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知られざるわたしの日記 南 綾子

イラスト/黒猫まな子
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第 11 回


七月二日

 一昨日開封した太からの長いラブレターを、この土日にじっくり読んでみた。二日も時間がかかってしまったのは、探していたからだ。膨大な文字数の中から。愛の言葉を。そりゃもう、日常に疲れ切ったOLが帰りの電車で空席を探すときより必死で探した。マジで。マジで探した。でも、見つからなかった。そしてわたしは、認めざるをえないところまで追い込まれた。
 これは決して、ラブレターではないということを。ていうか手紙ですらない。
 この分厚い紙の束に、もっともふさわしい言葉。それは――台本だ。
 十二本からなるコントの台本。うぶが言っていた。太は元お笑い芸人志望だと。まあ、中身はそれなりにおもしろかったと思う。不覚にも何度か噴き出してしまった。問題は、なぜこれをわたしに送りつけてきたのかということだ。真剣に考えてみたけれど、「送り先を間違えた」あるいは「送るものを間違えた」以外の答えを見いだせなかった。
 でも、そんなことは、もうどうでもええねん。そやねん。今夜のわたしは幸せやねん。ハッピハッピーやねん。三原じゅん子は今頃、あの結婚を後悔しているのかなあ。そんなことはどうでもいい。
 とにかく。
 今夜。
 ていうか、ついさっきまで。
 わたしは、人生ではじめて、合コンなるものに参加していたのだ。
 昨日の晩、ちょうど太の台本を読んでいるとき、ハマチ子から電話がかかってきた。合コンの幹事をやることになっているけれど、人数が集まらなくて困っているという。もちろん、即答で断った。というか、今までも何度か同じような誘いを受け、そのたびにつっぱねてきた。合コンなんて、自分の肛門からタンポポ生えてきたっていきたくない。そもそも、わたしなんかがそんなものに参加したって、男たちに他人のKUSOを見るような目で見られるだけだ。それに、着ていく服もない。
 すると、ハマチ子が言ったのだ。「今回はあんたレベルでも大丈夫だから」と。相手の男幹事はハマチ子の高校の同級生で三十八歳のコールセンター勤務の契約社員、年収300万円台、それをバカ正直に女友達に話してしまったせいで、誰も参加してくれないのだそうだ。しかもそいつはワキガらしい。
「向こうはもう、女だったら誰でもオッケーって感じだから。あんたは実家も金持ちだし、貯金も相当ため込んでるし、相手の年収とか気にしないでしょ? それにあんた、あんまり鼻がきかないじゃん? 大学時代、トイレでお昼食べてたって言ってたよね?」
 ああイヤだとわたしは思った。本当に本当にデリカシーがない。多分、生まれる前に父親の睾丸の中にデリカシー関連のものをすべておいてきたのだと思う。そんなことはともかく、ハマチ子の指摘はあながち間違ってはいないのも事実だった。確かにわたしは、高学歴で高収入のいわゆる高スペック男を特別視はしていない。大学の同級生にその手の男が多く、そいつらが軒並み選民意識丸出しクズ太郎ばかりだからだ。鼻がきかないというのは自分ではよくわからないけれど、人より匂いに鈍感かもしれないと思ったことはある。しかし、大学時代トイレで弁当を食べていたことは全く関係ない。
 問題は、相手がわたしを嫌がらないかどうかだ。そのハマチ子の同級生なら、本当に大丈夫かもしれない。そう思った。最近のわたし、なんかいろいろ調子いいし。やせたし。
 そんなわけで、つい「じゃあいくわ」と言ってしまった。 
 そして今日の夕方、家にある服の中で一番マシなTシャツとジーパンを着て出かけた。
 場所は新宿の焼肉屋。人数は三対三のはずが、女性側も男性側も一人ずつドタキャンした。
 ハマチ子の「できるだけ奴の体臭をごまかせるように焼肉屋にした」という配慮が効を奏したのか、あるいはわたしの嗅覚がやはりバカなのか、幹事のワキガマンのスメルオブワキガはそれほどでもなかった。でも、トイレにいくとき横を通ったらやっぱり少し匂った。ついでにいうとワキガマンがつれてきた歯茎紫色マンもなんかちょっと臭かった。
