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雲形の三角定規 ゆずはらとしゆき
©psycho okada
第二話/プロローグ(2010年・夏)
「……暑い」
 六畳間に入るなり、湿った熱気が頬に触れる。
「むー。少し止めているだけでこれか……」
「……付けっぱなしで出れば良かったなァ」
「馬鹿言うな。此処はお前の家じゃないんだぞ?」
 背が低い方の青年が一足早く、窓際のクーラーへ歩み寄り、ダイヤル式のスイッチを入れた。一方、遅れて入ってきた青年は中途半端に伸びた前髪を掻き上げつつ、勝手知ったると言わんばかりな〈相方〉の態度に呆れていた。
「電気代を払うのは俺なんだ……」
 二人が通っている高田馬場の専門学校から、地下鉄で一駅、「落合」という名の通り、傾げたアパートが建っている盆地には湿った熱気が吹き溜まっていた。
「……まさか、コンビニまで往復するだけで吐きそうになるなんてね」
「ここ数日、ろくに寝ていないからな……」
 汗染みで薄汚れたTシャツ一枚の青年は、畳の上にごろりと転がった相方を見下ろしつつ、日中から薄暗い部屋にあかり/電灯を点けた。
「……七月でこんな暑さだと、八月に入ったらどうなるんだろうなァ」
 十五年前——1995年の夏。
 漫画家の卵・山手は念願のデビュー作を描いていた。
 ところが、山手が住んでいた武蔵境から徒歩十五分の学生寮にはクーラーがなかった。しかも、六畳間に二人で住んでいるため、アシスタントを入れるスペースもなかった。
 かくして、山手は専門学校の同級生である帆足に頼み込み、画材一式を抱えて、彼のアパートへ転がり込んだ。
 地下鉄東西線の落合駅からしばらく歩いて辿り着いたのは、築三十五年(推定)の傾いた木造アパートだったが、それでも(中古品とはいえ)クーラーがある分、山手の学生寮よりはマシであった。
「……おお、やっと涼しくなってきた」
 漫画本ばかりが散乱し、家財道具が著しく不足している部屋でクーラーの導入が最優先されたのは、北海道・札幌出身の帆足が東京で生き延びるための生命線だったからだ。
 そして、暑さに弱いのは、宮城県・石巻出身の山手にしても同じだ。
「だいたい、買い出しなんて一人でもできるのに、どうしてついてきたんだよ」
 机上のレシートと寝転がっている山手の暢気な童顔を交互に見ながら、帆足は表情を苦々しく歪めた。上京以来、節約のために自炊を心がけていたが、逼迫しつつあるスケジュールを考えると仕方ない。
「……えー。一人で作業していると息が詰まりそうなんだよ。それに、君のいない間に全裸の屈強な黒人が酔っぱらって迷い込んできたらどうするんだよ?」
「サウスブロンクスならまだしも、落合でそんなことが起きるか!」
 帆足は真顔で言う山手に苛立ちながら、用済みとなった割り箸を折った。
「まァ、確かに玄関の鍵は壊れているが……」
 玄関の鍵は、前年/1994年の春に入居した時から壊れていた。
「……帰ってきたら《I'm really into you!/お前を狂おしいほど愛している!》とかなんとか言いながら、顔をベロンベロン舐めまくっていたりするんだぞ!」
「もちろん、その時はお前を残して全力疾走で逃げるが?」
 どうでもいい与太話を適当にあしらいつつ、帆足は食べ終えたコンビニ弁当の容器をさっさとビニール袋へ詰め込み——。
「食べたらすぐに作業再開だぞ」
 酷薄に言い放ったのは、〈他人の仕事〉に過ぎないからだ。
(自分自身の仕事なら、相手のやる気を促すように演技するかも知れないが——)
 自宅を他人の作業場に提供したことは善意だが、三日目ともなれば、そろりそろりと悪意が忍び寄ってくる。
 一方、仕事の主であるはずの山手は、運び込んだトレス台/ライトボックスに頬杖をついたまま、気怠そうに呟く。
「……これから、もう一人来るんだよね?」
「ノートにやたらと細かくてヘンな絵を描いている奴がいたろ? 〈クレージーヘッド〉という名前でさ」
 二人分のビニール袋を台所の黒いポリ袋に放り込み、帆足が戻ってくる。
