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恋する失恋バスツアー 森沢明夫

© たなかみか
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第 25 回



【天草龍太郎】
「わっ、すごい。この水、飲めそう」
 沢沿いの林道を歩きながら、ヒロミンさんが川に向かってシャッターを切った。そして、カメラの背面液晶で画像を確認していると、背後から陳さんが覗き込んだ。
「あいやー、それ、いい写真ね。夏、暑いなら、飛び込むだろう」
 言いながらクロールの動きをした陳さんを見て、他の参加者たちがくすくす笑っている。
 大吉さんの宿を出発したツアー一行は、蛍原村のマニアックな観光地のひとつ、「恨みの滝」を目指して出発していた。まずは山に向けてバスを二〇分ほど走らせ、舗装路の行き止まりまで移動し、そこから先はバスを降りて未舗装の林道を歩く。そして、いままさに、その途上にあった。
 山深い林道に沿って流れるこの渓流は、ジンのような透明度で、瀬音もやわらかい。ふと頭上を見上げれば、みずみずしい新緑の樹々が枝葉を伸ばし、涼やかな風にさらさらと揺れていた。その枝葉の隙間からは、レモン色の朝日が地面にこぼれ落ちている。
 しっとりと湿った森の空気。
 落ち葉と土の豊かな匂い。
 数多の雨滴のように降り注ぐのは、鳥たちの歌声だ。
 気づけば俺は、すー、はー、と深呼吸をしていた。
 失恋バスツアーも四日目になると、参加者たちに少し疲れが出てくる。そのタイミングに合わせて、俺は「癒しの森林浴」を行程に入れ込んでおいたのだ。小雪もこの林道歩きがお気に入りだったのだが、しかし、今朝は、まどかさんとバスで待っていると言った。こんなことは、はじめてだ。

 目的地の「恨みの滝」に着いたのは、林道を歩き出して十五分ほど経った頃だった。
 滝の落差は十メートル、幅は五メートルほど。ドーッと迫力のある音を轟かせながら、滝壺から水しぶきを上げている。その滝壺をよく見ると、二〇センチほどの渓流魚が数匹、悠々と泳いでいた。
 清々しい林道も、ここで行き止まりだ。
 大吉さんいわく、渓流釣りが本当に好きな人は、滝の脇の崖を登ってさらに上流へと向かうらしいが、素人の俺たちはここまでだ。
「はい、皆さん、お疲れさまでした。ここが本日最初の目的地、『恨みの滝』となります」俺はお客さんたちを集めて、この滝についての説明をはじめた。「どうして『恨み』なのかと申しますと、じつは、ふたつの説があるそうです。ひとつは、こんな昔話に由来します。昔、この辺りに住んでいた木こりが、怠け者なうえに放蕩で、奥さんと幼い娘にずっと苦労をかけていたそうです。ある日、木こりの娘が病気になってしまったのですが、木こりが働かなかったせいで医者にみせるお金がなく、娘は亡くなってしまいました。それ以来、奥さんは、ひたすら泣き暮らしていたそうです。その奥さんが、ときどき人知れずこの滝の裏側に隠れて、何度も、何度も、旦那さんにたいする恨み言を叫んでいたことから、『恨みの滝』と呼ばれるようになったとのことです。もうひとつの説は単純です。この滝は裏側に入れるので、裏から見る滝、ということで、『裏見の滝』となった――、と、まあ、そういうことです」
 説明をしている間も、お客さんたちは見事な滝や、美しい川を眺めている。これはいつものことだ。俺は続けてしゃべった。
「では、これから、この滝の裏側に、お一人ずつ入っていただきます。そうしましたら、滝の裏から、ぜひとも大声で恨みつらみを叫んで下さい。ただし、あまり絶叫しすぎると、皆さんが待っているこの場所まで聞こえてしまいますので、言葉が汚なすぎて聞かれたら困るなぁ、という方は、ご自身で音量調節をお願いします」
 俺がそこまで言うと、くすくすと笑い声が起こった。
「では、先ほどバスのなかで決めた順番で、お一人ずつこちらにいらして下さい」
