普段は気にしたこともない雑踏の足音が、電車の音が、車のクラクションの音が人の会話の入り交じった雑音が、急にボリュームを上げて聞こえてきた。
それは頭の中いっぱいに広がって、ガンガンと大介の頭の中を揺らした。
耐えられない。
エメリアの格好のまま、大介はよろけそうになって、無意識の動きでそばにあった缶飲料水の自販機にすがりつく。
なんとか上体をささえて身体を裏返し、自販機に背中を預けた。
煌々とついたライトの明かりの熱が背中に伝わってくる。
10分か、それとも一時間か。
いつの間にか周囲の夜の暗さが増す頃。
「もし」
呆然と自販機にもたれかかった大介に、声がかけられた。
「もし、こんばんは」
数回、同じ声が掛けられたが、茫然自失の大介に、答える余裕があるはずはない。
「エメリアさん…………エメリアさん?」
やがて、溜息をついた声の主は大介の耳元に、
「おい、どうしたんだよ、坊主」
と太い声を流し込んだ。
「わ!」
驚いた大介が見ると「セツコさん」こと善導組組長、郷田が大きな書類封筒を袂に入れて佇んでいた。
「こんばんは、エメリアさん」
声を「セツコさん」モードに戻してにっこりと笑う。
「資料、持って来ましたわよ」
「あ、ありがとうございます、それと、ご、ごめんなさい」
とりもなおさず、大介は調査の礼と、いまさっきの非礼を詫びた。
「どうやら、ちょいとショバを移した方が良さそうねえ」
にっこりと「セツコさん」が微笑む。
前回、調査を依頼した喫茶店は閉店間際だったので、別の喫茶店にした。
少し歩いたが、逆にそれが大介にとっては頭を冷やす時間になってくれる。
かつては都内に無数にあった「談話室」の流れを組むという広くて静かな店内には、川の流れる音がBGMに、シックな内装とこちらから呼ばない限り目線さえ合わせない和服姿の女性店員が静かに佇む。
客の入りはキャパシティの半分ほどで、それもまた有り難かった。
早速喫煙席の中でも一番奥の席を取った。
「はいこれ」
そういってにっこり笑った「セツコさん」に渡された封筒は大判でだいぶ分厚い。
「あ、ありがとうございます」
とりあえず、渡された以上は見なければならないので、封筒の中身を不器用に大介は取り出した。
低いガラスのテーブルの上に資料を広げてみた。
「…………」
それから初めて大介は途方に暮れた。
厚めの映画パンフレットのような「報告書」と数十枚のプリントアウトされた写真、データカードにDVD−R(これには報告書コピーと印刷されていた)。
映画やテレビだとこういう書類をちょろちょろめくって主人公は「よし」とか頷くものだが。
どうも、さて、どういう人物なのかを読み取るのはそれなりにコツがいるらしい。
報告書は簡易製本機で一応「本」の体裁を取ってはいるが、大抵の資料と同じで、事実の羅列があるばかりだ。
一応、気を利かせてか目次があり、さらに重要な箇所らしいところに付箋が貼り付けられてはいる物の、それだけでは単にずらずらと並べられた個人履歴であり、証言を文字に起こしたものでしかない。
目を通してそれから自分で考える必要がある……が、当然文系も文系、美術方面に行こうとしていた大介にそんな技術はない。
(弱ったなあ……)
しばらく文字とにらめっこしながら首を捻っていると、「セツコさん」がコーヒーをすすりながら「組長」の声で助け船を出してくれた。
「まあ、エリートにありがちな歪んだ性的嗜好の持ち主ってやつだよ」
「はあ」
「人を屈服させたりするのが大好きで堪らない、ってタイプだな……仕事の上でも結構同僚や後輩の手柄を横取りして自分の実績にしてるくさいな。そのくせ周囲の女子社員のウケは良い…………週に三日はジムに通って身体作りしてるし、女子社員と食事するときは必ず全部自分が払う………女子社員の証言は軒並み『いい人』を通り越して『格好いい人』だ」
そういう言葉を聞きながら報告書の目次に戻って見てみる。
「つまり女に対しては細かい所に気を使うし金も惜しまない、ってタイプ……オマケに顔もスタイルも良いと来た。で結婚すると素顔が出る」
で、と口をへの字に曲げて「セツコさん」は「組長」の顔に戻る。
「は……?」
「こいつ、離婚歴がある。相手は元教師でな、今心療内科に通ってるらしい。理由は夫のSM趣味に耐えられなかったからだそうだ……その前に二ヶ月ほど骨折して入院してる。まあ、正確には骨折だけじゃなくて産婦人科にもかかってるがな」
