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雲形の三角定規 ゆずはらとしゆき
©psycho okada
第四話/(1995年・夏)
 気の遠くなるような作業が続いていた。
 キャラクターの動作を表すため、三角定規や雲形定規を使い分け、様々なタイプの集中線を引く。
 人物——メインキャラクターの眉間付近を中心点と定めて画鋲を刺し、当てた定規を少しずつ回しながら繰り返し効果線/集中線を引く。
 線の抑揚は規則的だが、それぞれの長さは意図的な不規則だ。
 三点透視図法を用いた背景には、スクリーントーンを微妙にずらしながら幾重にも貼り、フィルムに印刷された点(※ドット)を細かく削ることで光の方向と反射を表現していく。
 それらの作画効果は、解像度の低い活版印刷では正しく再現されないことは分かっていたが、山手たちは延々と続けていた。
 大半の読者にとっては無駄であろうと、一部の読者に評価されれば良い。
 いや——これらの作画技術に気づかない読者は要らないとさえ思っていた。「少年ロケット」程度の雑誌で気づけない怠慢な読者が、これからの良き支持者になるはずもない、と。
(……そして、読者の中には〈より格上の雑誌の編集者〉もいるはずだ)
 はっきりと宣言することはなかったが、言葉の端々に不遜な自信を漲らせた山手は傲慢な願望——妄想に過ぎないことを〈高度な戦略〉だと思い込んでいた。
 不遜であろうが、傲慢であろうが——現実にしてしまえば、それが〈正しい〉ことになると信じていた。
 しかし、〈苦い記憶の彼方〉の山手は、知らなかった。
 最終的に〈正しい〉物語へ成り果てることを望んでしまう〈つまらなさ〉は、〈未来〉に裁かれるということを——。
  卓上時計の表示は午前四時を指していた。
 作業六日目——七月三十一日。
 山手たちはできることなら〈三味線〉であって欲しいと願っていたが、〆切は刻々と近づいていた。
 さっき、仮眠明けの電話口で、思い切って「最終ライン……いつになります?」と聞いてみたが——。
《編集長が戻ってきたら、相談します》
 相変わらず、「少年ロケット」の担当編集者はのらりくらりと明言を避けていた。
「……効果線、あとどのくらいで終わる?」
 ペン軸を握り続けて硬直した指をほぐしつつ、山手が隣の机を覗き込む。
「上がっている分はあらかた終わってる。あとはお前のペン入れ待ちだ」
 机上では、台紙から剥がしたスクリーントーンを両手でつまんだまま、わずかに回すような動作が繰り返されている。
 そして、背を丸めた帆足が額に汗を浮かべつつ、机上の原稿用紙を睨みつけている。
「……なんで、そんなに時間かかるのさ……」
 網点の大小を階調的に変えることで濃度の変化を表すグラデーショントーンの重ね貼りは、ほんの少しずれるだけで汚く潰れてしまう。
 手間のかかる作業だが、それにしても手際が悪い。
「うるせえな。《……こういう作業は慎重にやらなきゃダメだ》と言ったのはお前だろうが」
「いや、それはその通りなんだけどさ……」
 残された時間はどれだけなのか、未だ、判然としない。
 山手は、背中を駆け上がってくる不安——焦燥感に駆られていた。
「ああ、もう、ぼくも貼るよ」
 帆足の指先は一瞬、揺れたが——。
「お前がトーン貼りに回ったら……誰がペン入れするんだよ?」
 山手とは視線を合わせることなく、辛うじて貼り付けた。
「あと、メカや武器は自分でペン入れするんじゃなかったのか?」
 そして、様々な道具で散らかった机上から、カット用のトーンナイフと定着に使う木製のヘラを探しつつ、諭すような口調で応えた。
「……いや、下描きを改めて見て思ったんだ……さすがに細かく描きすぎた」
「知るかよ。だったら……なおさら、俺が描くわけには行かないだろうが」
 わずかに吐き捨てるように呟いた帆足は困惑の表情でやっと、山手の瞳を見据える。
