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極限の婚約者たち 新堂冬樹

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第 9 回


5


 低く流れるクラシックピアノのBGM、シャンパンの栓が抜かれる音、テーブルを温かい光で包むキャンドルライト……代官山のフレンチレストラン「パリジェンヌ」は、目一杯おめかししたカップル達で溢れていた。
 白のシフォン素材のロングワンピース、胸元で舞うティファニーのバタフライペンダント、優雅に煌めくハートのロングピアス……雪美も、周囲のカップルに負けないくらいのお洒落をしていた。
 今日は雪美の二十二回目の誕生日――マスコミでたびたび紹介される人気店を、悠太は二ヶ月前から予約してくれていた。
 その悠太は、正面の席にいない。
 雪美は、スマートフォンの発信履歴を開いた。
 五つ並ぶ名前……一番上の、悠ちゃん、の文字をタップした。
 
 オカケニナッタデンワハ デンパノトドカナイバショニアルカ デンゲンガハイッテイナイタメカカリマセン
 
 三十分のうち、六回目の自動音声の応答に雪美の不安は広がった。
 いったい、どうしてしまったのだろう?
 いままで悠太が、約束の時間に三十分も遅れたことはない。
 ツアーコンダクターという仕事柄、五分遅れるときでも必ず電話をくれていた。
 スマートフォンをテーブルに置いた雪美は、キャンドルライトのオレンジ色の光を虚ろな瞳でみつめた。
 もしかして……。
 広がりそうになるネガティブな考えから、意識を逸らした。
 悠太は一昨日まで、ツアー地新規開拓の視察目的で伊豆諸島の無人島に行っているはずだった。
 昨日の昼には都内に戻ってくると言っていたが、悠太から連絡はなかった。
 今夜のディナーは決まっていたので、視察から戻ってきたばかりでバタバタしているだろう悠太に負担をかけたくなくて、あえて雪美も連絡はしなかった。
 少し我慢すれば、悠太と愉しいひとときを過ごせるのだから。
 誕生日の当日になっても、悠太からの連絡はなかった。
 LINEを送る気持ちの余裕さえなかったに違いない……雪美は、悠太を思いやることで不安から眼を背けていた。
 だが、待ち合わせの七時を大幅に過ぎても現れない現実を目の当たりにしたいま、さすがに楽観的に構えてはいられなかった。
「なにか、お飲み物をお持ち致しましょうか?」
 注文を取りにきたボーイの声に、雪美は我に返った。
「あ……いいえ、平気です。ありがとうございます」
 取り繕った笑顔をボーイに返し、スマートフォンに目を落とした雪美の顔が強張った。
 ディスプレイに表示されたネットニュースの見出しを、雪美は凍てつく視線で追った。
 
『伊豆諸島沖合で漁船転覆 男性一人が意識不明の重体、男性一人が行方不明』

 伊豆諸島の大飛鳥島の沖合で、二日午前十時頃、大飛鳥島漁業組合所有のフィッシングボートが転覆しているのが発見された。
 伊豆海上保安部の発表では、乗船していたとみられる東京都大飛鳥町の同組合員、江藤良夫さん(56)が意識不明の重体、同乗していた東京都渋谷区の旅行代理店勤務、星川悠太さん(27)の行方がわからなくなっており、海上保安部で捜索を行っている。
 星川さんは仕事で大飛鳥島を訪れており、江藤さんとともにツアー地の候補である無人島の飛鳥島に視察に向かう途中だった。

