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猫でござる〜江戸にゃん草紙 柏田道夫

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蚤取のみり屋おたま脇ばたらき
その三〜化け猫騒動

 ウギャニャンという猫の叫びに混じって、いろんな声やら音が混じり合っている。両国広小路りようごくひろこうじ見世物みせもの小屋じゃないかと思うほどにここは騒がしい。
「おい、その色じゃねえ。あいだ、濃いやつ」
「先生、伊場屋いばやさんから使いが来てます。彫りが待ってるんで急いでくれって!」
「うるせえ、待たせておきやがれ!」
「あ、クマきちの野郎が、版木はんぎで爪いでる!」
「ばかやろう! クマを叩くやつがあるか! 版木をそんなとこに置いとくお前が悪い!」
「かいいなあ、姉ちゃん、早いとここいつを頼まあ」
「はい、ちょいと順番で、待って下さい!」
 と猫を追いかけながらお玉が答える。
 ようやくキジトラの、ええっと、こいつはカンタだったか、を捕まえて、お玉は縁側に置かれた湯を張ったたらいにじゃぶりとけた。
 カンタはこの家にいる十数匹の猫たちの中でもかなり凶暴で、お玉の手からなんとか逃れようと暴れる。
 そこは猫の蚤取り屋の看板掲げているお玉、逃がしはしない。首根っ子を右手でがっちり固めて、左手で尻尾しつぽの付け根を押さえて、ぬるま湯が全身に染み込むまで動かさない。
「うめえもんだな。おめえらも見習え。カンタをこんな風に扱えるやつは一人もいねえぜ。姉ちゃん、うちの女中にならねえか? 猫の世話係ってことで」
「それはちょいと……」
 お玉は首を横に振る。
「無理か、残念だな。ま、ここに居着く女中ってのもいねえんだがな」
 夏が近いのにどてらを引っかけた先生が筆を掲げてにやりと笑う。そのふところに抱かれたままの三毛がフハアとあくびをする。
 歳は四十なかば。髪に一筋二筋白いものが混じっているが、顔の色艶いろつやもよく、働く男の力が全身にみなぎっている。それでいて、切れ長の眼で笑われると、猫でなくとも女はのどを鳴らしてすり寄りたくなるに違いない。
 歌川国芳うたがわくによし
 今、江戸では一、二を争う人気絵師だ。みなぎる力と艶、この人なつこい笑いが、そのまま国芳の描く絵に表れ、人を魅了するのだ。
 ここは国芳の画房で、五人くらいの年齢もばらばらの弟子たちがいて、自分の絵を描いたり、師匠の描く下絵に色をつけたり、お茶を入れたり、猫の世話をしたり。
 そう、猫。
 絵を描く仕事場なのに、猫が人の数より多い。お玉が聞いた時は、「十匹くらいじゃねえか」と国芳先生が言ったが、「出入りしているのもいますから」とお弟子さんが付け加えた。
 国芳は猫好きで知られているし、猫の絵もたくさん描いている。そういえば、お玉が猫の蚤取り屋をしながら、ついでに売っている鼠除ねずみよけの絵は国芳が描いたものだ。
 画房にはいつも猫がいると聞いていたけど、まさかこんなにいるとは。
 国芳は順に猫たちを紹介した。
「あれがブチナマ、こいつがバンショウミケ、あの黒いのがナマズ、並んで寝てるのがアカとドラまる。跳ねてるのがカンタ、一番でかいのがクマ吉。あの子猫がダンジュウロウ、眼がでけえのが似てるだろ?」
「はあ、市川団十郎いちかわだんじゆうろうに?」
「おい、シロタロウはどこ行った? また家出じゃねえよな」
「シロタはこの時刻は見まわりですぜ」
「そう言ってたら、アチキはいなくなったんだぜ」
「先生、もう五年も前ですぜ。アチキはもう歳でしたから」
「分かっちゃいるけどよ。あ、蚤取りの姉ちゃんは……名前、ミケだっけ?」
「玉です」
「ハハハハ、そうだ玉だ。蚤取り屋のお玉だった。ぴったりだな。とにかくよ、蚤が増えて往生おうじょうしてんだ。一匹残らず頼むぜ」
