その詐欺みたいな値段のつけ方はなんなんだ。
「待ってくださいよ。なんでわたしが出さなきゃいけないんですか」
「夢玄館全体の宣伝費だろ」
「うちは部屋を貸しているだけですよ。みなさんが売上げを伸ばしたいならみなさんでやればいいじゃないですか」
「またそんな後ろ向きなこと言って!」
しばらく黙っていた呉竹が吠えた。
「みんなで盛り上げなきゃダメでしょ。文句ばっか言ってちゃ前に進まないじゃない」
「文句じゃありません。わたしを巻き込まないで欲しいと言ってるだけです」
「管理人代理でしょ! やって当然じゃない」
呉竹が唾を飛ばし、噛み付いてくる。どうどうどう、とモトナリが止めている。
「とにかく。わたしは聞いた以外の仕事はやるつもりがありません」
むりやりふたりを管理人室から追い出した。ほっと息をつく。
管理人室といっても、もともとは伯母の部屋だ。ひとり暮らしの家財道具にパソコン類が同居している。
わたしは机に置かれているパソコンを立ち上げた。求職サイトを見るのだ。早く次の仕事を見つけないと、ここの連中にいいように使われてしまう。だいたい、モトナリがよろず相談をやっているなら、管理人業務も任せればいいのに。
ひとしきり見て、ろくな仕事がないのに落胆し、わたしはパソコンのゲームを探して遊び始めた。じきにそれにも飽き、ファイルを適当に見ていく。帳簿らしきものがあった。あくび交じりにしばらく読んでいたが、愕然とした。
あきらかにこれはヤバい。
夢玄館は、かなりの赤字だった。半分近いショップが家賃をずるずると遅らせている。最も遅れているのがモトナリだ。しかもモトナリは、よろずの相談料とやらで家賃の支払いをチャラにしている。これはいけない。たしかに管理人業務は任せられない。そして伯母はその赤字を、自分のお金で埋めていた。これから入院費や手術費が必要だというのに。
全面降伏はしないけれど、前言撤回。
片手間にやるつもりだった管理人業務だけど、多少なりとも客を集めないと赤字は解消しない。伯母が病院を放り出されてしまう。仕方がないので呉竹にチラシ作りをお願いすることにした。印刷は自分でやるつもりだ。伯母の部屋にはプリンターもあったのだ。モトナリの話を鵜呑みにしてはいけないと、心に刻むことにする。
わたしは作り笑いで、呉竹のショップ、レッドバンブーの扉を叩いた。
提案が受け入れられたことで、呉竹は満足げだった。さっきまでの怒りもどこかに消えてしまったようだ。
「そうそう、言い忘れてたんだけど、サイトを作った後で隣のショップがやってきたのよね。隣はまだ載ってないから、写真貰っておいて。サイトにもアップしておいてよね」
パシリかよ、と思ったけれど、騒ぎ立てるのも面倒なので、おとなしく出向くことにした。
南側の一番奥の部屋、そこは占いの店だった。グレイがかった柔らかな布が天井から垂れている。その奥に机と椅子があり、店主、いやショップオーナーとやらの重利久実子(しげとし くみこ)が腰掛けていた。タロットカードと占星術の両方を行なうそうだ。しかしショップの名前は、なぜか人形屋という。
「ショップの紹介写真も、人形、でいいんですか?」
わたしは重利に確認した。チラシとサイトのことを話すと、彼女は壁に作り付けられた棚を撮ってくれと言ったのだ。棚には、何体もの人形が腰掛けている。ピエロもいればドレスを着た少女もいる。その隙間に、星の写真やアンティークな天球儀が置かれていた。素人考えだけど、星占いならそちらをメインにしたほうがいいような気がするんだけど、なぜ人形なんだろう。
「人形がうちの特徴なの。占いの結果だけを持ちかえってもつまらないでしょう。占って欲しいってことは、将来に向けてなにか願いのようなものがあると思うの。だからその願いを書いてもらうのね。そしてカプセルに封印して、人形に入れる。人形は部屋の東に置いて、お水をあげて、願いが叶うまで話しかけてあげるの」
お座りになって、と重利が微笑む。
「花純ちゃん、だったっけ。あなたも占ってあげるわ。だいじょうぶよ、お近づきのしるしに無料だから。手を貸して。ほらここに」
重利が、タロットカードの束を机の上に置いた。
「手を、カードの上に乗せてちょうだい」
「……こう、ですか?」
重利の目を見ていると、なんだか引き込まれるような気分になってしまった。誘われるままに手を差し出す。
「どうぞリラックスしてね。……少し疲れているのね。そうね、あなた今、人間関係にストレスを感じてるでしょう」
重利の細い指が、わたしの手の下にあったカードから一枚を引き抜いていた。
「そういう内容のカードなんですか?」
「ええ。でも考えすぎちゃダメよ。事態は絶対に好転するから」
さらにもう一枚。
「仕事は……、うーん、今まであまり恵まれてはいなかったのね」
なぜわかるんだろう。
「もう一枚見てみましょうか。次は——」
「いいです。もういいので。怖いです」
わたしはカードから手を引き、後ろに隠した。このまま進むと人形を買ってしまいかねない。占いは無料かもしれないけど、人形はきっと有料だろう。モトナリの例もあることだし、夢玄館の連中はあなどれない。
突然、重利が笑いだした。そしてごめんなさい、と手を合わせてくる。
「怖がらせるつもりはないの。花純ちゃんって可愛い。あまりこういうところに来たことないんでしょう。悪い人に騙されないよう教えてあげるわね。さっきのはカードを読んだわけじゃないの。あなたの状況を読んでいただけ」