 それから俺は、しぶきで濡れた岩場の上を一人ひとり歩かせて、滔々とうとうと落ちてくる水の壁の裏側へと案内した。滝の裏側のスペースは狭く、畳半畳分くらいしかない。ひょいと手を伸ばせば、分厚い水のカーテンに触れられるほどだ。
 滝の裏に入るときには、どうしても、ある程度のしぶきを浴びるので、女性陣は「ひゃあ」とか「きゃあ」とか声を上げる。男性陣は総じて楽しそうな顔をする。おもしろいのは、普段おとなしそうな人ほど、ここに入ると本気で絶叫することだ。今回も、おしとやかな桜子さんが、「この大嘘つき〜っ! お前なんて、死んじまえ〜っ! クソ野郎〜っ!」と、金切り声を上げていた。
 他の参加者たちは、さすがにひと癖あって、それぞれ彼ららしい言葉を吠えていた。「心頭滅却!」とか「頼むぜ、ロッケンロールの神様ぁ〜っ!」とか、とにかく個性的で分かりやすい。
 最後に教授が「私に告ぐ! 私は、人間だぁ〜っ!」と、意味不明な絶叫を美しいバリトンで響かせたあと、ついでに俺も、滝の裏に入って叫んでしまおうか――という思いに駆られた。会社の倒産のことも、小雪とのことも、思い切り叫んで発散したかったのだ。しかし、さすがに添乗員がそれをやってはまずいだろうと、ぎりぎりのところで自制した。
 それからしばらくは、自由時間だった。滝からバスまでのあいだの清々しい林道もしくは川原で、それぞれの時間を味わってもらうのだ。
 俺は少し下流に下り、幅二メートルほどの豆腐みたいな形をした岩を見つけ、その上に腰掛けた。
 すると、すぐに背後から名前を呼ばれた。
「龍さん」
 振り向くと、モモちゃんが照れ臭そうに微笑んでいる。
「あ、どうも。どうされました?」
「ちょっと……、龍さんと話したいなって思って」
 アイドル顔をした娘に、そんなことを言われた俺は、ほんの一瞬だが、ドキリとしてしまった。
「話、ですか?」
 モモちゃんは、はにかみながら頷いた。
「いいですよ。よかったらここに。お尻、けっこう冷たいですけど」
 豆腐型の岩の上で、俺は少しお尻の位置をずらしてやった。するとモモちゃんは、俺からいちばん離れた岩の端っこにちょこんと腰を下ろした。小柄ゆえ地面に足がつかないようで、膝から先を軽くぶらぶらさせている。そして、こちらを振り向くのとほぼ同時に、「あっ」と言って下流の方を指差した。俺もそちらを見ると、五〇メートルほど離れたところで、年老いた渓流釣り師が竿を振っていた。
「あれ、何を釣ってるんですか?」
 モモちゃんが小首をかしげる。
「多分、イワナとヤマメじゃないかなぁ……」
「山奥だから、いっぱい釣れるんですかね」
「どうかな。せめて一匹だけでも釣れていて欲しいけど」
「え? 一匹だけじゃ……」
 かわいそう、とでも言いたげな顔をしたモモちゃん。
「あ、釣りってね、ゼロ匹と一匹とでは、地獄と天国ほどの差があるらしいんですよ」
「たった一匹で、そんなに?」
「ぼくの親父が、釣り好きで、よくそう言ってたんです」
「へえ」
「ついでに言うと、人生も釣りと似ているそうで、目の前のその一歩を踏み出すか、それとも留まっているかで、やがて天国と地獄くらい大きな違いが生まれるんだぞって、子供の頃に言われたことがあります」
 酒に酔ってご機嫌なときに、親父はしばしばそう言っていたのだ。
「一匹と、一歩、ですか」
「うん。でも、そういう父は、ごくふつうのサラリーマンなんですけどね。言ってる本人こそ、一歩を踏み出したのかどうか」
 笑いながらしゃべっていたら、俺はふとサブローさんに言われたセリフを思い出した。
 チャレンジと冒険、しておいて下さいね――。
 失敗しても、ちゃんと神様からのプレゼントが、失敗の裏側にはありますから――。
「あの……、ちょっと変なことを訊いてもいいですか?」
「え? あ、はい」
「龍さんって、恋愛をするとき、一歩を踏み出せる人ですか?」
「え……」
 いきなり会話のベクトルを変えたモモちゃんは、ぶらぶらさせていた足を止めた。
「えっと、どうかな……。ぼくはけっこう臆病なんで、なかなか踏み出せないタイプかも」
 俺は心のままに答えた。
