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渋谷川ヴェイン 長沢 樹

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35 太子堂 ――十月二十二日 火曜

 迷っても悩んでも思案の淵に沈んでも現実は一定の速度で進んでゆく。
「そろそろ働かないといけないかもしれません」
 タイロン・キウイ&レモンミックスを味わい終えた香砂が言った。「ここでバイトできますか?」
 スタンド越しにタイロンが「ごめんね、今は足りてるね」と申し訳なさそうに応えた。
「ジャージじゃ無理だろ」
 昴がスタンドのカウンターに寄り掛かり、半笑いで言う。
「これが一番動きやすいんだから。素人はこれだから……」
 香砂がトレードマーク(?)の赤いジャージの裾をつまみ、むきになって言い返す。
 夕方近くになり、キャットストリートを行き交う人の波も増えていた。
「俺もそろそろ高校行けって祖父さんがうるさい」
 二人は一時間ほど前、神宮署での聴取を終えていた。十九日の有田悠一殺害事件に関連するもので、直前に襲われた香砂と昴に、警察も注目しているのだ。
 美晴は、身元引受人の一人として、香砂を引率して、午後からは神宮署のロビーで仕事をしていた。昴の祖父は脚と腰に疾患があり、外出が困難であるため、美晴に引率を依頼したという形を取っていた。
『見てないものは仕方ないし、完全に不意打ちだったし』
 昴はそう応えたという。
『全然気づかなかったよね。なんのために昴に背中預けたのよ』
 香砂の弁。
『は? いつ俺にそんな命令した? ていうか香砂が勝手にずんずん行くからだろ』
 昴の抗弁。
 聴取は襲ってきた人間を見たかどうか、せめて男か女かわからないか、の一点だったらしいが、二人とも本当に見ていないようだった。
『でも、集中すっと周りが見えなくなるのも確かだしな』と昴。
『うーん』と香砂。
 香砂と昴の能力について知っているのは、水瀬を始めとするごく限られた人たちで、今日の聴取については、二人ともただの被害者に徹した。現場にいた理由も、“悪意”を追っていたのではなく、二人で遊んだ帰りだったと応えている。未成年である昴の深夜徘徊に関しては厳重にお灸を据えられたそうだ。
 とりあえず今日の山は越えた――美晴はタイロン特製疲労回復“レモン、アップル、プルーンミックス”を手に、ため息をつく。
 夜を徹し記事を二本アップし、仮眠をとった後、午前のうちに、タイロンに急遽疲労回復新メニューの提案をしていた。レモン、リンゴ、プルーンの果汁に隠し味に梅を加えたジュースを作ってもらい、徹夜明けの顔をそのまま使い、試飲リポートをした。なんの作為もない変顔が撮れた。それを記事にしたため、アップできたのは昼過ぎ。その後大急ぎで神宮署へ行き、香砂と昴の聴取につきあった。
 美晴が日常業務に汲々としている間に、菊池は早々に記事のアップを済ませ、岡琴美が勤めていた青進会ゼミの講師の中に“カエデ”という名前を見つけ出し、HPのキャッシュから英語講師の岩波楓が一○一号室の住人であることを確認した。
 そこから菊池がどのような人脈をたどったのかわからないが、青進会ゼミの脱税と粉飾決算の事件で、岩波楓が検察の聴取を受けていたことを突き止めた。
 聴取は密室で行われる。波長が合う人間がいれば、感染の可能性が高まる。そして、菊池は気になることを言っていた。
『助手の女性が一週間ほど病欠しているようだ』
 その菊池は、午前のうちに記事を三本アップし、久我山に向かった。
 それに引き替え自分はいま何を? 
