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渋谷川ヴェイン 長沢 樹

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27 夜 ――十月十九日 土曜

 水瀬は午前のうちに令状を取り、鉄道会社に協力を求め、代々木五丁目六六の踏切に設置された監視カメラの映像で、岡琴美の通過を確認した。
 八月二十四日の午後一時十七分と、午後一時三十六分。代々木公園を横断して、踏切を通過、百瀬邸に火を付け戻ってくるのに十分な時間だった。しかも代々木公園側から踏切を通過する際に膨らんでいたリュックが、戻ってくる時には萎んだ状態になっていた。
 中に入っていた火炎瓶を使い切ったからと考えて矛盾はない。
 これを以て、岡琴美が百瀬邸に火を付けたという直接の証拠にはならないが、事件の発生の時間帯は、初台付近をジョギングしていいたという供述が嘘であることは証明された。
 百瀬邸の焼け跡から見つかった、一輪挿しの一部と思われる陶器の破片、岡琴美の一輪挿しの購入記録、百瀬塾長に対する動機、そして、原宿駅と踏切の監視カメラ映像を組み合わせれば、有罪に持ち込めるだろう。
 所定の手続きを踏み、映像のデータをコピーし鉄道会社を出ると、日が暮れかかっていた。相島に待っているよう指示し、歩道の隅に寄り、捜査本部の湯浅に連絡を入れた。
「……ええ、確実です。八代さんに伝えて岡にぶつけてもいいと思います」
 電話を切ると、相島が上目遣いに水瀬を見ていた。
「別に帰ってからでも遅くないでしょうに」
「早く伝えれば早く岡にぶつけることができる。その分早く落ちる可能性があるじゃない」
「優しいんすね」
 相島が八代を心底嫌っていることは承知していた。
「わたしはこれで岡が落ちると踏んでる。それだけ。落とすのが誰かは関係ない」
「それはわかってますけどね」
 男は理屈で動くが、理屈でわかっていても自分をねじ伏せられないところが、男の面倒な部分だ。
「最後くらい八代さんに花持たせたほうが後腐れないか!」
 相島はうそぶくように言った。
 水瀬は相島に車を出してくるよう指示すると、頭の中を整理する。
 岡琴美が認めていないのは、百瀬邸の放火だけだ。今日落ちれば勾留の延長をせずに済むかもしれない。二人死亡――厳しい判決が出るだろう。もし“悪意”なるものが実在し――水瀬は実在するものとして行動しているが、憑依された者の意に反し犯罪を誘発させたのなら、憑依された者も犠牲者と言える。
 自分が香砂と同じ立場だったら、使命と思いその道を歩むか、使命に抗い自分の道を歩むか――使命に関係なく、“悪意”の“浄化”という与えられた能力を使うに違いない。今の香砂と同じく。
 “悪意”を違法薬物や銃器にたとえるなら、末端の売人を叩いたところで、仕事上の点数にはなるが、社会全体をみれば、大した成果ではない。これらの犯罪を取り締まるのは、中継地点、供給源を叩くのが一番効果的なのだ。
 “悪意”の存在を公式に認めることはできないが、香砂と昴を効果的に差配することで、中継地点か供給源を断つことはできないか――何気なく考えていただけだが、実践の時が来ようとは、この時は思っていなかった。
 地下駐車場から出て来た車輌が、水瀬の前に停まる。
 水瀬は助手席のドアを開け、監視カメラの映像が記録されたUSBメモリを、シートの上に置いた。 
「先に戻ってて」
「いつもの気まぐれですね」
 相島は達観したように言う。「和田の殺しの帳場っすか」
 こんなことができるのも、起訴が見えてきたからだ。
「旧友に挨拶するだけ」
 水瀬がドアを閉めると、車は走り去った。地下鉄の駅に向かいながら、佐藤に電話を入れたが留守電になり、一度切った。数分後、青梅街道の西新宿駅入口で、佐藤から折り返し着信が入った。
『忙しいんだけど、なに』
「忙しいんなら無視すればいいのに。どう?」
 事件から四日。現場付近で小柄な不審者が目撃され、地下鉄中野富士見町駅前のコンビニの防犯カメラに、黒いパーカにフードを被った同様の人物が映っていたことは報道されている。
『まあ、ぼちぼち』
 高校の同級生で、元同僚だが、部署が違えばおいそれと捜査情報は漏らしてくれない。
「赤坂署の帳場と情報交換は?」
 一昨日の比留間敬太殺害事件だ。
『いきなり飛躍してるな』
「しているのね」
 水瀬は確認を持って言った。「それ、正しい選択だと思う」