「昨日、俺がペン入れしようとしたら《……君の描線は太いし、荒いから、小物には向かないんだよなァ……》と言ったよな?」
 帆足は大仰に腕組みをして、わざと山手の声色を真似る。
 それは、仄暗い感情を溢れさせないための自制/思いつきだったが——。
「まァ、お前は〈天才〉だからなァ。どっちにしろ、他人じゃ細かいタッチまで真似るのは無理だ」
 更に続けた言葉とは裏腹に、その表情は綻んでいた。
 二人のやりとりは感情的な諍いに見えるが、背景にあるのは、技術上の問題だ。
 山手は細部まで丁寧にシャープペンシルで下描きしていたが、その分、下絵の時点で対象の質感まで描き込むことは難しい。キャラクターの絵柄も身体/ボディラインの凹凸が強調され、漫画的表現——シンプルな記号化から離れている分、完成イメージは相当な割合で山手固有の微妙な癖/ペンタッチに依存している。
 よって、他人がペンを入れると——同じ下絵を使っても、キャラクターの表情や体型は微妙に変わってしまう。特に〈漫画的な記号化を志向する古い絵柄〉の持ち主だと、既に山手がペンを入れたコマとの違いが際立ってしまう。
 他人の手癖でペンを入れても違和感がないのは、メインキャラクターと密接に絡まない背景、モブキャラ、効果線といった部分だけだ。読者の視線が集まるメインキャラクターと関連小物は、山手自身がペンを入れなければ〈満足できる出来にはならない〉。
 結局のところ——山手が〈新しい絵柄〉と信じている癖の強さが、制作進行上のボトルネックとなっている。
 加えて、コマ単位での完成度にこだわる山手はペン入れに凝りすぎていた。執拗に一コマだけを描き込み続ければ、玉突き式にアシスタントの作業は滞る——。
「まァ……そういうことだ」
 帆足は目を瞑り、静かに山手の反応を待った。技術上の問題で〈揺らいでいる〉のなら、落ち着くまで待つしかない。
「……ひとまず、すべてのコマを埋めることを優先するか……」
 現実的判断——帆足の手元/机上の原稿を睨んだ山手は、ふつふつと湧き上がる焦りを抑え込むことを選んだ。諦念と軽蔑の間にアシスタントを使いこなすための最善の策があったように、円滑な作業への最善の策も諦念と軽蔑の間にあった。
「それが正解だな。なくてもいいコマは適当な効果で潰すしかなかろう」
「もったいないけど、しょうがないか……」
 山手もまた、大仰に腕組みをする。それは、未練がましく揺らいでいる自分自身を軽蔑し、理想像への執着を解くための〈儀式〉だ。
 漫画とは帆足との関係よりも密接に繋がっている分、簡単には割り切れない——。
(……《お前は〈天才〉だからなァ》……か……)
 だが、緊張の緩和——諍いの果てに浮かべた微笑みも、妙に引っ掛かっていた。
(……帆足はまだ、ぼくに勝てないと思い込んでいる)
 正直なところ、自分が漫画の才能を授かっているのかどうかは分からない。眼前の原稿を描き上げなければ審判を受ける資格すらない。
 それでも、帆足がそう認識していることに悪い気はしない。線を引くたびに気泡のような焦りや不安が浮かび上がっても、それを頼りに抑えることができるからだ。
(悪いけど……もうしばらく、思い込んでいてくれ……)
 未だスタートラインにすら立っていない1995年の帆足にとって、山手は同じゴールを目指している友人だが、はるか先を行く〈天才〉だった。
 スタートラインに立った若者は輝かしい未来を夢想し、信じることもできるが、未だスタートラインにすら立っていない若者は想像することすら困難だ。
 故に、山手と帆足は、想像力の有無——欲望の強度を〈格差〉だと信じていた。
 六畳間に〈三人目〉が来るまでは、そう信じていられた——。
 午前五時——六畳間に柔らかくも強烈な陽の光が窓から射し込んでくる。
「……予想通り、今日の〆切が〈三味線〉だったとしても……明後日までは延びないだろうなァ」
 主線を入れた原稿のコピーにアシスタントへの作業指定を書き込みつつ、山手が呟いた。
