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渋谷川ヴェイン 長沢 樹

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23 どうすればいい? ――十月十八日 金曜未明

 二階で怒声と何かがぶつかる激しい音が交錯する中、Kのメッセージを見て、ため息をつき、天井を見上げた。二○二号室だ。木造の古い安普請で、壁や天井がミシミシと軋んだ。
 五分ほど前、となりの一○二号室のドアが開き、外階段を二階に上ってゆく足音が聞こえた。騒音トラブルだろう。自制心を奪い、憎しみを増幅させたのはわたしだ。
 大事になる前に、通報するしかなかった。
 上着を引っかけ、玄関を出て待っていると、向かいの家から六十年配でジャージ姿の男が出て来た。
「大丈夫かい、お宅さん」
「一応、通報しましたので」
 わたしは会釈する。
「やっぱりなんかあるんだね、このアパート」
 男は腕を組み、二階を見上げ、またわたしに視線を戻した。「住んでいる方の前で言って申し訳ないが、安いのには理由があるんだよ。悪いことは言わん、少しでも余裕ができたら引っ越すといいよ」
 わたしは曖昧な笑顔で、会釈を返すに留めた。
 このアパートに、人を冒すような邪悪な残留思念は存在していなかった。わたしが入居するまでは――
 十分後、制服警官が二名、自転車でやって来た。
「二階で暴れてるみたいだ。早く行かんとアパートが壊れるぞ」
 男が二階を指さすと同時に、怒号とも悲鳴ともつかない、獣のような叫びが響き、窓ガラスが割れ、男の上半身が突き出ると、窓の手すりに引っかかった。
「救急車要請!」
 一人が無線に叫び、一人が慌てたように階段を駆け上がっていった。
 わたしは耳を塞ぎ、路地に歩き出ると、アパートから離れた。騒ぎを聞きつけ、外に出てきた住民たちとすれ違う。二十メートルほど歩き、アパートが見えなくなると、電柱の陰に身を置いた。
 やがて狂騒的なサイレンとともに、赤色灯の光を周囲に乱舞させ、増援のパトカーと救急車がやって来た。ただ、辺りは狭い路地が入り組んでいて、パトカーは停められる場所を探すのに苦労し、救急車はアパートの前に横付けできなかった。聞こえてくる声と気配、野次馬の話で、けが人と逮捕者が出たのはわかった。
「住人の方はいませんか!」
 アパートのほうから声が聞こえ、わたしは自分の両肘を抱き、もと来た道をゆっくりと戻る。
 自分の力を制御できない。それに尽きた。
 この社会に、世界に、わたしの居場所はない。
 三年前、まだ未来に希望を抱いていたときに出会ったあの夜叉使いが、今になり恨めしかった。あの時は強がってみせたが、この理不尽な現在を見通せてはいなかった。
 アパートに戻ると、救急車が出て行くところだった。外階段に、点々と真新しい血痕が散らばっていた。
「あなた住人?」
 中年の制服警官に問われ、わたしはうなずいた。
「通報したのはあなた?」
 うなずくと、パトカーの後部座席に座らされ、聴取を受けた。
 一○二の住人が二階へ行き、その後争うような声と激しい物音が聞こえてきた。自分は入居したばかりで、トラブルが以前からあったのかわからない。一○二の住人も、二○二の住民も名前も顔も知らない。そう、応えた。どこか別の世界の出来事をスクリーン越しに見ている感覚だった。
 どうやら一○二の住人が、二○二の住人を包丁で刺したようだった。聴取の間にも警察の車輌は増えていき、二階の出入りも激しくなり、深夜にもかかわらず、不動産業者の担当者もやって来た。
 被害者、二○二号室の住人は包丁で腕や肩口を切られ、ガラスを突き破った際に頭に裂傷を負ったようだが命に別状なし、という情報が入り、安堵はしたが、悔恨と無力感は消えなかった。
「気持ち悪い……何かいるよ、ここ」