『城丸香砂がそう言ってるんだな』
 佐藤も察したようだ。
「今も捜してるけど、あの子見つけたら真っ直ぐ突っこむと思う」
 電話の向こうでため息をつくのがわかった。
『マジであの子に判断預けるのか』
「今は連絡が取れるようにしてあるから、これ以上犠牲者が出ないうちに手を打たないと」
『だとしても、それは俺の仕事だ。勝手に首突っこんでくるなよ』
「だから周に相談してるんじゃない」
『必要になったら連絡する』
「ホシは同一人物。絶対に共通点はあるはずだから、なんとか帳場を誘導できない? 刃物持ち歩いているんなら、わたしが職質バンかけて引っ張ることもできる」
『出来るわけないだろうが、そんなこと。というか、そっちの放火はどうなったんだよ』
「もうすぐ全部の決着がつく。“悪意”も香砂ちゃんが消滅させたから、模倣犯も出ない」
『一から十まで信じることはできないぞ』
 佐藤の反応は、至極当然と言えた。しかし、連続放火を終息させたのは、香砂にしたがったからだ。
「それでいい。香砂ちゃんのことも、わたしと周だけが把握していれば、なんとかなると思わない?」
 なぜそう作用するのか、どのようなプロセスと理屈を経てそのような結果が出るのか不明でも、一定した結果が出るなら、採用、実用化される。物理や薬学の世界ではあることだ。
『それでこの電話の本当の意図は』
「南青山の情報が欲しい。被害者に共通項があれば、ホシに憑いた“悪意”の性質もより見極めやすい」
 結局、地下鉄東高円寺駅前で落ち合うことになった。

 青梅街道から一本路地に入ったカフェで佐藤周と向かい合った。
「少し痩せたな」
「周は少し太った」
 二人はビールのグラスを合わせた。「一杯だけだ」
 佐藤はすぐに捜査本部に戻らなければならない。
 十分ほどは、裏原宿の連続放火の経過を説明した。事件における、香砂の果たした役割と、生活の状況も。
「被害者にも共通項はある」
 佐藤はぼそりと言った。「言わずもがなだが、ほかに漏らすな」
 水瀬はうなずく。
 杉並区和田の神田川沿いの道で刺殺された藪下麻巳子は、夫のDVが原因で離婚、その後再婚ということだったが――
「……そのDVがでっち上げだった可能性がある。裁判の時も証言が二転三転して、証拠とされた日記も、曖昧な点や事実と違うと認定された部分がある。体に十二箇所の傷や痣があったが、いくつかは自分で付けたと認定されている」
 有利な条件で離婚し、不倫相手と再婚するためにDVを捏造した疑いがあるが、それを立証するだけの証拠がない、という構図だった。
「なぜ夫は裁判に負けたの?」
「DVがなかったと完全に証明できなかったことと、熱しやすい性格のため。裁判でも怒鳴り散らすことが多かったようだ」
「だからDVを捏造しても勝てると踏んだのね」
「そういう見方もできる、ということだ」
「夫は?」
「定番というか、会社は解雇、再就職も上手く行かなくて、周囲からは孤立。酒とギャンブルに溺れて、自殺」
「香砂ちゃんは、歪んだ正義って言ってたが……」
 佐藤はスマホを取りだし、ある画像を呼び出すと、水瀬に向けた。
 現場写真だった。被害者=藪下麻巳子の腕の下に、B5サイズの紙が置かれていた。
「マスコミには公表していないが、藪下の罪状が書かれている」
「じゃあ比留間も?」
 佐藤は首を横に振った。「断罪状は見つかっていないが比留間敬太も、経済ジャーナリストのほかに、経営コンサルタントという一面も持っていた。いわゆる悪徳コンサルタントというやつで、中小起業への粉飾指南をしていた」
 資金繰りに苦しむ中小企業へ、粉飾決算を持ちかけ、銀行から不正に融資を引き出す。いくつかの企業は摘発され、無論比留間も逮捕されるが、比留間個人へのダメージと企業のダメージはまるで違う。
「粉飾自体は必要悪のようなもので、検察も目の色変えて摘発するようなものではないが」
 佐藤によると、摘発された経営者で、幾人か自殺者も出ているという。
「悪事に変わりはない」
 法で裁けない藪下麻巳子。善良だが経営が苦しい企業につけ込んで、犯罪を指南して、企業を潰しながら自分は軽い刑罰だけで済んでいる比留間敬太――
「社会が裁ききれない相手を殺害しているのね」
「今のところは、そんな流れだな」
 佐藤は視線をずらし、応えた。「選択肢のひとつとして」
 まだ二件だから何とも言えないが、三人目の犠牲者を出すわけにもいかない。
「だったら、被疑者は絞られるわね」
