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みずいろ 三羽省吾

© ノグチユミコ
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六(承前)



 それは、賢介にとっても意外なことだった。
 ノロのことばかり考えていたはずなのに、まったく無関係でありながら、いま自分がやらなければならないもう一つのことに気付いてしまったのだ。
 きっかけは、親方が言った「新たな壁」という言葉だったように思う。
 尾形と浅間が中野で肉を食べ始めたであろう午後八時過ぎ、賢介は渋谷で半蔵門線に乗り換え、世田谷方面へ向かった。
 呼び鈴を押すと、女性が驚いた顔で玄関を開けた。尾形の妻、沙紀だ。
「すみません、こんな時間に」
「主人はまだ……」
「えぇ、分かってます。私が来たこと、課長には黙ってて欲しいんですが」
 沙紀は数秒考えてから「はい、分かりました」と答えた。
「彩さんは、いらっしゃいますか?」
「彩ですか? いますけど……」
 沙紀が振り返った階段の上から、テレビの音と知哉の笑い声が聞こえた。バラエティー番組でも観ているらしい。あのフカフカのソファで知哉の隣に座った彩が、スマホでもいじりながら少し冷たい感じで笑っている様が思い浮かぶ。
「どうぞ」
 玄関マットにスリッパを置かれたが、賢介は「いや、結構です」と断わった。
「変な意味はないんです。ただ、二人だけで話したいことがあって」
 さきほどよりも長い沈黙の後、沙紀は「じゃあ、ちょっとお待ちください」と二階へ上がって行った。
 ほどなくして下りてきた彩は、賢介の顔を見るなり階段の途中で足を止め、「はぁ?」と首をひねった。
「謎、多過ぎ。なにその杖? なんでこんな時間? あと、なんであたし?」
 現場で足を怪我した、お父さんが確実にいない時間で仕事にも支障を来さないとなるとこの時間しかなかった、三つ目はこれから説明する。
 賢介は早口でそう説明し、本人にも「変な意味はない」と伝えた。
 淡いピンクのパーカーに短いホットパンツ姿の彩は「着替えてくる」と言って、二階へ向かった。
「だから、変な意味はねぇよ。ガキが色気付きやがって」
 ブツブツ悪態を吐いていると、下だけ長いスウェットに着替えた彩が戻ってきた。
「どこかでお茶でもする?」
「え〜」
「じゃあ、庭かガレージでいい。ちょっと、玄関閉めてくれ」
 彩は少し考えてから、ガレージに向かった。自分は自転車のサドルに座り、賢介には「どうぞ」とアウトドア用の折り畳み椅子を勧めた。
 まだなにか警戒されていることは確実だった。ただ、彩を女として見ているとかなんとか、そういう類いの警戒でなくなったことは感じられた。
「課長……お父さんのことなんだけど」
「まぁ、だろうね」
「君とは一度しか会ってないし、喋ったのもほんの二言三言だ。そんな俺がこんなこと言うの、大きなお世話かもしれないけど……」
 そこで言葉を切ると、彩はサドルに跨がってペダルを空回りさせながら「確かに」と笑った。
「俺は、課長を尊敬してる」
 てっきり、父親を「あの人」なんて言うな、とでも説教されると思っていたのだろう。賢介のその言葉に、彩は「え?」と顔を上げてペダルを漕ぐのを止めた。
「知哉くんはまだ小さいし、もう少し先でいいと思う。でも君は、彩ちゃんは、そろそろ知ってた方がいいと思うんだ。お父さんが、いかに凄い人かってことを」
 二月中旬にしてはガレージの中は暖かかった。ここで冬を越しているのか、どこかで秋の夜みたいに虫が鳴いていた。
「いいかい?」
 そう前置きして、賢介は自分が知り得た尾形一志の半生を話し始めた。高藤と岡本親方から聞いた上下巻のあらすじと、仕事を通じての事柄。武山不動産レジデンシャルの中での、尾形の立ち位置。それらを、限られた時間の中でできるだけ丁寧に説明した。
「世田谷の一軒家なんて、そこに代々住んでる人以外は、よほどのエリートでなきゃ建てられない。けど課長は、とびきりいい大学を出てるわけじゃないし、会社だって超が付く一流企業ってわけじゃない。そもそも就職したのだって二十代後半だ。いまの君達の生活が、どれだけ恵まれてるのか、そしてそれがどれだけの努力の上に成り立ってるか……」
