双葉社文芸WEBマガジンカラフル

双葉社ホーム

知られざるわたしの日記 南 綾子

イラスト/黒猫まな子
バックナンバーボタン

第 9 回


六月十二日

 本当なら、昨日は人生最良の日になるはずだった。
 しかし気づけば、人生最悪とはいわないまでも、ここ五年で考えてもっともみじめで情けない日になった。
 さっき、その残骸であるみじめパンツを捨てた。よっぽどボロボロにならない限りめったにパンツを捨てないわたしには、かなりの英断だったといえる。そういう意味でみじめパンツであり英断パンツであったといえる。
 そんなことは、どうでもいいんだ。
 一昨日の夜、わたしは現場で最大限の興奮を得るための下準備として、自分に自慰を禁じた。固く、コンクリートレベルで固く禁じた。もし守れなかったら罰として自分で編集した傑作エロ動画DVD集をベランダからばらまいてしまおうとまで考えていた。とにかく、わたしはパンツを五重にはいて寝た。今は梅雨どきで、かなり蒸してキツかった。寝てる間に自分でもしらないうちに三枚脱ぎすてていた。でも、自慰はしなかった。指一本触れなかった。初めて、自分で自分をほめたいと思います。
 久々に自慰断ちをして、翌朝はすでに欲求不満ブリブリ全開だった。朝食の卵かけご飯の生卵をといている最中、有精卵という言葉を思い出しただけでムラムラしてしまうほどほどだった。三分ぐらいでささっと済ませることも可能だったけど自重した。改めて、自分で自分をほめたいと思います。
 とにかく、AV撮影現場を生で見るには絶好すぎるぐらいのコンディションで、予定通りの時間に家を出て、予定通りの時間にカメラマンと合流し、そして、予定より少しはやく現場に到着した。
 何もかもが順調だったのに、その後、全てがひっくり返った。
 現場はAVでよく見るような、きれいなマンションの一室だった。主演女優の愛沼うぶは去年デビューした単体女優で、小柄な体とあどけない顔立ちに似合わぬSっ気のある過激なプレイが人気だ。女性向けの作品に出るのは今回がはじめてらしかった。取材にあたり、彼女についてある程度の下調べはしてあった。愛沼うぶは一日何度もツイッターにツイートを投稿している。ざっと見た限り、サバサバした明るい性格のようだった。「……だぜ!」とか「……なのかよ!」といったぶっきらぼうな言葉遣いを多用し、愛らしくはかなげな容姿とは違った、ガサツで乱暴な内面をおもしろおかしくアピールしている。そんな彼女の趣味は、お笑い番組を見ること。好きな食べ物はカステラ。前の担当者から、女優には特別に手厚い差し入れをしてチヤホヤしてやるとよい、と聞いていたので、わたしは前日、仕事帰りにデパートに寄って高級カステラを、その後TUTAYAで売れ線のお笑いDVDを数枚購入した。本当に久しぶりに「領収書をください」と口にした。なんだか少し誇らしくて、そして照れ臭かった。
 出迎えてくれたのはマネージャーの酒井さんという韓流アイドルみたいに髪をピンクにしたイケメンだった(会った瞬間、この人が出ているAVが見たいと思った自分を心の中で殴打した)。スタッフさんと男優さん用に買ってきた差し入れを渡し、そのあと、女優の控室に通された。愛沼うぶはこちらに背を向けて、鏡台の前に座っていた。バスローブ姿だった。ヘアメイクの若い女の子が、彼女の黒くつやつやした長い髪に櫛を通していた。
