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雲形の三角定規 ゆずはらとしゆき
©psycho okada
第一話/プロローグ(2010年・夏)
「早くしろよ! 乗り遅れちまうぞ!」
 呆れ半分、怒声半分——帆足の声に応じて、山手があわてて駆け込んでくる。
 携帯電話の時計表示は15時59分、発車一分前の新幹線——のぞみ237は、東京発新大阪着。
「ビールなら車内でも買えるだろう?」
「気分の問題だよ」
「旅行じゃないんだぞ?」
「はいはい、分かってるよ」
 呆れるように言った帆足を適当にいなしながら、さっさと歩いた山手は指定のシートへ身体を放り投げた。
「……でも、こんな〈ふざけた話〉、酒でも飲まなけりゃ、やってられるか」
 わずかな呟きは帆足へ向けられたものではなく、窓に映る自分自身へ向けられていたが——。
 聞いてしまった帆足は二の句を継げなかった。
 〈ふざけた話〉の内訳は帆足も知っていたが、山手はすぐに缶ビールを開けると、崎陽軒のシウマイをつまみにちびりちびりと飲み始めた。その動作は迅速かつ意図的で、あからさまに話の続きを拒絶していた。
「それにしても、この切符、新神戸行きじゃなくて、新大阪なのかよ?」
 帆足は代わりに、山手に任せた切符やホテルの手配についての不満を洩らした。
「そうだよ。場所は新開地の近くだけど、ホテルは元町だからさ」
「なんでわざわざ新大阪で乗り換えて、阪急や阪神へ乗り継がなければならんのだ」
「大阪と神戸の間って、せいぜい武蔵境から東京くらいの距離だから、大阪から行ってもそんなに変わらないと思うんだけどなァ……」
 山手の返答には、中途半端な土地勘と鷹揚な性格が入り交じっていた。
(まったく変わってねえな、こいつは……)
 夏の昼下がり、中年にさしかかった二人の男——山手と帆足は、神戸へ向かっていた。
 唐突に舞い込んだ、〈ふざけた話〉のために。
「しかし……水くさいな、お前は」
 ひょうたん型の陶器から醤油を垂らし、洋辛子を溶かしつつ、帆足が呟く。
「何のことさ?」
「別に、式に呼べとまでは言わないけどさ、結婚したんだったら、一言くらい連絡しろよ」
「いや、結婚式に呼ぶも何も……親族だけの内々でやったからなァ。派手にやるほど景気良くもないしさ」
 悪びれるでもなく、山手は答え、開き直るように続ける。
「だいたい、君はまだなのか?」
「俺は……」
 苦い表情で言い淀んだ帆足は、窓際に頬杖をついた。
「……漫画が上手くいけば、女もついてくると思ったんだがな……」
「仕事と女は別物だよ」
 山手は無精髭の生えかけた顎を撫でつつ、かすかに笑う。本当は高笑いしたかったのだろうが、周囲の乗客に気を遣っているようであった。
「……そうだろうな。だが、昔はお前が俺に同じことを言っていたんだぞ、山手? 《漫画が上手くいけば、女もついてくるんだから、余計なことは考えるなよ!》ってさ」
「かも知れない。でも、忘れたよ」
「無責任だな」
「まァ、しばらく現場を離れていたんでね。キャリアの長さから考えれば、もう、君の方が先輩だよ」
 確かに、デビューは山手の方が早かったが、山手には長い空白があった。
「ゲーム業界は、深刻な不況だと聞いているが……」
「制作チームごとリストラされたからね。でも、嫁さんはまだ勤めてる。グラフィッカーと違って、経理畑はなかなか削れないらしい」
 新しい伴侶もその空白期間——帆足の知らない職場の同僚だった。
「まァ、ほとんど髪結いの亭主だから、漫画を描けるのも九時から五時の間だけ。アシスタントもネット経由だから、基本的には一人で黙々と描いてる」
 帆足は相変わらず、紙とインクとスクリーントーンで原稿を描いているが、山手はすべてパソコン上で描いていた。
 わざわざ作業場に呼ばなくてもネット経由で画像データを送受信し、音声と文字のチャットを使い分けて指示を送れば良いデジタル化は、アシスタント代が軽減できるという利点がある。
