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碧と花電車の街 麻宮ゆり子

イラスト/河野真歩
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第1章

【二】名古屋クロニクル

 母が日中働く喫茶「ポンパル」は大須の社交場ともいわれている店だ。いつ行ってもお客さんの会話や笑い声が飛び交い、たばこの煙がもうもうと漂っている。
 入口に立つと店内はざっと全体を見渡せるほどの広さで、庶民的な店だが、家具や室内の飾りが洒落ている。赤いビロードを張った手触りのいい、ソファーに似た椅子の前には、背の低いテーブルが並び、壁には翡翠ひすいを叩いて伸ばしたようなタイルがはめ込まれている。
 客は大須商店街で暮らす店の人や主婦など、この人いつ来てもいるなという印象の人が多い。が、もちろんそれだけでもなく、買いものついでにたまに寄るのを楽しみにしている老夫婦、白シャツにVネックのニット姿で読書をする大学生、スーツ姿の学者や、やたら声の大きい役者などの文化人、いったい何を職業にしている人だろう? と首を傾げたくなるような……山高さんのような怪しげな見た目の人など、いろいろ混じっている。
 とにかく店のなかではみんな平等、誰だからといって店の人は特別扱いしたりはしない。
 大人たちは口をそろえ、コーヒーはこの店が世界一うまいと言う。だが私にはまだそのよさがわからない。ためしに一度ブラックを飲んだときは、まるで地獄の釜の中身を口にしてしまったようなショックを受けた。どろりと黒くて苦くて重い。大人の味というより名古屋限定の味といった方が正しいのかもしれない。
 母は白いシャツに黒い長いスカートをはき、銀色の盆を持って動きまわっている。
「信ちゃん、こっち」「信子さんお願いします」
 あちこちから呼ばれ、注文を取ったりコーヒーやトーストを運ぶ姿は、くるくるとワルツを踊っているみたいにエレガントだ。私は誇らしい気持ちになる。
 富江さんは向かいに座る友達と話している。私は富江さんから少し離れた席でミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーを片手に、宿題をやりつつ名古屋クロニクル――通称「めいクロ」を読んでいた。
 名クロは地域密着型の夕刊紙だ。大須のような名古屋の繁華街のイベントや、ごく普通の人の間に起きた出来事をわかりやすい言葉で取り上げている。
 過去の号を読むと街の移り変わりがよくわかる。だから私はこの店に保管されている数年前の名クロを読むのが好きなのだ。たとえば――。
 大須観音は戦争で建物も全部焼けてしまったのだが、その後、「せめて表の仁王像だけでもないと格好がつかない」という街の人の声に応え、大須観音側が某お寺に頼み込んで仁王像をついで借りて仁王門に置いた。すると大須の人たちはその仁王像にバットとミットを持たせ「ホームランセール」の幕をかけ宣伝の道具にしてしまい、貸した寺側が大激怒……なんていう記事が載っている。
「怒るの当たり前だって」
 情けなくもおかしくて、げんなりしつつも笑ってしまう。
 新聞をめくる手が止まった。
「お化けいち? こんなことやってたんだ」
 せともの屋が果物を売り、果物屋が肌着を売るから商品がどろんと化ける「お化け市」って、なんのこっちゃ。しかもお化け市の提案者の欄に山高さんの写真が載っていて、コーヒーを吹き出しそうになった。
「やあ」と声が降ってくる。「いつ来てもうちの新聞をいちばん楽しそうに読んでくれてるのは碧ちゃんなんだよな」
 私の前に座ったのはビン底めがねをかけて、ワイシャツにネクタイを締めた神谷かみやさんだった。彼は名クロの大須担当記者で年は三十八と聞いている。
「おもしろい? うちの記事」
「うん」
「どんな風に?」
「全部三面記事みたいなところ」
「いやあ、書きがいがあるなあ」
 百パーセント褒め言葉だと受け取るところに、調子のいい記者らしい厚かましさがあると思う。神谷さんはおしぼりで首の汗をぬぐうとアイスコーヒーを注文した。
「どう最近? 碧ちゃんのまわりで何かない? 流行っていることとか大事件とか」
 そう訪ねる彼のめがねの奥の目は、笑っているようでいて鋭い。
「別に何も……」
 私は左右の膝をくっつけてうつむいた。
 実はいまだ私は中学で男子三名から「ズロース女」呼ばわりされ、いやがらせも受けていた。だけど、そんなことは別に「大事件」ではないし、新聞記者の神谷さんに話すほどのことでもない。
 しかし思い出すと正直気分が悪かった。だから私はこの店の騒がしさと名クロの記事で、自分のなかのつらさを紛らわせていたのだ。
「どうした? 腕のとこ」
 神谷さんの声ではッとした。まくっていたシャツの袖を慌てておろす。
「ちょっと転んだだけ」
「赤チンつけないのか? あざみたいになってるし。家にないなら富さんに言えば……」
「大丈夫ですから」
 へえ、と洩らし神谷さんは遠慮のない視線を私の全身に注いだ。アイスコーヒーを飲むと、彼はさりげないフリで店内をみまわす。が、目線はいつも最終的に母のところで数秒留まる。
「九月になったけど天気が安定しないなあ。ところで……の、信子さん最近調子はどう?」
「どうしてですか」
「どうしてって、忙しそうだからさ。昼も夜も働きづめだろう? いつも人前に出ているせいかな? 年よりずっと若々しく見える……。前は大阪で女中をしていたんだってね。雇い主と同じ屋根の下で家事や子守こもりをするなんて、つらいことも多かっただろうに。でもそれをこなした経験があるからこそ、この店でも重宝されている。碧ちゃんのためにがんばっているのも、もちろんある。がんばり屋さんだからなあ、の、信子さんは」
「お母さんの名前言うときだけ詰まるの、やめてくれませんか」
「なッ、そんなことはないぞう」
 普段なら赤くなる神谷さんをからかうところなのだが、今日はそんな気が起きなかった。情報通の神谷さんと話すのは楽しいはずなのに……。
「学校の方はどう? 最近」
 何気ない質問なのに。学校という言葉に心が敏感になっていたのか、とても座っていられなかった。思わず立ち上がる。
「え、どうした?」
「ごめんなさい、ちょっと紅玉さんのとこへ行きます」
「あれ? 紅玉さんって今興業中じゃない? 行って大丈夫?」
 その声を振り切って、母と富江さんに気づかれないように店を出た。コーヒー代は富江さんの伝票につけられているはずだ。