 ワキガマンと歯茎紫色マンは同じ職場の同僚らしかった。歯茎紫色マンは二十八歳の派遣社員で、バツイチで前妻のところに五歳と二歳の子供がいる。結婚していた頃は新小岩でホストをやっていて、源氏名は「クン2丸」(クンツーマルと発音するらしい)。頭が悪すぎて客とまともな会話が成り立たず、それをカバーするために色恋営業を仕掛けまくったら、最終的に刃傷沙汰になって足を洗ったそうだ。
 歯茎紫色マンのことはどうでもいいのだ。
 重要なのはワキガマンだ。
 ワキガマンは、童貞丸出しだった。
 あとでハマチ子に、彼は童貞なのか聞いてみた。「えー、さすがにそれはないんじゃない?」などと言っていたけれども、やっぱりわたしは彼は童貞だと思った。いや、もしかしたらプロフェッショナルな女性によるなんらかの性的サービスは受けたことがあるのかもしれない。そこまではわたしにも判別できない。でも、日々の暮らしの中で、自然ななりゆきで異性と親しくなり、密室で二人きりになる機会を得て、裸で抱き合い互いの性器〜SEIKI〜をアレしてアレしたことは一度もないのではないだろうか。いや、絶対にない。どうしてそんなに自信を持って言えるのか、自分でもわからなかった。自分と同じ匂いがした、なんて表現はあまりに陳腐で手垢にまみれていてイヤだけれど、でも、そういうことなんだろうか。
 わたしは気づくと、彼に好感を抱いていた。
 小太りで地味な顔、白髪の目立つ髪にくたくたのポロシャツ。ジーパンは色あせて膝が伸び伸び。しかもワキガ。好きになれそうな要素は一つもなかった。とにかくわたしの好みと全く違う。おっさんという時点でマイナス五億点だから、そもそも。でも、わたしの目を見て、ちゃんと話を聞いてくれた。わたしを一人の人間として認めてくれているのが伝わってきて、うれしかった。ハマチ子がK−POPアイドルの話題を持ち出し、それについ乗っかってしゃべってしまったときも、嫌がらずに面白がって聞いてくれた。
 好感を抱いた理由は、それだけじゃない。それだけじゃないけれど、ほかに何かと問われても、うまく答えられない。ただ、素直な気持ちで、彼と友達になれたらいいなあと思った。
 勇気がなくて、連絡先は聞けなかった。ところが、焼肉屋で彼らと別れ、その後ハマチ子と居酒屋で飲み直しているとき、彼からハマチ子へ「一子さんの連絡先を教えてほしい」と電話がかかってきた。
 わたしの連絡先をしりたがる男性が、この世界にいた。信じられない。わたしの連絡先を知るぐらいなら、北の将軍の好きな寿司ネタでも知ったほうがマシというのが人情というものではないだろうか。
 ああ、嬉しい。そしてそして! さっき彼からメールがきて、食事に誘われてしまった。 
 こんな日が自分に訪れるなんて! やっぱり最近、明らかに人生が変わりつつある。日記を書きはじめたのがよかったのだろうか。きっとそうだ。日記を書くようになってから、自分のことをよく考えるようになった。考えたくないことも、ちゃんと。それが前向きな行動につながっている気がする。前は嫌なことに直面すると、さっさと目をそらしてエロ動画を見て自慰してすべてなかったことにしていた。それじゃあダメなのだ。同じところをぐるぐる回るだけで、先に進めない。まあ、今でも毎日エロ動画は見ますけど。一生見続けますけど。
 処女を捨てるためにこの日記を書きはじめた。相変わらずわたしは処女のままだけれど、なぜかほかのことがうまくいきだした。でも、それも悪くない。こんなふうにいろんなことに前向きに取り組んでいけば、いずれ、きっと、処女喪失も夢じゃないはず。
 そうか?
 本当にそうか?
 そんな簡単にいく?
 まあ、いいか。 
 そうなったときに考えよう。
 そして、太のことは忘れてしまおう。
 AV男優なんて、わたしにはハードル高すぎた。この間、朝起きたら口の中でわりとでかめのハエが死んでいた三十六歳の処女のわたしには、童貞でワキガで非正規雇用の三重苦の男ぐらいがちょうどいいのだ。身の丈。身の丈って大事だと思う。
 あのとき、カラオケ屋で、太との間に生まれたCHEMISTRY。そのことに、半端な夢のひとかけらもなかった。自分でも何が言いたいのかわからなくなってきた。寝よう。