「状況?」
「人間関係にストレスを持たない人はいないわ。管理人室から大声が聞こえてたし。内容はわからなかったけど言い争ってたでしょう。仕事もそう。一般に、恵まれていると感じている人は少ないわ。なにより凛子さんが倒れてすぐにやって来れるってことは——」
「……仕事をしていない」
「正解。相手の情報を推測したり会話から引きだしたりするのも占い師の仕事なの」
「さっきまでの、嘘なんですか」
「そうじゃないの。心を開いてもらうためのテクニック。気持ちが通じ合ってないとカードも言うことを聞かないの。お医者さまと一緒よ」
重利がゆっくり頷く。
この人はどういうつもりでわたしにネタを明かしているんだろう。モトナリや呉竹との諍いを聞いていたんだろうか。彼らに心を開けと言いたいんだろうか。
「花純ちゃんの生年月日はいつ? なに座なの?」
「星占いもなさるんでしたっけ? わたしはかに座です。でもテレビの占いとか半分くらいしか当たらないから、あまり信じないほうです」
警戒しながら答える。
「それは残念ね。でも当たらないのも当然なのよ」
「どういうことですか?」
「星占いの星座って、太陽の位置で決めてるの。それは知ってるわよね?」
「なんとなく」
「黄道っていう、地球からみて太陽が空を動く場所があるんだけど、生まれたときに、太陽が黄道上にある十二の星座のどこにいるかを調べるのね。でも、木星とか土星とか他の惑星にも意味があるのよ。そのとき、それぞれが別の星座の上にいるの。それらの位置や角度を示した配置図をホロスコープっていってね、たとえ太陽が同じ星座でも、生まれたときの詳細な星の位置は個人個人によって違うのよ。テレビの占いが全部当たらないのはそのせいよ」
「……はあ、そんなものですか」
「そうよ。だから生まれたときが同じ人じゃないと、運勢は一緒にはならないわ。逆に言うと、生まれたときに決定するから動かないものなの。これは、相手の情報から引きだして当てるものじゃなく、絶対の運勢なのよ」
重利が、自信ありげに笑う。
ふいに携帯電話のバイブ音が鳴った。置かれた椅子の上で、重利の携帯電話が呼んでいる。
「やだ、ごめんなさい。占いをするときはちゃんと切っているのよ。でも花純ちゃんとお話ししてただけだったから、つい」
話しながら、重利はおかしいくらいに頬を染めていく。
重利は液晶画面を見つめていた。ハートマークに前後を挟まれた「千寿(せんじゅ)」という文字が点滅しているのが、わたしにも見えた。
「どうぞ、電話を受けてください」
「いいかしら。……ごめんね」
はい、と甘たるい声で重利は応じていた。はにかんだその表情に、いつづけるのが悪くなって部屋を出た。
たしかに、人の状況というのは簡単に読める。意外と可愛い人のようだ。
口うるさい呉竹と、なんとかして小金を稼ごうとするモトナリに悩まされながら数日を過ごした。掃除も電球の取替えも、モトナリの手を借りないようにしようと思うとそれなりに時間がかかる。かけた時間とおなじくらい、伯母の部屋で居眠りをしていることは彼らには内緒だけど。
伯母の部屋以外に安らげる空間がもうひとつあった。一階の端にあるカフェ・Wishだ。昔は庭だった部分を利用したテラス席もあって、夢玄館で一番大きな店舗だ。豆のブレンドに秘密があるのか、気分にぴったりのコーヒーを出してくれる。そしてなにより家賃の遅延が一度もない優良店子だった。
伯母の病院に荷物を届ける用もあり、朝の八時に夢玄館についた。カフェは平日のみモーニングサービスがある。移転した大学の跡地がバスターミナルになっているので、サラリーマンの利用があるのだ。今日もスーツを着た男性が数名座っている。
テラス席に重利の姿があった。テーブルいっぱいに裁縫セットを広げている。
「早いですね。開店は十一時でしょう?」
わたしは隣の席に座った。
「あら花純ちゃん。あなたこそ。実はその十一時までにこれを仕上げてしまいたいのよ」
重利は白の布にレースの飾りをつけている。願いごとのカプセルを入れる人形の服のようだ。重利のショップで扱っている人形は、彼女の手作りだそうだ。なかには置かれている人形では満足せずに、こんな感じ、とリクエストをしていく客もいるのだという。
そんな話をする程度には、わたしは重利と親しくなっていた。
「こんなオープンな場所で作るの? なんかこういうものって、暗いところで念をこめて作るイメージがあるんだけど」
「ずっと部屋にいるとくさっちゃうもの。朝の清々しい空気を吸いたいじゃない。美味しいコーヒーも飲みたいし」
カフェに漂う香りを楽しむように、重利が目を細めた。わたしも同じ気分なので嬉しい。
重利は、普通の感覚を持った人間のようだ。占い師なんて奇妙奇天烈な存在だと思っていたから最初は構えていたけれど、呉竹やモトナリよりよほどの常識人だ。以前は会社勤めをしていたらしい。生まれたときから霊感が強く、この道を志し勉強もして、やっと開業した……とのことだ。占星術とタロットカードのうち、メインにしているのは占星術のほうらしい。わたしに話したように、カードで気を引いたあとネタを明かして信用を得て、そこから本題の星占いにもっていくというテクニックを使っているらしい。
「いい天気になりそうね」
重利は通りへ視線を投げた。スーツ姿の男性がひとり、道を歩いている。香りに誘われたのかこちらを見ていたけれど、腕時計を一瞥してそのまま走っていった。