「嘘……」
 雪美は、掠れ声で呟いた。
 行方不明……の文字が、頭の中で渦巻いた。
 星川悠太、二十七歳……。
 同姓同名で同年齢の別人がいたとしても、不思議ではない。
 たしかに、そんな偶然の確率は低いのかもしれない。
 だが、確率はゼロではない。
 ただし、旅行代理店勤務で、ツアー地視察のために大飛鳥島を訪れていたという情報まで一緒という偶然はありえない。
 悠太の乗ったボートが転覆……。
 すぐには、受け入れられなかった。
 そんなことが、あるわけない。
 今日は、自分の誕生日のお祝いに食事をする約束をしているのだ。
 悠太が、約束を破るはずがない。
 この記事は、間違いに決まっている。
 掌に震動が伝った。
 雪美は通話ボタンをタップした。
「悠ちゃん……」
『もしもし? 雪美ちゃん?』
 電話の声の主は悠太ではなく、「ドリームサポート」の佐竹だった。
「あのさ、悠ちゃんが行方不明だってネットニュースに出てるんだけど、なにかの間違いだよね!?」
 雪美は、佐竹の用件を聞く前に縋る思いで訊ねた。
『あ、俺も、その件で電話したんだ……』
 言い淀む佐竹の暗い声が、雪美の危惧に拍車をかけた。
「なによ? 明るいのが取り柄の肥満児君が、死人みたいな声出しちゃって」
 胸のざわめきを押し隠し、雪美は軽口を叩いた。
 とてもそんな精神状態ではなかったが、冗談めいたことを口にすれば、ネットニュースが間違いで、悠太から連絡があるような気がしたのだ。
『言いづらいんだけどさ、間違いじゃない。星川が、行方不明なんだ』 
「またまた〜」
 必死で、佐竹の冗談にしようとした――必死で、悠太の行方不明の記事を間違いにしようとした。
『昨日の午後には飛鳥島から戻ってきて会社に顔を出す予定だったんだけど、音信不通で……さっき会社にも連絡があってさ』
「音信不通……」
 雪美は、声帯が麻痺したように二の句が継げなかった。
『俺も最初はなにかの間違いであってほしいと思ったんだけど……』
 受話口から漏れ聞こえる佐竹の消沈した声が、雪美の不安を現実のものにしようとしていた。
「ちょっと待ってよっ、縁起が悪いわね。まだ、悠ちゃんがどうにかなったって決まったわけじゃないでしょ!? もし……ニュースが本当でも、どこかの船に助けられたかもしれないし、無人島まで泳いで行ったかもしれないでしょ!? 携帯電話は水没して使えないだろうし、だから、私達にも連絡が取れないのよ!」
 雪美は、そうであってほしいという願いを、強い語調で並べ立てた。
 周囲の客の視線が集まったが、気にしている場合ではなかった。
『気をしっかり持って聞いてほしいんだけど、あのへんは黒潮の影響で潮流が速くてさ、とても泳げるような海域じゃないんだよ。それに、ボートが転覆するくらいだから、輪をかけて海も荒れていただろうし……』
 佐竹の声が、鼓膜からフェードアウトした。
 
――たとえ船が転覆しても、泳いで東京に戻ってくるさ。

 震える記憶に、悠太の声が蘇った。
「なんで……」
 雪美は、呟くように言った。
『え?』
「なんで……そんなことを言うの? なんで、悠ちゃんが死んだみたいなことを言うの?」
 雪美は、虚ろな瞳で宙をみつめながら問いつめた。
『死んだなんて、そんなことは……』
「そう言っているのと、同じじゃない!」
 ふたたびの大声に、カップル客の好奇な視線が集まった。
「大変申しわけございませんが、ほかのお客様のご迷惑になりますので携帯電話のご使用は……」
 雪美はボーイの言葉を遮るように席を立ち、レストランを出た。
 なにも注文していないのが幸いした。
 もっとも、フルコースを注文していたとしても、ゆっくりしている場合ではなかった。
『ごめん……俺の言いかたが、無神経だったよ。ニュースでも報じられてたけど、フィッシングボートを操縦していた、江藤さんって漁師が病院に運ばれたらしい。なんとか一命は取り留めたけど、まだ意識が戻っていないそうだ。「現代日本ツーリスト」の菊池洋ってツアーコンダクターがいて、彼は星川の大学時代の一年後輩でさ。その菊池の会社が江藤さんの所属する漁業組合とつき合いがあって……それで、星川に江藤さんを紹介したんだよ』
「そんなことを聞いても、いまさらどうにもならないでしょ!?」
『菊池に会ってみれば? 星川がボートに乗る直前まで一緒にいたし、江藤さんや大飛鳥島近辺の海域についても彼は詳しいし。俺なんかと話しているより、なにか手がかりが掴めるかもしれないよ』
 佐竹の声は、テレビかラジオから聞こえてくるように現実味がなかった。
 いまだに、悠太の乗ったボートが転覆して行方不明になったなどとは信じられなかった。
「悠ちゃんは絶対に……」
 雪美は震える言葉を切り、奥歯を噛み締めた。
 溢れそうになる涙を堪えた。
 涙を流せば……嗚咽を漏らせば、認めてしまうことになる。
 悠太に、なにかがあったことを……。
『雪美ちゃん、察するよ』
「なにが? なにも変わったことは起きてないんだから、変な気は遣わないでいいよ」
 雪美は気丈に言い残し電話を切ると「現代日本ツーリスト」のホームページを検索した。
 
 大丈夫。悠太は生きている。
 
 雪美は祈るような気持ちで、電話番号をタップした。

(第10回につづく)



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プロフィール

新堂 冬樹
(しんどう ふゆき)

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。