「……仮に一日繰り上がったとして、どの程度の出来になるんだろうね?」
 作業開始時の予測では、水曜日/八月一日にペン入れを終わらせた後、残り一日を使って三人がかりで貼り重ね、削り続けなければ〈満足できる出来にはならない〉はずの原稿だ。
 ペン入れ自体はいくつかのコマを省略することに決めたから、今日の昼には一応の形になる程度の目処が立ったが、仕上げ作業を一日繰り上げれば、原稿の出来はかなりの妥協を余儀なくされるだろう。
「分からねえよ。これは、お前の漫画なんだから」
 帆足は突き放すような言葉で返したが、その口調は淡々としている。
「そりゃそうだな。いや、そんなこたァ、分かってる」
「手当たり次第、適当にペンを入れていくから、こういうことになるんだ」
「うるさいなァ。描きやすいコマから描いた方が、早く進むと思ったんだよ」
 赤のボールペンを握ったまま、山手は何度も首を捻り、思案を続けていた。
 実際問題、全24ページの原稿——作業進行には極端なばらつきがあった。完全かつ緻密に仕上がっているページもあれば、主線とスミベタを中途半端に入れただけのページもある。
 そのため、完成度の高いページと低いページを交互に覗き込みながら、両者のバランスが崩れないような作業の省略を考える必要があった。
「お前、案外……〈はんかくさい〉よなァ?」
 帆足が突然、大仰でわざとらしく呟いた。
「なんだよ、唐突に。〈ごしっぱらやげる〉なァ!」
 間髪入れずに故郷の言い回しで切り返したのは、それが〈親しい者への悪態〉だと直感したからだ。
 都会へ紛れ込むために隠すことを日常化している地方出身者がわざわざ使う理由は、標準語では形容しがたい微妙な感情を伝えたい時だけだ。
 原稿用紙とペン先の摩擦音、旧式クーラーの鈍い作動音——。
 早朝の六畳間には、わずかな雑音だけが響いていた。
 帆足が所有していたCDやカセットテープも数巡し、音楽を流すことにも飽きていた。
 そんな、淡々とした作業の中に、いつの間にか奇妙な音が紛れ込んでいた。
 ギリ、ッ……ギギ……ッ……。
 河原の小石を擦り合わせるような夾雑音に気づいた帆足と山手は、示し合わせたように押し入れへと視線を向ける。
 奇妙な音は襖の向こう側——押し入れの中で眠っている兵頭が発していた。
 ドカ、ッ……ギリ……ガガッ……ゴ、ッ……。
 ク……ギギ……ァ……プゥ……ガァァァ……。
 最初は他の音と大差ない微細な音量だったが、歯ぎしりやいびき、壁やふすまを蹴ったと思われる音が多重に混淆し、気障りで珍妙なリズムを刻んでいた。
「〈あいつ〉……中で、何やってんだ?」
「……蒸し暑さで悶えているんじゃないか?」
 二人は訝しげにふすまを睨んでいたが、先に首を捻ったのは、山手の方だった。
「ていうか、なんで閉めっきりにしているんだよ?」
「暗くした方が、早く寝つけると思ったのかなァ?」
 家主である帆足は、平時から押し入れの中に布団を敷いていた。
 常に漫画の単行本や雑誌で散らかっている部屋にいちいち布団を敷くことは面倒だし、万年床を決め込むにも六畳間は狭いという事情があったからだが——。
「まったく……これだから、素人は困る」
「いや、そういう問題じゃないだろ……」
 したり顔で呟く帆足に呆れつつ、山手が身を乗り出す。
 灯りで目を覚まさないよう、足下側のふすまを開け、押し入れの内側に滞留する湿った熱を解き放つ。
 ……フハ……ッ…………クー……。
 代わりにクーラーの冷気が入り込むと、兵頭は静かな寝息を立て、沈黙した。
「……そりゃ、ぼくらは慣れてるからいいけどさ」
 山手は口をへの字に曲げ、暢気そうにあくびをする帆足に冷ややかな視線を送った。
 正直、六畳間限定で作り上げた生活習慣/ローカルルールに過ぎないことで、得意げになられても困る。
「で……君は、仮眠を取らなくていいのか?」
 作業の進行具合と体力の限界点を天秤にかけつつ、三人は交代で仮眠を取ることに決めていたが、帆足だけが眠ることなく作業を続けていた。
