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極限の婚約者たち 新堂冬樹

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第 13 回


第二章

1


 心地良い風が頬を撫で、胸が痛んだ。
 抜けるような青空に、胸が痛んだ。
 陽光に煌めくコバルトブルーの水面に、胸が痛んだ。
 
 いま、雪美は一週間前に悠太が目指したのと同じ場所に向かっている。
 だがその時、風は頬を撫でることなく冷たく切りつけ、空も海も不気味な漆黒だったに違いない。
 そして、今日のために菊池がチャーターしてくれたのは、悠太が乗ったタイプより二回りほど大きなフィッシングボートらしい。
 雪美としては悠太と同じ小型のタイプに乗りたかったが、菊池は頑なに受けつけなかった。
 舵を取っているのは、菊池の勤める「現代日本ツーリスト」の取引先である大飛鳥島漁業組合の漁師だった。
 組合員である江藤が舵を取るフィッシングボートが転覆したときに、悠太は行方不明になった。そんな彼を捜しに行くと伝えると、漁業組合は観光用の漁船をプライベートでチャーターするのを快諾してくれた。
 
 待っててね。

 雪美は、胸に手を当てた――クロスのペンダントトップを握り締めた。
「あれが、飛鳥島です」
 菊池が指差す方向を視線で追った。
 黒い島影が、遠方にぼんやりと見えた。
 菊池は一週間前に会ったときのスーツ姿とは打って変わって、デニムに長袖のTシャツというラフな服装だった。
 靴は、登山靴のような底の分厚いものを履いていた。
 雪美も、無人島を歩き回ることを考えて厚手のサマーセーターとデニムにスニーカーというスタイルだった。
 雑木林に入ることも想定して、薄手のサマージャンパーも羽織っていた。
「先輩は、必ずいますよ」
 雪美の胸の内を察したのか、菊池が励ますように言った。
「もちろん!」
 不安を打ち消し、雪美は船乗りのように張りのある声を出し微笑んだ。
 伊豆海上保安部による数十人の捜索隊に加えてボランティアのダイバーは、大飛鳥島周辺の海域と飛鳥島を捜索していたが、悠太は発見されなかった。
 そして、悠太が行方不明になってから一週間目の一昨日、伊豆海上保安部の捜索は打ち切られた。
 ボランティアのダイバーは捜索を続行してくれているが、その数は十人に満たなかった。
 
――いまこの部屋から出たら、親子の縁を切ることになるぞ!?

 脳裏に、達臣の声が蘇った。
 あれ以来、雪美は家に帰っていなかった。
 大学の友人であるかなえのマンションに、居候させて貰っていた。
 
――雪美。あのときはひどいことを口にしたけれど、父さんだって、本音じゃないのよ。心の底では、悠太君のことを心配しているの。ただ、父さんなりにあなたの将来を考えて、あんな言いかたになってしまったのよ。
 
 実家を飛び出してすぐに、真梨子から電話がかかってきた。
 
――心で思っているから、口に出るんだわ。パパなりに考えてくれる私の将来って? パパの言いなりになって会社を継いで、操り人形のように動いて……そんな男の人と結婚することが、パパの理想とする私の将来ってわけ!?
――そんなわけないでしょう。父さんは、いつだって雪美の気持ちを優先して考えているわよ。
――だったら、悠ちゃんが海で遭難して行方不明になっているっていうときに、どうして、あんな血も涙もないことが言えるの!? 普通なら、私と一緒になって悠ちゃんの安否を考えてくれるものでしょう!?
――あなたのことが、心配だったからよ。
――私のことが心配なら、なぜ、行方不明の悠ちゃんを諦めろとか言うのよ!
――だから……こそよ。

 真梨子が、歯切れ悪く言った。

――なにが? 意味がわからない。
――言いづらいんだけれど、万が一、悠太君の身に不幸が起きた場合、あなたが立ち直れなくなるんじゃないかって……父さんは、そこまで考えて、彼と別れるように言ったのよ。

 真梨子の言葉に、雪美は耳を疑った。

――自分を守るために行方不明の悠ちゃんを見捨てろだなんて……信じられない……。
――あなたの、理解しがたいという気持ちはわかるわ。たしかに、父さんのその考えは褒められたものではないしね。でも、親というのは、子供のためにときとして鬼や悪魔になることがあるものなの。子供を守るためなら、自分が恨まれても憎まれても……。
――正当化しないで! パパは間違ってるっ。パパを擁護するママも間違ってるっ。私が悠ちゃんを見捨てて、万が一のことがあったら、余計に立ち直れなくなるのがわからない!? なにより、私が保身のためにそんな薄情なことをする人間だと思うの!? 今回、行方不明になったのが悠ちゃんじゃなくて私だったら? 同じようなことを言える!? 言えないよね!? パパもママも、自分の家族さえ無事だったらいいのよ!

 雪美は、激しく真梨子を非難した。
 達臣が悠太と別れろと命じているときも、真梨子は庇ってくれた。
 いつだって、真梨子は雪美の側に立ってくれる。
 電話をかけてきたのも、達臣を擁護するためではなく雪美の身を気遣ってのことだとわかっていた。
 
――悠太君との交際に父さんがどれだけ反対しても、母さんが絶対に説得してあげるから。だから、自棄を起こしたり無茶をしないで。心の整理が付くまで、家に戻ってこなくてもいいし大学も休んでいいわ。悠太君を、捜しに行くんでしょう?
――うん。止めても無駄……。
――止めたりしないよ。その代わり、母さんに三つだけ約束して。一つ、メールでもいいから日に一度は連絡をすること、二つ、食事や体調には十分に気をつけること、そして最後は……。

 真梨子が言い淀んだ。

――心配しないで。自棄を起こしたりしないから。それに、必ず悠ちゃんを連れて帰るから。ママは、どうやってパパを説得するかを考えてて!