「聞いたら、裏手の美術学校に通っているらしい」
「……ということは、予備校生なんだ。しかし、なんでまた……」
「この前、ノートに描いていたら、向こうから声をかけてきた」
 二人が通う専門学校の隣、ゲームセンター〈ルーテーズ高田馬場〉のカウンターには、〈イラストノート〉なるものが設置されていた。
 元々、ゲーム攻略の情報交換用に置かれていたのだが、常連客の多くが隣の専門学校生——アニメーターや漫画家の卵だったことから、いつの間にかゲームやアニメのキャラクターばかり描かれるらくがき帳と化した〈らしい〉。
 伝聞形なのは、昨年の春——入学式の帰りにふらりと寄った時点で、既に二十冊以上が積み上げられていたからだ。
「で、話の流れでつい、《手伝いに来るか?》と言ってしまったわけだ」
「まァ、そんなことだろうと思ったよ」
 白い原稿用紙に下描きのシャープペンシルを走らせながら、山手が答える。
「……しかし、どうなんだろうなァ。あの絵、僕の漫画には合わないと思うんだよなァ」
 イラストノートに〈クレージーヘッド〉が描き始めたのは今年の春だが、その絵は悪い意味で山手の印象に残っていた。不安定で細い神経質そうな描線で下品な笑いを誘うシュールな絵が、イラストノートの文脈をまったくもって無視していたからだ。
「この際、そんなことにこだわっている場合じゃないだろ」
「……そりゃ、そうなんだけどさ」
 今回の作業にあたって、山手は親しいクラスメイトの中から、ある程度の作画技術を有している数人にアシスタントを頼んでいた。
 しかし、いかんせん時期が悪かった。
 同人誌を軸とした〈もう一つの漫画世界〉の住人である彼らは、八月に開催される同人誌即売会/コミックマーケットの準備/印刷所の入稿〆切で忙しく、結局、帆足だけが手伝うことになった。
 そして、当の山手も気づいていた。
 「少年ロケット」の担当編集者から読み切りの依頼を受けたのは、六月発売号のアシスタント作業中のことだ。
《山手くん、八月発売号の台割がいくつか空くから、あなたも描いてみない?》
 念願のプロデビュー!
 嬉しさのあまり、間髪入れずに引き受けた山手だったが、深夜の帰り道、そろりそろりと疑問が忍び寄ってきた。
《……いくつか? 一本じゃなくて?》
 疑問はぐにゃりとした悪意を伴っていた。
 そして、寮に置いていた「少年ロケット」のバックナンバーを繰ると、不定形の疑問は確信へと変わった。毎月十日発売の「少年ロケット」だが、一月発売号と八月発売号だけは、奥付/目次にある「作者急病のため休載」の数が増えていた。
 なるほど、プロデビューと言えば聞こえは良いが、「少年ロケット」もまた、同人誌を軸とした〈もう一つの漫画世界〉の中に存在していた。
 前年——1994年の末、「週刊少年ジャンプ」は発行部数653万部の歴代最高記録を達成していたが、「少年ロケット」の発行部数はその1%にも満たなかった。マイナーな月刊少年漫画雑誌に過ぎない「少年ロケット」には週刊連載の過酷さはなく、代わりにプロ意識を欠いた〈個人主義的怠惰〉が蔓延していた。
《……結局のところ、怠惰な〈まがいもの〉たちが開けた穴を埋めるだけか》
 嬉しさは既に霧散していたが、意欲を失うことはなかった。その程度で臍を曲げるほど、漫画家という職業に崇高な幻想を抱く〈原理主義者〉でもなかった。
《……この間に、乗っ取ってしまえばいいんだ。面白くもなければ、上手くもない時代遅れの〈まがいもの〉には負けないし、負けやしない……》
 残念ながら「面白い漫画を描く」という点では、週刊少年漫画誌の一流どころにはかなわないと自覚していた。良くも悪くも——客観視できる程度には〈漫画を読めていた〉が、作画技術に関しては過剰な自信を持っていた。
 持ち込み先に週刊少年漫画誌を選ばなかったのは、〈そういうこと〉だ。
 1990年代は「漫画」の変革期だった。作画テクニックが急激に底上げされた結果、世代間の断層は年々広がっていた。そして、「少年ロケット」の誌面は、週刊少年漫画誌の激しい人気競争から脱落した前世代の中堅漫画家たちに占拠されていた。