夕方、チラシを手にした女性が管理人室までやってきた。近辺一帯のマンションにポスティングをした効果があったようだ。
「すぐ向かいだから、お店があることは知っていたんだけれど、仕事もあって見に来る機会がなかったの。あの、勝手に入っていいのかしら?」
戸惑うような笑顔で、女性が言う。
夢玄館は、店舗仕様に変えているけれど、廊下や部屋の位置などはアパート時代のままだ。一階の三店舗は道に面した掃出し窓を出入口のようにしていて入りやすいけれど、二階は階段を上がり、内廊下からそれぞれの店舗の扉を叩く形になる。初めての客はためらうことだろう。
そのうえ目の前の女性は、チープな雰囲気に慣れていなさそうだった。鞄とローヒールがお揃いのブランド品で、メイクもヘアスタイルにも乱れがない。デパートの外商で買い物をしていそうなタイプだ。歳は三十前後。左の薬指に細い指輪がはまっている。
「どうぞどうぞ。ご自由にご覧ください」
「自由にって、ひとりで上がってもいいの?」
女性は階段を指差しながらも、まだ困り顔だ。高級店が似合いそうな人だから、夢玄館にお金を落としてはくれないかもしれない。でも、これも宣伝のひとつだろう。向かいのマンションの駐車場には幾台か外車も停まっていて、小金を持っている人が多そうなのだ。口コミででも良い評判が伝わればありがたい。わたしはもう少しテレビを観ていたかったけれど、ご案内します、と部屋をでた。
モトナリの雑貨屋はとばし、花屋とカフェを案内し、二階に上がった。接客中のショップや休みのところもあったが、女性は珍しそうにあちこちを見回していた。ショップに興味があるというより、アパートから変化させたという趣向が気に入ったようだ。
「いいわね、ここ。こういう商売もあるのね」
女性は満足げに頷いているが、全然良くない。実態は火の車だ。
もっともそんな本音は言えないので、わたしも曖昧に笑っておく。
「こちらは開いてるの? 閉まってるの?」
重利のショップを前に、女性が首を捻った。占いという店の性質上、客が入っているときには扉は閉まっている。入っていないときでも全開ではなく、薄めに開けている。今は、その状態だった。
「開いてます。お薦めのショップです。ひやかしでもいいんですよ」
女性は素直に、ノックの後に扉を押した。幾重もの布の奥に、重利が座っている。
「なにを占うんですか」
女性が、重利に声をかけた。重利が柔らかに応じている。
「あなたが望まれることを、なんでも」
引き寄せられるように、女性はゆっくりと重利へ近づいた。と、ふいに重利が立ち上がった。いつもなら、お座りになって、と声をかけるのに。そして言った。
「あなたもしかして、山田さん? 山田聖美(きよみ)さんじゃない?」
女性が振り返った。わたしに目で、この人ナニモノ? と問うている。
「やだ、私よ。重利久実子。小学校のとき一緒だった。山田さん、だあちゃんよね」
女性の表情が変わった。
「え? シゲ? うそおー」
わー、とふたりが盛り上がった。山田という女性客も、子どものように興奮している。
懐かしい、いやだ何年ぶり、今までどうしてたの、そっちこそ、と、およそ占いの店とは思えないほど声高に話が弾んでいる。もうわたしの案内は要らなさそうだ。
夜になって帰ろうとしたら、二階に明かりがついていた。重利の部屋だ。訪ねていくと、またもや人形を作っている。
「朝の人形、間に合わなかったの? わたし帰るんだけど、いいかな」
店子たちには夢玄館の玄関の鍵を預けていた。伯母はこの家に住んでいたからいいけれど、わたしは自分の家から通っている。最後まで付き合うことはできない。
「ええ、別件だから心配しないで。今日は本当にありがとう。あのチラシのおかげよ」
重利が笑う。心底嬉しそうに。
「山田さんのこと? 人形も売れたのね」
「そうなの。頑張って作ってるところ。大事な友だちだから、一番いいものをね」
満足そうな重利に、わたしまで気分がよくなるようだった。
実は、帰り際の山田にも頭を下げられたのだ。旧友に会えてよかったと。
さらに言われた。面白いコンセプトの店だから、ぜひ周囲に紹介したいと。山田はイベント会社に勤めていて、地域を活性化するというプロジェクトに関わっているそうだ。そこにはテレビ局や新聞社も噛んでいるらしい。山田は熱心に語りかけてきて、メールのアドレスまで教えてくれた。どこかで見た覚えのある数字が並んでいる。なんだったろうと思ったけれど、まあいいやと登録しておいた。
山田の提案は魅力的だった。そのプロジェクトのポスターなら駅で見たことがある。口コミ力がテーマなのか、老若男女が、伝言ゲームをしているかのように隣になにかを伝えているのだ。どんな形でもいいので夢玄館を取り上げてもらいたい。ショップの連中には思い入れなんかないけれど、まずは集客、赤字解消につとめなくては。
山田は数日後にやってきて、各ショップのオーナーにはっぱをかけていった。曰く、もっと特徴を持って。曰く、もっとレトロに、と。呉竹とモトナリがすぐさま反発した。
「別にあたしは昭和を狙ってるわけじゃないし。勝手に決め付けられても困るのよね」
「だよなー。勝手にイメージ作っておいて、合わせられないのはなにごとだって、上から目線。迷惑なんだよ」
彼らの気持ちはわからなくもない。