 ということで、お玉はせっせせっせと一刻(二時間)以上をかけて猫たちを捕まえては、お湯につけておおかみの毛皮をかぶせて蚤を駆除くじよした。
 昨日まで降っていた雨が上がって、今日は抜けるような青空で、猫たちの身体が乾くのも早い。
「ノラが出入りしているのだと、また蚤が増えますよ」
「おう、来月あたりまた来てくれよ」
「はい」
「代金はそこから持っていけ」
 国芳先生が指した文机ふづくえの向こうにかごがあって、銭が放り込んであった。四文銭が多いが、二朱金やら一分銀も混じっている。そこから十二匹分の蚤取り代を数えて、お玉は巾着きんちやくに入れる。国芳だけでなく弟子たちも自分の作業に没頭していて、お玉の手元も見ていない。なんとおおざっぱな家か。
「あの、これ……」
 お玉は巾着と入れ違いに、懐から四つに畳んだ絵とかわら版を国芳に差し出した。
「お、こいつは知ってるぜ、化け猫殺し」
 かわら版は十日ほど前に起きた凄惨せいさんな事件を伝えていた。髪を振り乱した女が、半分人間、半分猫と化した男に、なたを振り上げ、血が吹き出ているおどろおどろしい挿絵。
 日本橋にほんばしの薬種問屋「大松屋おおまつや」の隠居治左衛門じざえもんが、わび住まいとしていた浅草山谷あさくささんやの家で、下女げじよのお(かねに殺された。ことに至った理由は、飼っていた老猫が、いつしか治左衛門に乗り移り、彼自身が化け猫になってお兼を食い殺そうとしたからだ、と。
 かわら版には格好かつこうのネタで、お上の「かわら版禁止令」にも構わずに、辻々つじつじで売り出されて庶民の耳目じもくを集めていた。
「こいつがどうした?」
 国芳はもう一枚の絵をひろげる。三枚続きの錦絵にしきえで、市村座いちむらざにかけられた『梅初春五十三駅』うめはつはるごじゆうさんえきという化け猫が出てくる演目が描かれていた。三代目の尾上菊五郎おのえきくごろうが猫石の精を演じて、当たり役となった。
 背景に巨大な茶虎ちやとらの猫が画面をおおいい尽くさんばかりにいて、その前に頭から耳が出た菊五郎と、左右に退治せんと構える二人の役者。菊五郎の脇には、頭に手拭てぬぐいいを巻いた斑猫まだらねこが二匹、『猫じゃ猫じゃ』を踊っている。
「わっちが描いたもんだ。ありゃ、こいつは血か?」
 絵の下部に点々と赤黒い染みが散っている。
 国芳が大きな声を上げたので、弟子たちが手を止めていっせいに見る。
 お玉の顔をしげしげと眺めた国芳は、懐に潜り込もうとしていた三毛猫、確か、名前はバンショウミケ、をどけると、ゆっくりと立ち上がる。
「ちょいと、お玉さんと汁粉しるこでも食ってくる」
「先生、伊場屋さんの……」
 一番年かさの弟子が版下絵を掲げる。
「おめえが仕上げとけ。こっちのほうがおもしろそうだ。ネタになるかもだ」
 お、同心の岡倉市平太おかくらいちへいたが言ったとおりだ。食いついた。
 お玉もにっこりと笑って立ち上がった。
 本所ほんじょの国芳の画房を出て、汁粉をごちそうになり、お玉と国芳はその足で夕方間近の吾妻橋あづまばしを渡っている。汁粉屋でお玉はことのあらましを語ったところ、
「おもしれえ、その家に連れてけ」
 ということになった。今から浅草裏の山谷町まで行くと、帰りは夜になりそうだ。
「大丈夫ですか、遅くなるんじゃないですか? 絵とかもせかされてたし」
「おめえが心配することかよ。どうせ注文なんぞ、いつでもたまってるんだ。遅くなったら吉原なかでも寄っていかあな」
「そうですか」
「そういうお玉はいいのか? お、こいつは剛毅ごうきだ、ちょいと待ちなよ」
 いつの間にか呼び捨てにされている。
 国芳は懐から画帳と矢立やたてを取り出すと、吾妻橋のてっぺんから、大川おおかわを下っていく大きな屋形船を描きだした。飾りこそ少ないが、開け放たれた船の座敷で、芸者たちが三味線しやみせんをかき鳴らしている。
 お上がいろいろな触れを出していて、かわら版同様に派手な船遊びも禁止とされた。国芳がおもしろがるように、あんな船は珍しい。