「“うじゃうじゃ”の匂いはしないけど、やっぱ溜まるだろう? ここ」
「だね」と香砂は応える。
 香砂と昴は、いつの間にか作戦会議らしきものを始めていた。
「いろんな場所から人が集まるし、心が弱っている人も結構いるし」
 “悪意”を持ち込む人、“悪意”に憑かれやすい人が集まるということ。
「それにしても元気に走り回るね。ラジコン?」
 香砂は見えない何かを追うように、路面に視線を這わせていた。
「ばかか、サンダとガイラだ」
 昴の周囲を走り回る地夜叉が見えるのだろう。
「どうやったらそんなに動かせるの?」
「香砂はできないのかよ」
「集めるだけだよ? ご飯があるよーって」
 香砂はきょとんとした表情で応える。
「お前の言うこと聞かないのかよ」
「できたら苦労しないよ」
「おっしゃ、俺のほうがすげえ能力じゃね?」
「たった二匹のくせに」
「匹と言うな、匹と!」
 美晴はぼんやりとした頭で、これまでの香砂の“浄化”を思い返す。彼女自身の説明だが、数百の地夜叉を自分が立つ場所に集め、体の一部に宿し、“浄化”の相手に接触し、体内に送り込み、中に巣くう“悪意”を“喰らわせる”のだという。香砂の場合、宿す場所が唇で、送り込む行為がキスとなる。
 昴の場合は、常時二体の地夜叉、サンダとガイラを引き連れ、“悪意”に憑依された人間に放ち、中から追い出すという方法をとっている。二体という少数のためか、喰らうことはできないらしい。一長一短と言ったところか。
「ここっていつも溜まってるよな」
「だからいっつも境界にいるの?」
 香砂の何気ない言葉が引っかかった。いつもいる場所――境界?
「それって宮下公園のこと?」
 美晴は聞く。“悪意”は水脈をたどる――夜叉使いの家系が川のそばにあるのはそのためだ。去年、渋谷で香砂が修行と称して狩っていたのは、渋谷川から揚がって来た“悪意”たちだった。
 ふと思う、渋谷川はどこを流れている? 美晴の記憶にあるのは、玉川通りまで――そこから先は考えたこともなかった。バッグからタブレット端末を取り出し、ネットで渋谷川の流域を調べた。
 検索で上位に来たのは、渋谷駅周辺の再開発に関するものだった。そこでは数十年ぶりに姿を見せた渋谷川の暗渠部分が話題になっていた。
 東急百貨店の真下を流れ、開発に合わせ、流れを変える工事も行われている。
 片っ端から記事にアクセスすると、渋谷川は玉川通り付近から暗渠になり、宮下公園付近から東にわずかにカーブしてさらに上流へ……どうしてもっと早くこの可能性に気づかなかったのか――
 キャットストリートは、渋谷川の暗渠の上に作られた通りだった。マップを呼び出す。特にノースは、周囲の道路に比べ、蛇行しているのがわかった。川の流れに沿っているからだ。そこに渋谷川の暗渠を重ね合わせる。川は神宮前三丁目付近から外苑西通りの地下を通り、JR千駄ヶ谷駅の東を抜け、新宿御苑の東側の縁に沿うように北上し、四谷四丁目付近まで続いていた。ここで、玉川上水(暗渠)から分流され、水源となっているようだ。また新宿御苑の中にも水源があると記されていた。
 さらに、フラワー通り付近で渋谷川に合流する支流があった。
 代々木川と記されていた。初台付近から小田急線南新宿駅の真下、JR代々木駅の西側を抜け、北参道から千駄ヶ谷、フラワー通りと続いていた。
 特にこの渋谷川と代々木川に挟まれた地区と合流地点は、岡琴美の連続放火の多発地帯でもあった。
 さらに調べ、ようやく合点がいった。
 渋谷川の暗渠部は、宮下公園付近でせき止められていた。それが渋谷駅周辺の開発工事のためかどうかは、もっと調べなければわからないが、一応の結論は出た。
 多くの人間が集まる場所には、また“悪意”も集まる。
 渋谷川、代々木川の上流域である新宿はその最たる場所だ。
 “悪意”の一部は渋谷川、代々木川へ流れ込み、宮下公園でせき止められ、キャットストリートであふれ続けている?
 さらに、青進会ゼミは代々木川暗渠のすぐそばに位置していた。
 連続放火も、その模倣犯(同じ“悪意”によるもの)も、根はせき止められた渋谷川?
「なに見てるの、美晴ちゃん」
 香砂が気づき、ディスプレイを覗き込んできた。「どこの地図?」
「ここだよ」
 美晴は地面を指さした。「香砂ちゃん、この通りの下に渋谷川が流れている」
 美晴はマップ上のキャットストリートを指でなぞる。
「その川が、ここでせき止められてる」
 指先を、宮下公園前で止めた。
 もし岩波楓が“塊”なら、ここに溜まった“悪意”たちを拾い集めたのか?
