双葉社文芸WEBマガジンカラフル

双葉社ホーム

ラジオ小説 原田ひ香

© サイトウマスミ

第 1 回



三匹の子豚たち
【伊集院光の深夜の馬鹿力】TBS月曜日深夜一時から
「ご趣味は……読書とラジオですか。いい趣味ですねえ。ここの皆さんもラジオお好きですよ。ラジオ深夜便なんて、いいですよねえ」
 ええまあ、と河西信子は上品に微笑みながら、うなずく。
 本当に聴いてんのかよ、お前。ラジオ深夜便なんて老人相手のスローテンポな番組、聴いたことないくせに。あんなつまんないラジオ、私だって聴かないのに。二十七歳の男が? 逆に気持ち悪いわ。
 と、心の中で毒づいているのは向かいの頬も鼻の頭も赤い、下手をすると十代にさえ見える、まじめそうな青年にはわからないだろう。山田幸太郎というそうで、これから担当になるらしい。信子は愉快でたまらない。
「お召しものもステキですね」
 横から、さっき、主任と紹介された中年女性が言った。
「紫色で」
「藤色です」
 それまでただ、微笑んでうなずいているばかりだった信子がきっぱり言い切ったので、女は驚いたようだった。
「失礼しました」
「いえ」
「うちのお義母さんはこの色が大好きなんですよ。ブラウスもカーディガンも紫で」
 長男の嫁の冴子が口を挟む。
 だから、藤色だってば。紫みたいな下品な色じゃない。それからお前が説明するな。あたしは子供じゃない。まだ頭もしっかりしているし、自分に口もついているんだから。それから、藤色が好きと一度言ったらあんたたちが毎年その色のものをくれるから、しょうがなく着てたの。否定するのも面倒だから。
 でも、言わない。ただ、微笑むだけである。
 夫が肺がんで亡くなったのは十年前だった。以来、一人暮らしを続けてきたが、昨年末、七十の誕生日を過ぎた頃に、家の中で転倒して、大たい骨を折って入院した。リハビリをがんばったので、杖さえあれば一人で歩くことはできるが、今までと同じ暮らしはむずかしいと、自己判断した。
 義父母の老いを間近で見ていて、老人の最後がどうなるのか、ということはよくわかっていた。義父は肺炎をこじらせて真冬に亡くなり、義母は七十五を過ぎた頃から物忘れが始まって、認知症と診断された。ずっと家で面倒を看ていたけど、信子のことを「お姉さん」と呼ぶようになってから三年で、デイケアの施設の人から「そろそろ特養に入られることを考えたらどうですか。今なら入れますから」と勧められた。義母はその施設で最期を迎えた。
 その後、闘病の末に夫を看取った時に、信子はもう自分がするべき仕事は終えた、と思った。肺がんの末期はつらく、あれは本人にも家族にも壮絶な時間だった。病名を告知されていた夫は、とにかく楽に死にたいと願い、担当医とも話し合ってきた。それでも、最後の最後に痛みを抑える強い薬を使う許可を出したのは信子だ。「これを使ったら、お話をするのはもう無理かもしれません」と医者に宣告された。そのきつい判断も含めて、自分の仕事はやりきった、と思った。
 だから、思い残すことは何もない。
 信子さんも苦労したものね、と友人や知人に声をかけられることがあると否定もせずに微笑む。だけど、そう思わせてくれる程度の介護をさせてくれた彼らに信子は感謝している。
 だからこそ、自分は人に迷惑をかけたくない。だって、子供たちが自分と同じように考えてくれるかはわからないのだから。嫁ならなおさら。
 一人暮らしができなくなったら、家を売って老人ホームに入るからね、何も残せないが迷惑もかけないよ、と前々から息子たちには言ってあった。そして、いよいよ宣言したとき彼らはいちように不満そうな顔をしたが(何も残せないのが不満なのか、老人ホームに入るのが不満なのかはわからない。考えたくもない)、嫁たちはそろって賛成してくれた。
 息子は三人いて、まるで三匹の子豚のようにそれぞれの性格が違う。皆、大学まで出してそこそこの仕事に就けるまで育てた。それだけが財産だとありがたがりなさい、とこれもまた心の中でつぶやいた。
 四十代半ばの長男と次男は結婚していて、一人年の離れた三十代の中学教師の三男だけがまだ独身だ。二人の嫁はどちらもまあそう美人でもないが、ブスでもない。長男の嫁は仕事があって子なし、次男の方は専業主婦で二人の子供あり、だ。どちらも細かいことを言えばいろいろ難はあるが、まあ、自分を殺すほど危険な女でもないようだし、よしとしなければ。
 信子は他人に期待しない。
 娘時代から、自分の親友たちが皆、驚くほど変な男と結婚していくのを見てきた。また、夫の友人たちもあまり気に入らなかった。ましてや、夫の友人の妻たちはさらに、今どきどっからこんな非常識な女を探してきたのだ、と言いたくなるほどひどかった。
 友人や知人はほとんどの場合、絶対に自分が気に入らない人間、おかしな異性を配偶者とするものだ、ということを学んだ。これは、息子の嫁はかなりの覚悟をしなければならない、と内心戦々恐々としていたら、まあ、“変な人”ではないようなので安心した。