 パジャマに上着を引っかけた中年女性が、身震いして家に帰っていく。
 感受性が強い者は、わたしの周囲にいる亡者の思念を感じ取る。わたしは、歩く度に磁石のように、報われなかった思念を拾い、集め、心が疲弊している人たちに“感染”させてゆく。
 生者の無念と、亡者の無念が引き寄せられ、ひとつになったとき、人は妄執に囚われ、支配される。
 聴取が一段落つき、パトカーを降りたところで、スーツだがノーネクタイの男が歩み寄ってきた。契約の時に、不動産業者の営業所にいた男だ。木俣という名刺をもらっていた。
「災難でしたね。どうします、ほかの物件に移りますか」
 四十前後だろう、物件の見学の際、ここでいいと言うKに、事故物件だから、おすすめはできないとはっきりと言った。安ければそれでいい、とKが押し切った。
「入居したばかりなので……」
「こちらが紹介しておいて言うのもなんだけど、ここは数ある事故物件の中でも別格だと思います。ほかの物件に移っても、家賃は状況を考えて相談に乗ることもできますよ」
 誠意のある対応だ――冷静に、合理的に物事を考え、人の立場を思いやることができる、心の強い人物だ。このような人に“感染”することはない。
「わたしにも、今すぐ移れない事情がありまして」
 移ったところで、同じことが繰り返される。
「わかりました。何かあったら、すぐ連絡してください」
 木俣は一礼し、警察官たちのもとへ戻っていった。
 部屋に戻り、時が過ぎ、警察の検証が終わるのをひたすら待った。
 インターフォンが鳴ったのは、午前四時過ぎだった。警官か木俣かと思ったが、ドアを開けるとKが立っていた。
「大変だったな。警官に何者だってしつこく聞かれたよ。愛人と応えたけどな」
 Kは声を上げて笑った。肩にカメラバッグをかけ、手にはドーナツの箱をぶら下げていた。わたしが好きな店のものだった。
「小腹減ってないか、食おうか。俺も腹が減った」
 まだ警察の検証は終わっていないようだが、Kは上がり込んできた。
 機嫌がいいのは、わたしが感染させた人が引き起こす事件が思惑通り進んでいるからだ。
 コーヒーを淹れ、テーブルにドーナツを広げた。わたしの好きな種類のドーナツが半分を占めていた。
「シャワー浴びさせてくれ。今日も朝から忙しくてさ」
 Kの姿が風呂場に消え、水音が聞こえてくる。
 逃げ出したいと思っても、時折見せる笑顔と優しさが、その決意を揺るがす。それが手だとわかっていても、わたしはKから離れられない。
『君の姿を見たのは、この現場で六回目だ。もう偶然じゃないよな』
 去年、初めてわたしの前に現れたKは言った。
 職場を転転としたわたしの周囲では、暴行、窃盗、放火、強制わいせつ、横領と様々な事件が起きた。その度に住む場所を変えていたのだが――
『君が直接関与していないことはわかっているが、君がトリガーであるという疑念は持っている』
 最初に気づいたのは二年前だったと聞かされた。テレビ局員で、情報番組のディレクターとして幾多の事件を取材していたKは、複数の現場でわたしの存在に気付いた。犯罪が発生した都府県も犯罪の種類も違い、警察ですらわたしという共通項に気づかなかった。端から見れば、わたしは事件の周辺にいただけで、一切犯罪には関与していない。
 だが、Kは違った。
 派手で面白いネタとなれば、どんな事件だろうと、どこで発生しようと構わず取材するワイドショーという特性が、わたしを見出す切っ掛けとなった。
『最初の三回で疑念を持った』
 Kは一年かけて、わたしを監視した。最初はわたしの犯行を疑ったという。
『あとの三回は、君の行動を見守った。それで、君が犯罪者ではないことを確認した』
 テレビ屋としての嗅覚が騒いだのか、Kはわたしを知ろうとした。
『君は何者だ』
 追及ではなく、相談に近かった。親身になってくれた。理解者に飢えていたわたしは、Kに全てを話した。素性も明らかでない者に話すな――理性がブレーキをかけようとしたが、止まらなかった。