 ずっと黙って聞いていた彩が、「分かってるよ」と賢介の言葉を遮った。
「子供の頃のこととか、若い頃に無茶苦茶してたなんてことは知らなかったけど、自分がすごく恵まれてて、それがあの人のおかげなんだってことくらいは、分かってる」
 世田谷の庭付き一戸建て、二台の高級車、年に一度の海外旅行、長男がバスケットボールを始めれば庭にゴールを造る。自分も、水泳、ピアノ、バレエ、パソコン、英会話、テニス等々、少し興味があると言っただけで、あらゆる物を買ってもらい、習いにも通わせてもらった。
「それに、名前」
「名前?」
「うん……ちょっと、いまの話で思い出した」
 まだ幼かったころ、彩は尾形に命名の理由を訊ねたことがあった。尾形は細かい説明はしなかったが、ただ「親は自分に欠けている部分を得られるよう、子供の名に託すもんだ」と言ったという。
 賢介はまだ知らなかった事例も並べて、彩は「だから、分かってるんだって」と繰り返した。
「分かってるなら、なんで父親のことを“あの人”なんて?」
「さぁ。反抗期ってやつ?」
「さぁってなんだよ。自分のことだぞ」
 我慢していたのだろう。彩は自転車から降りて「あのさぁ」と賢介に向き直った。
「かもしれないけど、じゃなくて、マジ大きなお世話。そんなことあたしに言って、どうしたいの? わ〜、お父さん、いままでごめんなさい、これからは尊敬します、二度と我がまま言いません、とかなればいいの?」
 賢介が黙っていると、彩は「あり得ないし」と顔を背けた。
「これは俺の問題だ。俺が尊敬する人のことを軽く見てる奴のことは、それがたとえ肉親だとしても、俺は許せない」
「はぁ? だったらなに? 許せなかったら、どうすんの? 殴る?」
 自分を睨み付けるその目が、クッパを頬張ったあの日の尾形の上目遣いと重なった。
 最初に会ったときは似ていないと思ったが、やはりどうしようもなく親子だ。目付きだけでなく、その性格も。
「尊敬しろとは言わない。でも、少なくとも自分がいかに恵まれているかってことくらいは……」
「だからぁ、そういうことはとっくに分かってるんだってば!」
「分かってる分かってるって、それを言葉に、せめて態度に表さなきゃ、相手に伝わんないだろうがッ! そういうのを、分かってねぇっていうんだよ!」
 虫の鳴き声が止まった。ガチャリと、玄関扉が開く音がした。沙紀が玄関で、盗み聞きをしようとしていたことが分かった。
「あ、ごめん、大きな声を出して」
「いいよ。それだって、分かってる……つもり」
 つもり。その三文字が加えられて、少しは伝わったのだと賢介は確信した。
「うん、つもりでもなんでもいい。分かってるなら、少しだけ態度くらいには出してみてくれよ」
「うん、分かった。もういい?」
「あぁ、悪かったな」
 彩は「じゃ」と言って、玄関に向かった。沙紀と短く言葉を交わし、二階へ向かう足音が聞こえた。
 賢介は玄関先に立っていた沙紀に「どうもお邪魔しました」と頭を下げ、「上でお茶でも」という誘いを断わった。
『ごめんな、彩ちゃん……』
 表札の彩と知哉の名前を数秒見詰め、賢介は杖をついて駅に向かって歩き始めた。
 彩に、尾形がいかに凄い人物であるかを伝えることなど、実は小さなことだった。
 生意気盛りの中学生がこの手の話を素直に聞き入れないことは、自分の過去を振り返れば嫌というくらい分かっている。彩が最後にほんの少し素直さを見せてくれたことは、嬉しい誤算だった。
 伝わるはずがないことは百も承知で正論をぶつけるのは、そういうことを口にする大人の側にとって重要なことだ。
 そう言う意味では、目的は達成できた。そして、もう一つ。やはり来てよかったと思うことがあった。
 分かっていると何度言ってみたところで、それを言葉に、せめて態度に表さなければ、相手に伝わらない。そういう姿勢を、分かっていないというのだ。
『さっきのあの言葉、まんま自分に返ってきやがった……』
 彩に会って話をしようと思い立ったときと同じだった。尾形と彩の関係とはまったく無関係と思われたノロと自分の関係に、明確な答えが出た。出てしまった。
 心が、定まった。

 更に四日後、また報告会が催された。この日は、賢介も出席した。
 よほど気に入ったようで、その夜も浅間が中野の老舗焼肉店を希望した。
 賢介は、まだ少し右足をひきずってはいたが、杖なしでも歩けるようになっていた。