「なるほど、俺もなんかおかしいと思ったんだよな」
 昴もディスプレイを覗き込み、知った風な口を利く。
 地形と現象の関係性は、十分記事になりそうだった。もっと突っこんで因果関係を調べた方がいいだろう。
「ねえ、今もたくさんいる?」
「いるよ」
 香砂は即答した。
「ただ、狩る必要がない小物ばっか」
 昴が後を受けた。「たまに合体して大物になることもあるけど」
「兆候があればわかりますから、その時はその時です」
 香砂が美晴に向けてガッツポーズを作る。
「やっぱ、駅の工事のせいで止められてんのか?」
「違う、あそこは前から境界になってた」
 香砂は昴に言い、美晴を見た。「です」
「じゃあ去年、渋谷にいたのは? 境界に関係あるの?」
 美晴は聞く。香砂は渋谷を狩りの修行と姉の仇討ちの場にしていた。
「倒すべき相手が渋谷にいたので、それ以上の意味はありません」
 渋谷駅周辺は、渋谷に集まる“悪意”の受け皿で、原宿=キャットストリートを中心とする、裏原宿と呼ばれる一帯は、新宿から流れ着く“悪意”の受け皿――香砂はそう説明した。
 境界とは、分水嶺のようなものか? 違う、水が物理的にせき止められていると考えたほうが自然だ。検索の方向が見え、思いつくワードを打ち込む。
 やはり、渋谷駅周辺の再開発に関連した記事が上位に来た。複数の記事を通して浮かび上がってくるのは、その地形だ。
 渋谷は文字通り谷底の地形で、雨水が溜まりやすい。その対策として、宮下公園地下に堰が造られた。
 渋谷川は、宮下公園の地下で分断されていたのだ。
「ある一定の雨量になると、雨水が堰を越えて渋谷方面に流れていく構造みたい」
「ダムみたいなもんか」と昴。
 そして、渋谷駅東口の地下には、巨大な雨水貯留施設が建設されようとしていた。
「……大雨の時、四千トンの水が溜められるみたい」
 近年増えたゲリラ豪雨対策だ。
 顔を上げると、香砂が腕を組んでいた。
「大きなプールができるんですね」
「大雨の時だけ、使うみたいだけど」
「じゃあ、この辺の全部の“悪意”が、ここに集まるかもしれませんね。大変になりそう」
 渋谷系の“悪意”と、新宿系の“悪意”が一点に集中するということか。
「だな」と昴。
 香砂の心配もわかるが――
「先のことも大切だけど」
 美晴は脱線しかける二人を窘める。「今は“塊”と“殺し屋”に集中ね」
「言われなくてもわかってら、うっせーな」
 “殺し屋”は憑依された人間を見つけ、人を遠ざけるなど然るべき状況を作り出せば、“浄化”出来るだろう。だが“塊”はどうする。
「でもこの二、三日気配も感じないよ」
 香砂の探知能力は、昴以上だ。「少なくとも渋谷圏内には来てないです」
 岩波が“塊”であることは確定しているが、“殺し屋”はまだ菊池が情報を収集している段階だ。
 本体が出てくれば特定もできようが、気配を消し、狩人を襲うという性質も明らかになった。無為に二人を駆り出すことはできなかった。
 接近するなら、複数で香砂の背を守るように。
 そこまで考えて、わずかな矛盾が頭をもたげてきた。
「ねえ、集中すると周りが見えなくなるって、それは監視する対象に神経を集中してるってこと?」
「そうです」
 香砂がうなずく。昴も「だな」と。
「だったらその時“殺し屋”は見えていたのね」
「はい、感じてました」と香砂。
「感じてたから、そっちに集中してたに決まってるだろ」
 だったら、誰かが“殺し屋”の背後を守っている?