「踏み出さなかったことで、後悔はしていませんか?」
 なぜだろう、モモちゃんが変に突っ込んでくる。と、このとき、俺のなかで小さなひらめきがあった。小雪に教わったとおり、いま、こちらから胸襟を開けば、モモちゃんの心を開かせることができるのではないか。
「後悔してることは、正直、たーくさんあります」
「たとえば?」
「そうだなぁ……、ちょっと恥ずかしいですけど」
 それから俺は、最近、恋人にふられるまでの経緯や、まだその彼女に未練があること、できれば結婚したいと思っていること、しかも、今月が彼女の誕生日で、そのタイミングでプロポーズをしたいと思っているのだけれど――。
「でも、ちょっと、無理そうなんですよねぇ……」
 と、ため息まじりに吐露した。もちろん、小雪の名前は隠したままだ。
「どうして無理なんですか?」
「え?」
「だって、いま、一歩を踏み出した方がいいって……」
 モモちゃんにそう言われて、またサブローさんの顔が脳裏にチラついた。なんとなく、チャレンジと冒険、という言葉が胸のなかで胎動しはじめた気もする。でも、現実はそう簡単ではないのだ。
「まあ、そう、なんですけどね。でも、脈がなさそうっていうか……」
 俺は本音をこぼし続けた。
 するとモモちゃんが、俺の背後に視線を送り、小さく頭を下げた。
 え? と振り返ると、さっきの釣り師が俺たちのすぐそばを通り過ぎるところだった。
「こんにちは」と老人に声をかけられた。「あ、どうも。こんにちは」と返す。
「釣れましたか?」
 意外にも、モモちゃんが問いかけた。
「今日は、まあまあだね」
 老人は、皺だらけの顔をくしゃっとさせて笑うと、そのまま歩き去って行った。
 しばらくすると、モモちゃんが俺にそっと笑いかけた。
「よかった。あの人、釣れてたみたいで。これで天国ですね」
 その笑顔を見た俺はハッとしていた。これまで見てきたモモちゃんとは、何かが根本的に違う気がしたのだ。それはほんのわずかな差なのかも知れないが、しかし、確実に、モモちゃんの存在そのものが薄皮一枚剥けたかのように明るく見えている。
「うん。天国ですね」
 それから少しの間、俺たちは春の川風に吹かれながら、黙って清流を見つめていた。
 モモちゃんが「あの、わたし」としゃべりだしたのは、川面すれすれを青い鳥が飛び去ってすぐのことだった。「小学生のときに、お兄ちゃんが肥満でいじめられてて……。それが原因で、五年生のときに、わたしまでいじめられちゃったんですよね」
「え……」
 こちらが訊いてもいないのに、モモちゃんは自分の過去を勝手にしゃべりだした。
「いったん、いじめのターゲットになったら、なんか、もう、なかなか抜け出せなくて――」
 モモちゃんいわく、いじめられっ子のまま中学に上がり、しかも、隣の小学校から同じ中学に上がってきた子たちにまでいじめられるようになったという。それ以来、ほとんど学校という場所には行かなくなったのだそうだ。つまり、自宅の自室に引きこもったのだ。じつは、兄の方がずっと前から引きこもりだったのだが、母親はしかし、モモちゃんばかりを責め続けたのだという。
「なんで、モモちゃんばかりを?」
「お兄ちゃんを叱ると、キレて家のなかで暴れるから……」
 結局、母親は、モモちゃんをストレスのはけ口にしていたらしい。
「わたしが家にいると、お母さんは嫌な顔をするんで、最近、少し離れたところにあるコンビニでバイトをはじめたんです。そしたら、そのバイトの先輩の男の人にうっかり騙されて、なんか、付き合うことになって」
 そこまで言って、モモちゃんは一度、深呼吸をした。そして、続けた。
「捨てられちゃったんです。で、それから鬱がひどくなって、リスカをして。あ、龍さん、リスカって、知ってますか?」
「うん。リストカットだよね。手首を薄く切る自傷行為」
「あ、知ってるんだ……」モモちゃんは小さくため息をついた――、と思ったら、自分の左手の袖をすっとめくって、俺の方に差し出した。「こんなに……なっちゃったんです」
 どうして急に、その傷痕を俺に見せる?