 昨日のことだ。
 放課後、校門の前で久美ちゃんを待っていたとき。突然、背中を強く打たれたような感じがして、一瞬息が止まりそうになった。
「おい、ズロース女」
 声がすると同時に、私の足元に石ころが転がった。
 振り返ると、〈進化途中の猿〉〈肥満児〉〈木製あやつり人形〉と名づけた坊主頭の三人がいて、そのうちの一人がY字型のおもちゃのパチンコを持っている。
 おもちゃとはいえパチンコは人に向けるような道具ではない。ムカッときたが、こういうやつらは相手にするとますます調子にのるはず。そう思い無視することにした。
 しかし、「ズロース」「細目ほそめ」「数学二十点」と坊主頭たちに言われて驚いた。……どうして私の過去の数学の点を知っているのだろう? そんな私の表情を読んだのか、〈木製あやつり人形〉が言った。
「担任の先生が言ってたぞ。野坂碧は数学が二十点だったこともあるって。テテナシゴだからって」
「なんでおまえが数学の点知ってるんだ?」と〈進化途中の猿〉が聞くと、
「あの先生、あんまり生徒から人気ないからさ。こっちから猫撫で声で近づいてくと、すごく嬉しそうにして、なんでも教えてくれるぞ」
「さすが世渡り上手」
 男子たちの会話を聞きながら気分が悪くなった私は、込み上げるつばを飲み込んだ。
「……何点でも関係ないでしょ? もうやめてよ、どうして私ばっかり……」
 そこまで言うのがせいいっぱいだった。
 男子は「テテナシゴ」と言うとき、先生の悪意のある表情を真似していた。それに数学の点を勝手にバラされたことが、胸にふたをしてしまったようだった……。私、どうしたんだろう? いつものように、ぽんぽん言葉が出てこない。
 テテナシゴ、父無ててなし子――。
 後で自分で調べてわかった。父親がいないことの何が悪いんだろう? 戦争でお父さんを亡くした人は他にもいる。どうして私ばっかり――。
「だって、先生が言うんだからしょうがないだろ」
「そうだ、先生は正しい」
「だからおまえが悪い、ズロース女」
 彼らに背を向けて歩き出した私は、突然どんと後ろから鞄のような何か重たいものをあてられた。脱力し油断していた私は前に倒れ、右のひじを擦りむいてしまった。
「今の転び方、おもしれェ」
 あははははは、と三人の高笑いが聞こえてくる。
 ――碧、学校では先生の言うことをちゃんと聞いて勉強するのよ。
 母の、噛みしめるように言っていた言葉を思い出す。
 もう久美ちゃんを待ってなどいられなかった。一人で歩いていると石をあてられた背中が「痛いよう」と言い出した気がして、「私の背中、ごめんね」と思った。次は右のひじが「痛い痛い」と主張する。れた傷口から血がにじみ、ジャリがめり込むように張りついていた。
 公園の水道で傷口を洗っていると、急に情けなくなってきて、涙がにじんだ。でも、街のみんなに心配させたくない。それにいじめなんてへっちゃらな自分でありたい。お母さんだって、つらいことがあっても黙って働いている……。
 商店街へ入るまでには元気な顔に戻さないと――。
 蛇口から出る水で、傷口より、むしろ顔を何度も洗った。