 わたしはドキドキしながら「はじめまして」と頭を下げた。その「はじ……」ぐらいのタイミングで、「やだあ」と女の大きな声に遮られ、ぎょっとした。
「やだあ。その人、だれー。しらない女とか入れないでよー」愛沼うぶは抑揚のない声でわめいた。そして鏡ごしにわたしをチラッと見ると、芝居がかったしぐさで頭を抱え込み、しくしく泣きだした。
 すかさず、メーカーのイケメン酒井が忍者のように音もたてずにやってきて、彼女をなだめはじめた。やさしい言葉をかけたり背中をさすったりしていたけれど、愛沼うぶはわたしが撮影に立ち会うことを決して認めなかった。イケメン酒井が何度も「『担当さんは女性だよ』って前から話してあったじゃない」と言っていたから、彼女の単なるわがままらしいことはよく理解できた。メイクさんやADさんも「またかよ」みたいな顔をしていた。男優のマンモス柳川がバスローブ姿で現れ、「AVの撮影現場って、こんなことは日常茶飯事ですよ」と耳元でやさしくささやいてきたときは、「あかん、今ので妊娠した」と思った。イケメン酒井が撮影時間ぎりぎりまで粘って愛沼うぶと交渉し、結局、わたしは現場に立ち会うことは許されたものの、アイマスクを装着してヘッドホンで音声だけ聞く、という形式で取材することになった。
 人前でアイマスクをして耳からエロい音声を聞く仕事。アイマスクを着けた瞬間、さすがの三十六歳変態処女のわたしでも、情けなさを感じずにはいられなかった。もしかして自分はAV女優よりも破廉恥な姿をさらしているのではないかとすら思った。しかもエロ音声を聞いているうちに興奮して股間がジュンジュワ〜としてきて、それがますます情けなさとみじめさとバカバカしさに拍車をかけた。すぐにパンツは手洗いが必要なレベルに達した。しかし、家に帰ってこのパンツを手洗いすることは考えられなかった。情けなさすぎて情けな死すると思った。だから帰ったあとは何よりもまっ先にパンツを脱いで、ゴミ箱に捨てたのだ。とにかくわたしは情けなくてみじめだった。
 撮影は夕方頃に終わった。その後、一時間ほどインタビューする予定だったけれど、愛沼うぶが不機嫌マックス松浦でとても無理だった。最後まで、わたしとは一切目を合わせようとしなかった。そのわりに、カステラとお笑いDVDは礼もいわずちゃっかり持って帰り、その後ツイッターで「雑誌の編集さんからの差し入れ♪」などと見せびらかしていたのだから、普段は仏の一子といわれるわたしでもさすがに腹をたてざるをえない。
 ハア。
 ため息が止まらない。
 はりきっていた取材で、失敗した。エロ音声の記憶だけで何を書いたらいいのか。やっぱり自分には、編集者なんて無理なんだ。きっと経験豊富な編集者やライターだったら、それなりにうまく立ち回って、もう少しマシな結果になったのだろう。こちらがもっと強く抗議したってよかったのかもしれない。わたしは何にもできなかった。思春期の娘に「ジジイ死ねよ」と言われてしまったお父さんみたいにおろおろするばかりだった。
 どうしてわたしは、いつもこうなってしまうのだろう。ソツなくこなす、ということが人生で一度もできたためしがない。ソツ。そつってなんだ。どこにある。どこにいったら手にはいる。いや「ソツなく」なんだから、ソツがあったらダメなんだ。わたしはどこにソツを抱え込んでいるんだ。尻の穴の中か。指でギョウチュウの卵と一緒にかきだしてやろうか。くそ。泣きたい。でも泣けない。今日は三回自慰しよう。股間から火がでるぐらいこすりまくってやる!

