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猫でござる〜江戸にゃん草紙 柏田道夫

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まろは猫でおじゃる

 江戸城の大奥はやたらと広い。
 聞くところによると、大奥の中でも本当に奥であるここ、御殿向ごてんむきという一角に出入りできる男は、時の将軍様しかいないのじゃとか。
 なのに、江戸風にいうと、平気の平左衛門へいざえもんって様で歩いているおのこがおる。
 そう、まろでおじゃる。
 おのこと申しても、正確にはおすなのじゃが。まろはそもそもきようで、やんごとなき方のお屋敷で生まれた。自分のことをまろと称する飼い主様になろうて、まろと名乗っておる。
 その頃につけられていた名前は、実は“さもじ”であった。さもじというのは、宮中女房言葉でさばのことで、まろの身体の模様が同じじゃったからである。まろを鯖と同じゅうするはけしからぬと思うて、「さもじ」と呼ばれても(めしをくださる時以外は)知らん顔をしておった。
 それが江戸に下るはめになって、宮さんが対面するなり、「名は“まろ”にしましょう」と申されて、まろになったのでおじゃる。これは我が意を得たりという気がしたの。宮さんの思いは別のようでおじゃったが。
 まろが京から江戸に参った理由じゃが……。
 いずれ話すといたす、機会があればにゃ。
 あ、まろの今の飼い主の宮さんというのは、仁孝にんこう天皇の皇女こうじよ和宮親子内親王かずのみやちかこないしんのう様のことでおじゃるぞ。徳川とくがわ幕府のたっての願いで、朝廷ちようていから十四代将軍の家茂いえもちさんに降嫁こうかされた。
 そのようなことより、まろは大奥の御殿向から、長い廊下ろうかをひたひたと歩いて、奥女中たちの住まいである長局ながつぼねに行こうとしておるところじゃ。
 夏の盛りで、今日も暑い。江戸城の真ん中にどかんとおてんとさまが居座っておるようじゃ。それでも、廊下の板だけはひんやりとしていて、足裏が心地よい。
 こちらへ出向く折は、猫としても用心せぬばならぬ。女中たちの中には、まろが宮さんのお気に入りと知って敵意を剥き出しにするものもおる。いかにも不遜ふそんでおじゃる。
「ミケじよ様をはらませたのは、こやつに相違そういありませぬ!」
 と薙刀なぎなたを持った奥女中から追いかけられたのは春のことであったか。ま、そのとおりで、天璋院てんしよういん付きの御中臈おちゆうろうが飼っていたミケ女が、四匹の子猫を産んだ。その父親はまろに相違ない。母親の柄を継いだ三毛みけが一匹と、黒、それにまろにそっくりのサバ柄猫が二匹でおじゃった。今やその子たちは、女中たちの実家にもらい下げられたと聞いておる。
 にしてもである、人間どもの物差しというのは、猫には理解ができぬ。少し前だったか、宮さんが吐き気をもよおされ、月のものも止まったということで、「ご懐妊かいにんであられる」と大騒ぎをしておった。結局、ぬか喜びでおじゃった。猫の懐妊には眉をひそめ、ましてや江戸方と京方となると、坊主憎ければ袈裟けさまで、といった有様ありさまで、まろまで敵視というのは心が狭すぎる。
 それでもまろは、長局にいるミケ女をはじめとする数匹の猫たちにご機嫌伺きげんうかがいを欠かさぬ。これが日課でおじゃるゆえな。
 ちなみに、大奥で飼われているのは猫だけでなく、犬や鳥や金魚といろいろとおって飽きない。ただ飼っていいのは、御年寄おとしよりちゆう年寄といった、くらいが上の女中だけなのじゃとか。まろはともかくとして、下らない決まりとしかいいようがない。