山田は、思っていたよりも強引な人だった。最初に会ったときは上品な奥様風だったのだけど、二度目は、いわゆるキャリアウーマンだった。雰囲気が違いますねと言うと、この間は体調が悪くて休んでいた日だったので、と返された。そして高そうな手帳を見ながら、ビジネスとして作りこみが甘いとくさされた。統一感がないと。
そうはいっても、夢玄館は場所を貸しているだけだ。伯母はなにか狙いがあってショップを集めたわけではないだろう。
わたしはハシゴの上でため息をついた。午後の太陽が、屋根を照らしている。
休みのショップが多いので、詰まり気味だという樋を掃除していたのだ。モトナリからも売り込まれたが、出された見積もりがあまりに高いので自分でやることにした。つくづく、夢玄館にきてからいろんなことをやらされていると思う。だけどトータルプロデュースまでする気はない。そこまで深く関わるのは面倒だ。
「タウン誌に一回載せてもらえれば、御の字ってとこかなあ」
わたしはなんの気なしに、ぽんと樋を叩いた。どこからなのか、ネジが落ちてきた。反射的に拾おうとしてしまい、右足を滑らせた。
落ちてはいない。
かろうじてハシゴにしがみつき、宙に浮いた右足も横木に乗せ、数秒前と同じ体勢まで戻った。けれど膝が震えている。ほんの一瞬だけ揺れたハシゴに、実はとても危ういものに命を預けていたのだと気づき、それまでの信頼感はなんだったんだろうと怯えた。
降りなくては。だけど動けない。
両足ともが横木の上にあって、やっと息ができていた。降りる途中でハシゴが揺れたらどうしよう。
「モトナリさん、いないのー? ねえ、誰かー」
カフェはランチ後の休憩時間だった。呉竹も重利も見かけない。北側の店舗がひとつ開いていたと思ったけど、反対側だから聞こえないのかもしれない。
「誰かあー。ねえ、お向かいのマンションの人ぉー」
声が届いてくれるだろうか。このまま夜になったらどうしよう。
「どうしたんですか」
足元から声がした。怖くて下を見られないので、男性だということしかわからない。
「どなたか存じませんが、助けてください」
「自分で登ったんですか? 動けないの?消防署呼んだほうがいいの?」
「消防署……、あ、どうしよう。登ったのは登ったんですが、怖くて降りられないんです。ハシゴ、揺れるんです」
「体は動くんだね? 怪我してるわけじゃないんだね? 支えているから降りてみて。一歩ずつ、ゆっくりと」
「足、動かないかも」
「安心して。ちゃんと持っているから」
見知らぬ誰かの励ましで、こわごわながら降りていった。手に汗をかいていて、軍手ごしなのに柱をつかみそこないそうだった。最後の数段になってもまだそんな調子で、地面に足がついたときには膝が笑っていた。
よろけて目の前の男性にしがみつく。
「もう平気だよ。だいじょうぶかな」
頭の上から声が聞こえた。支えてくれていた男性を見上げた。優しく微笑んだその人は、思いの外イケメンだった。高級そうなスーツを汚れた軍手で触っていることに気づき、焦った。頬が熱くなる。
「ごめんなさいっ。すみませんでした」
「いや全然。でも、なにをやってたんですか。いったい」
男性が不思議そうにハシゴを見上げた時だった。
「なにをやってるの、いったい」
よく似たセリフが、別の声でかけられた。声のほうを見ると、山田がいた。仁王立ちをしている。
「早く帰ってきてって言ったわよね。今日はふたり揃ってないといけないって。それを」
山田が言う。男性を睨んでいた山田は、すぐさまわたしに冷たい目を向けてきた。
「あの、山田さん、こちらは……」
恐る恐る山田に聞くと、
「……知り合いなの? 聖美」
男性が、山田に目を向けながら言う。
「夫です。あなた、そのお嬢さんはこちらの店のオーナーよ」
山田の夫が驚いた顔でわたしを見ていた。正確にはオーナーではなく親戚なのだけど、些細な訂正をするような雰囲気ではなかった。わたしも目の前の男性が山田の夫だということに驚いていたが、そこに反応するような状況ではなかった。
山田の視線が痛い。漂う空気もぴりぴりしている。どうやら山田は勘違いをしているようだ。まるでわたしと彼女の夫が抱きあっていたかのように、厳しい目をしている。
「山田さん、誤解をされているようなのですが、わたしたちはただ——」
「誤解はしてませんよ。あなた、早く用意をして行きましょう。間に合わないわ」
山田が言い捨てる。
山田の夫は、磁力で引っ張られるかのように彼女のほうに歩き出した。戸惑った表情で、山田とわたしを交互に見ながら。
わたしとの間になんらやましいことがないってこと、いやそのまえに初対面だってこと、奥さんに説明しておいてくれますよね。
「山田さーん、助けていただいてありがとうございました」
わたしはその背中に声をかけた。
困ったような表情をしながら、山田の夫も軽く手をあげた。
翌日、山田が管理人室を訪ねてきた。
「これ、預かってくれないかしら」
紙袋に入っていたのは、一体の人形だった。重利の作った人形だ。
「どういうことですか」
夢玄館を紹介してくれるという話から、手を引くということなんだろうか。
昨日のことを誤解したままなんじゃないだろうか。だけどあの程度で、嫉妬されても困る。中学生でもあるまいし。それともイケメンの夫を持つとあんな小さなことまで気になるのだろうか。
「深い意味はないのよ。あ、ううん、深くなくもないのかしら。夫がね」
山田が言う。わたしは焦って語りかけた。
「あの、あれは本当に——」
「苦手なの」
なにが?