 藪下麻巳子や比留間敬太の“悪行”を情報として知ることができる立場の者は多くないだろう。「マスコミ関係者、捜査関係者……それに、司法関係者」
 弁護士やその他の公務員も含まれるかもしれない。法律の限界を知る者たちだ。歪んだ正義、歪んだ義憤を持つに能うもの。
「少なくともテレビ関東のエースよりは早くホシにたどり着かないとな」
「何よそれ」
「どんな現場にもいち早く姿を現す報道記者だよ。いや、記者クラブに入っていないから、ディレクターと呼んだ方がいいか」
 連続放火でも逮捕前に岡琴美に目を付け、密かに追っていたという。
「お前当事者なのに知らなかったのか」
 佐藤は呆れたように言った。水瀬はマスコミ対応には一切関係していない。
「表参道のコンビニに火を付けたときも、岡を追っていたからこそ、直後の映像が撮れたんだ。うちの班長も、スカウトしたいとか言ってたぜ」
 比留間敬太殺害の時も、警察より早く現場にいたという。
「赤坂署の帳場にはどの班が?」
「三田村さんとこ」
 殺人犯捜査第七係だ。
「二件目の現場にいたってことは、一件目で誰かに目星を付けた可能性が高いね」
「その可能性もなきにしもあらずってところだ。そう何度も警察を出し抜けるわけないだろう」
 佐藤は薄く笑い、クラスのビールを飲み干した。タイムアップだ。
「そのディレクターの名前教えて」
 佐藤はボールペンを取り出すと、紙ナプキンにその名を書いた。
「久島一也。三十五歳で、KKとかレジェンドとか呼ばれてるって」
 特に重要だとは思っていなかったが、水瀬は紙ナプキンをポケットにしまった。
 佐藤と別れ、青梅街道に出たところで、湯浅から電話があった。
 街灯が点き、日中よりも列車の音がクリアに聞こえる。路地には暗がりが増え、『第二人見荘』もシルエットとなった。
 夕闇から夜にかけての変化、周囲の変容も画像と映像に収めることができた。午後七時を過ぎても、一○一の住人は、戻らなかった。美晴は木俣に電話を入れ、午後八時から二階外廊下に滞在することを伝え、再度久我山駅に戻り、コインロッカーから用意しておいたリュックを取り出した。
 心霊スポットで一晩過ごすだけの企画なら、掃いて捨てるほどある。『BURST・NEWS』らしく、飛鳥井美晴らしい視点が必要――そう考えた末が、この紙袋だ。今日の午前になり、急遽ショップと交渉して“商品”の貸出の承諾を得た。
 リュックを背負い、途中コンビニによって、夕食用のカップラーメンを買い、携帯用のポットに熱湯を入れた。
 これで夜明かしの準備ができ、三度、『第二人見荘』の前に立つ。小さな駐車場は塀と、手入れされていない木々に囲まれ、近所からはよく見通せず、街灯の光もほとんど届かない。夜になり、この敷地が周囲から隔絶されているという印象がより色濃くなった。
 なるほど、これが本当の姿か。
 美晴はスマホを自分に向け、動画モードにする。
「夜になると、遠くの音しか聞こえなくなりました。辺りは物音ひとつしません」
 恐怖に耐える表情を意識する。「時々聞こえる電車の音が、逆に怖かったりします」
 そのまま、自撮りしながら階段を上る。二階の通路は蛍光灯がひとつ、点いているだけだった。
 階段の反対側の端に陣取ることにした。蛍光灯からも遠く、剪定されていない樫の木の枝が入り込んできて、荒廃した雰囲気も出ている。
 リュックを降ろし、小型のキャンプチェアを出し、腰を下ろすと、スマホでニュースをチェックする。南青山の事件も進展なく、新たな情報は、死亡した比留間敬太の死因が失血死と確認されたということだけだった。杉並の女性殺害も、いくつかのテレビ局の動画ニュースサイトで、遺族や近所の人のインタビューがアップされていたが、ほかは事件発生時の状況を再検証しているだけで、進展を示す情報はなかった。世間の注目はやはり女性が殺された事件のほうだ。
 ――再婚が決まって喜んでいたんですがね。
 ――前の旦那さんのDVに苦しんだようですね。
 苦労のあと、ようやく幸せをつかめると思ったところでの、理不尽な事件。記事を読むとそんな印象を受けた。
 だが、如月によると、犯人は……正確には、犯人に憑依した“悪意”は、歪んだ正義の持ち主なのだという。歪んでいるとは言え、正義の持ち主なら、殺された女性は正義に反していたことになる。ニュースとは正反対の印象だ。
 午後八時になり、リュックから小型のムービーカメラと三脚を取り出し、自分が映るようにセットし、録画ボタンを押す。これで取材スタート、だが何が変わるわけでもない。場所を変えず、時々リポートを入れ、スマホで画像を撮る。それだけだ。住民が戻ってくれば、インタビューを試みる。