 雪美は、努めて明るい口調で言うと電話を切ったのだった。
 今回の件で、真梨子は達臣と大喧嘩になるだろう。
 普段から雪美の外泊に厳しい達臣が、一週間も二週間も家を空けるなど許すはずがなかった。
 しかも、自分が交際に反対している悠太の捜索に行くという理由でだ。
 だが、達臣から連絡がないのは、真梨子がになってくれている証だった。

「堀越さん、間もなく着きます」
 菊池の声で、雪美は回想の扉を閉めた。
「ねえ、私、かわいい?」
「え!?」
 不意に雪美に訊ねられた菊池が、目を白黒させた。
「私、魅力的?」
「えっ……」
 一度目の問いかけよりどぎまぎとする菊池を見て、雪美は気づいた。
「なに勘違いしてるのよ? 今日はほぼノーメイクできちゃったから、悠ちゃんと会ったときにどう見えるか心配で聞いただけよ!」
「あ、ああ、そうですよね……も、もちろん、魅力的ですよ」
 強張った笑みを浮かべた菊池が、しどろもどろに言った。
「あっ、なんか、言わされている感が満載じゃない?」
 雪美は、すかさずツッコミを入れた。
 陽気な自分、勝気な自分……いつもの自分でいたかった。
 陰気になることも弱気になることもない。
 悠太と、もうすぐ会えるのだから……。
「そ、そんなことないですよ……僕は、お世辞は言いません」
 うろたえる菊池を見て、雪美は口もとに微笑みを湛えた。
 心の中で叫ぶ不安の声を、掻き消すかのように……。
 凸凹の岩場が、ふくらはぎに疲労を蓄積させた。
 上陸してからしばらくは砂浜を歩いていたので、なおさらだった。
 飛鳥島は、見渡すかぎりの砂浜と切り立った岩場と雑木林が広がっているだけのな景観だった。
 陽射しが、東京よりも強かった。
 暑くはないが、肌がチリチリとした。
 恐らく、紫外線が強いのだろう。
 波と風の音……あとは、地面を踏み締める雪美と菊池の足音しか聞こえなかった。
 ざらついた呼吸が、他人の呼吸のように鼓膜で反響した。
 凸凹の道を歩いて僅か十五分そこそこで、雪美の息は上がった。
 東京では電車移動が中心で、しかも、舗装された道以外歩くことは滅多にない。
 雪美は、自分のひ弱さを痛感した。
 都会で便利な暮らしをしているうちに、自然で生き抜く能力が退化してしまったのかもしれない。
 実際、この島に取り残されてしまったら、雪美は三日と生きてゆけないだろう。
 悠太は……。
 抑え込んでいた危惧の念が、急速に膨張した。
 悠太が行方不明になって一週間が過ぎた。
 いままでは、海で溺れていないかだけを懸念していた。
 だが、都会暮らしに慣れているのは悠太も同じだ。
 しかも、悠太は怪我をしている可能性が高かった。
 岩場の亀裂に足を取られた雪美は、バランスを崩した。
「危ないっ」
 菊池が、咄嗟に雪美の腕を掴んだ。
「ありがとう」
「大丈夫ですか?」
「ええ。それより、本当になにもないところね」
 雪美は、息を弾ませつつ言った。
「星川先輩が、これから観光地にしようと目をつけた未開の地ですからね」
「こんなところ、本当に観光地にできるの?」
 雪美は、訝しげに訊ねた。
 荒涼としている大地が、観光地になった光景を想像できなかった。
「危険生物や火山噴火の危険性がないと立証できれば、町に開発事業の申請をします。なので、島は見栄えよくなりますが、問題は大飛鳥島から飛鳥島に至るまでの潮流です。もともと潮の荒さが問題視されてきましたが、今回の……」
 雪美と並び歩いていた菊池が、しまった、とばかりに口を噤んだ。
「いいよ、気にしなくて。悠ちゃんの乗ったフィッシングボートが転覆したから、余計に印象が悪くなったんでしょう?」
「まあ、今回の事故で許可が下りなくなるのは間違いありません」
 それからしばらく、無言で歩いた。
 相変わらず、岩場や砂浜が続くばかりの代り映えしない光景が続いた。
 島を周回し始めて、まもなく三十分が経つ。
 人間どころか、猫一匹、鳥一羽も見当たらない。
「もうすぐ、一周するよね?」
 雪美は、平静を装い訊ねた。
 まだ、終わらないでほしい……もっと、島が広大であってほしい。
 雪美は、心でそう願いながら歩いた。
 歩く速度を落とした。
 ゆっくり歩いたところで、飛鳥島の面積が広くなるわけではない。
 わかっていた……わかってはいたが、島に悠太がいないという現実を受け入れたくはなかった。
「まだ、雑木林も残ってますから」
 雪美の心を察したように、菊池が言った。
 そう、まだ、島全体の半分を見ただけに過ぎない。
 雪美は、心で己に言い聞かせた。

(第14回につづく)



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プロフィール

新堂 冬樹
(しんどう ふゆき)

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。