困ったような顔で、山田が視線を漂わせる。そして壁を指差した。
「あのシミ、見てくれる? あのシミのなかのみっつの濃いもの、顔に見えてこない?」
丸く薄いシミのなかに、横に並んだ点がふたつ、その少し下にひとつの線があった。そう言われれば、顔に見えなくもない。
「人間の脳って、ああいう形のものを見ると顔として認識してしまうんですって。昔、文明を持っていなかったころ、ケモノに襲われないよう察知する力が必要で、そのなごりだという話も聞くわ。ほら、霊が写ってる写真ってあるじゃない。あれもたまたまそういう形になったものを、脳が勝手に認識して怖がっているだけなんだそうよ」
「……はあ」
なるほど、とは思うけれど、それがどうしたというのだろう。
「うちの夫、そういう認識力が強いようで、顔に見えるものが怖いのよね」
「……はあ。怖い、ですか?」
「子どもみたいでしょう。でも、うちには顔がついている絵もカレンダーもないの。人間だけじゃなく動物の顔も。街で、例えばポスターとか見ると、視線が追いかけてくるって言ってるわ。動かないものが動くような気がして怖い、って気持ちもあるみたい。もちろん、ぬいぐるみも人形も苦手。いっさい置くなって言われてる」
山田はそこで視線を、人形に落とした。
そういうことか。やっと繋がった。
「隠しておいたんだけど、見つかっちゃって。捨てろ、返してこい、って言われたの。だけどどっちもねえ。だから預かって欲しいの」
「わたしがですか」
「しばらくでいいの。実家に出かけるときに持って帰るから。今のマンションに置いておいたら捨てられちゃう。お願い」
「そういう事情なら、重利さんに預かってもらったらいいんじゃないですか? たしか部屋の東に置いて、水もあげて、って風水みたいなことをするように言ってましたよね」
「それは悪いわ。だって私のために作ってくれた人形なのよ。手元に置いていないと知ったら傷つくじゃない。今も、彼女がショップにいないことを確認してからきたのよ」
実家に置いたままにするのも重利に悪いような気がするが、そこが妥協点なんだろう。
「でも今の話だと、わたしもこの人形を隠したままでいないといけないわけですよね。この部屋は、ショップのオーナーたちが頻繁に訪れます。特になれなれしいのがふたりいて、勝手に上がり込んだりします。山田さんがショップに特徴を持たせるようにって言ってたとき、ぶーたれてた赤い頭の女性と年齢不詳の男性なんですが」
呉竹とモトナリのことだ。山田も頷く。
「あなたも大変ね。でもなるべく早く迎えに来るから」
有無を言わせない態度だった。
それから、山田はタウン誌の取材のことを説明してきた。多分、来週になるだろうと。
取材と引き換えに納得させられたような気がしたけれど、結局引き受けた。面倒だと思ったけれど、断る理由を考え出すほうが面倒だった。
それにしても人は見かけによらない。あんなにモテそうな顔をしていながら、ポスターや人形の顔が怖いとは笑える。助けられた恩もあるし、あの夫のためにも重利に見つからないようにするしかない。
ここ数日、重利はあまりショップにいないし、なんとかなるだろうか。夜や朝に見かけることはあるのだけど、肝心の営業時間に留守にしていることが多く、すれ違いばかりだ。
わたしは人形の隠し場所にしばし悩んだ。そして絶対に見つからないところを思いついた。
事件はふいに起きた。そしてあまりに早く起こった。起こしたのはモトナリだ。
遅い出勤ののち、管理人室兼伯母の部屋の鍵を開けようとしたら、突然、内側から開いたのだ。モトナリが、血色のいい顔をのぞかせている。
「なんでモトナリさんがいるの。鍵は、表玄関とそれぞれのショップのしか渡していないよね」
「まあ、本当はね。でも、……溺死体作っちゃった」
「溺死体?」
モトナリの髪が濡れていた。石鹸の匂いもする。
「まさか勝手にお風呂使ったの?」
「勝手じゃないよ。凛子さんの許可は得てるって。花ちゃんが来てからは初めてだけど。っていうかやだなあ、凛子さんってば伝えてなかったのかー。いや今まで遠慮してたんだけど、よろしく頼むわ」
「今までも? なにそれ。そんな面倒なんてみません!」
「そんなにキリキリしないでよ、花ちゃん」
「ハナじゃありませんってば」
「だってそっちのほうが可愛いじゃん。……で、あの溺死体、どうしよう」
溺死体というのがモトナリのくだらないレトリックだと気づいたのと、しまったと思ったのは同時だった。
預かった人形が水浸しになっている。
「なにをやったの?」
「なにって、普通に、浴槽に、湯を入れた。それだけ。花ちゃんこそなにやってるの。ご丁寧に蓋まで被せてさ。開けた瞬間、驚いたのなんの」
「見てから入れるべきでしょう。しばらく使ってないのに掃除もせずに湯を張るなんて」
「ありがとう。これからはそうする」
「許可したんじゃない!」
どうしよう。人形は布製だと聞いている。中に詰まっているのはウレタンか綿か知らないけれど、元の形に戻るのだろうか。
「ところでマジにさ、なんでこんなとこにコイツがいるの。これ、人形屋の人形だろ」
「事情があるのよ」
夢玄館は基本的には店舗で、勝手に泊まっていく人間はいるだろうけれど、それは自分のショップに、だ。たしかに風呂は伯母の部屋にしかないが、わたしは家に帰るし、伯母の部屋の鍵は渡していない——はず。伯母が退院するまで誰も立ち入ることがない場所のはず、だった。それでも隙を見て、特にモトナリなどが、石鹸だのシャンプーだのの備品をくすねていく心配はあった。だから浴槽に蓋を閉めて隠しておいたのだ。
「おー、水切れが悪いな」
モトナリが、人形を手で絞る。
「乱暴に扱わないで」
「水がついたままだと臭くなるぞ」
「だからって、やめて」
あれ、とモトナリがつぶやいた。そして続ける。
「こいつ、体の中になにか入ってる」
「願いごとのカプセルがね。そういうシステムなんだって言ってた。って……ちょっと、なにほじくってるの!」
カプセルはハンダで封印されているから読めないはずだが、引っ張り出すのはルール違反だろう。
「その人形屋のシステムは聞いてるけど……、二個あるんだ」
モトナリが、手を開いた。
「これ、わかる? 花ちゃん。盗聴器だよ」
カプセルのほかにもうひとつ、黒く小さな箱型の物体があった。
水没したから壊れていると思うけど、とそれでも小声でモトナリは言い、手近にあった瓶の中に入れ、さらに水を注いで蓋を閉めた。
「わたしが狙われたの?」
「花ちゃんが人形屋から貰ったの? それとも凛子さんに渡してくれって言われた?」
標本のようなその瓶を、モトナリは蛍光灯にかざしていた。
「伯母さんに? どうして?」
「凛子さんの病状は、俺らの一番の関心事だから。だって凛子さんがここを手放すことになったら、俺らも追い出されるかもしれないじゃん。いちからテナント探すの、大変なんだぜ」
「……ああ。でも伯母さんは関係ないよ。人形は別の人を経由して預かったの」
「別って? 誰から?」
言うわけにはいかない。
「その人が花ちゃんに直接渡したわけ? その人、花ちゃんや夢玄館とどんな関係? こっちの情報をつかみたがってるとか、もしくは恨まれてるとか、ある?」
山田が、山田聖美が、わたしを?