 反面、パソコンやソフトウェアといった設備面での先行投資は必要だが、ここ数年、アシスタントの都合に生活時間を左右されている帆足にしてみれば、山手の生活スタイルはうらやましくもあった。
「ああ、独りだから、ビール片手に描いたって大丈夫さ。さすがに、嫁さんに見つかったら怒られるけどね」
「……ほどほどにしておけ」
 ヘビースモーカーの山手が禁煙に成功したことに感心していたのは、ほんの三十分前だったが——その反動か、見るからに酒量が上がっていた。
(……考えてみりゃ、独りの作業なんて、嗜好品にでも頼らなければ、やってられねえか)
 山手の翳りに思い至った帆足は、話を戻すことにした。
「そうなると、今のところは月イチが精一杯か」
「一応、他の雑誌からも話は来ているけどさ。掛け持ちで作画レベルを落としたら、元も子もないからね……」
 昔取った杵柄か、山手はすぐに漫画雑誌のレギュラーを確保し、先月、十年ぶりの単行本も出した。
 だが、山手が描いている成年向けアダルト漫画誌に連載作品/プロテクト枠はわずかで、確保しているのはフリー参戦の短編読み切り枠だ。
 幸い、復帰一冊目は順調と聞いたが、二冊目の売れ行きが下がれば、すぐにお払い箱となる。
(版元の規模を考えれば、まァ、当然のことだ)
 帆足もデビューから五年ほど/五年前までは、成年向けアダルト漫画誌を主戦場としていたから、その辺の事情はよく知っている。
「一応、コミカライズ連載企画のコンペにも出しているけど……どうなることかね」
 他人ごとのような口ぶりに、反応は芳しくないことが推測できた。
 アニメやゲームのコミカライズを主力としている〈成年向け少年漫画誌〉なら、若干、漫画家としてのランクが高くなる/版元の規模が大きくなるし、とりあえず単行本一冊分以上の連載期間も保証されるが、その分、敷居も高くなる。
「同人誌は?」
「今は夏と冬だけだなァ。同人ショップへの委託もあるから、売り上げはもっと小刻みに入るけど、金額的にはサラリーマン時代のボーナスと変わらなくなった」
「そんなもん……なのか?」
 帆足は思わず、拍子抜けしたように答えた。言われてみれば、アシスタントや担当編集者から噂話はいくつか聞いていたが、帆足自身はもう十年近く同人誌即売会へ行っておらず、そのイメージは過去の感覚に依存していた。
「一発当てれば、あとは濡れ手で粟だと思っていたんだが」
「いつの話をしているんだ?」
 訝しむように答えた山手は、わずかな沈黙の後、独り合点の表情で続ける。
「ないよりはマシ、という程度だね。この前も、つい液晶ペンタブを買って、嫁さんに怒られたもの」
「液晶ペンタブレットって、かなり高いよな……」
「いや、安くなったよ。21型で20万だから」
「……そりゃ怒られるわ」
 呆れたのは金額ではなく、山手の金銭感覚に、だ。
 デビュー前、山手のアシスタントを務めていたころの帆足の生活費で換算すれば、二十万円は三ヶ月分になる。デビューから十年が経ち、こうしてグリーン席に乗れるようになっても、一度味わった貧乏/金銭感覚はなかなか捨てきれない。
 そして、過去の感覚を捨てきれないのは、山手も同じだ。
「俺が言うのもなんだが、ネタがマイナー過ぎないか?」
 のぞみ237が三島駅を通り過ぎた頃、帆足はふと、山手のwebサイトに載っていた新刊同人誌の告知を思い出した。
「分かってるさ。……でも、最近の流行りものは〈絵柄が合わない〉からさ……。うかつに手を出したら若いひとたちに叩かれそうだし、オンリー即売会へこまめに出るほどの気力もない」
「それなりに変わったと思うが……それでもダメなのか?」
「世の流れが決定的に変わったからなァ。小手先で変えてもダメさ。もう、pixivとかで若いひとたちの絵を見るたびに凹んでる」
 疲れた薄笑いを浮かべる山手に、帆足は困惑していた。
 より正確に言えば、山手への返答に迷っていた。
 脊髄反射的に「だったら、見なければいいだろう?」とは言えなかった。
「……職業病、か……」
「それもあるけど、宿業だよね」
「宿業?」
 宿業——前世の悪行で、現世で報いを受けること。因果応報。