 実際、何かが起こるとは思えなかった。それでもそれらしく、記事を構成する。それがオリジナルシリーズの絶対条件だ。それも、住民のインタビューがあってこそだが。
 モバイル充電器を用意し、ワンセグ放送を観て時間を潰すが、時間はなかなか進まない。香砂には携帯電話を渡していて、“殺し屋”など危険な“悪意”を見つけた場合は必ず連絡するよう言い含めてあるが、“悪意”を見つけた途端、全てを忘れて立ち向かう可能性もあった。
「心なしか寒くなってきました」
 不安げに周囲を見渡したあと、カメラに向かって喋ってみるが、変化もなく、ジリジリと時が過ぎる。間が持たず、予定より早く食事にする。
 カメラに向かい、怖くて寒いけど空腹には勝てない、という表情を少々大袈裟につくり、カップラーメンに熱湯を注ぎ、三分待ち、食べるシーンを撮るが、五分で終わってしまった。
「おなかが膨らんでも、怖いことに変わりありませんね」
 カメラに向かって言うと、美晴はリュックからビンを取りだした。
「そんな時はこれ。アロマディフューザーで恐さを和らげつつ一晩を過ごしましょうか」
 アルコールランプ状の瓶で、スイッチを入れると、内蔵バッテリーで淡いランプが点灯し、同時にアロマミストが上部の口から噴き出す仕組みになっていた。
 心霊スポットで一夜を過ごすための、お役立ち便利グッズを紹介する。
 それが美晴の打ち出した“独自色”だった。
「恐怖や不安を和らげる効果があるということで、アロマはイランイランとクラリセージをブレンドしました。これで、一晩がんばります!」
 毎回グッズを探し、製造元の交渉は大変だが、自分に課したことだ。
 アロマ自体は専門外だが、実際いい香りで、心が落ち着いた気がした。
 ただ、いつまで待っても一○一の住人は帰ってこなかった。
 汗がひと筋、額を伝う。
 少年は一定距離を保ったまま、こちらを探るように追ってきた。
 気づかないふりをしているが、諦めてくれない。付きまとわないでくれ――一度何気ないふりをして、道を戻ったが、少年も距離を保ち後退した。
 地夜叉の気配を感じた。
 狩人だ――そして、わたしは標的だ。
 三年前に若い女性の狩人に会って以来だが、この少年はさらに若く、十代半ばに見えた。
 少年は通りを隔てて、わたしを監視している。
 ただ、わたしが“憑き物”をまとっていることに確信が持てていないのだろう。
 今は“彼ら”を抑え込んでいるから。それでも、わずかでも“彼ら”の気配が漏れるからこそ、少年はわたしから離れないのだ。
 日が落ち、街は人工色に彩られ、わたしの周囲に蠢く“彼ら”は少年に反応し、力を解放しようと身を捩っている。本能的に、少年が敵だと感じているのだ。余計に、抑える気力の消耗が激しくなる。
 あの少年の存在自体が、わたしの意に反し、事態を悪化させようとしている――
 どうすればいい。宮下公園前まで来て、誰かを待つ風を装いKに電話を入れたが、出てくれない。メールアプリと留守電に助けを求めたが、伝わるかどうかわからない。
 抑える力も、そろそろ限界だ。このまま不用意に渋谷駅周辺に足を踏み入れれば、数多くの感染者を出してしまうだろう。
 夜は“彼ら”に力を与える。
 そして、ここ――宮下公園前は何かの境界になっていると感じていた。
 物理的な境界ではなく、“気”の流れの境界だ。
 歩道沿いの縁石に腰掛け、抑制の力を緩め、しばらく休憩してから帰宅することにした。その間、“彼ら”は解放されるが、ここなら被害も最小限に済むはずだ。
 呼吸を整え、力を緩めた。疲労が全身にのし掛かり、急激な睡魔が瞼を重くする。
 足音が通り過ぎてゆく。行き交う人が強い心を持っていることを願うしかない。
 肩に手を置かれ、目が覚めた。
 顔を上げると、茶髪の男がわたしを見下ろしていた。細面で整った顔。だが賢しさを備え、世を舐めながらも、それなりに渡っている――一目でそう読めるほど、茶髪が発するオーラはわかりやすかった。ほかに、黒い影が四人。合わせて五人か。
 疲労が抜けず息苦しかった。自覚以上に消耗していた。
「お姉さん何してるの。こんなところで寝てると、さらわれちゃうよ」
 手をかけた茶髪の背後で、笑いが起こる。カジュアルな雰囲気で、全員髪は長め。一人はハットを被っている。大学生か。
「これから飲みに行くんだけど……」
 ――でも、着てるもん安っぽくね?