なぜ外科入院のついでに産婦人科にかかったのか、具体的にどういうものかはしらないが、あえて聞く気にはならなかった。
「そんな……」
真っ暗な物が心を満たしていくのが分かる。
「そんな、どう考えてもDVじゃないですか!」
一流企業の社員なら十分にスキャンダルになることだ。
少なくとも噂ぐらいにはなるだろう。
だが、「組長」は首を横に振って「それが当然」という顔をした。
「こういう奴は中々尻尾を出さない。たとえ誰かがヒドイ目にあったと泣き叫んでも『それはそいつに問題があるからだ』ってんで周囲が黙殺する……やがて被害者は時間経過に疲れるか、ご本人に再度脅されて泣き寝入り、って奴だ……ヤクザと違って素人さん同士はイメージが物をいうからねえ」
恐らくこの元妻も精神的ダメージが酷すぎるのだろう、と「組長」は言った。
そして周囲はメンヘラ指向の強かった奥さんだったのだ、と逆に「彼」へ同情する…………それが「組長」の推測だった。
「良くあるこった。人間観た目だからな結局」
不満そうな顔になるのは日本の暴力団のトップならではの憂鬱が脳裏をかすめてからだろうが、大介はそれどころではない。
もっとも重要な部分を早く聞きたかった。
「SM趣味ってのは……」
「出世してからは上手く隠してるな……ほら、二番目の付箋をはっつけた所にマンションの写真があるだろ」
慌てて開けてみる。
そこにはドラマに出てくるような広大なワンルームマンションが映っていた。
天井が馬鹿みたいに高い。
驚くほど物がないのは、壁に収納が埋め込まれているせいもあるだろうが、それ以上に厳選した「趣味の良い物」を「見せる為」に配置しているからだろう。
当然、SM系グッズどころかそれを匂わせる本やポスターなども存在しないのは明白だった。
そもそも、ポスター自体がない。
男性向けファッション誌を通り越して、ビジネス系雑誌に載る「成功した男の部屋」そのままだ。
これで多少ピントが惚けた写真でなければ、写真そのものの真偽を疑いたくなるほどに。
「なんか……変だなあ、この部屋」
「まあ、多分、会社の同僚やら何やらが来ても大丈夫なように『作った』部屋だろうよ。仕事も出来て私生活も完璧、と誰もに言わせるためのな……毎日ハウスキーパーが入って掃除してるそうだしな」
「そこまで調べたんですか?」
「撮影したのはそのハウスキーパーだよ。いいお祖母ちゃんでな。二万ほど掴ませて『結婚相手の父親が心配してるから、その証明をしてやりたい』といったらあっさりだった」
なるほど、世間がヤクザを恐れるわけだ、と大介は納得した。
「…………」
やくざもまた、自分たち同様に心理戦を行う生き物なのだ、と大介はようやく理解した。
これが後ろ暗い部分のある人物の部屋だったら、ハウスキーパーは引き受けなかったに違いない。
逆に、何もないから「何事も起こらない」と判断して「むしろ自分はそれを証明する役になるのだ」という善行への安堵と、少額と言うには少しだけ多めの、しかし後ろめたくならない程度の謝礼。
これを断固として断るのは「普通」なら難しいだろう。
「俺たちはな、場合によっては相手の残した品物を洗いざらい持ち出して金に換えることもしなくちゃいけないんだよ。これぐらいは当然だわな」
世の中の裏を垣間見た大介が表情を硬くするのを見て見ぬ振りか気づいていないのか「組長」は続けた。
「世の中にはな、本当に完璧超人って奴がいる。ある日いきなり思い立ってそうなっちまう奴もな……だがそいつらはみんな一様にどこか『すっぽ抜け』てるんだ。明るいんだよ、異様なぐらいな……だがこいつは違う」
そう言って、「組長」は資料とセットになった数十枚の写真のうち、「彼」が商談相手と語り合い、笑っている数枚の連続写真のひとつを指さした。
相手は取引相手の重役クラスらしく、恰幅の良い腹を文字通り抱えて笑っているが、彼はその一枚だけ、妙に冷めた、嫌な目でそんな重役を見ている。
ホンの一瞬、連続撮影だからこそ偶然映った一枚だろう。
思わず、大介はその写真に見入っていた。
「……」
暗い。
そう思った。
あの時、自分に金を押しつけた時の唇の端に見えたものと同じ黒い、濁った物が結晶化して目にはめ込まれていると。
「こいつの目は、俺たちの世界でも希にしかいないタイプの目だ。普通の人間やお人好しには損得勘定で動いてるようには見えない、そして損得勘定だけで動いてもいない、『外れた』人間だ……人が見ているところではちり紙も棄てないが、見てないと分かる場所ならむしゃくしゃしてホームレスに火ィつけてケラケラ笑えるタイプだ」