 バッグの中で、スマホが振動した。菊池からのメールだった。
《神宮署水瀬主任が、殺し屋と疑われる人物のヤサに向かった。取材してくれ。一緒にいるなら城丸香砂、もしくは赤井昴を同行させたほうがいい》
 住所と対象者の名が書かれていた。石崎光里。検察事務官だった。彼女が“殺し屋”なのかどうか、確認しろということだ。
《水瀬主任がいるが、身を守ってくれる誰かを同行させたほうがいいだろう》
 スマホをバッグにしまう。
 メールの内容は見られていないはずだが、表情を読んだのだろう、香砂、昴ともに口許を引き締め、美晴の様子をうかがっていた。
 一瞬タイロンを見たが、営業時間はまだ残っている。夏目も友野も仕事をしている時間帯だ。
「見つかったんだろ、“殺し屋”」
 昴の口の端が不敵につり上がる。
「どこですか!」
 香砂が詰め寄る。
 改めて思う――なんなのだ、この躊躇のなさは。報われることも労れることもないのに、襲われ、命の危険さえ感じてもいいのに。
「俺の本当の凄さを香砂に見せてやる」
「どこですか!」
 二人ともつれて行くしかない。
 そして、背中を守り、かつ二人を抑えてくれる人が必要だった。

 最寄りである三軒茶屋の駅に降り立ったのは、三十分後だった。
 地上に出ると、香砂は辺りを見回し、首都高の巨大な高架を背に、勝手に歩き出した。肩の力み具合で、逸っているのがわかった。
 スマホのマップを確認すると、石崎の住居の方向だった。香砂は昴を従えるように、賑やかできれいに整備された商店街を進んでゆく。空は茜色に染まりかけ、“悪意”たちの力が増してくる時間帯だ。
 数分歩き、石畳の歩行者専用遊歩道との交差点に到達した。ここを右折すれば、石崎光里の住居までほぼ一本道だ。
「ここで少し待って。護衛と合流するから」
「匂いがします! 早く行かないと逃げるです!」
 敬語がおかしくなるほど、香砂は戦闘に集中し始めていた。
「バカのひとつ覚えで突っこむとケガするぞって言ってんだ」
 昴はわずかに口許を引き攣らせている。「作戦とか戦術とかないのか、香砂は」
「そんな大したものじゃないけど」
 電車に乗る前に、“護衛”に連絡していた。ノリのいい護衛たちは二つ返事で急行すると勇んでいた。十分も待てば、合流できるだろう。
 菊池に太子堂に到着したとメールした。
 香砂は苛立ったようにその場を行ったり来たり忙しない。
 数分後、商店街を走ってくる中年が二人、美晴の視界に入った。
「護衛隊長参上!」
「副隊長参上」
 羽根田編集長と、後藤デスクだった。取材の延長なら、二人を呼んでも問題はなかった。
「これから菊池さんに指定された、連続殺人犯と思われる人物の家に接近します。その人物に“悪意”が取り憑いているなら、彼女と彼が反応します」
 美晴は、香砂と昴を紹介した。
「これが噂の狩人姉弟か」と後藤。
「乗るのはやはり“あずさ2号”か」と羽根田。
 昴が「わけわからんおっさんだな」と呟いた。
「よし、オレが前を歩こう」
 変顔王、後藤デスクが先頭に立った。「なんせプロレス二段だからな」
 後藤は『破壊王』と書かれた鉢巻きを締め、歩き出す。その背後に、『平成維震軍』の鉢巻きを締め、動画撮影モードのスマホを構えた羽根田編集長が進み、昴が香砂の肩を押さえつつその背後についた。美晴はスマホでマップを確認しながら、最後尾についた。
 香砂は呼吸を整えつつ、集中するように一点を見ていた。
「どう香砂ちゃん、近い?」
 香砂の横顔を見ながら、美晴は聞く。
「匂いがするけど、遠くなってく」
 香砂は小声で応えた。「出かけたのかも」
「気づかれた?」
 美晴が声をかける。「逃げられたの?」
「そんな感じじゃないですけど……」
「でもこんなに匂いが残ってるってことは、相当強くねーか?」
 昴も警戒感を滲ませる。強がってはいるが怖いことは怖いようだ。何も感じない先頭の二人は「悪霊退散!」などと口にしながら歩いている。
 百五十メートルほど直線が続き、遊歩道は左に緩くカーブし、右手に小さな池が見えてきた。「一度止まってください」
 池の脇で美晴は言った。
「ついたか」と後藤。気合いの入った顔を羽根田がすかさず撮っている。
「神宮署の刑事さんが来ているはずです。面識がありますので見てきます」
「マジなのか?」と目を丸くしたのは羽根田だった。
「何しに来たのおっさん」と昴。
 菊池が送ってきた住所によれば、石崎の住居はこの道に並行する細い路地に面していた。
