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碧と花電車の街 麻宮ゆり子

イラスト/河野真歩
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第1章

【三】台風(承前)

「えッ」
 表の風がさらにうなり声を強くした。がらんがらんと一斗缶のようなものが転がっていく音がして、部屋全体がぐらりとゆれた。
 ――ああ、もしも私のお父さんも、お祖母ちゃんのように怖い人だったらどうしよう。
「やだ、やだ。やめて! 聞きたくない」
 耳をふさぐと奥の六畳間に駆け込んだ。部屋の隅で膝を折り、柱に額を押しつけて目をつぶる。
 ずいぶん長い間、私はそうやってうずくまっていた。
 いつの間にきたのか、お母さんが後ろから肩を二度叩く。
 私は首を振った。そのあと耳から外した両手で顔をおおう。「お母さんはつらくないの? そんな怖いお母さんに育てられて。今の私と変わらないような年で家を追い出されるなんて怖かったでしょ? 悲しいでしょ? 淋しくなかったの?」
「そうね、確かにそう思ったこともあったけど……。そういう親だったからこそ、私も必死に働くすべをおぼえたところもある。それに今はぜーんぜん淋しくないの」
「どうして……?」
 鼻先で甘い香りがした。
 驚いて顔から手を離すと、目前のものがもやもやとゆれた。木の器に何かが山盛りにのっている。きつね色をした岩のような見てくれのものが、ごろごろと……。
「ドーナツ!」
 横から器を差し出すお母さんを見ると、彼女は顔をほころばせて言った。
「十四歳の誕生日おめでとう、碧」