 今回の作業に於ける人間関係の序列を考えれば、二番目は帆足だが、上流の作業遅れと下流の経験不足が重なった結果、流れ作業の中間点にかかる比重が増していた。
「今のところは問題ないさ。一応、〈モカ〉が効いている」
 帆足は一錠に100mgの無水カフェインが含有された眠気覚ましを飲み、強制的に脳を覚醒させていた。正式名称は「エスタロンモカ錠」。恒常的に使用すると耐性がついて効果も低くなるが、今のところ、四時間くらいは冴えていられる。
「それに、〈あいつ〉へバトンタッチするにしても、もう少し手を入れないとな」
「……少しでも寝ておかないと、追い込みで保たないぜ?」
「最短の〆切——今日の夕方なら、モカでモカを飲み下すさ」
 天井を仰いだ帆足は、またあくびをしながら笑った。
「……それはやめとけ。今だって三錠くらいは飲んでいるんだろ?」
 そして、緩慢な瞼の動き——眠たげな眼差しだけで肯定した。
「南村さんも言ってたろ? あのひとがアシスタントだった頃の〈同僚の話〉を……」
 窓際に置いた未開封の瓶を見つめつつ、山手は二度目の臨時アシスタント中に聞いた〈昔話〉を反芻する。《モカでモカを飲み下す》——それは、一錠でも一杯のコーヒーより濃い錠剤を、同じようにカフェインを含んだ内服液で飲み下すことだ。
《三錠で効かなくなった彼は、倍の六錠を〈液体〉で飲み下しながら笑っていたよ。「次は一シート/十二錠すべて飲んでしまおうか?」とか言いながらさ》
 だが——その〈同僚〉に、次はなかった。
《睡魔のせいなのか、過剰摂取/オーバードーズだったのかは——分からない。でも、六錠をすべて溶かした彼は顔面蒼白になり、結局、救急車で緊急搬送された》
 そして、二度と現場には戻ってこなかったという——。
「言ってたよな。《動悸が止まらなくなって……結局、仕事にならなくなる》ってな」
 どれだけ飲んでも、連続駆動時間が三十時間を超えたあたりから断続的に意識が飛び始める。
 やがて、視野狭窄——机上の原稿用紙しか見えなくなり、思考はまったく動かなくなる。
 強烈な焦燥感に駆られたまま、何も出来なくなる。
「まァ、ほどほどにしておくさ」
 例によって〈絶妙なさじ加減〉で二人に語った〈同僚の話〉が、すべて事実なのかどうかは分からない。大袈裟なホラ話も混じっているだろうし、南村の語り口は途中から〈自分自身の体験談〉のようになっていたからだ。
 もっとも、事実であろうが、ホラ話であろうが——。
 隣り合わせの〈ろくでもない話〉であることは変わらない。
 そんな結論へと思い至り、黙り込んだ二人が作業へ戻ると——。
「ういす、おはようございます……ふぁああああ……」
 押し入れから顔を覗かせた兵頭はひどい寝ぼけ眼で、吠えるような大あくびをした。
「お前はいちいちうるせえな……」
「やー……押し入れの中って、棺桶みたいっすねぇ」
 そして、長い手足で緩慢に蠢きつつ、起き上がることなく畳の上へと這い出してくる。
 帆足はその様子を見ながら(まるで、巨大な蜘蛛だ)と思った。
「オレが死人になったみたいで、これはこれで新鮮な気分でしたけど、〈静かに眠る〉のは一苦労でした」
 飄々とした兵頭の物言いに呆れた二人は互いの表情を伺いつつ、顔をしかめた。

プロフィール
ゆずはらとしゆき
(ゆずはら としゆき )

東京都出身。小池一夫氏に師事し、漫画原作者を経て、小説へ活躍の場を移す。「昭和」を題材とした空想伝奇小説、ノンフィクションを得意とする。代表作は「空想東京百景」シリーズ(講談社BOX)、「十八時の音楽浴〜漆黒のアネット」(小学館ガガガ文庫/原作:海野十三)。

著者ホームページ
「ゆずはら置き場」
http://www.ll.em-net.ne.jp/~yuz4/
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