 確かに、前世であるかのように遠く思えることはあるが、山手の物言いに同意はできない。
(昔のことは、すべて地続きだ)
(地続きだからこそ、俺は——)
 帆足は訝しげな表情を浮かべ、喉の奥へと封じるように念じた。
(お前が去った世界で、底辺を蠢き続けてきたんだ)
 どちらも等しく、すべてが地続きだ。切り捨てることも、手前勝手な決着も許されない。
「そう、宿業。そのくせ、うっかり酔っぱらった時に見ると、〈ディスプレイの向こう側〉から若いひとたちに罵られているように錯覚することすらある。かつて、〈ぼくらがそうしたように〉」
 山手はかつて、絵柄の新しさを評価された新人漫画家だった。
 だが、先鋭的な造形/ディフォルメの絵柄は、次の世代が出てくれば一気に古びていく。それでも、古くなった絵柄をあっさり捨てることができれば、稼ぎ場所/ジャンルを少しずつ変えながら、生き残ることはできる。
 あるいは、画面やストーリーの構成力に長けていれば——。
 結果的にそのジャンルから逃れた帆足はふと、遠くから振り返りつつ思う。
 画力の高さで勝負する〈成年向け少年漫画誌〉の類は、アダルトビデオの世界と同じだ、と。山手が描いているアダルト漫画誌も〈成年向け少年漫画誌〉の一種だ。
 絵柄の新しさで勝負するタイプの新人漫画家は毎年、大量にデビューする新人女優のようなものだ。年を経れば新鮮な美貌も衰え、飽きられていく。
 ほとんどは二、三年で引退し、わずかな女優だけが演技力/艶技力を身につけ、一般向けのVシネマやらストリップやら、他の似て非なるジャンルへと転じていく。演技力/艶技力とは、画面やストーリーの構成力だ。
 幸い、ゲーム会社に勤めていた山手は新しい作画技術——CGには対応していたが、新人漫画家時代の絵柄を捨てることは難しいようだった。一度は売れた絵柄へ淡い希望を抱いているのかも知れないが、時計の針が戻ることはない。実際、戻ったこともない。
「君こそ、今だったら、同人誌でひと儲けできるんじゃないの?」
 山手は突然、からかうような口調で言った。帆足は面食らったが、山手はその変化に気づいていないのか、邪気のない笑みを浮かべている。
「いや、ダメだ。同人誌と〈成年向け少年漫画誌〉は……」
 抑揚のない声で呟いた帆足は大きく息を吐き、更に続ける。
「昔、〈あいつ〉に言われたことだが……確かに、言われた通りだった」
「確かに言っていたなァ。帆足の作風はリトルメジャーだって」
 そして、同人誌の世界で売れるのは、ビッグマイナーだ。
 90年代は〈漫画の変革期〉だった。メジャーな商業漫画誌では傍流とされていたマイナーコードの漫画を求めるマニアックな読者層が大量に生まれ、同人誌即売会へと流れ込むことで、漫画業界全体の地殻変動が始まりつつあった。
 熱心な読者であり、描く側でもあり、もしかしたら漫画家の卵でもある中間層——同人誌市場の拡大という環境の変化に対応するため、商業漫画誌の側は、彼らをターゲットとする〈成年向け少年漫画誌〉の可能性を模索していた。中間層の多くは青年期にさしかかっているのに、少年漫画誌の体裁を取っていたのは、一般社会へと巣立っていく青年たちのロールモデル/成長物語が求められる青年漫画誌の体裁では、彼らの支持を取り付けることができなかったからだ。
 かくして、同人誌を軸とした〈もう一つの漫画世界〉が発展していくにつれ、その環境で売れるための方法論が整備され、奇妙な精神風土が生まれた。
 たとえば、作画テクニックが急激に底上げされた結果、新しい絵柄と緻密な作画がもてはやされ、ストーリー構成の上手さなどは軽視されるようになった。
 やがて、後に続く漫画家の卵たちは「絵の上手さが人間の価値を決める」などと錯覚するようになったが、それが、〈もう一つの漫画世界〉の特殊な環境でしか機能しない偏狭な価値観だとは想像すらしなかった。
 マイナーコードだけを追い求めていた彼らが憧れたロールモデルはたった一つ、ビッグマイナーとなることだけで、山手と帆足もそんな漫画家の卵だった。