七月五日

 新サイトがアップされた。わたしのAV潜入ルポはかなり評判がよく、ほかの記事と比べてもダントツのアクセス数で、ツイッターなどで話題になっているらしい。AVメーカー側から、自社の作品を取材してほしいという依頼もあったと聞いた。
 ふう。時代がやっと、わたしに追いついたようだ。ていうか遅い、遅いよ時代。国会の牛歩戦術かっていうぐらい遅い。
 ワキガマンと、あれから毎日メールのやりとりをしている。このわたしが。男性と毎日連絡をとりあっている。その事実だけで、うれしくてうれしくて、気づくとニヤニヤしてしまう。仕事中もそんなだから、今日カニ山さんに「お前最近、小沢一郎みたいな顔でニヤついているときあるけど何? 儲け話でも聞いた?」なんて言われてしまった。カニ山さんは寂しい、悲しい人だ。幸せを金にしか結び付けられない。恋。恋のよろこびをしらないのだ。まあ、わたしもつい最近までしらなかったんだけどさ。
 わたしが一日をどんなふうに過ごしたか、気にしてくれる男の人がいる。それがどれだけうれしく、安心した気分にさせてくれるか、この歳になってはじめてわかった。
 今週の日曜、食事にいくことになった。さっきネットで、上下あわせて八千円近くするブラとパンツのセット、それからデブが隠せそうな形の一万円の花柄ワンピースを買った。明日はそれに合う靴を買いに行く予定。……カニ山さんから誘われたときは、下着に金を使うのさえあれほどイヤだったのに。これが恋の力というやつか。

 ……そうか? 
 本当にわたしはワキガマンに恋をしているのか?
 恋をしたことがないから、わからない。

七月七日

 ガガガガーン。さっきワキガマンから電話があって、「急な出張が決まったから、約束を来月に延期したい」と言われてしまった。来週から他県のコールセンターで研修講師をすることになり、週末をつかって資料を読み込むなどの準備をしたいそうだ。正社員昇格のチャンスらしい。準備だったら資料を読むよりそのスメルオブワキガをどうにかしたほうが、何より研修を受ける人々のためになるんじゃないだろうかと思ったけれど、言えなかった。
 ……未来の彼女として、言うべきだったかな、やっぱり。ハマチ子によれば、夏の昼間の彼のスメルは、鼻が曲がるを通り越して鼻がトリプルアクセル成功しそうなレベルだそうだ。それは大変だ。そして心配だ。今からでも、彼の家にデオドラント製品を差し入れにいくべきだろうか。でも、家にいったらセックスすることになるかもしれない。童貞でも男は男。そして男はオオカミ。さらに今夜のわたしは腋毛ボンバー。処理するのめんどくせえし、まあいいか。