 犬といえば、ちんとかいう不細工ぶさいくな顔の小犬ばかりで、鳥はうぐいす文鳥ぶんちよう駒鳥こまどりである。
 それで思い出したが、まろが目のかたきにされるのは、京方の猫というだけではなかった。天璋院が可愛がっていた狆と遭遇した折、キャンキャンと吠えかかるので、鼻を引っ掻いてやったら、傷モノになってしもうた。あの折も大騒ぎであったな。
 天璋院は知っておろう? そう、薩摩さつまから十三代将軍家定いえさださんの御台所みだいどころになった篤姫あつひめよ。家定さん亡き後に落飾らくしよくして天璋院と名乗った。大奥で我が物顔で振る舞っておる面倒臭いお方でおじゃる。宮さんとは嫁姑よめしゆうとめで、なにごとも御所ごしよ風を貫こうとする京側と、武家風を押しつけようとする江戸側で、当初は(今も)反目はんもくがあったと聞いておる。
 そうでおじゃる。まろがここに来たのは二年ほど前で、宮さんがお輿入こしいれした頃のことは知らぬ。まろを呼び寄せた藤子ふじこさんから聞いただけでおじゃる。
 えっ、藤子さんとは誰か? 
 ほんまは藤子様と申さねばならぬのだが。まろにとっては、頭の上がらぬ一番怖いお方よ。宮さんよりもじゃ。なにせ陰陽師おんみようじじゃからな。藤子様、いや藤子さんでいいや、後でな、話してつかわす。
 それよりも、ミケ女でおじゃる。
 まろとてクニャクニャになるくらいに美しい。ミケ女は江戸の浅草あさくさというところの(聞いたところでは、ずいぶんとがさつな町だとか)生まれだそうじゃが、京でもまれな美猫でおじゃる。
 けれども、今日はご機嫌がよろしゅうない。まろが「何があったでおじゃるか?」と顔をめようとしたら、よこつらを張られた。江戸の雌猫はきつうおじゃる。
「あたいじゃないわよ、ほら、みな」
 とミケ女が鼻で座敷を指し示す。ミケ女は顔に似ず江戸風にいう“おきゃん”ってやつで、そこがまろにはたまらないのじゃが。
 奥女中たちが額を寄せ合い、ひそひそ話をしておじゃった。
 そういえば、ミケ女の寝所しんじよに入ろうとして女中と鉢合わせをしたのじゃが、そのままあたふたと出て行った。いつもなら追い払われるのじゃが。何かあったようでおじゃる。
「それはまことでございますか?」
「このところむくみもひどく、熱も引かれなかったともっぱらの」
「それでもまさか、お隠れになったというのは……」
上方かみがたに行かれたままで……」
 女中たちのひそひそ話が聞こえてきた。猫とて、今日のところはのんきにきとはいかぬようでおじゃる。ここはまろも、宮さんのところに戻ることにしよう。
 大奥を覆っていたのは暑気だけじゃのうて、不穏ふおんの雲だったようでおじゃる。
 宮さんのおなげきようは、それはそれは痛ましいものでおじゃった。
 ちょうど一年前の慶応けいおう元年の八月に、生母であらしゃった観行院かんぎよういんさんを亡くされ、その折もずいぶんと泣かれた。観行院さんも、宮さんと共に江戸に下られ、江戸城内に住まわれておられた。藤子さんに命じられて、宮さんのひざに座って、なぐさめて差し上げたのが遠い昔のように思えるでおじゃる。
 にしても、家茂さん逝去せいきよの知らせは、宮さんはもとより大奥を震撼しんかんさせた。いや、大奥だけではないの。江戸城、徳川政権、今の日本の縮図となっておる京も、明日あすをも知れぬ事態におちいっていることじゃろう。
 猫にとっては、日本がどうなろうと我関せずなのじゃが、人様の暮らしは飼い猫の待遇に影響が及ぶものでおじゃる。他人事ひとごと他猫事ひにやんごとですまされなかったりする。