六月十三日

 会社に行く気力がわかず、ひさびさにずる休みしてしまった。
 昨日の日記の最後の部分、我ながらだいぶアレだな。きてるな。でも消さないからな。わたしの生きた証だからな。でも、もし自分の祖先が日記にこんなこと書いているのを見つけてしまったら、わたしはそいつの墓に卑猥なマークを描きにいくだろう。油性の極太マジックで。

六月十四日

 はあ。
 いやだ。
 なんで、こうなってしまったんだろう。
 今日、会社にいったらカニ山さんに呼び出され土曜日に愛沼うぶのプロダクションにいき、インタビューをやりなおすように命じられた。
 あちら側から申し出てきたらしい。「だからお前は堂々として、ただ普通に自分の仕事をすればいいんだ」と珍しくやさしい言葉をかけてくれた。
 しかしカメラマンはナシ。社内にある操作が一番簡単なデジタル一眼を持って、たった一人でいかなければならない。しかも土曜日だ。せっかくの休みなのに。今週の土曜日はハマチ子とカラオケにいったあと、焼肉食べ放題にいってカルビ百枚食べるつもりだったのに。
 人生は修行。今、まさにそう思う。
 憂鬱だ。
 あー憂鬱だ。
 憂鬱だ。
 わたしのことを嫌っている人間に会いに行く。嫌っているかもしれない、ではなく、確実に嫌っている人間。これ以上の憂鬱な行為はあるだろうか。テレクラに電話して最初に出た男とホテルにいくほうがマシだ。子供のころから人に嫌われ慣れているくせに、わたしはいまだに、新たに知った人からあからさまな嫌悪を向けられるのが怖い。どうしてこんなにもつらく、苦しいのだろう。縄文杉レベルで神経が太いハマチ子はよく「他人にどう思われてもいいじゃない。別に死ぬわけじゃあるまいし」などと言っている。その通りだと頭ではわかっている。でも、気にしてしまう。嫌われたくない。人から否定されたくない。あの、冷たい目。バカにしたような目。ゴミムシでも見るような目。あの目つきで見られると、死んだほうがマシだという気持ちになる。認めてくれとは言わない。ただ否定だけはしないでほしい。わたしのことを好きになってくれなくてもいい。ただ嫌いだと思わないでほしい。例えるなら、ちくわ。ちくわみたいな人間になりたい。好物だという人はあまりいなくても、嫌いだという人もめったにいない食べ物、ちくわ。憧れる。ちくわ先輩、マジぱねえリスペクトっす。
 ハア。
 なんか今、失踪したい。若人あきらみたいに失踪したい。
 とにかく胸が重い。カニ山さんと話してからずっと、ため息ばっかり出る。若人あきらもあの頃はため息ばっかりついていたのだろうか。

六月十五日

 やっぱりテレクラで会った男とやるのは嫌だわ。はじめてがテレクラはちょっと……。

六月十六日

 リスペクトをこめて、今日久々にちくわを買ってきた。きゅうりを穴に刺して味噌マヨネーズをつけて食べた。旨いことは旨い。でもその旨さの九割八分ぐらいは味噌マヨネーズの功績だと思われた。味噌マヨネーズのことは今日、より好きになった。でもちくわの評価は変わらない。好きでも嫌いでもない。きゅうりのことは元からちょっと嫌いだ。青臭いし栄養がなく、ほとんど水分で、食べてもなんの得にもならず、むしろ咀嚼のためにつかった体力がもったいない気にさえなる。でもほかに何をちくわに刺したらいいのかわからないから、仕方なくきゅうりを買った。
そして今日、やっぱりわたしは、ちくわみたいな人間になりたい、そう思った。誰の邪魔もしない。否定もされない。自分のしらないところで意味のよくわからない理由で嫌われたりしない。そう、たとえばきゅうりのように。きゅうりだって悪気があって栄養が少ないわけじゃない。でもきゅうりを嫌いだという人が少なくないことをわたしはしっている。それに比べてちくわの人畜無害感。ただ黙ってそこにいることを許される存在。
 ちくわ。
 わたしはちくわになりたい。