 信じるよ、俺は。呪われた人生なんだな。なんとか力になるよ。そんな言葉に絆された。それで、今がある。
『君はスクープの源だ』
 Kはわたしの生活を保障する代わりに、わたしを利用し始めた。
 無論、学習塾の講師となったわたしをつぶさに観察、内偵し、塾長と副理事長の犯罪を察知、検察や国税の捜査前から追っていた。調査会社に勤める知人を使い、最後の感染者である岡琴美の監視を始めた矢先に、岡琴美が百瀬塾長の家に火を付け、塾長とその妻を殺害した。
『狂った学習塾』
 Kはそんなタイトルで、企画と取材を進め、塾長と副理事長による粉飾や横領、パワハラ、セクハラとそれに反抗し続けた果てに、百瀬邸を放火し、百瀬塾長を殺害した一連の事件の顛末をドキュメントとして、まとめていた。そして、百瀬邸放火の容疑者が岡琴美と特定された時点で放送する腹づもりだった。しかし、岡琴美は容疑者とされることはなく、程なく、連続放火を始めた。
 Kは連続放火を続ける岡琴美の動向も映像に収めている。
『最低でも局長賞。社長賞も狙えるネタになった。今回はいい仕事したな、楓』
 わたしを含め、多くの人の職が奪われ、複数の人が犯罪者となり、ふたりの犠牲者が出た。それが、わたしの“いい仕事”だ。
 水音が止まり、バスタオルで頭を拭きながら、Kが下着姿で戻ってきた。
「警察がやっと百瀬んとこの放火で岡を調べ始めた。遅いんだよ、何事も」
 離職の日、わたしを見る岡琴美の瞳は濁りきっていた。わたしの罪悪感も、慰めも憂いも、全てはねつけた。直後、岡琴美は、“感染”した。
「地検の石崎も二人目を手にかけた。死ぬかどうかは五分五分って話だ。忙しくなるな」
 そう話す顔は、まるで大きな競技会の前のスポーツ選手のような凛々しさを持っていた。
「だから楓、幸い一人になったことだし、しばらく動かずここでじっとしてろ。岡の容疑が固まった時点で、次の感染を考えればいい」
 曖昧に笑みを浮かべておく。罪悪感と依存心の狭間で、わたしはなにも決められないでいる。
 香砂は渋谷駅周辺を歩き回り、“残り香”を探した。しかし、犯人が鉄道を使ったのなら、もう追跡は無理だ。
「今日はおしまい」
 美晴が香砂に告げると、香砂は口を尖らせながらも、従った。ただ、終電を過ぎ、移動の手段は断たれていて、美晴にはタクシーで全員を帰宅させるほどの持ち合わせはなかった。菊池に啖呵を切って来たが、結局なにもできていない。
「始発を待つしかねーな」
 昴が言い、全員で道玄坂のマックに移動した。
 自分の足で宮益坂を下り、道玄坂を上ると、渋谷が地名通り、谷底であることを感じた。
 そして、道玄坂、円山町一帯で発生した去年の事件を思い出す。
『渋谷って溜まりやすいの』
 香砂は言っていた。“悪意”は水の中を移動する。渋谷の場合晴れた日は大丈夫。雨が降ると、“悪意”の気配が濃くなる。
 今は秋の長雨から、乾燥の季節へと移行しつつある。
 広い店内は、美晴たち同様に、朝を待つ人たちで席の多くが埋まっていた。
 コーヒーやハンバーガー、ポテトをオーダーし、隅のテーブルに陣取る。
 菊池と別れて一時間半経過していた。今日の作業を考えると、気が滅入った。徒歩で会社に戻り、仕事をすることも仮眠をとることもできたが、行きがかり上始発まで、香砂たちにつきあうことにした。始発で一度帰宅し、シャワーを浴びメイクを直して出直せばいい。
 一度席を立ち、外に出ると、菊池に電話を入れた。
『なんだ、使えそうなネタでもつかんだか』
「いえ、犯人は渋谷で電車を使ったようで、見失いました」
『で、どうする』
「始発まで彼女たちと一緒にいて、情報収集にあたります」
『ものは言いようだな。こっちは一通り取材を終えたが』