「香砂ちゃん来てくれる? 後藤さん一緒にお願いします」
 美晴は昴に周囲の警戒、羽根田に昴と一緒にいるように要請すると、香砂と後藤を連れて脇道に入り、路地との辻を左折した。車がすれ違えるかどうかの道幅で、古くからの住宅や商店が肩を寄せあっていた。
 十五メートルほど先の駐車場に、パンツスーツ姿の水瀬の姿があった。塀の陰から、前方をうかがっている。
「よし、ここからは夫婦と娘という設定で……」
「無理がありすぎます」
 美晴は後藤の提案をすぐに却下する。ひとまず水瀬がいれば――
「後藤さんはここで目立たないように待っててください。何かあったらすぐに駆けつけていただけますか」
「うむ、そこに立ち呑み屋がある」
 後藤は五メートルほど後方を指さす。酒屋の一角が、立ち呑みカウンターになっていて、すでに男性数人が飲んでいた。「そこでリアルに客になりすましているから」
 美晴は「お願いします」と頭を下げ、香砂が暴走しないよう腰に手を回し、水瀬の元に歩み寄る。すぐに水瀬が気配に気づき、振り向いた。水瀬もまた、鋭い勘の持ち主だと改めて思った。
「二人だけで来たの?」
「いいえ、編集部の方を連れて。あそこにいます」
 視線を立ち呑み屋に向ける。後藤は既にほかの客と打ち解けたようにコップ酒を飲み始めていた。「頼りになるかどうかわかりませんが、いないよりはいいかと」
 水瀬が香砂に視線を移した。
「どう? 感じる?」
「ここから離れつつあります。でも“殺し屋”の匂いです」
 香砂が応えると、水瀬は小さく息を吐いた。
「どこに行ったかわかる?」
 美晴が聞くと、香砂は一方を指さした。
 スマホで方角を調べると、北東だった。岩波がいる久我山とは方向が違う。香砂が指し示す方向の地名を追ってみると、渋谷、原宿方面だった。
「水瀬さん、こちらの方角に殺人の対象になりそうな人はいますか」
 水瀬は無言でスマホを取りだし、電話をした。
「追えそう?」
 美晴が聞くと、香砂は小さく首を横に振った。
「渋谷の周り、“悪意”が多いので、紛れられるとちょっと難しいです。でも家がわかったから、日を改めて捕まえて“浄化”出来ます。ここ以外の場所で」
「ここ以外? どうして?」
「水が近すぎるです」
 住宅が密集した一帯だが――住宅街の中で曲がりくねる石畳の遊歩道が、キャットストリートに重なる。美晴はブックマークしておいた東京都の暗渠マップを呼び出し、世田谷区にズームした。やはり――遊歩道の下は暗渠だった。烏山川だ。下流は池尻付近で北沢川と合流、ここで目黒川と名を変える。
「逃げられれば、目黒川を通じて、すぐに海に抜けられるのね」
 それ以前に、世田谷区の地下には、毛細血管のように暗渠網が構成されていた。
「海までは逃げないと思うですが」
 目黒川は人口密集地帯を流れている。誰にでも乗り移れるということ。
「上流にも逃げられます」
 美晴は上流を調べる。烏山川は、多くの支流を持っていたが、本流は久我山の人見街道付近が源流となっていた。
「いざとなれば親元に戻れるのか……」
 美晴は思わず呟いたが、岩波が久我山に引っ越したのは、既に事件が発生したあとだ。
「“悪意”同士が引き寄せ合ってるのかもしれないです。“塊”がコガヤマに落ち着いたのも、たぶん偶然じゃないです」
 強力な“殺し屋”が、岩波を引き寄せた?
「“殺し屋”は自分こそ正義だと思っています」
 香砂は表情を険しくする。「でも罪を憎んで人を憎まずです。殺すのは最も簡単でなにも解決しない最悪な手段です。罪の心だけを取り除くのが夜叉使いの使命です……ってお姉ちゃんが言ってました」
 少し離れたところでは、水瀬がまだ声を潜め、電話でやり合っている。
「わたし、実はちょっとだけ“塊”さんを殺すことを考えました。夜叉使い失格です」
 また、スマホが振動した。菊池だ。
《岩波が動いた。追跡する》
 美晴も《“塊”と疑われる女性が外出したと城丸さんが言っています。北へ向かったとのこと。在宅は確認していません》と返信した。
 一分ほど経って返信が来た。
《岩波と石崎の動きがリンクしている可能性を考慮しよう。できれば在宅か不在か確認してくれ。また連絡する》
 スマホをしまうと、水瀬も電話を終えていた。
「岩波さんが出かけたみたいです」
 美晴が言うと、水瀬は脱力したように息を吐いた。
「菊池という記者ね。今うちの相棒も彼女を張ってる」
「石崎さんが不在のようだと伝えたら、岩波さんの動きとリンクしているのかもしれないって。まず在宅確認が必要だって」