 ――脱がせば一緒じゃん?
「なに息荒いの」
 茶髪が半笑いで言う。「もしかして俺たち見て昂ぶってる?」
 ――援交希望とか?
 男の背後で囁き合うのが聞こえてくる。
「人を待ってるんです」
「寝てたじゃん。それに誰かと会うならもっとマシな格好しなよ」
 肩をつかむ手に力がこもった。
 ――一人が感染した。
 剥がれ落ちたのは、“幽閉”だ。
 誤解から長く軟禁され、自由を奪われ、大きなストレスと恨みを抱いたまま、この世を去った残留思念の塊。憑いたのは肩をつかんだ男ではない。
 素早く視線を走らせると、一番後方にいる男に変化が現れてた。
 五人の中では一番顔が優しげで、グループの雰囲気と合っていない。日頃から利用され、いじられ、今日もいやいや同行させられている――そんな精神状態が“幽閉”を通じて感じ取れた。
 閉塞感とストレス。波長が合ったようだ。
 憑かれた男がわたしの前にやって来て、茶髪を押し退けた。
「なんだよマサフミ、ざけんなよ」
 茶髪がわずかに目を剥いた。
 マサフミは茶髪を一顧だにせず、わたしの両肩をつかんだ。
「なあどうすればいい」
 マサフミの言葉だが、半分は“幽閉”の言葉だ。
 罪悪感が増す。憑依してしまった“彼ら”に対して、わたしは為す術を持たない。
「ごめんなさい」
 わたしは応えた。マサフミを咎人にしてしまう――「でも、人に迷惑をかけないで。自由には責任が伴うから」
 
“幽閉”は自由を知らない。“幽閉”が描く自由が想像できない。“革命家”と“仇討ち”ほど直截的に人を傷つけることはないと思うが。
「なに言ってんのお姉さん。マサフミもふざけんなよ」
 茶髪がマサフミの腕を掴み、わたしから引きはがした。
「うざいよ、ヒロム」
 マサフミが茶髪の手を払った。「人を縛んなよ」
「なに? 反抗期!?」
 仲間の一人が、声を上ずらせながらも、冗談めかして言った。
「反抗期!」
 マサフミは声を上げると、言った本人の首をつかみ、柔道の大外刈りの要領で、地面に倒した。
 自由への渇望が、暴力となって発露した。最悪だ。
「マサフミ!」
「うざ!」
 マサフミは歩道橋を駆け上ってゆく。二人がマサフミを追った。
 倒された男が、首をさすりながらゆっくりと起き上がった。大事なかったようだ。
「なんだあいつ」
「大丈夫かトオル」
「目がおかしかったぜ、あいつ。なにかクスリ飲ませた?」
「してない」
 時々している、というニュアンスだった。
 茶髪がわたしに視線を向けた。
「お前、マサフミと知り合いなのか」
「知らない……」
 がっちりと腕を組まれた。ふりほどく力はなかった。
「やつに何をした。一緒に来い」
 引きずられるように原宿方面に向かった。
「嫌です」
 身を捩ったが、まったく抗えなかった。トオルと呼ばれた男も、動きを掣肘するようにわたしに身を寄せた。
 今、繁華街に行ったら――
「離してください」
 半分も声にならなかった。“彼ら”が暴れ、下腹が重くなり、同時に吐き気がこみ上げてきた。
 キャットストリートに入り、わたしの周囲を光と音と人の群れが包んでいく。抑えられない抑えられない抑えられない。
 耳鳴りと貧血のような症状が断続的に襲ってきた。
 上げたくとも声も上げられない。
 そして、わたしは聴いた。
 次々とわたしから剥がれ、解き放たれてゆく“彼ら”の咆哮を。

(第14回につづく)



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プロフィール

長沢 樹
(ながさわ いつき)

新潟県生まれ。二〇一一年、第三一回横溝正史ミステリ大賞〈大賞〉を受賞し、『消失グラデーション』でデビュー。他の著書に『夏服パースペクティヴ』、『冬空トランス』、『リップステイン』、『St.ルーピーズ』など多数。