 禁門きんもんの変を起こした長州ちようしゆうに向け第二次の征伐せいばつのために、家茂さんが江戸を出立したのは、観行院さん逝去より前のうるう五月であらしゃった。以来、宮さんは御百度踏おひやくどふみをされたり、家茂さんのご武運ぶうんとご無事をお祈りする日々を過ごしておらしゃった。
 家茂さんが上方におられる間も、それこそ猫の目のように時局は変化しておった。宮さんにとって許しがたい事態は、英・米・仏・蘭四国の艦隊が大坂湾おおさかわんに現れ、兵庫ひようごの開港を迫り、老中ろうじゆうたちが、あっさりと開港に応じてしまったことでおじゃる。
 和宮様は「攘夷じようい実行」という大義たいぎのために、自らの運命をお預けになったのだから。
 誰もが知っておろうが、そもそも宮さんには有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうというれつきとした宮家の許婚いいなずけがおらしゃった。異母兄いぼけい孝明こうめい天皇の命で決められた縁談で、熾仁親王十七歳、宮さんは六歳でおじゃった。この縁談は多くの人から祝福を受けておったと聞いておる。
 まだ幼いままの宮さんであらしゃったが、十五歳で徳川への降嫁の話が降って来るまで、ひとえに熾仁親王に嫁ぐ日を夢見ておったそうでおじゃる。
 ペリーの来航以来、日本は安政あんせいの大地震の余震のように揺れに揺れ続け、幕府も弱体化しておじゃった。大老たいろう井伊直弼いいなおすけによる安政の大獄たいごくがあって、その直弼も江戸城の真ん前の桜田門外さくらだもんがいで暗殺された。幕府は窮余きゆうよの一策として公武一和こうぶいちわはかったのでおじゃる。
 当初は孝明天皇も和宮降嫁の申し出を却下きやつかされた。宮さんご本人もかたくなに拒絶された。しかし時勢は許してくれなかった。幕府はみかどが願う攘夷を日本全土に知らしめ、決行するためには、皇女降嫁しかないと訴えたのでおじゃる。こうして孝明天皇は、和宮様の降嫁を決意したというわけじゃ。
 それでも宮さんは「夷人来集いじんらいしゆう」の江戸の地におもむくことを固辞し続けたのじゃが、泣く泣く承諾しようだくしたという経緯いきさつでおじゃった。
 そんな宮さんであられたが、夫となられた家茂さんのお優しい人柄に心を(身体も)開かれて、仲睦なかむつまじいご夫婦にならしゃった。武家に嫁いでも京風を貫こうとする宮さんに対して、天璋院をかつぐ江戸方との確執は解消されないままじゃったが。
 そうそう、思い出したが、まろは嫁姑の仲をとりもつためにひと役を買ったのでおじゃるぞ。ま、たまたまそうなったので、藤子さんから命じられたわけではなかったのじゃが。
 まろが江戸に連れてこられたばかりの頃じゃったか、家茂さんのおすすめで宮さんは浜御殿はまごてんに行かれた。天璋院もご一緒じゃった。その折、まろも藤子さんに連れられて参ったのじゃ。藤子さんは京から来たまろを、天璋院に見せようとしたのであろうな。
 家茂さんと天璋院と宮さんが、庭から御殿へと上がられようとしておった。まろは藤子さんに抱かれておったのじゃが、庭ですずめが遊んでいるのを見つけて、思わず飛び出してしまったのじゃな。
 きゃっと天璋院が縁台えんだいから足を踏み外され、とっさに宮さんが支えられた。まろは踏み石に脱がれていたお三方さんかた草履ぞうり蹴散けちらしてしまった。
 すると宮さんは、すとんと裸足はだしのままで降りられると、散らばった家茂さんと天璋院の草履をきちんと並べて、自分の草履は踏み石の外に置かれたのでおじゃる。
 天璋院はにっこりと宮さんに笑顔を向けられた。藤子さんによると、宮さんが嫁いで初めての笑顔だったそうじゃ。