 被害者は意識不明の重体。身元はまだ確認中だが、警察は身分証を手に入れている。氏名は警察が発表するまで出ない。現場では言い合う男女の複数の目撃情報がある。
 菊池は淡々と言った。
『これ以上の情報は、もう現場では手に入らない。おれは帰る』
「ありがとうございました」
『しかし、これは常識的にはただの傷害事件だ。新聞やニュースのネタにはなっても、BURST・NEWSのネタにはならない。どう始末を付けるかは、出社してからでいい』
「わかりました」
 速報性は必要ない。どう扱うかは香砂たちの動き次第だ。
『ちなみに言っておくが、被害者は比留間敬太。その筋では名の知れた経済ジャーナリストだ。ただ、副業で資金繰りに困っている中小の企業に近寄っては、粉飾を持ちかけコンサルタント料をせしめている。今の君には理解できないだろうが、彼の口車に乗り、粉飾に手を染め、それで摘発された企業もある。乗せられた企業側の知識不足、認識不足もあっただろうが、恨まれて然るべき存在だということだ。この件はオフレコだ』
「そんな情報、どこから……」
『俺が持つ伝からとだけ言っておく。君が記者として生きるなら、これから年月をかけて君自身の力で構築しなければならないものだ』
 電話は切れた。
 菊池の仕事を徒労に終わらせるわけにはいかなかった。
 席に戻った。
「南青山で、男の人が刺されたって。目撃情報は女性」
 美晴が告げると、昴と如月の表情が強ばった。「さっきいた交差点から百メートルくらいのところ」
「近くにいたのに、残念」
 香砂は口を尖らせる。「腰を据えて、追い詰めるしかない」
「おいおい、追い詰めるって」
 昴が引きつった笑みを浮かべる。 
「宿もなく来てしまってご迷惑かと思いますが、始末を付けなければならない相手がいるので、もうしばらくはご面倒お掛けします」
 香砂はテーブルに両手をついて、ぺこりと頭を下げた。
「人殺しのこと? それは考え直して」
 美晴は表情を引き締める。如月も、実戦を目の当たりにして、身を以て危険を知ったためか、口を結び、同意するようにうなずいた。
「わたしの家にいるのは全然大丈夫。でも」
 如月が美晴に視線を向けた。
「やるにしても、警察とか、いろいろ安全を考えないとだめ」
「警察は何もできません」
 それは、去年の事件で肌で感じていた。“悪意”を追い、戦い続けている香砂なら尚更だろう。ストーカーなども、目に見える被害がなければ、警察は動けない。これから犯罪を起こす人間を、犯罪を起こす前に捕捉して未然に防ぐなど、あり得なかった。
 現実的には、準備を整えた上で“悪意”に憑依された人物を捕捉、追跡の上、犯行を現行犯で押さえ、“浄化”するしかない。
 しかし、相手は憑依した相手に人を殺させるほどの凶暴かつ強力な“悪意”だった。
「“殺し屋”も、“火付け”も、問題のひとつでしかない。東京のどこかに、“悪意”をたくさん抱えた母体がいる」
「それって“うじゃうじゃ”のことか」
 昴が引き気味に、反応した。 
「三年くらいまえ、お姉ちゃんが“浄化”しようとして出来なかった、というか諦めた相手。詳しいことは聞いてないし、見つけても一人では絶対近づくなと言われていたんだけど。もとから絶たないと、どんどん人が不幸になってく」
「姉ちゃんてなんだよ」と昴。
 香砂の姉は、去年、渋谷で連続強盗や暴行事件を引き起こした“悪意”と戦って死んだ、と美晴は説明した。ただ、その死は地方紙の片隅に、変死として記載され、警察も急性の心不全、つまり病死として扱った。そして、香砂は姉の跡を継ぎ、夜叉使いをやっている。
「お姉ちゃんがやり残したことは、わたしが片付けないとだめなの」
「でも、お姉さんは近づくなと言ったんだよね」
 美晴は、きつく言葉を返したが、言ったそばから自己矛盾に戸惑う。香砂の“浄化”を取材し、つぎのドキュメンタリーの土台とするのではなかったのか? 香砂の意志を止めるのは、それに反することではないのか?