 ポンパルを飛び出した私は、昨日の出来事を思い出し、早歩きしながら怒っていた。
 名クロの神谷さんはさっき、富江さんに言えば赤チンを貸してくれるなんて言っていたが――、そんなもの借りたら心配症の富江さんのことだから、必要以上に大騒ぎするに決まっているじゃないか。それに自分がよかれと思って与えたズロースが原因で、私が男子たちから怪我をさせられたなんて知ったら彼女を傷つけるかもしれない……。
 私はもやもやする気持ちに追いつかれないよう、商店街を走った。アーケードの高いところには、皇太子のご成婚を祝う大きなテニスラケットの飾りがぶらさがっている。
「ああ、忙しい忙しい」
 という大げさな声に私は足を止めた。
 同じ中学の同級生、はらみどりが店先にあふれる客を複数の店員とともにさばいていた。彼女の隣には小さなおばあさんがくっついている。
「もう一人のミドリちゃんじゃない? 何してるの?」
 名前が同じなので、原さんが自分のことを「大須商店街の表のみどり」と言いふらしているのは前から知っていた。つまり私は彼女からすると、「裏のみどり」ということになるらしい。
 原さんの家はかつら屋さんをやっている。ここ数年の「懐古ブーム」に乗って日本髪のかつらは人気となり、彼女のお店は大繁盛しているようだった。
「走ってただけ」と言うと、あははと原さんは愉快そうに笑った。
「そんなのどう見たって這いつくばってるようには見えないわよ。どう? うちの店。今年の大須商店街の売り上げナンバーワンになれると思わない?」
 確かに、日本髪のかつらが並んだショーウインドウには大勢の人だかりができていた。店の奥では何人もの職人さんがかつらを結っている。
「ほら、もう自分の髪を結うって時代じゃないでしょ? 忙しい家庭の主婦は髪を短くして、それで年末年始のお行事では和服にかつらをかぶるのがツウなわけ」
「この人たち、みんな買いにきてるの?」
「まさか。新品はひとつ三万以上もするのよ」
「三万円!」
 昭和三十四年の今、大卒の初任給は一万三千円、サラリーマンの平均月収でさえ一万七千円くらいだと名クロに載っていた。
 私の反応を見て原さんは満足そうに目を細める。彼女はしっかりした生地のワンピースにエナメルの立派な靴をはいている。原さんは背が高いので、私は見下ろされる格好となった。ちなみに私は少しテカテカした制服姿。
「まあ、もちろん新品も売れるんだけど、うちは貸しかつら屋もやっているし、一度買ったものを結い直してほしいっていうお客さんにも対応してるの。お商売はいろんな種類のお客さまに合わせていけないとダメだわ。ねえばあや」
「おっしゃる通り、おうちゃくはいけません」
 白髪を結い上げた和服姿の小柄なばあやが調子を合わせた。原さんが生まれる前からこの店に仕えている女中さんだと聞いている。
「そういえば碧ちゃん。あなた、この前担任の先生に頭を叩かれていたわね」
 ぎくッとした私は肩をすくめた。いつの間に見ていたのだろう。悪いことをしたわけでもないのに、私は原さんの口から出てくる次の言葉が怖くて仕方がなかった。
「あの先生……」原さんは何か意味を含めるように笑う。
「家庭訪問とか言ってうちにきたときは何時間もうちの店に滞在なさって、どんどんやってくるお客さんを見て『なんてすばらしいお店なんでしょう』って何度も褒めてくださったの……。私、うちの学校ではあの先生がいちばん好き。あなたいったい何をしたの? あんな優しい先生を怒らせるなんて」
「おっしゃる通り、おうちゃくはいけません」
「おうちゃくなんか、してません」
 私はばあやに言い返し、原さんをにらみつけた。
 でも……それ以上何も言えなかった。テテナシゴと吐きつけられた記憶が蘇ると、私は強制的に何も考えられない状態になってしまうようだった。
「さよなら」と言って私は早歩きした。それから短距離走のごとく突っ走る。私は原さんと比べものにならないくらい貧しいが、走るのは私の方がずっと速い。ちょっとお金持ちだからってなんだ。
 そうして息が切れたところで、とぼとぼ歩きだす。暗い気分に押しつぶされそうだ……。やっぱり、ズロースとは無関係で、同性で、「その程度のことで」と笑ってくれそうな年上の人に相談してみようか――たとえば紅玉さんのような……。
 ポケットに入れていた梅ジャムを口のなかに絞り出し、その甘酸っぱさに目を細めながら見上げたところが、ストリップ劇場「大奥」だった。
 店の前の看板に「花電車がやってきた! 大須の舞姫・紅玉」と書いてある。
 ……花電車? ストリップ劇場の花電車ってなんのこと?
 うす暗い劇場の受付に座るおばちゃんに頭を下げると、
「碧ちゃん、紅玉は舞台にあがったばっかりだから控え室に行ってな」
 と言われた。入場料は七百円と書かれているが、控え室しか行かない私は顔パスになっている。
 控え室では三人の踊り子さんが出番を待っていた。紅玉さんより先輩の踊り子さんは薄着のままで、「あら、いらっしゃい」と言って、他の踊り子たちとしゃべったり、たばこを吸ったりしている。