「花ちゃん」
モトナリが、すっと顔を寄せてきた。その目の近さに、あの日のことを思い出す。人形を預かった日の前日のこと。山田の夫と抱き合ったようになっていて、誤解されたこと。
「手伝うよ。ボディガードも頼まれてやろうか。有料だけど」
「いえ、結構です。直接聞くから」
「直接って? えー、危ないよー。刺されたらどうするんだよ」
「おおげさな。誤解だからだいじょうぶ」
だいじょうぶじゃないよ、と騒ぐモトナリを置いて、わたしは出かけることにした。標本、もとい盗聴器の瓶を握って。
確率は二分の一だ。動機の見当がつくほうから訪ねようと思った。
貰った名刺の会社まで行き、受付で山田を呼んでもらった。モトナリにはだいじょうぶだと答えたけれど、ほんのちょっとだけ不安があった。だから会社まで行くことにした。人がいるところなら大騒ぎにはならないだろうと思ったのだ。
地域活性プロジェクトのポスターが、ここにも貼ってある。
山田は普段通りの顔で現われた。話があると言ったわたしに、ロビーに置かれた椅子を勧めてくる。社員証が胸元で揺れている。
「いいんですか、ここで。わたし、聞きにくいことを聞きにきたんですけど」
「なあに? タウン誌のことじゃないの?」
山田が小首を傾げる。
どう切り出そう。盗聴器を突きつけて、反応を見ようか。
わたしは鞄の中に手を入れた。瓶をつかんで出そうとした、まさにその時だった。
「お疲れさまです」
「お帰りなさい、お疲れさまです」
背後の受付で言葉が交わされていた。山田さーん、とさきほどの受付嬢が呼んでいる。山田が小さく笑って、そちらに手を振る。
振り返ると山田の夫が立っていた。
「同じ会社なの。部署は違うけど」
照れたような笑顔と共に、山田の夫が近寄ってきた。わたしは不恰好にも片手を鞄に入れたまま、立ち上がった。
「どうも、先日はありがとうございました。危ないところを助けていただいて」
助けてもらっただけだと、再度強調した。
どういたしまして、と答えた山田の夫の胸元で、社員証が揺れた。
はっきりと名前が読み取れた。
「本当だ。標本みたいにきれいね」
重利の声は落ち着いている。
「明日には錆が浮いてくると思います。水も濁ってしまう」
「もったいないわね。高いんでしょう?」
自分が盗聴器を仕掛けたと、認めるつもりはないらしい。
わたしは管理人室で重利と向かい合っていた。机には、夢玄館のチラシと盗聴器の入った瓶。ついついため息がこぼれてしまう。けれど重利は穏やかな笑みを浮かべている。
モトナリは、いざとなったらかけつけてやるからと、勝手に風呂場に隠れている。ヤツの目的はわかっている。絶対、ボディガード代なんて払ってやらない。
「さっきも言ったんだけど、人形の中に入ってました。山田さんに渡された人形の中に」
「私もさっき答えたけれど、そんなの入れてないわ。私が入れたって証拠はあるの?」
「……ほかに、そんなことする人いないですよ」
「どうして? だってだあちゃんに、山田の手に一度渡ったものでしょう。彼女がなにかの理由で入れて花純ちゃんに預けたのかもしれないし、私たちの全然知らない人が、後から入れたのかもしれないし。いくらでも可能性はあるじゃない」
「山田さんは、小学校の同級生ですよね?」
「そうよ。卒業以来、二十年近く会ってないわね。どうしてそんな久しぶりに会う人に、盗聴器なんて入れるの?」
「山田さんとの関係は、それだけ?」
「どういうこと?」
わたしは名刺を出した。机の上に滑らせる。
「今日貰った、山田さんのご主人の名刺です。わたし、あの人も山田という名前だと思ってました。でも違ったんですね。以前、山田さんと呼びかけたときに変な顔をされたことがありました。ところで、結婚前から勤務していると旧姓使用が認められる会社って多いですよね。山田さんも結婚前から勤めていて、でも戸籍上は、ご主人の苗字で——」
その名刺には、千寿、と記されている。
「珍しい苗字ですよね」
「……そうね」
「珍しいから、わたし覚えてます。重利さんの携帯電話に登録があることを。ハートのマークで挟まれていて、その人からの電話があったとき、重利さんはそれはもう、なんていうか、蕩けそうな顔をしてた」
重利が、床を見つめる。
「千寿さんは、向かいのマンションに住んでますよね。朝、夢玄館に入ってるカフェの前を通って出勤します。これはマスターから聞いた話なんだけど、重利さんはよく、朝早くからカフェにやってきて表を眺めているそうですね。マスターは他にもたくさん知っていそうだったけれど、それ以上は何も話してくれませんでした。ただわたしも一度、重利さんと一緒に、千寿さんらしき男性を見ていますよ。……それからここ数日、千寿聖美さんに人形を渡してからだけど、重利さんは昼の営業時間には来ないで、夜に来てますよね。正確には、夜中じゅう、なのかな、ゆうべ飲んだくれて店に泊まったモトナリさんが言ってました。それとモトナリさんから聞いたんだけど、この盗聴器、電波で音を飛ばすタイプだそうですね。重利さんの部屋から、向かいのマンションの音が拾えるそうです。それから——」
「もういいわよ!」
重利が搾り出すように言った。
「なんなのよ、あなたは。そうよ、私が仕掛けたの。聞きたかったんだもの。知りたかったの。好きな人のことを全部知ってなにが悪いの」
「……でもこういうのって」