 わけが分からず、俺はただ黙って頷いてみせた。
 するとモモちゃんは、こちらから視線をはがし、正面の川を眺めながらふたたび口を開いた。
「なんか、もう、生きてたって意味ないなって。いいことなんて、何もないよなって。絶望してたんです。そもそも、親に愛されないから、居場所もないし……。こんなわたしを好きになってくれた奇跡みたいな男の人は、ただわたしを騙してただけだったし……」
「…………」
 はあ、と嘆息したモモちゃんは、俺にしゃべっているというよりも、川に向かってひとりごとを言っているように見えた。
「鬱病になって、世界が真っ暗になって。自分のことが大嫌いで……、大嫌いだから、ちょっと自虐的なことをしちゃおうかなって」
 ふと、川風が止まって、せせらぎの音量が上がった気がした。
 朝の光のなか、きらめく川を見つめているモモちゃんの横顔が、なぜだろう、言葉とは裏腹にどこか毅然として見えた。
「わたしね、龍さん」
「ん?」
 振り向いたモモちゃんと、視線が合う。
「大嫌いな自分を自分で虐めちゃおうかなって、そう思ってこのツアーに参加したんです」
「…………」
 そんな理由で? ちょっと驚いた俺は、返す言葉を見つけられずにいた。
「でも、いま思うと、このツアーに参加したのって、わたしにとっては冒険の一歩だったのかも」
 チャレンジと冒険――か。
「で、その一歩の先には、大きな前進があった。そういうこと?」
「はい。結果的には、そうなったと思っています。だから――」
「…………」
「龍さんに、お礼を言いたいなぁって」
「え?」
 いままでしゃべり続けていたモモちゃんが、急に頬を上気させて、座ったまま上半身をこちらに向けた。そして、「ありがとうございます」と小さな声を出した。
「あ、いえいえ。こちらこそ」俺も釣られてペコリと頭を下げた。俺は照れ臭すぎるこの空気を変えたくて、すぐに言葉を吐き出した。「で、このツアーでモモちゃんは、しっかり落ち込めてますか?」 
「うーん、それは、微妙……かも」
「え、どうして?」
「元々、落ち込んでたので、それ以下がないから、かな」
「あはは。そっか」
「はい」
 俺とモモちゃんは、また二人して照れたように笑った。
「あと、わたし、小雪さんに救ってもらって、もう、あんまり落ち込まなくてもいい気がしてきたんです」
 やはり、あのセッションが効いたのだ。
「それはよかったですね、本当に。あ、でも、落ち込まなくていいとなると、このツアーの意味がないか」
「ですよね」
 今度は二人してくすくすと笑う。
「龍さんって、きっと愛されて育ったんだろうなぁ」
「え? まあ、うん。そうかも知れません」
「いいなぁ……。わたし、家にいても、外にいても、ずっと淋しい人だったから」
 モモちゃんはいま「淋しい人だった」と過去形の言葉を口にした。俺はそこにかすかな光を見た気がした。
「じつを言うと、ぼくも少しだけ、いじめられっ子だった時期があるんですよ」
「えっ、龍さんが?」
「小学生の頃はとくに、いじめられたというか、からかわれたというか。運動も喧嘩もからっきし駄目で、ひとり静かに生き物の図鑑を眺めてるタイプだったんです。当時、入ってた部活は、女子ばっかりの合唱部で、同じ学年に男子は二人しかいなくて……、すごく肩身が狭かったなぁ」
 なぜか俺は、あまり人に話したことのない過去を口にしていた。もしかすると、無意識にモモちゃんのことを美優と重ねていたのかも知れない。
「でも龍さんは、かつてそういう子だったから、タコノマクラを知ってたんですよね?」
「ああ、そうかも」
「龍太郎って、名前は強そうなのに――」
「あはは。それ、よく言われました。名前負けしてるって」
 俺は生まれてこの方、ずっとヒーローになれないタイプのままでいる。たとえばクラスのヒーローがいたら、そいつに羨望と嫉妬の眼差しを送っているだけの「その他一同」にすぎない。
「ううん。わたしが言いたいのは、強そうな名前なのに、やさしい人に育ったんだなぁって」
「え? あ、そう、かな」
 モモちゃんが「はい」と微笑む。
 涼やかな川風が吹き、頭上で、チュルル、チュルル、と可愛らしい小鳥の声がした。その声に釣られて、二人そろって上を見上げた。まぶしい青空に張り出した新緑の枝葉がシルエットになって揺れている。その枝の先端近くに、スズメほどの小鳥が数匹さえずっているのが見えた。
「龍さん、やさしいです」
「あはは。ありがとう」