 山手はその状況も読めていた。理論的ではなく、感覚的に——。
「……ところで、六畳間に三人って……かなりきつくない?」
 我に返った山手は、シャープペンシルを握ったままの拳を天井へ伸ばした。
「一人はちゃぶ台だな。もしくは押し入れで仮眠を取りつつ、交代で作業するしかあるまい」
「……なんだか、ひどいことになったなァ」
「他人事のように言うな。お前の下描きが遅いからこういうことになっているんだろうが?」
「これがデビュー作だから、作画には力を入れようと思ったんだよ……」
 山手の主張に耳を貸すことなく、帆足は散乱している原稿用紙へ視線を向けた。
 キャラクターのペン入れは全体の六割程度だが、背景にはまったくペンが入っておらず、下絵すら入っていないページもある。
「まだ、結構残ってんなァ……今のペースで大丈夫なのか?」
 不安そうに呟いた帆足の様子が気に食わなかったのか、山手は座ったまま原稿用紙を一枚一枚集め、ページ順に並べ直す。
 そして、黙々と全体の進行状況を確認していく。
「今日は金曜日……担当さんは来週明けが〆切と言ってたよな?」
「……いざという時は、水曜日まで延ばしてもらうよ」
「延びるのかよ?」
 ひどく投げやりに答えた山手に、帆足が口を尖らせる。
「……さァ? まだ聞いてない」
 普通は月曜日を指すのだろうが、山手の担当編集者は「来週明け」としか言っていなかった。
「水曜日だと、八月に入ってるじゃないか」
「……八月二日か。まァ、そういうことになるね」
「お前なァ、それはいくらなんでも、都合良く解釈し——」
 帆足の言葉を遮るように、山手が続ける。
「南村さんとこの進行スケジュールと発売日から逆算すれば、週明けなんて〈三味線〉だ」
 〈南村さん〉は、二人が臨時アシスタントを務めたこともある「少年ロケット」の先輩作家だ。しかし、帆足の印象に残っている南村は、余裕のある進行で〆切をきっちりと守る真面目な漫画家で、手前勝手な未来予想でスケジュールを楽観視している小賢しい馬鹿と比べると、ずっと大人だった。
「……活版の方が〆切が早いとしても、水曜日まではなんとかなる。だから、一枚でも多くトーンを貼るんだ」
 当時、「少年ロケット」の台割は、活版印刷とオフセット印刷の混合で構成されていた。後者の方が印刷の質が良く、〆切も数日遅いが、前者に比べて高コストであるため全体の三割程度にしか使われず、主に入稿が遅いエース級の漫画家が割り当てられていた。
「……オフセットのページなら、このトーンも綺麗に出るんだけどなァ。時代遅れのロートル大御所に割り当てるなんて、もったいないよねぇ」
 帆足への作業見本も兼ねて、先にスクリーントーンを貼り終えて仕上げた一枚へ視線を向けつつ、山手が呟く。確かに、活版印刷では真っ黒に潰れてしまうスクリーントーンの多重貼りも、オフセット印刷ならば綺麗に再現される。
 そうなれば、作画技術の差はより強調されるだろうし、アンケート上でも現在のエース級/ロートル大御所たちを、一気に出し抜くことができるはずだ——。
(だが——そういう問題ではない)
 無言のまま、帆足は山手の呟きを聞き流した。
 内心、〈新人にあるまじき態度〉だと思っていたからだが、言葉にすることはできなかった。
(調子に乗りやがって……南村さんだったら一喝しているところだぞ?)
 ふと、そんなことを考えたが、〈現在の帆足〉は〈現在の山手〉を注意できる立場ではなく、素朴ながらも整っている表情を訝しげに歪めることしかできなかった。
「うわぁああああっ!」
「うわぁああああっ!」
 深夜——二人が叫んだのは、同時だった。
 作業を黙々と続けていた——作業に集中していた二人は、多少の物音では動じない境地へと到達していたが、〈深夜の電撃作戦はすべてを裏返した!〉
「や、やめろ!《I'm really into you!/お前を狂おしいほど愛している!》とか言われても困る!」
 台所と六畳間を遮っていた引き戸が猥雑な音を立てて開いた瞬間、どういうわけか、二人とも全裸の屈強な黒人が酔っぱらって迷い込んできたのだと思い込み、恐慌状態に陥っていた!