七月十日

 ちょっと、意味不明な事態が発生した。
 今日、太が会社にきた。
 わたしは取材で出かけていて、総務課の派遣社員が対応してくれた。太は本名が記載された名刺をおいていった。連絡がほしいと言付けていったらしい。
 家に帰ってきて二時間、名刺をちゃぶ台の前に置いたまま、わたしはまんじりともせず座っている。
 電話かけるべき? かけるべきだよね? でも、スマホを握ろうとすると、なぜか手が電マみたいに振動するんだけどどうしよう。ていうか、そうだ。電マといえばお気に入りの電マのコードの接続部が前から勝手にねじれて切れそうになってたんだけど、この間使ってるときついに切れて火が出てぶっ壊れたんだった。あのときはマジでびびった。角度的に自分の股から火が噴いたように見えたから。ついに自分の体で火を起こす方法を発見した、これでいつ無人島に放置されても困らないと思った。とにかく、新しいの買わなきゃ。忘れてた忘れてた。アマゾンアマゾン〜。

 そんな場合じゃねえ。バカかわたし。電マじゃなくて電話だ。つーか電マなんか太にくれって言えばいくらでももらえるんじゃないか。あいつAV男優なんだから。
 そんなことはどうでもいいんだ。電話かけなきゃ。ああダメ。緊張する〜。何を話せばいいのだろう。いや、連絡をほしがっているのは彼なんだから、彼に全てまかせればいいのだ。
 よし! かける!

 ふう。
 電話、終わった。
 三分ぐらいで終わった。
 明後日、仕事終わりに彼と会うことになった。
 え、マジ?
 これって要は……デートじゃね?
 マジ? わたし、明後日、AV男優とデートするの? これさ……まず絶対セックスする流れじゃん? 誰だってそう思うじゃん? わたしの尻の中にまだ住んでいるかもしれないぎょう虫だって確信してるじゃん? AV男優とデートしてセックスしない確率は、街中で小沢一郎に遭遇するよりも低いはずだ。これは科学的にも証明されている。
 とととととりあえず、明後日まで、自慰禁しようかな。ちょうど電マも壊れていることだしな。まあ電マ以外にもエロ道具はフリマ開けるぐらい(しかも最低三回)持ってるんだけどな。

***
 最悪だ。
 ハマチ子だ。なんであいつ、こんなところにいるのだろう。
 わたしは忍者を意識したすばやい動きでいけふくろうの陰に隠れた。遅かった。確実にバレたくさい。聞き慣れた笑い声がだんだん近づいてくる。
 やがてわたしは観念し、いけふくろうの陰から顔をのぞかせた。
 やはりハマチ子だった。こちらをまっすぐ指さし、「お前を蝋人形にしてやろうか!」みたいな顔をしてこちらに近づいてくる。
「あんた何その格好! ダッサ!」