 上を見たまま、俺はモモちゃんに礼を言った。するとモモちゃんも、頭上を見上げたまま、妙な質問を口にしたのだ。
「龍さんって、子供は好きな方ですか?」
「ん?」
 俺はゆっくりと視線を下ろして、モモちゃんを見た。モモちゃんも、こっちを向いた。
「どうかなぁ。ふつうに可愛いなって思うこともあるけど、でも、扱い方が分からないなって思うこともあるかな」
「ふうん……」
「え、なんで、そんなことを訊くの?」
 訊き返したら、モモちゃんはそっとうつむいて自分の傷跡だらけの左手首を何度か撫でた。俺は、その白くて華奢な手首を黙って見つめていた。
 川風がモモちゃんの髪を揺らし、どこか遠くから女性の笑い声が聞こえてきた。おそらくヒロミンさんの声だ。誰かとふざけ合っているのだろう。
 モモちゃんは、しかし、その声の方を見ずに、傷痕だらけの左手首を軽く握った。そして、対岸の樹々の梢を見上げた。
「わたし――」
 と小さな声を出す。
 足をぶらぶらさせて、やけに穏やかな横顔でこう続けた。
「赤ちゃんを堕してきたんです。このツアーに申し込む前に」
「え……」
 一瞬、世界から音が消えた。川のせせらぎも、樹々の葉擦れも、小鳥のさえずりさえも、すうっと消えてなくなった気がしたのだ。そして次の刹那、俺は重要なことに気付いた。
 小雪が俺に隠していたモモちゃんに関する秘密は、このことだったのだ――。
 気づいてもなお、俺にはモモちゃんにかける言葉が思いつかなかった。こういうとき、小雪ならきっと、唯一無二とも言える言葉を、最適なタイミングで、絶妙な声色で、モモちゃんに届けることができるのだろう。
「赤ちゃんを堕ろしたことを彼に伝えたら、あっさり捨てられちゃうし、母にも見捨てられるしで……、もうどん底だったんですよね」
 モモちゃんは、ゆっくりこちらを振り向いて、淋しげに微笑んだ。そして、傍に置いてあった小さなバッグのなかから何かをつまみ出すと、それを人差し指に刺して、こちらにかざした。
 白くて、ドーナツのように穴の空いた――。
「あ、それ……」
「タコノマクラです」
 このツアーの途中、海岸で拾ったものを、モモちゃんは捨てずに持っていたのだ。
「わたし、去年の夏に一度だけ、元彼と近くの海に行ったことがあって、これとそっくりなのを拾ったんです。そのときは二人で『なんだろうね、これ』って言ってたんですけど……」
「…………」
「おととい、自殺の名所の海でこれを見つけたとき、じつは、わたし、元彼とのことをいろいろと思い出して、すごく気持ちが重たくなってたんです。でも、龍さんにタコノマクラっていう冗談みたいな名前を教えてもらったら、なんだか元彼とのことも冗談みたいだなぁって思って……。で、ちょっとだけ気持ちが軽くなりました」
「そう……なんだ」
 相変わらず俺の口は愚鈍で、気の利いた台詞ひとつ言えずにいた。
「だから、いじめられっ子だった頃の龍さんの知識にも、ちょっぴり救ってもらったんです」
 そう言いながら、モモちゃんはタコノマクラを指から外した。
「これ、ほんと、ドーナツみたいですね」
 そう言うやいなや、モモちゃんはひょいと右腕を振った。
「あ……」
 と、俺が言ったときにはもう、タコノマクラは放物線を描いていた。
 ぽちゃん。
 小さな音を立てて川に落ちたタコノマクラは、あっという間に清涼な水の流れに飲み込まれて消えた。
「ふう……。龍さんに話せて、ちょっとスッキリしました」
 モモちゃんは、せいせいしたような顔でそう言うと、豆腐型の岩から降りて玉砂利の川原にすっくと立った。
「じゃあ、わたし」
「え?」
「少し、散歩してきますね」
 モモちゃんは、わずかに微笑んで、くるりと踵を返した。
「あ、うん……」
 それから俺は、ゆっくり遠ざかっていく華奢な背中を、深い感慨をもって眺めた。
 思えば、このツアーにモモちゃんが参加したのは、ほんの三日前なのだ。たった三日やそこらで彼女がここまで変わるなんて、誰が予想し得ただろう? モモちゃん本人はもちろん、小雪にだって想像がつかなかったのではないか。
 つくづく女って、強いな――。
 なんだか俺は、ひとり取り残されたような気持ちになって、豆腐型の岩の上にごろりと仰向けに寝転んだ。

(第26回につづく)



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プロフィール

森沢明夫
(もりさわ あきお)

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。