 よって、90年代の帆足もまた、想像力を欠いていた。そのくせ、適応することもできなかった。
 当時、帆足が描いていた漫画もマイナーコードに属していたが、彼が描いていたのは、捻ったアイデアとストーリー構成の上手さで勝負する〈メジャーコードの変奏としてのマイナーコード〉だった。
 しかし、メジャーコードと隔絶した環境で彼の漫画に価値を見いだす者はいなかった。
《価値基準が違うっつーかさ、画力の高さで勝負しなきゃならねえところ/場所は、お前さんには合わんよ——》
 早い話、精緻な作画力に欠けていた帆足の漫画は、箸にも棒にもかからない代物と評されていた。
「……本当に、その通りだったな……」
 脳髄にこびりついた記憶は山手への返答を妨げ、わずかな呟きだけを繰り返させるが、やがて、沈黙へと変質していく。
 二人の間に漂っている重苦しさから逃れるため、帆足は一冊の大学ノートを出した。
「新連載のネームかい?」
「……ああ。昨日の打ち合わせで没が出た」
 すぐに山手がノートを覗き込んだのは、好奇心というより、職業病だ。
 同業者の仕事に、抱えている問題の解答があるのではないか、と。
 山手がゲーム業界へ転じていた十年間、底辺を蠢き、やっと蜘蛛の糸をよじ登ってきた帆足は、その問題が漫画家としての大成を阻み、十年間の長い空白/ブランクを作ったことをよく分かっていた。
 だから、山手の視線に内心、ほくそ笑んでいたのだが——。
「……でも、やめだ」
 仄暗い愉悦はすぐに醒めた。
「どのみち、こんな時に作業が進むわけがないだろう?」
「そりゃそうだ」
 それに、見栄坊と思われたくもない。
 数日前までの帆足ならば、嬉々として見せつけていたかも知れない。
 旅の目的がもっと気楽であれば、嬉々として見せつけていたかも知れない。
 何にしても、帆足にとっては〈タイミングが悪すぎた〉。
(……まったく、いつまで昔のつまらねえことに拘っているんだ、俺は……)
 つまらないことへの拘りが、つまらない妄念を呼び込んでしまう。
 それでも、人間は、妄念によって駆動する生物だ。
(もうすぐ、雲の上から見下ろす側に回るのなら……)
 だが、デビューから十年——。
(そろそろ……忘れてもいい頃なんじゃないのか?)
 生き延びてしまった今となっては、これからの足枷でしかないことにも、薄々気づいている。
「まもなく名古屋です。東海道線、中央線、関西線と名鉄線、近鉄線はお乗り換えです」
 微睡む間もなく、車内アナウンスがもうすぐ名古屋駅に到着する旨を伝え、何人かの乗客が席を立った。
「しかし、急に暑くなったなァ……」
 空調の効いた車内は涼しかったが、武蔵境の自宅から東京駅までの道程を思い出したのか、山手は残っていたビールを一気に飲み干した。
「こうも暑いと、正直、〈気が滅入る〉」
 眉間に寄せた皺は、ホップの苦みだけではなかった。
 ここまでの会話の中で、二人は〈ふざけた話〉に触れることを避けていた。
 ここまでの会話の中で、二人は神戸へ向かう理由を避けていた。
「なァ……帆足?」
 帆足は応じなかった。それどころか、視線すら合わせなかった。
「あの夏も、うだるように暑かったなァ……」
 容赦なく続けた山手の低い呟きに、帆足がわずかに舌打ちしたのは——。
 苦い記憶の彼方へ、意識を連れ去られたからだ。
 十五年前——1995年の夏。
 山手や〈あいつ〉と過ごした夏の日へ、と——。

プロフィール
ゆずはらとしゆき
(ゆずはら としゆき )

東京都出身。小池一夫氏に師事し、漫画原作者を経て、小説へ活躍の場を移す。「昭和」を題材とした空想伝奇小説、ノンフィクションを得意とする。代表作は「空想東京百景」シリーズ(講談社BOX)、「十八時の音楽浴〜漆黒のアネット」(小学館ガガガ文庫/原作:海野十三)。

著者ホームページ
「ゆずはら置き場」
http://www.ll.em-net.ne.jp/~yuz4/
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