 そう言って、いつもの高笑いをした。もちろん今日のわたしは、先日購入した花柄ワンピースとサンダルを着用している。
「何? 今日、あいつとデートなの? 延期になったって言ってなかった? ていうかなんでそんなおしゃれしてるのに、髪の毛くしゃくしゃでノーメイクなわけ?」
 何も言い返せなかった。やっぱり、ヘアメイクをきちんとしてくるべきだったのだ。でも、自分でやったらまた高校一年のときのように戸愚呂兄になってしまうかもしれないと思い、そうなるぐらいだったら何もしないほうがマシだと判断してしまった。
 ハマチ子は得意満面でわたしをののしり続ける。わたしは牛すじのコラーゲン部分のようにぷるぷる震えながら、ひたすら恥辱に耐えていた。
 そこへ、太が現れた。
 太はわたしとハマチ子を、戸惑うような顔で見比べていた。ハマチ子が太の正体に気づいたのかはわからない。太は前回と同様、小汚い格好でオーラを封印していた。しかし、よく見ると結構なイケメンだと気づいたのか、ハマチ子は急に態度を変え、彼に媚びを売りはじめた。人見知りの太のことだから拒絶するだろうと思ったのに、口のうまいハマチ子の強引なペースにあっけなく乗せられ、太のリュックにぶら下がっているどこかの地方のゆるキャラ人形について、二人で勝手にわいわい盛り上がりはじめた。調子に乗ったハマチ子が「お二人でどこへいくんですか〜。わたしもちょうど一人でご飯食べようと思っていて〜」なんて言っている。太は当たり前のように「一子さんに相談事があって。お友達なら、一緒にどうですか」と答えた。最悪だ。そうして気づくと、三人で前回と同じカラオケボックスの個室にいた。
 ハマチ子は腹が減ったと言って、一人で勝手にたこ焼きだのレモンサワーだのを注文した。わたしは彼の前で豚みたいに食い過ぎないよう、前もって家でカップラーメン三個食いしてきた。とりあえず、ハマチ子のことは完全無視することにした。
 太の隣に座り、「な、何か、う、うたう?」と聞いてみる。
「送ったホン、読んでくれた?」
 太は言った。
 一瞬、何のことかわからなかった。少しして、この間送りつけてきた台本のことを言っているのだと気づいた。
「あ、まあ。はい」
「おもしろかった?」
「あ、うん」
「どこが? どの部分がおもしろかった?」
「……えーっと。二番目のコントがおもしろかった」
 テキトーに言っただけなのだけど、太は子供みたいに頬を緩ませた。
 それから太は、なぜ今、夢だったお笑い芸人ではなくAV男優の仕事をしているか、柔らかいだろうと思って口に入れた肉がありえないほど固かったみたいな苦み走った顔をしつつ、語りだした。