「それも菊池ね。ええ、わたしもその可能性を相棒に伝えたわ」
 あまり深入りしてくるな――水瀬の目はそう語っている。しかし、ここで躊躇したら前に進めなくなるような気がした。
「まず石崎さんが在宅しているか確認しましょう」
「ここから動かないで」
 水瀬は釘を刺すと、十数メートル先の三階建ての小さなマンションに入っていった。
「追うなら早いほうがいいです」
「水瀬さんが出てくるのを待ちましょう。そんなに長くかからないと思うけど」
 ほんの数分で水瀬は戻ってきた。
「いない」
 水瀬は香砂に視線を向ける。「追ってくれる?」
「見失うかもしれませんが、やってみます」
 香砂は呼吸を整えるように、ゆっくりと息を吐きだした。

36 誘引  ――十月二十二日 火曜

「勝手に動いたらだめだろう」
 そうわたしを窘めたKは、額に汗をかいていた。Kでも必死になることもあるんだと、表情を変化させない程度に笑った。
 彼が必死になるのは、自分の思い通りに物事が進まないときと、自分が否定されそうなとき。嘘を指摘されるときは余裕で切り返すのに。
 スマートフォンの電源を切ることは許されていない。外出の際は、常に複数の携帯型の充電器を持つよう、固く言われている。常に連絡が取れるようにするため。GPSによる位置情報アプリにより、常に居場所を把握しておくため。
 不意に予定外の場所に行くとKか、もう一人のKがやって来る。二人とも都合がつかないときは、別の人が。
 ただ、さすがに原宿まで来てしまうと、Kも自分で来る。それは予想通りだった。
 原宿は古くて新しい街。
 お洒落で現代的なビルやショップのすぐ脇には、昔ながらの住宅や小さな木造民家が並ぶ。人と人がやっとすれ違えるだけの路地が縦横に走り、建物と建物の隙間には木立があり、死角を作り、賑やかさが些細な音や異変を消してくれる。
 Kがわたしを見つけたのは、小さなオフィスビルと、空き家の間に挟まれた薄暗く、苔むした塀と小さなケヤキが死角を作る路地の一角だった。
 本当に逃げたいのなら、スマホを置いてくればいいだけのこと。今まで従順だったから――一歩を踏み出せなかったから、誘っていることに気づかない。
「おととい、たくさんの幽体を切り離したから、補充したほうがいいかなと思って」
 一部はこの地下にある水系に戻っているかもしれない。新たに捕獲するにしても、わたしの中に“同居”させるなら、同じ水系の“悪意”がいい、と今まで通り顔色をうかがいながら、たどたどしく説明する。
「気持ちはわかるが、勝手な真似はするな」
 逃げ出したわけではないとわかって、Kの態度に余裕が戻った。
 わずか十数メートルしか離れていない通りの賑わいが、わたしとKを包んでいる。ビル壁と軒の形に切りとられた空は、濃紺になりつつある。
 周囲に人の目がないことを確認する。
「それとも、今から新たな展開をまたひとつ創るか……」
 Kが視線を通りがある方向に向けた。わたしは肩にかけたトートバッグから角張ったウィスキーの瓶を掴み出すと、Kの側頭部に振り下ろした。
「ごめんなさい」
 膝をつき、驚愕に目を見開いているKに、まず謝った。そして、中途半端だった一撃目を反省し、渾身の力でもう一度瓶を振り下ろした。
 昏倒したKの口にハンカチを含ませ、ガムテープで塞ぎ、両手足を結束バンドで縛った。
 これで邪魔は入らない。
 午後になり、もう一度石崎光里にだめ押しとなるメールを送っていた。
 直後、“仇討ち”の気配が動くのを感じた。理想を追うのではなく、排除と否定のみが目的化した、哀れな魂――その排除の意思が、殺人という最悪の結果を生んだ。
 逃げも隠れもしない。
 夕闇は“悪意”たちに力を与える。
 わたしは力が最高潮の“仇討ち”を迎える。その代わり、その時まで力が最高潮になった内なる“悪意”たちを抑えなければならない。
 皮肉で、辛い状況。でも、それはわたしへの罰。怪物を生み出し続けるわたしへの。


(第20回につづく)



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プロフィール

長沢 樹
(ながさわ いつき)

新潟県生まれ。二〇一一年、第三一回横溝正史ミステリ大賞〈大賞〉を受賞し、『消失グラデーション』でデビュー。他の著書に『夏服パースペクティヴ』、『冬空トランス』、『リップステイン』、『St.ルーピーズ』など多数。