六月十七日

 今日ずっと、ちくわのことを考えていた。
 本当に、わたしはちくわ人間でいいのだろうか、ということ。味噌マヨ的な道を探るのが、これからのわたしが進むべき人生なんじゃないだろうか、ということ。
 いやいや、味噌マヨ的な道ってなんだよ。自分で書いててよくわからない。疲れすぎて頭がまわらない。
 ああ、やっと一週間が終わった。明日は愛沼うぶのインタビューだけど、夕方前には終わるから、そのあとハマチ子と焼肉食べてからカラオケいくことにした。朝まで歌いたおして、日曜日は死んだように寝たい。
 来月の新サイトアップにむけ、来週はますます忙しくなりそうでイヤになる。しかも総務課も派遣社員がいきなり二人もやめたので、総務課のある六階とカニ山さんがいる二階をいったりきたり、上へ下へてんやわんや。同じてんやわんやでも「後ろから前から」だったらよかったのになあ。ハア。セックスしたい。そんなことはともかく、今日も会社で十一時過ぎまで原稿書いたり、ライターさんと打ち合わせしたり、社内の文房具の発注をしたりしていた。毎日本当に疲れる。時間があっという間に過ぎていく。ハッ。もしかして。わたし今日、晩御飯食べてなくない? 八時過ぎにカニ山さんにもらったビーフジャーキーで空腹をごまかしたきり、何にも食べてなくない?
 ああ、でも、でも、なんだかとても眠いんだ。パト……パト……あの犬の名前なんだっけ? パトリック? え? なんか違くね?
 まあいいか。
 寝よう。