 菊池は言った。年間百数十万件発生する犯罪に比べれば、香砂のやっていることは無に等しい。彼女が未然に防ぐ件数よりも、遙かに速いペースで、日本から犯罪が減少している。よって、香砂がやっている“浄化”は、統計的には無意味。無意味に自身を危険にさらしている。
 菊池が香砂の能力や“悪意”の存在を信じているとは思えないが、説得力はあった。
「“殺し屋”は女の人を殺して、さっきも誰かを刺してる。“浄化”しなければ、また人がケガをする」
 香砂は迷うことなく言い切る。菊池の講釈も意に介さなかった。「“浄化”したら次は本体を“浄化”する」
 そして、前しか見ていない。
「冗談はよせよ。数十メートルの距離ですれ違ったけど、正直それ以上近づきたくなかった。“火付け”みたいなのが何十といたんだぜ」
「だから“浄化”しないといけない」
「俺を巻き込むのかよ」
「嫌なら一人でやる。もともとそのつもりだったし」
「自分が刺されることは考えないの?」
 美晴は感情を抑え、言った。
「その時はその時」
 やはり、意志は固かった。頑固で、強情で、一途であることが、香砂を香砂たらしめていた。前しか見ないから、脇が甘い。この一年で多少は周囲を見るようにはなったようだが、根本は変わらない。
 香砂を取材する理由はなんだ。“悪意”の存在や夜叉使いの存在をリポートし、少しでもいいから理解を求めたい。それでどうなる? どうしたい?
 死を含めた、身の危険に直面して、美晴はブレ始めている自分に気づいた。その身の危険は、自分のものではなく――いや、自分に対するものではないから。
「止めることはできないと思う」
 如月が言った。「だから、やる前提で考えたほうがいい」
「如月さんまで」
「ヒントはあった。さっきの、“火付け”を“浄化”したときのやり方」
 如月は言い、昴を見た。
「なんだよ」
 理解した。チーム戦術だ。
「“火付け”を倒したときのやり方」
 美晴は言った。「昴、格闘技経験あるよね」
「だからなんだよ」
 昴は警戒心を前面に出し、応えた。
 如月が提示したヒントは、昴が抑え込み、その間に香砂が“浄化”したあの方法だった。
 聞けば、祖父母が柔道の有段者で、昴は現在柔道二段。ほかに、見よう見まねで総合格闘技を研究し、ケンカの経験も豊富だと言った。
「だからって、刃物持ったやつに突っこむなんてことはしねーって」
「それはわかってる」
 “火付け”を“浄化”したやり方はあくまでも基本戦術であり、“殺し屋”に昴をぶつけるという選択は、最初から排除していた。
 ベストは、警察官だ。しかも複数で包囲し、押さえ付けるのがいい。
「警察が憑依された人を容疑者とすれば……」
 ここまで言って美晴は口をつぐむ。去年も同じことを考えていた。警察が容疑者を特定し、身柄を確保した時点で“浄化”の機会は失われる。
 警察の動きなど関係なく、自分たちだけで“浄化”する。
 これが手法として現実的だったが、美晴たちの日常からかけ離れた非現実的な方法でもあった。
 だが、現実と非現実をつなぐ人物に思い当たった。
 かつて海兵隊員としてアフガニスタンに七ヶ月間派遣され、命をかけた現場を経験したジュース職人、タイロン・スミスだ。
 しかし、名は出さなかった。タイロンが状況や現象を理解し、手を貸してくれる保証はない。第一タイロンは、除隊後、危険のない仕事を求め、沖縄駐留時代に知り合ったパートナーとともに、原宿に店を構えたのだ。
 とにかく香砂には、まず捜索だけで、見つけたら一人で追わず、必ず美晴か如月に連絡するという約束をさせた。具体的に決めたのは、これだけだった。

24 はじまりは事故物件 ――十月十八日 金曜

 睡眠は二時間ほどだった。
 シャワーを浴び、手を抜かずにメイクをし、午前十時に出社した。
「美晴ちゃん」
 三沢が既に出社していて、美晴を手招きした。
「都市伝説企画、通ったよ」
 三沢はパソコンのディスプレイを指さす。企画のプレゼンページが表示されていて、承認欄には後藤、三沢の次に、菊池の署名があった。
「ありがとうございます」
 美晴は頭を下げた。
「菊池さんが三人目の署名者とは意外だった」
 署名の時間は今朝方だ。
「内容はきちんと工夫してね。ただ単に心霊スポットに行ったり、話を集めたりするだけじゃ、目立てないから。『BURST・NEWS』と美晴ちゃんの特徴をしっかり出すこと。とりあえず一週間以内に第一回ね」