 私はドーナツを食べて、瓶入りの牛乳を飲んだ。岩に似た形のドーナツは昨晩、私が熟睡している間に揚げてくれたらしい。砂糖の代わりに干しぶどうがたっぷり入った、滋養のある、お母さんらしい豪快なおやつだ。
「ごはんを食べたばかりなのに、まだ食べられるの?」
「美味しいもん。食べてみたら?」
 たばこを吸っていたお母さんも、一つつまんでかじりつく。
「あらほんと。ひと晩置くと、しっとりして美味しいわね」
 表では雨が降り出していた。ラジオの電源を入れると、大型の台風が近づいているので、東海地方では注意するようにと言っている。
 次第に雨は重たい、水気のある音に変わっていく。叩きつけられた雨滴で屋根が騒ぎだした。
「これはプレゼント」
 お母さんがひらべったい紙箱を差し出した。開けると、真っ白なハンケチが入っている。しっかりした生地で、端の部分に「M・N」と緑の糸で私のイニシャルと電車のマークが入っていた。
「この刺繍ししゅうってもしかして市電?」
「そう、碧は市電が好きなんでしょ」
「うん。これどうしたの?」
「私が縫ったの」
 わかっていてもつい、聞いてしまう。「ひと針ひと針、手で?」
「そうよ」
「へえ、素敵だね。ありがとう」
 ハンケチをちゃぶ台に広げてみた。白い生地に緑色の糸がさわやかだ。それに、これでもう富江さんから「ペッ」とやられなくて済む。でも、きれいだからあまり使いたくない気もする。
「碧、聞いて」
 お母さんはたばこの火を消すと、ちゃぶ台越しに私の方へ手を伸ばした。私は正座になる。
「あなたのお父さんは、大阪で最後に私が女中を務めた先の息子さんなの……。大学教授のご主人と奥さまと息子さんが三人いるおうちで、そのいちばん下の息子さんが、あなたのお父さん」
「……え」
 急に言われてもピンとこない。会ったことがない人だから、他人の話を聞いているような気分だった。
「どんな人?」
「優しくて、思慮深い人だった……。でも、やっぱり私はそのお宅にご奉公する立場の身だから、申し訳ないという気持ちはいつもあったわね」
「でも、なかには女中さんと結婚する人もいたんでしょ?」
「うん。でも身分が違うからって、奉公先から手切れ金を渡されて、別れることになった話も多いみたいよ」
「でもでも、お母さんとその優しい三男さんはソーシソーアイだったんでしょ?」
 相思相愛――。お母さんは照れくさそうな顔でかしこまって「たぶん」と言った。
「へー」
 お父さんは怖い人でもないし、お母さんは無理矢理テゴメにされたとか、そういうのでもないのだとしたら、それは単純に、とてもいい話じゃないかと思った。
「やるじゃない! すごいね」
「ええッ?」と、お母さんは少し赤くなっている。
「だってさあ、今だってお見合い結婚の人が多いじゃない? 身分違いとはいえ、恋愛結婚だったんでしょ? それって進んでる。身分がどうとか、恋愛にリクツはないって紅玉さんも言ってたよ。ほら、映画だったら、いけない仲の方が盛り上がるとかなんとかって」
「何言ってるのこの子は。耳年増みみどしまになって」
 むっとした感じで言い返すお母さん。あはは、と私が笑っていると、お母さんは急に真面目な顔になった。「……違うの、碧。違うのよ」
「何が?」
「結婚はしていないの」
「え?」
「あなたのお父さんと私は、結婚していないのよ」
「……どういうこと?」
「あのね。奉公先の長男さんと次男さんは戦争に召集されてしまって、でも、あなたのお父さんはお兄さんたちと違って、少しがあったの。だから徴兵検査を受けても召集はされないはずだ、戦争が終わったらきっと結婚しようって、私たちだけで話し合っていたの。けれど敗戦間近になると、そういった特例も関係なくなってしまって……、あなたのお父さんの元にも昭和二十年の二月に召集令状が届いた。それで、あの人は戦争へ行かざるを得ないことになってしまったの。だから碧、――あなたの戸籍の父親の欄は空白なの」
 お母さんはのどを詰まらせ、私から目をそらした。
「黙っていても、こういう話はどこからともなく洩れてしまうものなのね。もしかしたら、母が大須にきたときに言い振らしたのかもしれない……。それであなたは、私の事情を知っている担任の先生から、テテナシゴなんてさげすむような言われ方をしたのよ」
 急に、自分の知っていた世界の枠がぐんと広くなったような気がした。けれど、まだ肺の
大きさが追いつかないのか、空気が薄くなったようにも感じられる。
 テテナシゴというのはやっぱり、自分でこっそり調べたのと同じように、「普通の子とは違う」という、生まれた環境で人を差別する言葉なんだ。それくらいの目に見えない違いで、人は別の人を見下したり、ばかにしたりするんだ。
「お父さんは、そのあとどうなったの?」
「戦地に出征して行ったわ。それから、ますます戦況が厳しくなって、女中を雇うなんてぜいたくだと言われるようにもなって……、私は大阪の奥さまから職を解かたの。そうして疎開する意味でも福井の生家に戻った。大阪も空襲がはげしくなって、奥さまたちも疎開をされたと聞いたわ。福井へ戻ったあと、昭和二十年の春先だったわね……。あなたがお腹にいることがわかって、十四年前の九月二十六日の今日、あなたを産んだ。母は産まれたばかりのあなたを、自分の養子にすればいいと主張したの。だけど私は、あなたを母の養子にするものかと思って、富江さんといっしょに名古屋へ逃げた」
 つらい思いをさせたわね、ごめんね。そう洩らしたきり黙ってしまったお母さんは、まだ目を合わせてくれない。
「でも、怖いお祖母ちゃんの養子になってたら、今頃どうなってたかな」
 それは私にとって恐ろしい想像だった。「やっぱり、何て言われようと今の生活がいい。大須だっていい人ばっかりじゃないけど、でも、久美ちゃんと学校へ行って、富江さんや紅玉さんや山高さん、神谷さんたちといる方がいい」
 お母さん、と呼びかける。
「ねえ、そんなお祖母ちゃんだったら私がお腹にいるってわかったとき、いろいろ言われたんじゃない? 父親のいない子を産むなとか……おろせとか、そういうこと」
 話しながら自分自身の輪郭がぼやけていくようで、だんだん声が小さくなった。そんな私を引き留めるように、お母さんは私の手をにぎると、目を見ながらはっきりと言った。
「碧。何があろうと、私は私の意志であなたを産んだの。お祖母ちゃんは関係ないのよ」
 ――お父さんが召集されるのが、もっとあとならよかったのに。あと半年待てば終戦だったのに。たった半年の食い違いで、私が生まれたことも知らず、星になって、空の向こうへいってしまったのだろうか。
 だけどそんなことは今日までさんざん苦労してきたお母さんの方こそ、くり返し考えてきたことだろう。そう思うと口にはできなかった。
 だからそれ以上は何も聞かずに、ひとことだけこぼした。
「お父さん、会いたかったな」