「五年前に他社が同規模の物件を分譲してるんですが、かなり苦戦したようですね」
 盛り合わせ特上セットを、塩もタレも関係なくじゃんじゃん焼きながら、浅間が報告を始めた。
「その物件、最終的に購入者の四〇パー強が、多摩や埼玉の一軒屋を売って都心に戻った高齢者層だったんですって。駅は遠いですけど、大型病院が近いってのが決め手だったみたいで。そういうターゲットはネットに疎い世代だし、折込みやポスティングを、通常より広範囲に大量投下するしかないですよね。今回の広告宣伝の予算って、春海と変わらないんでしたっけ?」
 賢介の目から見ても、この一年弱で浅間はずいぶん変わった。
 報告会で自分から積極的に発言することも、肉をモリモリ食べることも、言われなくても尾形のためにホルモン盛り合わせとマッコリを別に注文することも、以前からは考えられなかったことだ。
 そしてその発言の内容も、尾形から調べるように言われた事柄の、数歩先をいっている。
「予算の話はこれからだ。マーケティング部の数字が出揃ったら、俺から上に言っておくよ。浅間の意見だって添えてな」
 賢介以上に浅間を長く見ている尾形も、もちろんこの変化に気付いている。表情にこそ出さないが、なんだか嬉しそうなことが賢介にも伝わってくる。
「笠原の方は?」
 水を向けられ、賢介は箸を止めて手帳を取り出し、報告した。
 現地の半径五キロ圏内で、2LDK〜3LDKの家賃相場は、二十三区内では比較的安価だが、それでもやはり十五万円〜二十万円程度する。マンション購入の潜在検討層は、それなりに存在する。但し、その規模の賃貸物件自体が少ない。浅間が言うように、初めから広い範囲にターゲットを想定した方が無難だと思う。
「あと、近所のビルの四階から富士山が見えたんですよね。今回の物件も、角度によっては中層階でも見えるかも。ドローン使って撮影するのもありじゃないっすか? まぁ、どれくらい引きになるのか、分かんないですけど」
 上カルビをサンチュにくるんだのを頬張っていた浅間が「うそ!」と叫んだ。
「二十三区内で四階から富士山が見えるとか、希少でしょ。引きになるでしょ」
 興奮する浅間を、尾形が「春海を思い出せ」とたしなめた。
『TYコート春海坂上』でも、富士山やスカイツリーを背景にしたCGパースを使い、夏場には実際の花火の写真と合成して、新たなパースを折込みチラシのメインビジュアルに使ったりした。
 だがその効果は、思ったほどのものではなかった。一部の住戸に限定される眺望は、画にはなるかもしれないが、販売センターに足を運ばせるほどの求心力にはならないという直近の実例だ。
「まぁビジュアル案の一つとしては、アリかもしれない。そういう小さなアイデアはストックしておくとして、いまはもっと大局的な販促の流れを考える段階だ」
 そう言う尾形も、賢介が自分なりにアイデアを出したことには、いくらか満足しているようだった。
 それから話題は、数年前に改正された相続税法と、それに伴う駆け込み需要が業界内で考えられていたほど爆発的ではなかったこと、都心回帰志向の中高年層が潜在的にどの程度いるのかといったこと、そして、焼肉屋でクッパを褒めるのは和食屋で漬け物を褒めるようなものなのだろうか、といったものに移行していった。
 九時を過ぎても、浅間は以前のように中座することはなかった。それどころか、尾形の話に自分から「そういう中高年層はむしろ増えてるようです」「漬け物と飯物は違うでしょ」と割り込んでいる。
 一方の尾形は、相変わらずもりもり食べ、ぐいぐい呑み、睡眠時間は一日に四時間か五時間くらいなのに、疲れている素振りなど微塵も見せない。
 人は変わる。人は変わらない。前者の例が右に、後者の例が対面にいる。
 そんな心持ちで、賢介は静かに肉やクッパを口に運んだ。
「ところで、笠原、足の検査はどうだった」
 クッパを平らげて煙草に火を点け、尾形が話題を変えた。「足の検査」という部分が、やけにはっきりと発音されたように賢介には聞こえた。
 賢介はすぐに返事ができなかった。すると尾形は「気が強い娘だろう。よくちゃんと会話ができたな」と付け加えた。
 話の内容がまったく分からない浅間が、「なに? なんです?」と、尾形と賢介を交互に見た。
「なんだ、聞いたんすか」