 話を戻すと、家茂さんが亡くなられた慶応二年も激動の年でおじゃった。
 後で分かったのじゃが、一月には、土佐浪士坂本龍馬とさろうしさかもとりようま斡旋あつせんで、犬猿けんえんの仲であった薩摩と長州が同盟の密約を結んでおじゃった。しかも第二次の長州征伐では、幕軍はさんざんの負けいくさきつした。その戦の最中に家茂さんは、持病の脚気かつけを悪化させて、二十一という若さであの世に旅立たれたのでおじゃる。
 悲しみの中、宮さんは落飾され静寛院宮せいかんいんのみやと号されたのでおじゃる。宮さんはわずか二十歳はたちで仏門に入られたのでおじゃる。
 さらに、その年の十二月の末、兄の孝明天皇が崩御ほうぎよされた。その知らせが宮さんにもたらされたのは正月過ぎでおじゃった。あまりの急死と不自然さに、帝は暗殺されたのでは、ともささやかれた。
 嘆き悲しむ宮さんをお慰めするのは、まろの役目と藤子さんに命じられて、膝に乗ろうとしたのじゃが、宮さんはまろを横に追いやった。まろを拒絶するほどに悲しみが深かったのでおじゃる。
 戻ってきたまろをしげしげと眺め、藤子さんも大きなため息をついた。まろは藤子さんのきついまなざしを避けて、ぺろぺろと身繕みづくろいをするしかなかったでおじゃる。
 この折に藤子さんをご紹介いたそう。
 土御門つちみかど藤子さんは、宮さんの乳母うばで降嫁される折に、側近として従ったお女中で、身分は上臈じようろう御年寄。将軍や御台所への謁見えつけんが許される上級のお女中でおじゃる。
 宮さんが最も信頼を寄せられ、支えともなっていたのは、典侍ないしのすけ(宮中の最上位女官)の庭田嗣子にわたつぐこさんじゃったが、藤子さんは嗣子さんの次に信頼されておったな。(ちなみに、嗣子さんは家茂公が死去した翌年に亡くなられてしまうのじゃが)。
 さて陰陽師であったな。
 土御門家は、かの安倍晴明あべのせいめい末裔まつえいで、陰陽がしらを務めている家柄であられるのじゃ。陰陽師というと、占術せんじゆつ呪術じゆじゆつ駆使くしして時の政権を惑わせて暗躍するという印象があるかもしれんが、それは物語の話でおじゃる(ここだけの話、まったくないとは言わないが)。
 土御門家は陰陽道の宗家そうけのひとつとして、こよみつかさどると同時に、全国の陰陽師を統括とうかつし支配する役目もになっておった。
 藤子さんも陰陽道家の娘として占術を学んでおり、宮さんや嗣子さんに求められて、日々の吉凶をうらなったりはしておった。けれども人前で怪しい術など使うことはない(たぶん)。秘術が使えるという能力を持っておったとしても、人には見せないというのが陰陽師のおきてなのでおじゃる。
 実際に安倍晴明のような、人知じんちを超える術が使えたのか? まろは知らぬ。知らぬ、知らぬ、知らぬ。
 ひとつだけ教えると、まろの心が読めるのでは? と思うことはたびたびあったな。陰陽道にそんな術があるのかは知らぬが、“猫使い”であるな。
 そもそも、まろを京から呼び寄せる算段をつけたのは藤子さんでおじゃった。冒頭でやんごとなき方に飼われておったと申したが、そのお方にふみをしたため、わざわざまろ(さもじと呼ばれておったが)を指名して江戸まで運ばせたのでおじゃる。
 そのやんごとなきお方はどなたか?
 藤子さんはまろだけじゃなく(まろはそもそも猫以外にはしやべられないし)、運んで来た従者にも箝口令かんこうれいをしいた。宮さんにも「京の知り合いより、宮さんをお慰めするためでございます」としか告げなかった。
 言っておくが、まろはただの猫じゃぞ。魔力を持つ猫も確かにおって、まろも何度か遭遇したこともあるが。そういうやからとはあまり関わらぬほうがいいのじゃな。ゆえにまろは、京のやんごとなきお方の屋敷で、ほんのりのほほんと生きていたサバ柄の猫に過ぎぬ。
 どうしてそんなまろを、藤子さんが江戸までわざわざ呼び寄せたのであろうか?
 知っていたら、話すよ。誰か教えてほしいものでおじゃるよ。


(第12回につづく)



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プロフィール

柏田 道夫
(かしわだ みちお)

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。