 太少年がお笑いに目覚めたのは、物心つくかつかないかの保育園児の頃。テレビで志村けんを見て、彼こそが自分の神様だと確信した。それからずっと、将来の夢は「お笑い芸人」のまま、一瞬でもぶれることはなかった。
 そして十八歳の春。太青年は高校を卒業してすぐ、念願だった有名プロダクションのお笑い養成所に入所した。そこで出会った、年上の女性とコンビ結成。彼女は当時ですでに三十五歳を越えていて、しかも体重は百キロ近くあり、元ソプラノ歌手兼元看護師という異色の経歴の持ち主だった。二人の役割分担は太がネタ作りとツッコミ、相方はボケと歌とダンスとプロレスだったそうだ。コンビ名は「雨犬」。
 はじめは養成所内でも全く目立たない地味でさえない二人だった。少しずつ、太のネタや相方の個性的なキャラクターへの評価が高まり、やがて、同期の中で一番期待が持てるコンビだと言われるようにまでなった。
 太は、相方のことを芸人としてとても尊敬していた。こんな天才とコンビが組めて、自分は世界で一番幸せだと仲間たちにもよく話していた。
 しかし相方は反対に、太を普段から邪険に扱い、ときには暴力も振るった。「お前より面白いネタが書けるやつが見つかれば、すぐにのりかえてやるのに」と毎日のように言われていた。
 それには理由があった。太は、人前に立つのが極端に苦手だったのだ。
 練習のときはうまくやれても、人前に立つと機械仕掛けのような動きになって、しゃべりもうまくいかない。養成所で講師や仲間の前でネタをやるときでさえそうなのだ。客前だとなおさらだった。人並みはずれて器用な相方のおかげで毎回なんとか成り立っていたものの、相手が違えば素人以下の悲惨な出来になっていたのは間違いなかった。
 どうして、苦手なのか。
 一つ、心当たりがあった。
 それは少年時代までさかのぼる。太は近所の盆踊り大会の踊り手ボランティアをやっていた。子供たちの代表として櫓に乗って踊るのだ。普通、友達の視線などを気にして、年頃の少年はそういうことは嫌がるもの。ところが、太は毎年その日が楽しみで仕方がなかった。なぜなら、美人と評判で町一番の踊り手だった八百屋のおかみさんのエロすぎる浴衣姿を、狭い櫓の上なら、触れそうなほど近くで見られるからだ。
 小五の夏もそうだった。櫓にあがると、太はすばやくおかみさんのすぐ後ろのポジションを確保した。やがて、おなじみの東京音頭が流れ、櫓の上で組んだ輪が回りだす。おかみさんの、子持ちの中年女性独特の洋なしのようなフォルムのケツが、目の前で左右前後に、ユッッサユッサと揺れはじめる。たまらなかった。このケツを見ながらご飯百杯食べられると思った。ふいに、これまで感じたことのない、せつないようなくるしい感覚が、腹の奥からつきあげてきた。 
 あ、と思ったときには、ほとばしっていた。
 精が。
 精なる液が。
 はじめての精なる液が。
 ほとばしっていた。
 自分が事態を把握するより前に、どこからか声が飛んできた。
「おい、お前! ションベンもらしてね?」と。
 同じ櫓の上にいた、二歳上の中学生だった。ちょうど、踊り手たちで組んだ輪の反対側にいた。中学生は当たり前のように踊りを中断して太に近づいてくると、腰を曲げて太の股間をガン見した。しばらくして、眉をつり上げ、驚いた顔で太を見た。次の瞬間、急に駆けだしたかと思うと、櫓の縁に乗りあがり「おい! みんな!」と叫んだ。
「あいつ、イッちゃってるよ! 射精射精!」
 その後のことはあまり覚えていない。気づくと、大勢の人が櫓を囲んでこちらを見上げていた。そのほとんどが、地元の小学生と中学生だった。自分の同級生の姿も見えた。かけがえのない仲間だと思っていた友達が、こちらを指さして笑っていた。かわいいなと思っていた隣のクラスの女の子が、鼻をつまんでゴミでも見るような目で自分を見ていた。やがて、町内会の係員のおじさんがやってきて、太は櫓の上から降ろされた。家に帰った後、それまでの人生で一度も嗅いだことのない妙な臭いを放つ浴衣とパンツを庭で燃やしたような気がしているけれど、定かではない。
 夏休みの間は、一歩も家を出なかった。それでも、新学期がはじまる頃には、みんな忘れているだろうと楽観的に考えてもいた。同級生全員があの盆踊り大会にきていたわけでもない。