「あいつは何も言ってない。嫁がな、心配して娘にどういう話だったのか訊いて、それを俺に報告した」
「黙っててくださいって、頼んだのにな」
「それも聞いたよ。“優しい人ですね”だってよ」
「そんなつもりじゃ……」
「あぁ、思い切り否定しておいてやったよ」
 テニスの観客のように首を動かしていた浅間が「ちょっと……」と口を挟もうとしたが、尾形がいかつい右手を上げて制した。
「悪い、浅間。もうじきお前にも関係のある話に戻る。少し黙っててくれ」
 その言葉を聞いて、賢介は『やっぱスゲぇな、この人は』と感心した。
「娘のことは、まぁいいんだ。お前が言った通り“大きなお世話”だしな。ただ、わざわざそんなことをするのは、腹を決めたってことなんじゃないかと思ってな」
 浅間が言いつけを守れず、思わずという感じで「腹を決めた?」と賢介を見た。
「どうなんだ?」
「はい、決めました」
 尾形は「そうか」と呟き、マッコリを口に運んだ。
 その隙を狙って、浅間が「ちょっと待って下さいってば」と割って入った。
「なんなんですか? 娘さんとか、腹を決めたとか。課長の娘さんって、確かまだ中学生ですよね? 笠原さん、そんな馬鹿な……」
 賢介がノールックで浅間の後頭部をたたいた。尾形の口から「違う」と明言して欲しかったが、尾形はニヤニヤ笑いながら二人を見ていた。
「酒が入ってるときに、こういうことを言うのもアレですけど……お世話になりました」
 椅子の上でできる限り姿勢を正し、賢介は深々と頭を下げた。
「辞めるのか?」
「はい」
「また、もとの暮らしに戻るのか?」
「まだ考えてませんが、そうなるでしょうね」
「理由は、例の同級生か?」
「まぁ、それもありますが……」
「この間の早朝会議、お前に関する保留事項がどうなったかは知ってるよな」
「はい。俺が振り込め詐欺に関わっていないことははっきりしたんで、お咎めなし。裁判の証人として法廷に立つ立たないって部分は、俺の個人的な判断に委ねるってヤツですよね」
「だったら、なんで」
「自分だけ安全な場所にいて、あいつの代弁者づらして法廷に立つのは、間違ってる。そう思ったってこともあるけど、全部じゃなくて……」
 賢介はそこで言葉を切ると「失礼します」と断わり、煙草に火を点けた。背筋を伸ばして吸うと、煙がいつもと違う場所に入っていくような気がした。
 隣の浅間が、椅子から腰を浮かして「安全な場所って……」と呟いた。
「一服してからでいい。続きを聞かせてくれ」
 賢介はゆっくりと煙草を吸い終わってから、一つ大きく息を吐いた。そして、もう一度「失礼します」と断わってから、
「あのさ、おっさん」
 そう、尾形に向かって言った。初めて会った去年の二月、あのときの態度に、わざと戻した。
「俺もない頭であれこれ考えたけど、おっさん、やっぱ間違ってるよ。高藤さんや岡蔵の親方からいろいろ聞いて、おっさんのことはある程度知ったつもりだけど、スゲーとは思うけど、でもやっぱ、おっさん間違ってる」
「ほぅ」
「親方はさすがだよ。あんたが新たな壁にぶち当たってるって、分かってた。会社の細かいことは知らないし、家に行ったのも五年くらい前なのに、あんたがなにかに悩み苦しんでることは分かってた」
 そこで故意に間を置いたが、尾形からはなんの反応もなかった。それを確認してから、賢介は続けた。
「あんたがぶち当たった新たな壁は、家族のことだ」
 貧困から抜け出し、家庭を持ち、社会的地位もある程度築き、自分の子供時代からは想像もできないような暮らしを子供達に与えている。だがしかし、自分がやってきたことは果たして正しかったのだろうかという思いが、どうしようもなく頭を過る。
「結局、彩ちゃんも知哉くんも、あんたを煙たがってる。それは、あんたが父親に抱いていたのと、それほど変わらない嫌悪感だってことに気付いて……」
「ちょっと、待って、下さい、ってばー!」
 賢介の言葉を遮り、浅間が両手をブンブン振りながら言った。もう、完全に椅子から立ち上がっている。
「なんでそれが、笠原さんが会社を辞めることにつながるんですか? まったく意味が分かんないですよ!」
 他のテーブルの客も、フロアの店員も、浅間に目を向けた。
 その視線に気付き浅間は腰を下ろしたが、再度「どういうことなんですか?」と説明を迫った。
「いいですか?」