「あのー、帆足さんですよね?」
「あ、ああ?」
 深夜の来訪者は〈服を着ていた〉。そして、〈日本語で話しかけてきた〉。
 後から考えれば、ほんの二、三秒だったが——休みなく作業を続けていた二人の脳髄には〈閉鎖空間の毒〉が回っていた。
「一応、チャイムは鳴らしたんですけど、まるで反応がなかったんで」
 不動の境地は錯覚に過ぎず、実際は精神の均衡を崩した状態——禅で言うところの「魔境」に陥っていた。
「確かにドアチャイムは壊れているが……いきなり入ってくるやつがいるかよ!」
 玄関の呼び鈴は、前年/1994年の春に入居した時から壊れていた。
「とはいえ、灯りは点いているし、鍵も開いてるから、とりあえず入るかと。外にいると蚊が寄ってくるんで」
 深夜の来訪者は飄々とした態度で、まったく悪びれることがなかった。
「……あのさ。この部屋、大丈夫なのかい?」
「何が?」
 遅れて我に返った山手が口を挟んだ。
 しかし、良くも悪くも環境に適応し、感覚が麻痺した帆足はその問いを正しく認識することができない。
 実際——鍵が壊れていようが、呼び鈴が壊れていようが、問題はなかった。
 バブル経済が崩壊したとはいえ、築三十五年(推定)の傾げた木造アパートをわざわざ狙う泥棒なんていないのだから——。
(……トキワ荘っぽいと言えば、聞こえはいいけどさ)
 時代と切り離され、取り残された空間に居ることを認識した山手は、来訪者の図々しい口調に首を捻りつつ、その顔を見上げた。
「……で、君が〈クレージーヘッド〉?」
「ええ。本名は兵頭ですけど」
 来訪者——〈クレージーヘッド〉こと兵頭は、夏だというのに全身黒ずくめのスーツ風で、二人よりも頭一つ分は背が高かった。特に手足がひょろりと長く、顎には禍々しいひげまで蓄えている。これで短髪でなかったら、相当に暑苦しい風貌の持ち主だった。
「……なんだか、怖いやつが来たなァ……」
「おい!」
 不躾な感想を漏らす山手を、帆足はあわてて咎めたが、当の兵頭は——。
「安心してください。〈外見ほど怖くはない〉です」
 無表情から一転、満面の笑みを浮かべると、わざとへりくだった口調で言った。
 そして、たたみ掛けるように山手の掌を力強く握り、更に付け加える。
「〈プロの漫画家〉の手伝いができるなんて光栄です」
 山手は兵頭の世慣れた振る舞いに面食らったが、悪い気はしなかった。
「それにしても、すごいボロアパートですね?」
「ほっといてくれ。東京で家賃三万なんだぞ?」
 返す刀で嬉々として感想を述べる兵頭に、帆足はふてくされた口調で切り返した。
「まァ、おれのところも似たようなもんですから、気にしなくていいすよ」
「だったら、わざわざ言うな」
 帆足はわずかに舌打ちすると、二人の会話を面白がっている山手を睨んだ。
 十五年前——1995年の夏。
 2010年の帆足が〈苦い記憶〉に舌打ちしたのは、この一瞬を思い出したからだが——。
「あ、今週号のジャンプじゃないすか!」
 次の瞬間、兵頭は六畳間の隅に転がっていた「週刊少年ジャンプ」に飛びついていた。まるで〈獲物を見つけた黒豹〉のように。
「良かったー。買いそびれちまったんですよ」
「……お前、手伝いに来たんじゃないのか?」
 だが、この号にはもう、史上最高部数達成の原動力となったメガヒット作は載っていない。「ドラゴンボール」は五月末発売の号で完結し、もう一本の大黒柱である「SLAM DUNK」もまた、クライマックスを迎えつつあった。
 それでも、〈正統なる漫画世界〉の栄華は続いていたし、信じられていた。〈もう一つの漫画世界〉をカウンターカルチャーだと思い込める程度には——。

プロフィール
ゆずはらとしゆき
(ゆずはら としゆき )

東京都出身。小池一夫氏に師事し、漫画原作者を経て、小説へ活躍の場を移す。「昭和」を題材とした空想伝奇小説、ノンフィクションを得意とする。代表作は「空想東京百景」シリーズ(講談社BOX)、「十八時の音楽浴〜漆黒のアネット」(小学館ガガガ文庫/原作:海野十三)。

著者ホームページ
「ゆずはら置き場」
http://www.ll.em-net.ne.jp/~yuz4/
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