「わかりました」
 返事はしたが、“現代の夜叉使い”というメインの企画は、まだモノにはならない。嬉しくはあったが、少し困ったことにもなった。
 デスクについたところで、扉が開き、菊池がやって来た。
 無表情でコートを脱ぎ、ぼそりと周囲に挨拶しただけで、自席について持参したノートパソコンを起動させる。
 美晴は席を立ち、菊池のデスクまで行き「いろいろお手数お掛けしました」と頭を下げた。
「取材メモは、メールしておいた。上手く使え。各社の報道も見ておけ」
「それと、企画の署名ありがとうございました」
「行きがかり上、関わったんだ。仕方がなかった。ただ、今のところ君が本筋と考えているネタは使えない。一週間以内に第一回がルールだから、別のネタを用意するしかないな。考えてあるか?」
 すぐに返答できなかった。
「だろうな」
 菊池は鼻を鳴らす。「実にわかりやすい」
 美晴は再度頭を下げ、自席に戻ると、菊池から送られたメールを開いた。
 現場写真、動画が添付されていて、警察取材、被害者の様子、目撃者の証言など、記事を書くために必要な情報が全て揃っていた。
 新聞やニュースサイトをチェックし、被害者が比留間敬太、四十三歳で、現在も意識不明の重体であること、事件直前に現場付近で言い争う男女が目撃されていたことがわかった。ただ、その男女が、被害者と加害者なのかは確認されていない。
 イヤフォンを付け、テレビ関東の動画ニュースを見ると、警察が来る前の生々しい現場の様子が映っていた。他社にはない映像だった。偶然、近くにカメラクルーがいたのだろうか。
 美晴は一通りニュースサイトをチェックし、ブラウザを閉じると、記事の作成ページを呼び出した。今日の記事をアップしつつ、都市伝説企画の第一回のネタを探すしかない。
 まず、昨日取材したチャイナレストランの激辛麻婆豆腐と、大崎のおでん専門店の画像と映像の編集をした。それも三十分ほどで終わる。記事の草案を考えつつ、ネットで都内のミステリースポット、怪異の目撃情報があった場所を当たったが、ネットに出るスポットなど、既に手垢がついたネタばかりだ。紹介するにしても、独自の切り口や手法がなければ、菊池が通さないだろう。
 集中できないまま、記事の執筆と消去を繰り返していた午前十一時過ぎ、菊池がメールを送ってきた。
 本文部分には、URL貼られていた。
『事故物件として知られたアパートが現場の事件』とだけメッセージが添えられている。
 菊池を見れば素知らぬ顔で仕事をしている。
 URLをクリックした。スポーツ新聞のWEBページだった。
《深夜に住人同士のトラブル 男性が刺され重傷》
 そう、見出しが出ていた。記事を読むと、今日の未明に一階とその真上の住民が口論となり、一階の住民が二階の住民を包丁で刺したという。
 現場は杉並区久我山。
《付近住民の話によると、現場のアパートは、自殺者や事件、トラブルが頻繁に起こるいわくつきの物件で、今回の事件で一人が逮捕され一人が入院した結果、居住者はただ一人となった》
 事故物件に住むただ一人の住人。
 ネタとしては十分だった。未明の事件で一人になったばかりならタイムリーでもある。さらに、早く手を付けなければほかのメディアに先を越されかねない ネタでもあった。
『ありがとうございます。このネタ、可能なら明日のアップを目指します』
 取材に応えてくれるかどうかわからないが、まずはコンタクトを取るしかなかった。素早く計算する。午後二時までに記事を二本アップし、この物件についての情報をある程度収集しておく。久我山は、南新宿から小田急線に乗り、下北沢で井の頭線に乗り換えればすぐだ。
 初回が菊池の企画であるのは、少々不甲斐ない思いだったが、香砂と昴の取材を軌道に乗せるためにも、きちんとこなさなければならなかった。

(第12回につづく)



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プロフィール

長沢 樹
(ながさわ いつき)

新潟県生まれ。二〇一一年、第三一回横溝正史ミステリ大賞〈大賞〉を受賞し、『消失グラデーション』でデビュー。他の著書に『夏服パースペクティヴ』、『冬空トランス』、『リップステイン』、『St.ルーピーズ』など多数。