 九月一日。少しびくびくしながら登校した。校門の前で、顔も知らない六年生の男子がニヤニヤしながら近づいてきて、言った。「お前がザーメンマン?」と。
 教室では、クラスメイトの男子全員から指をさされ笑われた。女子はもう目も合わせてさえくれなかった。卒業して遠くの私立中学に逃げるように入学するまで、その屈辱的すぎるあだ名で呼ばれ続けた。
 その一件以来なのだ。人前に立つと頭が真っ白になって、自分が自分でなくなってしまう。コントロールできない。それまで夢中になっていたサッカーも、試合のときに観客がいると全くの役立たずになってしまうのでやめた。
 それでも、お笑い芸人になりたいという夢だけは、あきらめられなかった。なんとか克服しよう、とずっと苦しんできた。養成所に入り、どれだけ失敗を重ねても、やっぱりあきらめきれなかった。
 ところがあるとき、決定的な失敗をしてしまう。
 よりによって、養成所の卒業ライブでのことだった。
 それは、プロダクションに所属できるかどうかのテストも兼ねられていた。練習通りやれば、合格は可能なはず。ネタの面白さと、相方の動きには自信がある。問題は自分。その頃、アマチュアのお笑いコンテストを探して出場したり、路上ライブをやったりと、できないなりに自分を鍛え上げていた。少しずつ、マシになってきているような気もしていた。
 ところが、本番当日。舞台に立った瞬間、すさまじい緊張のせいか、今までにないぐらい、体がいうことをきかなくなった。
 セリフはすべて飛んだ。自分がどこにいてなにをしているのか、全然わからなかった。ただ、目の前に相方のデカすぎるケツがあった。相方はピッチピチの蛍光ピンクのレオタードを着用していた。エアロビ教室が設定のコントだった。練習のときはいつもジャージだった。レオタードになった途端、そのエロさは破壊的なまでに増していた。その姿で、腰を曲げ、こちらにケツを突き出し、「あワン、あツー」となまめかしい声を出しながら激しく踊っている。ケツが揺れる。川を流れる大きな桃のように、ドンブラコと揺れる。そのたびに、レオタードがグイグイと割れ目に食い込んでいく。太はただ黙って、それを見ていた。自分の下腹のあたりがムズムズとうねる。
 いかん。そんな場合じゃない。俺は今、自分の長年の夢がかなうかどうかの瀬戸際にいるのだ。自分に言い聞かせる。しかし言い聞かせるほど、下腹部のうねりはなぜか激しくなる。これは、まずいパターンだと気づいた。普段から、刺激を与えずとも想像だけで果ててしまうことがよくあった。なんとかこのうねりをしずめなければと、頭の中で母親の裸を思い描いてみた。
 効果はゼロだった。
 その次に、父方の祖母の裸を思い描いてみた。
 やはり、効果ゼロ。
 そのとき、相方が片足を大きく振り上げた。レオタードがさらに食い込んでもはやTバック状態になった。その瞬間、自分の口から「ああ」と世界に絶望したかのようなため息がもれるのを耳にした。エロすぎた。もはや非人道的なまでのエロ。ジェノサイド・エロ。国際裁判所に突き出すべきエロ。その数秒後、慣れ親しんだ強い快感が股間を突き抜けた。
 観客たちはその少し前から、全く微動だにせずにいる太と、明らかに怒張している太の太に異変を感じ、かすかにざわめいていた。エアロビ教室の生徒役だった太は、同じくピッチピチのレオタードを着用していた。誰が見ても何もかも丸わかりだった。しかもレオタードの色はうすいグレー。グレーの衣類は汗ジミを浮き上がらせてしまう。汗ジミが浮くんだから、精なるシミも浮くのが当然のこと。観客は精なるシミにすぐに気付いた。ざわめきが大きな波となる。
 そこでやっと相方が異常事態を察知し、太を振り返った。そしてふくらんだ股間と精なるシミを目にして、瞬時に鬼のような形相となった。数秒後、すさまじい平手打ちが太の頬に飛んできた。
 そのまま、気を失った。目をさますと、控え室のベンチに横になっていた。周りには誰もいない。遠く、舞台のほうから、仲間の誰かが浴びているに違いない観客の笑い声が聞こえてきた。そして太は、その場をひっそり立ち去った。自分をとりまく何もかもから逃走して、姿を消した。