***
 午後一時五十五分。約束の時間の五分前。
 はあ憂鬱だ。そして空腹だ。寝坊してご飯食べる時間が一秒もなかった。
 さっきイケメン酒井からメールがきて、プロダクション近くの喫茶店へ向かうように指示された。会社見学気分だったので、楽しみが減ってがっかりだ。
 もたもた歩いているうちに、目的地についた。そこは昔ながらのレトロな感じの店だった。イケメン酒井と愛沼うぶは、一番奥まった席で横に並んで座っていた。二人とも、随分カジュアルな格好をしている。うぶなんてジャージだ。フルーツパフェを暗い顔でつついている。
 わたしはおずおずと会釈して正面に座った。すると、イケメン酒井がいきなり彼女の頭をこつんと小突いた。
「おい、挨拶しろよ」
 ヤカラ丸出しの言い方。前に会ったときの好青年ぶりとは正反対。けれど、その二面性がまた韓流アイドルを彷彿とさせ、とっさに「私を抱いてそしてキスして」と言いそうになったけどなんとかその衝動を抑え、黙っていた。うぶはすねたような上目づかいでこちらを見て、「こんにちは」とつぶやいた。
「こんにちは、じゃねえだろうが。この間の非礼をわびろよ」
「この間は……すみませんでした」
「こいつ、調子乗ってんすよ、マジで。あの、なんでも答えるんで、好きなようにインタビューしてやってください」
 最後にもう一度うぶの頭を小突き、イケメン酒井はいらだたしげに席を立つと去っていった。
 うぶは鼻をすんすんとならしながら泣いていた。いや、こりゃ泣いているふりをしているだけだな。なんだか急にバカバカしい気分になってきた。もういいや。インタビューなんてうまくいかなくたって、いーじゃんいーじゃんおならプーだ。わたしは彼女を無視してウエイトレスを呼び、ミートソーススパゲティとオムライスとカキフライとクリームソーダを注文した。
「……実はさっきの彼と付き合ってるんです、あたし」ずっと黙りこくっていたうぶが、唐突に口を開いた。「あのさっきの、ピンク色の髪のマネージャー」
「でしょうね」とわたしはテキトーな気分で答えた。
「え、知ってたんですか?」
「いや、知らなかったけど、そうなのかなあって」
「なんでですか? どうしてわかったんですか?」
「いや、なんとなく、としか」
「彼、周りにほかのスタッフがいるとマネージャーらしくヘコヘコしてるくせに、二人のときは怒鳴ったり、殴ったり、ひどいんです。わたし、別れたいんです。どうしたらいいと思います? やっぱり別れたほうがいいですよね?」
 めんどくせえ。あまりに面倒くさくて、もう何も言えなかった。すると、うぶは勝手にぼそぼそと身の上話を語りはじめた。
 そもそも、彼女を街でスカウトしたのが、あの酒井だったらしい。最初は断った。高額なギャラを提示されても断った。その頃、彼女は二十歳年上のタクシードライバーの彼氏と付き合っていて、結婚も考えていたからだ。ちなみにその彼氏との出会いはもちろん彼氏のタクシーに乗ったことがきっかけで、距離はワンメーターだったにもかかわらず、降りる頃には付き合うことになっていたというからびっくらこきまろ。そんなことがこの東京で、いやこの日本で、いや地球上で起こりうるのか。わたしだったら百億回タクシーに乗ってもそんなことにはならないだろう。まさにミラクル。目と目が合ったらミ〜ラク〜ル。そういえば小学生の頃、生まれ変わったら牧瀬里穂になって真田広之とセックスしたいなあと思っていた。実際そういう妄想しながら生まれて初めての自慰をした。小四の秋、自慰の秋。なんで真田広之だったのか、自分でもよくわからない。そんなことはどうでもいいんだ。とにかく、うぶはその時点ではAVに出る気などみじんもなかった。しかし、タイミングよくタクシードライバーに多額の借金があることが判明。頼れる友人もいない彼女は、酒井に相談の電話をしてしまった。彼はすぐに会いにきてくれ、そしてそのままホテルへ連れていかれ、ハメ撮りされた。その三日後には、契約書に拇印を押していたという。
 話の流れは理解できた。しかし、わたしにはわからなかった。なぜ酒井のようなチンピラ男に電話をかけたのか、なぜハメ撮りを黙って許すのか、なぜあっさり契約書に拇印を押すのか。飲み込めない。この話、つきたての餅より飲み込みづらい。ジジイかババアだったらのど詰まらせて救急車呼ぶレベル。
 わたしがよほど険しい顔をしていたのだろう。うぶはフッと自嘲気味に息を漏らすと、言った。「お股のゆるい女だって思ったでしょ? あたしのこと。見下されて当然だもんね」