「あたしなら平気です」
 画帳からチラとお玉を見て国芳は言う。
「おめえはただの蚤取り屋じゃねえしな」
「……まあ、こんな男のなりをしてますし」
「そんなことはどうでもいいんだ」
 今度はお玉をしげしげと見てから続ける。
「わっちはお上からにらまれている。わっちの絵が気に入らないんだな。何年前からだったかは忘れたが、岡っ引おかっぴきとか、その手下とかに見張られてるんだよ」
「……」
「まあ、構わねえんだ。わっちはお上が何を言おうと描きたい絵を描くだけだ。役者絵がダメだっていうなら、猫の顔で描いてやる」
 国芳は画帳をパタンと畳むと、また吾妻橋を歩き出した。お玉はついていく。
「あたしなら、岡っ引の手下なんかじゃないけど、八丁堀はつちようぼりに頼まれました。国芳先生のところに行って、化け猫騒ぎのことを話せって」
「八丁堀の誰だい?」
「岡倉様」
 口止めされていたけど、お玉はあっさりと明かす。
「やっぱり市平太の野郎か。めんどくせえ同心野郎の子分かよ」
「子分ってわけじゃないけど」
 お玉に背を向けて、ふんと国芳は鼻を鳴らし、からからと下駄を鳴らしていく。
 岡倉も国芳のことをこんな顔で話していた。相性が悪いのか、過去に何かもめ事でもあったのか。両方だろう。
 岡倉から血の付いた錦絵を渡され、
「国芳の野郎に見せな。あのクソ絵描きなら動くから」
 と告げられた。お玉はその時、
「岡倉さんが行けばいいじゃないですか」
 と返すと、「うるせえ」と怒鳴られた。手間賃だけじゃなく、蚤取りの本業のほうもできるはずだから、とお玉は送り込まれたのだ。
 どうやら国芳の言っていた見張りの手下とやらを使って、わざわざ国芳の家の猫たちに蚤を移させたようだ。
 岡倉の飼っているゴンベエは、お玉が何度駆除しても、しばらくすると蚤がわいてくる。そいつを集めて国芳の飼い猫のシロタロウの身体にこすりつけた。そうしてたちまち国芳家の猫たちに拡散していったのだ。
 名付けるならば、忍法“蚤移し”ってところだが、そんな術は戸隠流とがくしりゆうにもないし、岡倉はお玉には命じなかった。お玉の気性なら、受けるはずはないと分かっていたのだろう。
 ゴンベエの身体に棲みついている蚤が探索たんさくに役立つとは、お玉とて思いもしなかった。ましてやそんな手の込んだことをしてまで、国芳を引っ張り出す岡倉の狙いもよく分からないままだった。
 が、実際こうして国芳とお玉は一緒に事件の現場に向かっている。もちろん、蚤を仕込んだことまでは、国芳は知らないだろうし、お玉も明かすつもりもない。
 浅草の山谷堀からさらに北に街道を行くと、その家がある。お玉はすでに岡倉に連れられて一度来ていた。
 田んぼと寺に挟まれてポツリと建つ一軒家で、日本橋駿河町するがちようの薬種問屋「大松屋」の隠居治左衛門が、わび住まいとしていた。
 隠居といってもまだ五十過ぎで、お兼という二十歳以上も年下の下女が治左衛門の世話をしていた。下女といっても、要するにめかけみたいなものだ。
 おっと、もう一人(一匹)いた。茶トラの猫で、オットという妙な名前。それで、このオットとお兼が、治左衛門を惨殺するという事件を起こした(ことになっている)。
 治左衛門は妻女をやまいでなくすと、店を長男の治五郎じごろうに譲り、念願としていた二つの道楽を始めるためにこの家を手に入れた。
 道楽というのは薬の調合と絵だった。大松屋は諸国の薬を扱う薬種問屋なので、治左衛門は生まれた時から薬と育ったようなものだ。妻を亡くしてより、自身である種の薬を作ることに熱中するようになった。要するに精力剤である。
 となると絵というのは枕絵まくらえに決まっている。ただ、治左衛門は枕絵や春本しゆんぼんを集めるというのではなく、自分で描こうとした。
「お、すげえな!」
 と一室に入るなり国芳は声を上げた。
 殺害現場となった治左衛門の作業部屋で、真ん中にどかんと文机が置かれている。その周囲に血の跡が黒々と残されたままだ。