「それから……」と太は、まるで昨日のことのようにがっくりうなだれながら話し続ける。「養成所もやめて、芸人仲間とも縁を切った。バイトもせずに家に引きこもって、毎日AVばっかり見てた。こんな状態になっても、性欲だけは衰えない自分が情けなくて、毎日泣きながら一人でやってたよ。バカみたいだよね。でも俺、基本的に最低一日一回は抜いとかないと、昼過ぎぐらいにはたってきちゃうんだよね。あ、そんなことはどうだっていいか。へへへ。……で、あるとき、こうなったらいっそAV男優になろうかと思いついたんだ。俺みたいに性欲で自分の夢を台無しにしてしまったやつには、ぴったりの仕事かもしれないと思って。最初はバイト感覚だったけど、自分で思ってるよりずっとこの仕事に向いてたみたいで、気づくと本業になってた」
 AVの撮影のときは、まわりに人がいてもさほど緊張せず、演技やその他もろもろのことができるそうだ。「あの現場では、俺は俺じゃないから。完全に俺じゃない別の人間になりきってる」と自嘲気味につぶやいた。
 彼の話を聞きながら、わたしは戸惑っていた。この話をわたしにする意味があまりにわからなくて。ハマチ子がさっきから西野カナをうたいながら太に熱視線を送っていることにも戸惑っていた。
 なんなの? やっぱりわたしのことが好きなの? そういうこと? 自分の過去をまるごと受けて止めてほしいということ? じゃあわたしもキャンボツ・ティクビのこととか打ち明けるべき? インのモウに白いやつが交じってることとか? あとハマチ子はバカなの? 刺すぞ?
「今の仕事、嫌いなわけじゃないんだ。自分をここまで育ててくれた業界だし、悪く思いたくない。でも、毎日毎日、少しずつ体のどこかが削られていくような、そんな感覚もあって。売ってはいけないものを、売り物にしているような気持ちというか。俺は性欲強いし、女の人も好きだけどさ。だからこそ、セックスを売り物にしている自分が、恥ずかしいようなそんな気持ちになる。本当は、好きな人とだけしたい。本来の俺は、そういう人間なんだよ。親にも、堂々と話せないし。いや、職業に貴賤はないんだって、自分には言い聞かせてるけど」太は小さくため息をつくと、声を一層低くした。「……今の自分は、恥ずかしい人間なんじゃないかって考えが頭から離れない。将来俺はこういう仕事についているって子供の俺が知ったらって考えると、ものすごく悲しい気持ちになるんだ。仕事中にそんなこと考えちゃうと、使い物にならなくなるから、現場ではスイッチ切り替えて別人になってるけどね。服装も、気合入れるためにホストみたいな恰好していくんだ。だけど最近、もう俺も若くないせいか、そのギャップがきつくて、なんか、ときどき辛すぎて、死にそうになる」
 ハマチ子は西野カナをうたい上げると、床に膝立ちになり、さらに両手を上に差し上げプラトーン的な体勢で「わたしサイコー」と雄叫びをあげた。レモンサワーはもう何杯目かわからない。
「こんな話、他人にしたのは、はじめてだよ。本当だよ。君がはじめてだよ」
 なんだかドキドキしてきた。これは、この展開は、もしかして……。
「でもどうしても、君に知っておいてほしかった。君に知ってもらったうえで、話したいことがある。俺は今、自分の人生を変えようと思っているんだ」
 おお……「だから、これからの俺を君に支えてほしい。結婚してください」とくるわけだね? そうだね? いや絶対そうだ。それ以外に考えられない。どうしよう。いきなり結婚とか困る。ていうか結婚とかわりとどうでもよくて、セフレではダメなんだろうか。セフレなりの支え方もあるはずだ。多分。具体的には何も思い浮かばないけれど。ていうかつべこべ言わず、とりあえず一発やってくれないだろうか。
「俺、やっぱりお笑いやりたいんだ。この仕事をやめて、普通の仕事につくことも考えたけど、その前に、最後に、夢を追いたい。それには、才能のある相方が絶対必要なんだよ。女にモテることしか考えてない、つまらない男はいらない。俺は、これでもネタ作りに自信がある。その俺のネタを、俺の想像を越えるクオリティで演じてほしい。前の相方はそれができた。だから前の相方と同じか、それ以上のレベルの人。そんな人はなかなかいない。けれど最近、ついに出会ったんだ」
 ふいにそのまなざしが、熱く燃えた。太はわたしの両手をとって、骨が折れるほど強く握った。
「それは君だ。君は天才だ。ただ動いているだけで面白い」太はやおらソファを降りると、その場にひざまずいた。
 まるで、プロポーズするかのように。
「僕と、コンビを組んでもらえませんか」
「いやです」
 わたしは即答した。
***


(第12回につづく)



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プロフィール

南 綾子
(みなみ あやこ)

1981年、愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18 文学賞」大賞を受賞。
主な著作に『ほしいあいたいすきいれて』『ベイビィ、ワンモアタイム』『すべてわたしがやりました』『婚活1000本ノック』など。最新刊『ぬるま湯女子会、38度(ときどきちょっと熱い)』は好評発売中。