 いや……お股固すぎカッチカチ女よりは、人生を謳歌している感じがしていいと思いますけどね? わからないのは股のゆるさじゃない。いやそれもわからないといえばわからないけど、わからないよりもうらやましいが上回る。わたしは心底理解できないのは……その……いくらなんでも頭悪すぎじゃね? ってことなんだけども。ほら、わたしって高学歴の才媛じゃない? 高校模試の国語で全国五位にもなった女でしょ? だから理解できないのよ、おつむの弱い女の行動原理が。 
 そんなことを考えつつ、でもわたしは、彼女に親しみのようなものも感じはじめていた。まあ確かに、うぶは頭が悪い。たぶん偏差値も低くて、援助交際が蔓延しているガラの悪い女子高とか出ているのだろう(ものすごい決めつけ)。そしてわたしは高学歴の才媛だ(二回目)。そこはまったく否定できないけれども(強く主張)、なんとなく、彼女が抱えている後ろ暗い何かを、自分もほんの少し、いやだいぶ多く、持っているような気がした。
 それはきっと多分。
 自分に自信がない、ということ。
 他人に受け入れてほしいのに、受け入れられる気がちっともしない。こんな自分なんて、誰も好きにならない。そばにいてほしいと思わない。そういう考えが、頭と心に頑固なカビ汚れのようにこびりついてはがれない。わたしは他人に否定されるのが嫌だから、お股も精神も石レベルにカッチカチにして身を守っている。うぶはお股を今流行りのゆるふわにして、男の要望をすべて受け入れる戦法をとっているだけだ。
 どちらが正しいとか、マシだとかいう話じゃないのだと思う。多分どっちもそれなりに正しくない。
 いや、セックスしてる分、うぶのほうがマシかも……。
「あたしね、プロフィールでは十九だけど、本当はもう二十五なの」うぶはもう溶けてドロドロになったフルーツパフェを、フォークの先でツンツンつついている。「今までの人生、こんなことばっかり。いつも男にだまされてる。でも女友達もいないの。なんでかっていうと、友達の彼氏をとっちゃうから。あたしはそんなつもりは全然ないの。でも気づくとそうなっちゃう」
 黒目がちでバンビみたいにうるんだ瞳。ぽってりとした唇。透き通る白い肌。男がほっとかない女って、こういう女なんだろう。話を聞いているうちに、わたしだって誘えばBぐらいまではやらせてもらえるような気さえしてきた。
「あたしって、バカなんだ。家族にもバカバカって言われる。うちって、無駄に金持ちなんだよね。自慢じゃないよ? あたしには何の得もないから。お父さんは医者で、お兄ちゃんも医者。弟は医学部学生。あたしだけバカ。子供のときからバカ。お母さんは専業主婦だけど、本人はお嬢さん高校出てるとかよく自慢してた。でも、あたしのバカはお母さんに似たんだと思う。そのお嬢さん高校も裏口入学だよ。とにかくあたしはバカなの。家族大嫌い」
「うちと、似てるかも」
 思わず、そう言ってしまった。
「えっ?」
「うん……。うちも父親が医者やってる。歯医者だけど。自分でクリニックも持ってる。母親は元モデルで、母親にそっくりな妹は、東大出てテレビ局に就職して、今は政治家の息子の奥様やってる。今度、そいつが出馬するんだって。この間、二年ぶりぐらいに母親から電話かかってきたよ。迷惑かけるような変なことは絶対しでかすなって言うだけのためだけに。まるで今まで迷惑かけたことがあるみたいに。別に何にもしてないのに」
「あたしなんてAV出てるのバレて、家族の縁を切られたよ」うぶは吐き捨てるように言った。「勅使河原さんの妹は、美人で頭がいいんだね。姉妹って憧れだったけど、自分より何もかも上の姉妹とか、いやだなあ。病んじゃうかも」
「しかもうちの妹が最悪なのは、性格もいいこと。家族で妹だけが、わたしにやさしいの。でもそのやさしさが、キツイっていうか」
「わかる。その気持ち、超わかる。ほっといてほしいよね。わかる。わかりしかない。だってやさしくなんかされたら、こっちはいつも悪者になっちゃうもん」
「……ありがとう」
 自然とその言葉が、口をついて出た。
 妹とのことで、わたしの味方になってくれた。そんな人間は、彼女がはじめてだった。鼻の奥がジンとした。うそ。わたし泣きそう。そのとき、うぶがそっとわたしの手に手を触れた。
 我々の間に、今、間違いなくいい感じのバイブスがうまれていた。二人でユニットを組んでガールズラッパーデュオとして全米デビューしたいという気持ちが急激にこみあげてきた。
 そのとき、うぶがハッとした顔になった。バッグの中でスマホが振動しているようだった。
「彼からだ」
「彼って酒井さん?」
「うん。インタビューをちゃんとやってるか、確認の電話だと思う。ちょっと、外で出てくるね」