 この文机を境にして、部屋の半分は絵の作業に使っていたことが一目瞭然いちもくりようぜんだった。先が固まったまま放置された筆や絵の具皿、丸められた紙が隅に転がっている。
 何より目立つのは、壁に無造作に貼られた浮世絵だ。枕絵ではなく、ことごとくが国芳の猫の絵と、それを手本として写した治左衛門自身が描いた絵。両者の違いは明白だ。薬の調合ほどに絵は上達しなかったようだ。
 猫絵の中でも特に化け猫の絵が多く、飛び散った血の跡もそのままで、おぞましいったらない。
 それとは対照的に、部屋の反対側はきれいに片付けられていた。残されていたのは独特の匂いだけ。奉行所の許可が出ると同時に、薬を調合する道具や薬箪笥くすりだんす、材料などは、大松屋の跡継ぎが実家に持ち帰ったのだ。あ、それと治左衛門が集めていた枕絵や春本もちゃんと回収したという。
「そこに仏さんが……」
 お玉が文机の置かれた畳を指す。
「なるほどな、どうせなら、その仏を見たかったな」
「十日も前のことですよ。いつまでも置いておくわけありません」
「そりゃそうだ。葬式はすましたんだな?」
「そう聞いてます」
 ふんふんとうなりながら国芳は家の中を見てまわった。西に傾いた陽が一帯を黄色に染めていて、不気味さをいっそう際立きわだたせている。庭の柿の木にカラスがとまっている。お玉の耳には鳴き声が「おん、怨、怨」と聞こえた。
「で、夜な夜な、ここに化け猫が現れたと」
「お兼の証言によると、ですが」
「その下女は、今は牢屋に繋がれて、ほうけているんだろ?」
「治左衛門さんを殺す前に、このあたりの世話役やら、店から来る番頭さんや小僧さんとかに、そう訴えていたそうです」
「その妙な名前の猫……」
「オット。騒ぎの後から姿が見えないそうです。少し前までもう一匹いて、そいつがセイって名前だったとか」
「なるほど、二匹でオットセイかい」
 国芳がゲラゲラ笑う。オットセイは「膃肭臍」と書いて、効果の高い強精剤として知られていた。原材料(蝦夷えぞで捕獲されるオットセイの陰茎いんけい部分)が入手困難で偽物も多く、本物は高値で取引されていた。
「化け猫のオットは姿を隠したままか……」
 クンクンと作業部屋をいで廻る。
 お玉は黙ってその姿を見つめていた。絵の具の匂い以上に、さまざまな薬の匂いが混じり合って床や壁に染みついている。
 実は忍者だったお玉は、薬についてのそれなりの知識があったし、嗅覚の訓練も受けていた。用途に合わせて忍者は術として薬を使う。自身のためだけでなく、敵を撹乱かくらんしたり、時に殺しの手段として薬は毒という武器にもなる。それだけでなく、生きるよすがとして、忍者は売薬業を兼ねることが多いのだ。
「オットがご主人様に乗り移って自分を襲ってきたので、刺し殺したのだと」
「いえ、叩き殺した。鉈で」
「鉈! すげえな。ますます見ておきたかったよ。見つけたやつはたまげただろうな」
「第一発見者は大松屋の小僧です。二日か三日ごとに、店から調合用の薬やら金子きんすやら、それから春画やら持ってきていたんですね」
「お兼は逃げずに、死体の側に座っていた」
「凶器の鉈を持ったままで血だらけで。治左衛門の側に座っていた……襦袢じゆばん一枚で」
「化け猫になった治左衛門から襲われたと」
「小僧に泣きながら死体を指して、きっと猫に化けるから、待ってるのだと」
「治左衛門は裸か?」
「いえ、着物はちゃんと……」
「それじゃあ、いたそうとしていたんじゃねえのかな……?」
 お玉は答えず。
「訴えていたということは、治左衛門はおかしかったんだな?」
「ちょっと前から。夜中に行灯あんどんの油をなめたり、ニャアと鳴いたり。お兼さんじゃなくて、オットの毛繕けづくろいを自分の舌でやるようになったり」
 お玉はそう言って自分の顔が赤くなるのが分かった。岡倉の言いようをそのまま伝えたのだけど、使った後で恥ずかしくなった。
 国芳はふっと笑う。