「ストーカー? 違うわよ。だって私たち愛し合っているんだもの。くだらないこと言わせないでよ。私ひとりじゃ恋愛はできないのよ」
「……恋愛……」
「なによ。文句あるの」
そういう三角形は苦手だし、ましてや一辺が婚姻関係にあるなんて、わたしの手には余る。それでもあの夫は、わたしがハシゴから降りられなくて泣いていたところを助けてくれたんだから、いい人ではあるんだろう。
「重利さんが夢玄館でショップを開いたのは、三ヶ月前ですよね」
「そうよ」
「おふたりはいつ知り合ったんですか? 千寿聖美さんのご主人だと知ってて近づいたんですか? 夢玄館に来たのは、千寿さんたちがお向かいにいたから?」
「それを聞いてどうしようっていうの」
わたしはパソコンに目をやった。
「そこにショップオーナーのリストが入ってます。重利さんはテナントを借りたときに契約書を作りましたよね。重利さんの生年月日が入ってます。実は千寿聖美さんの生年月日もわかってるんです。メールアドレスからなので、たぶん、なんだけど。でも数字の部分をそれにしている人、多いから。おふたりの生年月日、同じなんですね。重利さんのやってらっしゃる占いでいうと、同じホロスコープ、同じ星の配置図、になるのかな」
「……時間が違うから、まったく同じじゃないわ。星は刻一刻と運行してるの」
「知ってたんだ。よく覚えてましたね」
わたしの言葉に、重利が悔しげに笑う。
「言われて思い出しただけよ」
「同じ誕生日だったから千寿さんに近づいたんですか?」
「意味が、わからないわ」
「まえに、わたしに言いましたよ。生まれたときに決定するものだとか、絶対の運勢だとかって。重利さんと千寿聖美さんは同じ運勢なんですよね。だけど今のおふたりは——」
「私が劣ってるって言いたいの?」
重利が叫んだ。
「そんなことは……」
「嘘よ。そう思ってるんでしょう。そうよ、あなたの言うとおり。山田を見かけたのはなにかのイベントだったわ。調べたらいい会社に入ってて、将来有望でしかもイケメンの同僚と結婚して、幸せに暮らしてるとわかって。しかもヤマダなんてどこにでもある名前から、センジュなんて格好いい名前に変わっていて」
「シゲトシも、悪くない名前です」
「もちろんよ。顔だって、本当は私のほうがいいのよ。彼女は化粧で誤魔化しているだけ。私はスタイルだって悪くないし、ベッドでも最高だって言われるし、資質は私のほうが上なのよ。私のほうが恵まれるべきなのよ。運勢は同じ、ううん、私のほうがいいのに。……なのに、私は十年近く家と会社の往復だけで、いい男とはめぐり合えないまま。山田が私の運を奪っているからよ!」
重利が、標本のような盗聴器を睨んでいる。
明日には錆びてしまうであろうそれを。
「私は自分の運を取り返したかっただけ。私の手に入るはずだった人と付き合っているだけ。悪いことなんてしていない。あの人、私のほうが好きだって言ってくれるもの。山田の束縛が嫌だって言っているもの」
「…………わからないです」
「わからない? あなた、子どもね」
風呂場のほうで、ふきだす声が聞こえたような気がするけれど、無視しておく。
「いえ、重利さんの言いたいことはわからなくもないけど、でもどうして盗聴器なんて。下手するとバレるじゃないですか。バレたら最後じゃないですか」
重利が笑った。
「どちらが最後なのかは、わからないわ」
選ばれるべきは自分なのだと、重利は譲らなかった。こうなったら山田を追い出してやると言ってわたしの手を引いてくる。そんな無茶な。巻き込まないでくれと騒いでいると、モトナリが風呂場から出てきて、一緒に攻め込もうと重利に声をかけた。ボディガード役を買って出ましょうと。……買うのは重利なんだけど。
重利とモトナリは、勇んで向かいのマンションに入っていった。わたしは伯母の部屋でふたりを待った。
戻ってきて報告をくれたのはモトナリだった。開口一番、お酒は飲めるかと聞いてくる。
「わたしが? 一ミリも無理だよ」
「じゃあ、飲むほうは引き受けるから付き合いなよ。あ、場所はもちろん提供してもらうから」
「ここで飲むってこと?」
「資金提供とどっちがいい?」
どちらもごめんだと思ったけれど、うつむいたままの重利を見るとそうは言えなかった。その表情が闘いの結論なのだ。やがてモトナリだけがはしゃぐ不思議な宴会が始まった。重利はひたすらに杯を重ね、糸の切れたあやつり人形のように眠ってしまった。
そして翌日、重利は夢玄館から消えた。
二階南側奥の部屋は、ほとんど片付けられていなかった。タロットカードや幾つかの人形はなくなっていたけれど、天井から降りる布も星の写真も残したままで、重利は去っていった。
「残務整理、承るけど。格安で。どう?」
モトナリがニヤニヤしながら近寄ってきたが、蹴ってやった。赤字を増やさないよう、自分でやるしかなさそうだ。
引越し屋のトラックが止まった。向かいのマンションのエントランスぴったりに。つなぎを着た男たちが慌しげに動いている。見る間に荷物が運び込まれ、荷室の扉が閉められる。
千寿聖美の姿が見えた。引越し屋の男たちが挨拶をしている。重たそうに発車するトラックに、千寿聖美は手を振っていた。
「出て行かれるんですか」
わたしは声をかけながら近づいた。
ゆっくりと、千寿聖美は表情を変えた。申し訳なさそうな顔で頭を下げる。
「タウン誌の件、ごめんなさいね。粘ったんだけど、結局ダメになってしまったわ」