「待って。出ないで。ちょっと待って」
 わたしはうぶの手首を押さえ、しばらく考えた。そして聞いた。「ねえ、二人が付き合ってることって、会社の人はしってるの?」
「え? どうしてそんなこと……」
「いいから、答えて」
「内緒だと思う。ていうか、マネージャーが女優に手を出すのは、一応NGでバレたらクビだから」
「そういうことね。オッケー、了解」
 そうこうしているうちに、電話が切れた。
「やばい、どうしよう。かけなおさなきゃ。電話出ないと、超キレるのあいつ」
「いや、だから待って。……ちょっと、三分だけ練習させて」
「練習?」
 わたしはうぶに背中を向けた。そして「生麦生米生挿入」と繰り返し言いながら練習した。なんとなく、うまくできる気がしていた。案の上、ほんの数回で完璧になった。わたしはまた正面を向き、うぶからスマホを奪った。
「え、ちょっと」
 着信履歴から酒井の電話にかけなおす。すぐに「おい!」と怒声が聞こえたので、練習した通り、うぶの声を真似ながら「ご、ごめん」と答えた。
 完璧だった。そっくりだ。さすが、わたし。さすが、大学二年のとき、素人ものまね番組のオーディションに合格したわたしだ(なぜか伊知郎に猛反対されて、結局番組には出なかった)。
 酒井はこちらがうぶの偽物だとは全く気づかなかった。電話の向こうで、「てめー、電話にはすぐに出ろっつってるだろ! 何やってんだよブス!」などと喚いている。「おい、オメー、ちゃんとインタビュー受けてんのかよっ。また出版社からクレームきたら、今度こそぶっころ……」
「しらねーよ!」
 うぶの甘い声音をキープしつつ、偏差値三十以下の女子高生をイメージしながらわたしは思い切りよく言った。
 途端に、電話の向こうが沈黙した。間髪入れず、「しらねーっつってんの!」とさっきより大きな声で言った。
「お、おま……」
「あたし、もうマジぶち切れたから。あんた、エラソーな口いつも利いてるけど、自分の立場わかってんの? あたし次第で自分のクビが危ういこと、理解できてる? あたし、あんたが思ってるほどバカじゃないからね。バカなふりしてただけだから。これからはもっとマネージャーらしく振る舞えよ」
「ケイコ、どうしたんだよ」
「どうしたもこうしたもねーよ。ブチ切れたっつってんの」
「あのデブの編集者に何か吹き込まれたのかよ」
「うるせー! お前だって頭頂部少しハゲてるくせに! あとそのピンクの髪の毛、似合ってねーぞ」
 ケイコとはうぶの本名だろうか。とりあえず、酒井は電話の相手がデブの編集者だとは、今のところ少しも気づいていないようだ。
「とにかく、あたしたちは今日から、ただの女優とマネージャーの関係になるの。わかった?」
「ちょっと、あとで話し合い……」
「あんたと話し合うことなんか何もないよ。最後に一つ言っとくわ」
 わたしはうぶの目を見つめた。そのくりくりした大きな目は、不安そうに揺れていた。
「もうお前とはセックスしない! 以上」
 電話を切った。うぶにスマホを返す。
「こんなこと……」うぶは涙目でふるえていた。「こんなこと頼んでない。どうするの!  死んでやる!」
 店中に響きわたる声で叫ぶと、そのままBダッシュで去っていった。
 うちの新人のなんとか萌といい、精神が不安定な女はどうして一方的に何かを叫んで去っていくのか。ハマチ子も男に「わたしたちって付き合ってるの?」とか聞いて思うような答えが得られないときなど、「もういい!」などと叫んで走り去ったりしているようである。そんなことをやったところで男の気持ちを引き付けられないことぐらい、この間、電車の中で「ぷうううう〜」と子犬の鳴き声みたいな屁をこいてしまった三十六歳変態処女のわたしでもわかるのに。
 そんなことを考えながら、運ばれてきたカキフライなどを食べていると、トントンと後ろから肩を叩かれた。
 うぶだった。ぽってりとした唇をかみしめ、怒っているような照れているような顔で、こちらを見下ろしている。
 しばらくして、彼女はつぶやいた。
「わたし、友達いないんです」
「……は?」
「友達になってください」
***


(第10回につづく)



バックナンバーボタン

プロフィール

南 綾子
(みなみ あやこ)

1981年、愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18 文学賞」大賞を受賞。
主な著作に『ほしいあいたいすきいれて』『ベイビィ、ワンモアタイム』『すべてわたしがやりました』『婚活1000本ノック』など。最新刊『ぬるま湯女子会、38度(ときどきちょっと熱い)』は好評発売中。