 夕方になると鋭い雷の音がした。ひゃあッ、と私は悲鳴をあげる。
 部屋の電気が消えた。暗闇では風や雨の音がいっそう際立って聞こえてくる。まるで獣が叫んでいるようだ。
 お母さんの手が腕に触れた。懐中電灯が点くと、こわばった顔が浮かび上がる。
「真っ暗だよ」囁くと、「しッ」と、お母さんは制止するように私の身体の前へ手を伸ばした。
 風の音のなかにサイレンが混じって、そのあと、壊れた拡声器が発するような、ぼわんぼわんという声が響いた。さらに雨や木がゆれる音などが入り交じる。
「何だかお化けの声みたい」
「何を言っているのかわからないわね」
 お母さんはマッチを擦って蝋燭を灯し、懐中電灯を消した。自分の呼吸の音がやたらと耳に響く。ちゃぶ台の上以外は真っ暗だ。それにしても蒸し暑い。私たちは手ぬぐいでしきりに額や首の汗をふいた。
 雨戸を閉めているから昼でも暗いのは当たり前だが、玄関のガラス戸の向こうまで夜のような色をしているので気味が悪い。昨日の今頃はあんなに夕陽が明るかったのに。
 首の後ろがひやりとして、思わず声をあげた。
「あ、雨漏りしてる」
「たらいを置いて」
 たらいもお皿も使って置いていく。二部屋合わせて四ヵ所も水が落ちていた。ぽたん、ぽたん、ぽたん――パタパタパタ、と水の音が速くなる。金だらいは特にうるさい。
「ちょっと屋根を見てくるから」
 お母さんが外に出ようとしたので、ぎょっとしてその腕をつかんだ。
「危ないって。はしご使って上に行くつもりでしょ」
「もちろん」
 振り返ったお母さんは顔全体に疲労がにじんでいた。けれど同時に気分も高ぶっているのか、目が潤み、わくわくした気配もある。
「だめ、やめて」
「大丈夫よ」
「やめてってば。いくら強盗を追い返したからって、自然と人は違うんだから」
「でもこのままじゃ家が水浸しになって腐っちゃうわよ」
「いいからやめて」
 そんな問答が続いたのち、お母さんの頬をはる勢いで大きな声を出した。
「お父さんだっていないのに、その上お母さんまでいなくなったら、私はどうやって生きていったらいいの?」
 はッとしたらしい、お母さんは動きを止めた。
「そうね。私、いったいどうしたのかしら……」
「お母さん、なんだか変だよ」
 玄関の戸を強く叩く音がした。叩くそばからガラス戸の向こうに立つ人が、風の勢いで横へ押し流されるのが見える。慌てて鍵を開けると、水と風の塊がいっきょに部屋に押し寄せた。
「やっぱり二人とも避難しなかったんだね!」
 富江さんだった。必死に両手で戸を閉めた彼女は、カッパを着ているが全身ずぶ濡れだ。
「避難? 何も言われてませんけど」
「昼頃に避難勧告が出たらしいんだよ。緊急避難場所は大須小学校だ。だけど、大通りを一本隔てた向こうの方まで移動する方が、危ないに決まってる」
「ええ、そうだと思います」
 外をのぞきながらお母さんが言った。ガラス戸の向こうでは横なぐりの雨が降っている。
「富江さんはどうしてここに?」と私が聞いた。
「死んだってこの家を守る、それが私の仕事さ。でも、他のみんなは大丈夫かなと思ったら心配でねえ……店子たなこをまわって確認していたんだ。そうしたら、あんたたちの家から灯りが見えたから……」
「他の家はどうでしたか」と手ぬぐいを渡しながらお母さんが聞く。
「役所の若夫婦や、昼間働いてる若い人たちはみんな職場にいるらしくて留守だった」
「向かいの上田さんは?」
 ドブ掃除のとき、お母さんに「勇ましいね」と声をかけた高齢のご夫婦のことだ。富江さんが顔を手ぬぐいでふきながら言う。「それが、返事がないんだよ」
「いつも家にいるから、いないはずないでしょう?」
「……何かあったのかも」
 私が言うと、富江さんはポケットの鍵を鳴らして飛び出そうとした。お母さんも慌ててカッパを着る。私は二人の様子に今回の台風の大きさを感じないではいられなかった。二人とも台風の強さに影響され、異常に興奮していて、いつもと違う。だから必死に追いすがった。「やだ、置いていかないで」
 雷が鳴った。部屋が光ってすさまじい音がする。
「それならあんたもおいでッ」