「しょうがないです」
わたしも頭を下げた。
「先日は、うちのテナントのものがご迷惑をおかけしました」
千寿聖美が、鷹揚に微笑む。
「いいえ。夫の責任でもあるんだし」
「どちらに引越しされるんですか。郊外の広いお家とかですか」
「いやだ、ぜんぜん。実家よ。これからお金もかかるし、地に足をつけた生活をしていかないと。実は子どもが生まれるの。見掛けはまだわからないでしょ、三ヶ月だから。ゆくゆくは二世帯住宅を建てるつもり。私には仕事もあるし、母に手伝ってもらおうとね」
体調が悪いことがあると言っていたのはそのせいだったようだ。
「ご実家っていうのは、山田さんのお家ですか?」
「そうよ。私のほう」
「良かったですね。……本当に」
「含みのある言いかたね」
「なにも含んでないですよ。ただ不思議に思うだけです。あのビルにはポスターが貼ってあったから」
「ポスター?」
「千寿さんたちが勤めてらしたビルに、地域活性のためのイベントのポスターが貼ってありましたよね。隣の人に耳打ちをしているポーズで、いろんな年代の人の顔が載っているポスター。ビルの壁いっぱいに貼られていたポスターに、ご主人はなんの反応もしていませんでした。……わたしには、ご主人はああいうのが苦手だと言っていたのに。だからわたしに、人形を預けたはずなのに」
「……ああ、それは慣れの問題なの。怖がっていては仕事にならないしね」
「そういうものですか?」
「そういうものよ」
「実はもうひとつ聞いています。重利さんが盗聴器を仕込んだのは初めてじゃないそうです。一度、傘に、プレゼントと言って渡した傘の柄に入れていたらしいです。すぐに聞こえなくなったそうですが」
千寿聖美は、わたしの目を真っ直ぐに見てきた。
「やだ、本当に?」
「はい」
「怖いわ」
千寿聖美が、肩を震わせる。
本当は……、本当は彼女は気づいていたのだろう。たぶん、傘に盗聴器を仕込まれたときだ。気づいた上で、タイミングを計っていた。向かいのショップに重利がいることも知っていた。そして夢玄館のチラシを貰ったのをいいことに、そ知らぬふりでやってきた。
はめられたのは、むしろ重利だ。千寿聖美は、重利が再び盗聴器を仕掛けてくることを予想していて、わたしが見つけるように仕向けた。
理由だけが、わからなかった。そんなまわりくどいことをしなくても、浮気を暴いて騒げばいいだけなのにと思っていた。
でも。
クラクションが鳴った。
ジャガーが、千寿聖美の傍に止まった。マンションの駐車場で特に目立っていた車だ。
「ごめんなさい、もう出るの」
運転席には夫が乗っていた。以前より、少し疲れた顔をしている。気づいているはずなのに、けしてこちらを見ようとしない。
千寿聖美は、まだ膨らんでいないお腹を庇いながら助手席に体を入れた。
今までのふたりの関係がどうだったのかは、わからない。だけど今は、千寿聖美のほうが立場が強いのだろう。
なにも知らなかった哀れな被害者なのだから。
夫はペナルティを負わされたのだ。彼女の実家で暮らすという、一生に近い約束とともに。そして重利も、ショップを失った。
車のドアが閉まる。わたしは窓を叩いた。
「最後にひとつだけ」
「なに?」
「タウン誌の件です。紹介さえしていただいていないものが、載るはずはないですよね。今度は人任せじゃなく、自分で働きかけてみます」
千寿聖美が睨んできた。その顔のまま、車が行った。
わたしは伯母の部屋でパソコンに向かっている。テナントが空いた穴をどうやって埋めるべきか。
考えていると頭が重くなってきた。眠い。面倒くさい。だいたい、なぜわたしがこんなことで悩まされるのだろう。赤字なのは家賃を滞納している人間がいるからだ。支払うのがスジじゃないか。まずは取立てからはじめるべきだ。
扉が叩かれた。モトナリが立っている。いいタイミングだと催促をすると、ない袖は振れないと返してきた。
「追い出さなくてもよかったのに、人形屋。それなりに客は入っていたのに」
「重利は自分で出て行ったの。それに本気でショップがやりたいって思ってたなら、今の自分が千寿聖美より劣ってるなんて感じないはずよ。あの男目当てだっただけでしょ」
「長くやっていれば気も変わったかもよ。花ちゃんが追い詰めたからだよ」
「そんなことない。夢だのなんだのって、結局その程度なの」
吐き捨てるように言うと、モトナリが笑った。
「でも花ちゃん、タウン誌に載せてもらえるよう動いてくれるんだよね」
「なんの話? あれはダメになったってみんなに言ったよね」
「うん。でも人任せにせず自分で働きかけるんでしょう。あの女に啖呵切ったじゃん」
それは嫌味のひとつも言ってやりたかっただけだ。本気じゃない。じゃないけれど——。
「なんで知ってるの? さっき、そばにはいなかったよね? まさか」
モトナリの笑いが、一層いやらしくなった。「あの女の家に乗り込んだときに玄関に車のキーが置かれててさ。車種がわかったんで仕掛けてみた。バカにされてる感ありありでムカついたから」
「盗聴器を?」
「うん。でも近くにいるときしか電波拾えないから、いいネタが拾えたら面白いな、程度の、ほんのイタズラだけどね」
イタズラって、じゃあいいネタが拾えたら、どうするつもりだったんだろう。怖くて聞けない。だいたい、お金がないといいながら、意趣返しには使うのか。
まったく。夢玄館の人間はあなどれない。
<了>