 賢介が訊ねると、尾形は「任せる」という感じで、新しい煙草を挟んだ指先を軽く振った。
「浅間さんには分からないだろうけどね。俺が諦めたり考えないようにし続けてきたことを、あんたは諦めなかったし、考え続けた。そして実際、望んだほとんどのものを手に入れた。スゲーよ、まったくスゲー」
 また故意に間を置いたが、やはり尾形からの反応はない。「でもね」と続けて更に間を置いたが、やはり無反応だった。
 尾形が賢介に声を掛けた理由。そこには、親方が言ったような会社の人事面のこともいくらかあったかもしれない。
 だが賢介が思う本当の理由は、自分がやってきたことは果たして正しかったのか、間違っていたのか、それを確認するためだ。
「あんたの経験の中で一番大切な部分、勉強して大学行ってって部分を端折って、俺は環境だけを与えられてるわけだ。まず、そいつが気に入らない。それ以前に、俺は蔑まされたり差別されることを、あんたみたいに悲劇的に受け止めちゃいない。むしろ……変な言い方かもしんないけど……それはそういうものだって受け入れてるし、どこかで楽しんでるよ」
 そう言い終えて、賢介はマッコリのボトルに手を伸ばした。尾形のグラスに注ぎ、それから自分用に新しいグラスになみなみと注いだ。
「だってさ。浅間、お前はどう思う」
 やっと尾形から発言権を与えられたのに、浅間は下唇を突き出したまま黙り込んでいた。
「辞めて欲しくないか?」
「はい……」
「好きなのか? 笠原が」
「はい、いえ、嫌いですよ。人の頭、簡単にパンパンたたくし、口悪いし、宅建八点だし……」
「でも、辞めて欲しくないのか」
「……はい……」
 尾形と浅間は、何度も同じような会話を繰り返していた。
 他のテーブルの客達も、締めのクッパや石焼ビビンバを注文し始め、店内には肉の油が焼ける煙と匂いに代わって、出汁やお焦げの匂いが漂い始めた。
 尾形と浅間の会話を聞きながら、賢介は我ながら芝居掛かっていたと思う態度を解除した。そして、尾形に向かって静かに頭を下げた。
「辞表って、要るんすか?」
「派遣会社宛てには要るだろうが、俺には無用だ」
「はい……」
 正規社員なら、最低でも二ヵ月前に辞意を表明しなければならないそうだが、非正規社員の賢介は即座に辞めることが可能だとのことだった。
 そこで賢介は、三日後までには武山不動産レジデンシャルと笠原賢介が無関係になるよう、手続きしてくれと尾形に頼んだ。
 尾形は「急だな」と驚いたが、賢介の意図をくみとって「なんとかしよう」と約束してくれた。
 ノロの初公判が、四日後に迫っていた。

「名前、年齢、住所、職業を言って下さい」
 宣誓後、弁護側からの質問が始まった。
「笠原賢介、二十八歳、三鷹市××町×丁目×番×号コーポ××◯◯号室」
 そこで言葉を切ると、国選弁護人に無機質な口調で「職業もお願いします」と念押しされた。
 一つ息を吐き、賢介は答えた。
「現在、無職です」
 国選弁護人は小声で「え?」と言った。ニコニコ笑っていたノロもハッとした表情になったことが、賢介の目の端に入った。
「え〜、では、被告と証人の関係についての質問から……」
 賢介はすべての質問に素直に答えた。ノロの人物像に関する部分では、丁寧に、事細かく事例も挙げながら時間を掛けて説明した。その中には、あのスニーカーの件の真相も入っていた。
 検察側からは、事例の細かい部分にまで質問が及んだ。そして、被告との関係性が強過ぎて、客観的な第三者の証言としては採用できないのではないか、との申し立てがなされた。
「俺は……私はかつて野呂二郎を利用した人間です。つまり、出し子として利用した者達と同等の立場です。知っていることを喋っているだけで、庇うつもりはありません。今日だって、正直言って迷惑だと思って……」
 その言葉は、裁判長によって「証人は訊かれたことだけに答えるように」と途中で止められてしまった。

(第16回につづく)



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プロフィール

三羽省吾
(みつば しょうご)

1968年岡山県生まれ。2002年『太陽がイッパイいっぱい』で小説新潮長編新人賞を受賞。06年『厭世フレーバー』、12年『Junk』でそれぞれ吉川英治文学新人賞候補。14年『公園で逢いましょう。』で京都水無月大賞受賞。