 富江さんの言葉にしたがってカッパを着た。袋に入れたドーナツも避難袋に加えて、救急箱をお母さんに渡し、ふッと息をかけて蝋燭を消した。
 戸を開けると、ひさしから流れ落ちる水が滝のようになっている。ざぶんとかぶって、一歩踏み出したとたん、たちまち風に足をとられ、滑るように身体が流れた。目の前にあった電柱に必死にしがみつく。「碧ィ!」と叫んだお母さんが、私の手首をつかんで引き寄せた。
「一人で行ったら飛ばされるよ!」
「三人で固まって動くんだ」 
 お母さんが先頭になって、富江さんは私を真んなかに入れると、後ろから腰に手を回し、一列になって進んだ。顔や身体は暴風になぶられ、下は足首まで水に浸かっている。ゆっくりとしか進むことができず、三メートルの道幅がひどく長く感じられた。
 私たちが横切ったあと、飛んできた看板が、長屋の間を回転しながら走り抜け、その先の民家の雨戸に直撃した。大きな音とともに、雨戸が割れて窓ガラスが砕け散る。
 だが、ぞっとする暇もない。「上田さん開けやあ!」と、富江さんがガラス戸を叩いたが返事がなかった。灯りも点いていないようだ。
 いないのかね、と富江さんが洩らすと、私は懐中電灯の灯りをガラス戸に押し当てた。奥の方でかすかに、黒いものが動いている。富江さんが慌てて合い鍵を使った。
 風に押されるようにして上田さん宅になだれ込む。なかは真っ暗だった。
 表の戸を閉めたはずなのに、どこからか風が吹き込んでいる。
 私が懐中電灯で屋内を照らしていくと、何ヵ所目かに光をあてたとき、――上田のおじいさんとおばあさんが浮かび上がった。怯えた表情で毛布にくるまっている。二人の白髪がゆれているので、風のくる方を照らすと、雨戸とガラス窓の一部が割れていた。そこから雨やガラスの破片やらが吹き込んで、床に水たまりができている。
「このままじゃ危ないわ」
 と言ってお母さんは、状況がわからずぽかんとしている上田さん夫婦をよそに、玄関に立てかけてある昨日準備しておいた板を持って部屋にあがった。
「碧、床のガラスをそこのほうきで集めて。その前に金づちと釘!」
 道具箱からそれらを出し、あたふたと渡す。お母さんは、雨戸の割れた場所からしきりに吹きこんでくる雨水をシャワーのように浴びながら、板をあてがい釘を打ち込んだ。さらにその上から、長い棒を斜めに渡して補強する。
「その場しのぎかもしれませんけど」
 と、お母さんは額をぬぐった。上田のおじいさんが手ぬぐいを持ってきてくれた。私たちは少ない手ぬぐいで濡れた髪や身体をふき、絞ってはまたふいた。
「無事でよかった。ここは隙間風がくる。ちぃと奥の部屋に行かないか」
 富江さんが声をかけると、上田のおばあさんは足に手を添えて動かない。彼女の足首が紫色に腫れ上がっていた。
「そこの、びったびたのとこで滑って足をひねったんだわ。もう動けん」
「私たちもいい年だ、これ以上長く生きるなんていかんわ」
 絶望し、やけっぱちになっている上田さん夫婦を、富江さんは、
「上田さんの方こそいかんよ、昨日だって元気にドブ掃除してたじゃないか」
 となだめ、「痛い痛い」と悲鳴をあげるおばあさんに肩を貸し、なんとか隣室へ移動しようとした。
「救急車を呼んだほうがいいんじゃないかな」
 私が提案すると、富江さんは眉をくもらせる。
「黒電話なんて、ずっと先の金物屋にしかないじゃないか」
「走ればすぐだよ。私が行ってくる」
「碧ちゃん、それはいかん! 外に出るのはやめなさい」
 上田のおじいさんが急にしっかりした調子で言い放った。みんなで顔を合わせて、耳をすませる。
 表の風は矢が飛んでいくような音に変わっていた。窓枠が目でわかるほどしなり、ぎ、ぎ、ぎ、と鈍い音がする。さらに床がゆれて、まるで船に乗っているようだ。
「まさか、この家……倒れるんじゃないかな」
「縁起の悪いこと言うんじゃないよ!」
 富江さんが私に怒鳴りつけた。「この長屋は私の命みたいなもんだ! うちの亭主が残してくれた縁で建てたんだ。この家がなくなったら……」
 悔しそうに富江さんが何度も手で目をぬぐった。すると上田さん夫婦が、「大丈夫だよ、富さん。大丈夫。みんなで守ろう」となだめだす。