 三年前、ストリップ劇場「大奥」ができたばかりの頃、劇場の前で踊り子さんが大きな声で呼び込みをしていたことがあった。
「明日の晩から開店だよ」
「きてねェ」
「健全なストリップ芸の店ですよォ」
 久美ちゃんと歩いていた当時小学生だった私は、陽当たりのいい劇場の前に立つ彼女たちに釘づけになった。
 きらめくスパンコール、ふわふわの羽のマフラー、高さ十センチはありそうな赤いエナメルのピンヒール、肌にぴったりと吸いつくような紫のサテンのワンピース……。
 私は、やめなよと言って止める久美ちゃんを振り切り、「わあ、わあ、わあ」と騒ぎながら駆け寄った。「きれ―――い」
 私が叫ぶと、踊り子さんはきょとんとしていた。目のまわりを黒く縁どったり、わざとくちびるを厚く見せるような塗り方や、ちょんと塗ったニセぼくろは、舞台の上ならちょうどいい塩梅あんばいなのだろう。が、おひさまの下で見ると少し滑稽だった。
 滑稽のるつぼみたいなこの街で過ごしてきた私は、たぶん彼女たちが醸し出す滑稽さと相性がよかったのかもしれない。
「あら、かわいいお客さんだこと」
「大須の客第一号ね」
「あんた、あたしたちのことが怖くないの?」
 今度、きょとんとするのは私の方だった。「なんで?」
 仕事でも主婦業でも、何でも一所懸命やっている人はみんなえらい。性別も関係ない。そう母から教えられていたからだ。
「お化粧とか、興味あるの?」
 と話しかけてきたのが紅玉さんだった。水色のドレスに同色の透けた生地をまとい、竜宮城の乙姫のようだった。私が頷くと、彼女はすばやくスカートをまくり、太ももにバンドで留めていた口紅を取り出した。それを私のくちびるに塗り、さらに自分の指先に取ったものを私の左右の頬にちょんちょんと置いてぼかしてくれた。
「んー、ぱッ」と紅玉さんがやるのを真似、私もくちびるをこすり合わせ、ぱッと開ける。差し出された手鏡をのぞくと、酔ったように頬が染まり口紅を塗った私がいる。いつの間にかそばにきていた久美ちゃんも、一緒に鏡をのぞき込んでいた。
「大須ってのは変わったところだねえ。こんな小さな子が、私たちを見てみぬふりをしないってのが……、なんとも変な感じがするよ」
「そういうことがあったの?」と私が聞いた。
「しょっちゅうさ。こんな仕事をしてるとね、店にくる客と昼にばったりと会ったりするだろ? すると慌てて目をそらされたりしてさ」
「そうなんだ……。でもきっとこの街は違うよ。私もね、よその街から移り住んできたの。だけど私のことだって受け入れてくれたもん。ここはなんでもアリのごった煮の街だもん」
 紅玉さんは何も言わず、私の頭を撫でると笑っていた。

(第4回につづく)



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プロフィール

麻宮 ゆり子
(まみや ゆりこ)

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。