「その猫はいくつくらいだ?」
「オットもセイも、十年以上も前から大松屋で飼われていたとか。だから化け猫に」
「おめえ、信じているのか? 十年以上も生きている猫は、尾が二つに分かれる猫又ねこまたになって人にたたるって話」
「さあ……」
「ありゃあ迷信だな。わっちが最初に飼った猫はよ、元々吉原の遊女の猫だったが、その頃から年寄りだったのに、わっちのところに十年以上はいたぜ」
「アチキ、五年前にいなくなった」
「おめえ、何で知っているんだ?」
「さっき、お弟子さんと……」
「あ、そうか。あいつはいい猫だったんだよ」
「そうですか」
 国芳は何事か呟きながら、他の部屋を見て回る。この家は五部屋ほどあって、五十男と三十女、それと猫一匹が住むには広い。夜着よぎやら蒲団ふとんが積まれた寝所と作業部屋以外は、ほとんど使われていなかったようだ。
「なんで鉈なんぞがここにあったんだ?」
「さあ……」
「うん? こいつは……」
 国芳は丸まって死体の周囲に散らばっていた紙の一枚を手に取った。江戸の人は反故紙ほごしであってもそのまま捨てたりしない。火付けに使ったり、便所の落とし紙にしたり、こよりにしたり。ここは殺害現場だったし、血染めだったりして、そのまま残されていた。
 国芳が拡げた絵は、治左衛門の筆ではなくかなりうまい。とはいっても国芳にはとても及ばない。
「治左衛門には、絵の手ほどきもしてくれる師匠がいたようだな」
「手ほどき、も?」
「わっちはこれを描いたやつに心当たりがあるぜ」
「えっ!?」
――そうか、だから岡倉は国芳をここに来させたんだ!
 お玉は妙に人の心を揺さぶる絵師の顔を見つめた。
「だ、誰ですか?」
「……わっちのところにいた時は、なんて名乗っていたか? 忘れちまったな」
「絵師?」
「こいつを見れば分かるだろ。絵師になるには、そうだな、十年はかかる」
「先生に弟子入りした?」
「半年も持たなかったな。本気で絵師になりたかったのか?」
「いつの話ですか?」
「三年ほど前だ」
生業なりわいは?」
 国芳はにやりと笑って言った。
「薬売りだよ」
「あ、」
 国芳が“も”と言った意味が分かった。やっぱりお玉が思ったとおりだ。
「そいつは治左衛門に薬の調合だけじゃなく、絵も教えていたというわけだ」
「……」
「お兼って妾が治左衛門を鉈で殺したのは間違いないとして、どうしてそんなことになったのか、ってことだ」
「……化け猫」
 お玉は思わず呟いた。
「そうだ。化け猫だ。治左衛門でもなく、むろんお兼でもなく、やっぱりオットって猫が化け猫になった……」
「……」
「わけがねえ。こいつを描いたそいつこそが化け猫ってことだ」
「……」
 お玉は背筋がびくりと震えた。
 と、ミャアという猫の鳴き声がした。
 お玉は思わず、肩をくるりと返して、右手を懐にいれ、棒手裏剣ぼうしゆりけんを掴んでいた。
 茶トラの猫が庭にいて、二人を緑色の眼で見ていた。
 トラ猫はひょいと植え込みに消えた。
「お玉、おめえは何者だい?」
 すっかり薄暗くなって、懐手でお玉を覗き込む国芳の顔も陰となっていた。その眼が猫と同じようにキラリと光った。
 お玉は答えずに、忍者特有の戦闘の構えを解いた。
「まあ、いいや、後のことはおめえと岡倉の同心野郎に任せた」
 お玉は小さくうなずいた。
「あ、思い出したぜ。そいつは薬屋の成吉なるきちって名乗ってやがった。ものにるの成に吉だ」
「成吉……」
 治左衛門に薬の調合を教えた薬売りの男。成吉という名を聞いて、思わずお玉は眼を閉じた。
 その男にお玉も心当たりがあったのだ。

(第14回につづく)



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プロフィール

柏田 道夫
(かしわだ みちお)

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。