「はあ……」
さすがにそこまではオーバーだ、と思わないでもないが、この状況はそれを笑えるハズもない。
「だがな、洗ってみたら都内にレンタルルームを借りてたんだよ。コンテナ二個つなげて丸ごと改造した奴だ」
「はあ」
「セツコさん」は「分かるだろ?」という目配せをしたが、大介には分からない。
「…………そうか、お前さんはカタギだったな」
溜息をついて「セツコさん」は煙草を消し、ぐいっと顔を寄せた。
「コンテナルームってのは大事な物を保管するための場所で、そういうのを利用するのは大抵文系……つまり、ちゃんとした建物の中じゃないと保管できない本とか絵とか、彫刻……最近だとオモチャとかだ。コンテナ改造の奴は日が照れば中は蒸し風呂だし、寒くなればそれこそ中に霜が降りる。そういう繊細な物を保管する場所じゃねえ」
なるほど、言われて見ればその通りだ、と大介は素直に頷いた。
「なるほど」
「つまりな、そういうコンテナ改造のレンタルルームってのを借りる奴はガチのアウトドア好きか、少々ヤバめのものを扱いたい奴か、どっちかだ」
「ヤバめのもの?」
「大抵はアウトドア好きな奴のサーフボードやらキャンプ用品を納める為にデカいだけでさっきも言ったとおり空調のひとつもないんだが、奴が借りてるのは空調完備の上に防音加工までしてる」
「……」
防音、という言葉の響きに嫌な者を感じて、大介は居住まいを正した。
「去年まではそこに月に二回、ある方面専用の清掃業者が定期的に入ってた。で、去年の末、デリヘルSMのM嬢とのトラブルを、やつはそこで起こしてる」
「……」
デリヘルにSMというジャンルが存在するのを大介は初めて聞いたが、トラブルを「S」ではなく「M」嬢と起こしたというのが嫌な予感を加速させた。
「これが、その中の写真だ」
そう言って「セツコさん」が見せたものは、フラッシュを焚いたとおぼしい内部の写真だ。
防音材の上から石壁を思わせる壁紙をびっしり貼られた室内には左右の壁に丸められた毒蛇を思わせる真っ黒な鞭と、新品、使いかけを含めた赤い蝋燭。
腰よりもやや高い位置の棚の中にはさすがに大介もAVなどで見たことのある「大人のオモチャ」だと、辛うじて分かるような、凶暴なトゲの生えた電動淫具、穴だらけのピンポン球を真ん中にくっつけた首輪のような物がずらりと並ぶ。
まるで博物館のように等間隔で、しかも新品同様に光りながら、革製品には同時に「使い込まれている」ことが如実に分かる艶を持っていた。
再奥の壁には、X字をした頑丈そのものな太く分厚い木で作られたX字型のものが置いてあった。
左右は天井近くまで届くそれには、太い鎖と分厚い革で出来ているとおぼしいがっちりとした手錠が装着されていた。
ここに足りない物は、そのX字の台に縛られる者と、それを鞭打つ誰かだ。
自分の血の気が引くのが分かった。
鞭を打つのは男で、縛られているのが由美になるであろう未来は簡単に予想ができたからだ。
『来週は二人っきりで、旅行なんです!』
嬉しそうな由美の声が耳に蘇ってきた。
その笑顔も。
ぐにゃり、と世界が歪む。
世の中には想像しようとしただけで頭が真っ白になることが存在するのだと大介は初めて知った。
「あ、あのありがとうございました」
慌ててかき集めるように資料を封筒に戻すと、大介は立ち上がろうとした。
「おい、どうするつもりなんだい?」
落ち着いた「組長」の声には、僅かな棘があって、それが大介を引き留めた。
「え?」
「まさか、今から女の所へ駆け込んで『奴はこんな悪い人です』とか言う馬鹿を晒すつもりじゃねえだろうな?」
「あ、いや、その……」
まさに言ったとおりのことをしようとしていて、大介は慌てた。
「おい、断っておくがなこいつはお前さんと俺との信頼の証で出血大サービス、無料でやったことだが、お前さんがそれを女に見せたら、出所は何処だってことになるんだぜ?」
「え?」
別に悪いことではないだろう、と言いかけ、大介は気がついた。
やくざは警察ではない。
個人情報保護が声高に叫ばれる現代では、これらの資料をそろえることは立派に犯罪なのである。
「第一、女は信じねえぞ」
「え?」
「男に惚れる、ってのは、どんな男でも一生添い遂げていくって覚悟を決めてるんだ。しかもその女、話聞けば聞くほど幸せの絶頂だろうが……ま、言ったって無駄だ」