 隣室に移ってから、お母さんは持参した救急箱から湿布を出すと、おばあさんに応急処置をした。
 私は雨に濡れたせいか、さっきから寒くて仕方がない。震えが止まらず歯を鳴らしていると、「おい、タマコ」とおじいさんが押し入れに隠れていた猫を呼び寄せた。
「濡れた服は脱いで、これを抱いとりゃあ。温かいで」
 私は肌着だけになると、布団にくるまって白黒模様のタマコを抱いた。おとなしいタマコは腕のなかで、じっとしている。
 またサイレンの音がした。部屋がぎしぎし鳴ると、花瓶や皿が次々と落ちて割れ、家が倒れるのではと怖くなり、外へ飛び出したい衝動におそわれる。けれど外は瓦礫がれきの飛び交う嵐だ。
「こんなひどい台風は六十年生きてて初めてだ。私の人生もここで……」
 富江さんの声が消えそうになると、お母さんが絶叫した。
「何を弱気になっているの? 私と赤ちゃんだった碧と、福井の橋の上で初めて会ったときのことを忘れたの? あの日もこんな嵐の晩でしたよ」
 初めて聞く話だった。富江さんは黙っている。上田さん夫婦は疲れているのか、私たちがきて気が抜けたのか、意識がもうろうとしているようだった。お母さんは続ける。
「産んだばかりの碧を抱いて、びしょびしょになって、増水した川の橋の上に立っていた私を助けたのはあなたですよ。早まるんじゃない、生きていればきっといいことがあるって、そう言って私を引き留めてくれたのはあなたですよ!」
「……そうだったねえ」と富江さんが呟いた。
 私は頭がぼうッとしてきた。熱があるらしい。目の前がふらふらする。
 早まってはいけない、そうだ、早まっては――。
 頭のなかで信号が点滅している。お母さんは「いけないッ」と声をあげて立ち上がると、
すべての窓にテープで「×印」を貼っていく。それから両手を上下に広げて、暴風で溶けるようにしなる窓枠を押さえ始めた。
 気づいたら私も布団から飛び出し、お母さんと同じようにしていた。雨戸ごとこちらに吹っ飛んできそうなところを、歯を食いしばって押し戻す。
 結局、怪我している上田のおばあさんをのぞいて、みんなで、少しでも家が風に負けないように、と、一枚ずつ窓枠を押さえ続けるしかなかった。
「ここは高台のはずだから、変に動かないほうがいいかもしれない」
 と富江さんが、外の音に負けない声で叫んだ。みんなが頷いている。
「久美ちゃんに紅玉さん、大丈夫かな」
 私が声をあげると、富江さんが答える。
「二人ともアーケードの下に家があるから、ここよりはいいだろう」
「山高さんは?」
「あいつは猫みたいなやつだから、いちばんいい場所にいるはずだ」
 暗い表情だったみんなが少しだけ笑うと、おばあさんの膝に移ったタマコを振り返った。
 木が倒れたのか、看板でも飛んできたのか、どこかで重いものが当たる音がした。風のうなり声はやまず、酔いそうなほど床がゆらゆらして、雨漏りも始まった。昨日はドブ掃除をしたというのに、――玄関のなかまでチャプチャプと水が入ってきたときは、目の奥が暗くなった。
 もうだめだという気持ちになるたびに、「碧、大丈夫か」と誰かが声をかけてくれる。だから私も「大丈夫!」と必死に言い返す。
 だけど、さまざまな悪い想像が胸をよぎり、負けそうになる。
 もし家が倒れたら、玄関の水だってあれ以上せり上がってきたら……。
 何もかも終わりだと決めつけてしまえたらどんなに楽だろう。家のゆれは止まらない、屋根を叩きつける雨も風も収まる気配を見せず、ますますひどくなるばかり。
 それにしてもいったい私たちが何をしたというのだろう。後ろでは上田のおばあさんがお経を唱えている。私は富江さんとお母さんを見ると、窓枠を押さえながら、祈る思いで目をつぶった。
 あの世にいるお父さん、どうか私たちを守って――。

(第8回につづく)



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プロフィール

麻宮 ゆり子
(まみや ゆりこ)

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。