「でもそれは……」
「話せば分かる、っていうんなら、俺らの商売はねえんだよ」
苦い微笑みを「セツコさん」は片頬に浮かべた。
「理屈じゃねえんだよ、男と女の仲ってなぁな。それに、ひょっとしたら男のほうが女に惚れてて、この趣味を本気で棄てるつもりなのかもしれない、そうでなきゃ、一生隠して行くつもりかもしれない……どっちも世の中にはある」
そう言って、皮肉な笑みを浮かべ「俺を見ろよ」と言った。
「20年前の俺に、週一でこういう格好をするほうが人生楽だ、って言っても多分信じねえだろうよ。お前さんだって二ヶ月前の自分に『お前さんはこんな格好でこんなことをここでしている』って言っても多分信じねえだろうよ」
「でも……」
「お前さん、占い師だろう?」
「セツコさん」の姿のままでも、低い「組長」の声は大介の胸に応えた。
「占い師は占うだけにしときな」
そう言われた後、自分がどうやってその喫茶店から出たのか、殆ど大介は覚えてなかった。
占い師のビルに戻り、服を着替えて電車に乗っても、大介は混乱の中に居た。
機械のように着替えて挨拶をして、電車に乗ってはいるのだが、頭の中は綺麗に世界から切り離されて浮かんでいる気がする。
根本的な理由があるような気もするが、それどころではない気もして、焦るような、呆然とするような気分がない交ぜになって、結果、思考が半分空っぽになっている。
そう気がついたのは、占い師稼業を始めてからの癖で姉の病院の自動ドアをくぐり、見舞客名簿に自分の名前を書き込んだ辺りからだった。
とはいえ、すぐに思考の空っぽ部分が埋まるワケではない。
いつものように病院のベッドで暇つぶしにテレビを見ていた姉に挨拶して、いつものようにねだられるままに、姉の枕元に買ったまま転がっていたリンゴの皮を剥く。
(そういや、これが最後の一個か)
と思ったあたりでようやく「姉に相談しよう」という選択肢が頭の中に出来た。
「…………あのさ」
病院でぼんやりとリンゴを剥きながら、大介は姉の奈留に尋ねた。
「もしもさ、姉貴が男と付き合ってたとして、結婚まで行く、ってことになったとして、その人が実はもの凄い凶悪な殺人犯だ、って俺が言い出したら信じる?」
「……いきなり何いいだすかね、この弟は」
唐突な物言いに、奈留は溜息をついた。
「なあ、信じる?」
それでも虚ろな顔で言う弟に、奈留は何かを感じたのか、茶化そうとする口を閉じて、しばらく考え、
「ま、フツーは『信じられるか、阿呆』でお終いね」
「それって、女の人はみんなそうなのかな?」
「まあ、男でも女でも結婚するって決めるまでの相手ってのは特別だもの。親も兄弟も差し置いて、マズ信じるのが先決ね」
と大まじめに答えてから、奈留は少々後ろめたくなったのか、明るい口調に切り替えて、
「……よっぽど決定的な証拠でも突きつけられりゃあ話は別だろうけど、大抵そういう場合、ドラマだとドアの向こう側に相手が立ってて……ってパターンでアンタの頭に鉈がグサーっと……」
「あはは、あるかも……」
力のない笑いを浮かべる弟に、奈留は一瞬首を傾げたが、すぐに真顔になった。
「あんた、とうとう踏み込んじゃいけないところに踏み込んだね」
眉間に皺を寄せて、ぐいと上半身だけ詰め寄る姉に、思わず大介はのけぞりそうになった。
「え?」
「占いの客に深入りしない、これ最初に言ったよね?」
「……ごめん」
かっくん、と大介は頭を垂れた。
「謝る話じゃないわよ…………まったく、少しは……」
と説教モードに入りかけて、奈留ははっとした表情を浮かべた。
「…………女の子?」
「あ、いや…………その、女の子、っていうとなんか違うような……」
「正直に言いなさい、年上、年下?」
「…………年上」
消え入りそうな声で大介が答えると、奈留は長い長い溜息をついた。
「姉持ちの男は年下趣味になる、って聞いたけど、どういうわけかねえ……」
辛うじて自由な片手で自分の髪の毛をかき回すと、
「まあ、覚悟が決まってから、じゃなくてあくまでもアタシのピンチヒッターなわけだから、完全なプロは求めちゃいけないのよね」
溜息混じりに嘆いた。
「…………」
姉の言いたいことの意味が今二つほど掴めていないまま、大介は悄然と椅子に座っていたが、
「…………今日はもう遅いし、帰ってアタマを冷やしなさい。一晩寝て、それでも決められなかったら相談にのったげる……その時は頭からケツまで包み隠さず全部喋ること、いい?」