 信子が宣言した時、嫁たちは二人ともほっとした顔をしていた。冗談混じりに、遺産相続でもめたりするよりずっといいわよねえ、などと笑い、将来、足りない分は私たちもできるだけのことはしますから、と請け合った。まあ、それだってその時になったらどうなるかわからないけど。
 長男・正人は話し合いの翌日に、信子が家を売却し、そのお金を普通預金に入れた場合、投資信託に投資した場合、老人ホームに入った場合、ケアハウスに入った場合、老人用マンションを購入した場合……などさまざまなプランを立て、詳細なレポートにして送ってきた。さすが銀行の融資担当課長、手際がいい。そこに彼自身の言葉は簡単なコメント以外なかったが、昔から、図表や数字で計画を立てるのが好きで得意な長男のこと、それこそが彼の言葉だと知っている信子はありがたく受け取った。
 長男は幼い頃、むずかしい子供だった。学校の成績は良いのだが、友達が作れない。人の気持ちをおもんぱかったり、自分の気持ちを表現するのが苦手だということに気がついたのは、中学生の頃だ。学校は馴染めなかったが、ありがたいことに塾の先生で彼をよく理解してくれる人がいて、その人と同じ国立大学の数学科に進んだ。あんな子と結婚してくれる女なんていないだろうと思っていたら、銀行の融資先で出会った、ファッションブランドの広報の女性と結婚した。二人でどういう話し合いをしたのかわからないが、子供は作らないと決めているらしい。四十半ばを過ぎた今でも夫婦でよく旅行などしている。時々、信子は密かに、自分に一番似ているのは、この感情をほとんど外に出さない長男なのかもしれない、と思うことがあった。
 嫁二人は協力して老人ホーム探しに付き合ってくれ(信子もいくつか心づもりはあったのだけど)、結局、今の信子に適当なのはホームではなく、ケアハウスではないか、ということになった。私立の大きな施設で、その後、さらに進んだ介護が必要になったら、同じ会社が運営している別の施設に移ることができる。彼女たちは入所までの手続きなどを率先してやってくれた。血のつながった三匹の子豚より、他人の方がずっとありがたい。
 こういう時は割り切った方がうまくいくのだ。
 信子自身、子供の頃から自分の母親と祖母のむずかしい関係を見ていたから、同居は絶対にごめんだと思っていた。
 そう、信子の考え方のほとんどは自分が見たもの、実体験から生まれたもので、それ以外はあまり信用していない。
 次男の嫁は準備の間、一度だけ、「お義母さんには感謝しています」と涙ぐんだ。
 うざっ。うざいうざい。そういうことを言われるのが一番嫌だ。
 口には出さなかったけど。
 たぶん、彼女は専業主婦だから、信子の世話をさせられるのではないかと恐れていたのだろう。それが、お金で解決するということになって、ほっとしたのではないだろうか。
 ほら、見なさいよねえ、と言いたい。言わないけれど。
 もしも、信子の介護が必要になって、さまざまなことを彼ら、彼女らに頼むことになったら、長男次男の嫁同士で争ったり、兄弟間でも信子を押し付け合い、大変なことになった可能性もある。
 これが一番いいのだ。お金で解決できるほど、安いものはない。
 入所当日、息子三人とその嫁が全員来る、と言い出したので、それも断った。そして、長男の嫁に同行を頼んだ。
「あなた、お仕事があって申し訳ないんだけど、こういう手続きは一番上手だから」
 褒めてやると、ちょっと嬉しそうな顔をした。
 本当は、彼女が最も実務的で、ある意味、非情な性格だからだ。さくさく手続きして、さっさと帰ってくれるだろう。
「他の人は別の日に面会にでも来てね」
 まあ、たいして来やしないだろう。
 いいの、私はよくわかってる。ね、そうでしょう?
 また、心の中でつぶやく。

 老人ホーム、もとい、ケアハウスの日々は結構忙しい。
 信子は「個室」を選んでいて、四畳半ほどのスペースにベッドのある部屋に住んでいる。独身者の部屋の中では真ん中ぐらいの大きさだ。トイレや風呂は室外に共同である。
 入所の時に、信子は、他の入所者と「あまり関わりたくない」、ホームの行事に「あまり参加したくない」、介護者に「あまり干渉されたくない」の、三つの「あまり〜ない」に大きく丸をつけた。それでも、もちろん、一日三回の食事には顔を出さないわけにいかないし(それは介護者の負担軽減、生存確認の意味もある)、トイレや風呂で他の人と顔を合わせないわけにいかない。そういう時は、ちゃんとあいさつして、他の人のうわさ話にも耳を傾けるふりをする。
 面倒くさいのはいやだが、変人だとは思われたくない、というのが本当のところだ。
 朝ごはんを食べると皆で体操して、午前中は自由時間。食堂でのんびり新聞を読んだり、テレビを観たりしている人が多い。
 午後は様々な習い事の教室もあって、好きなものが選べる。
「行事への参加を強制するわけではないですけど、せっかくですから何かご趣味を持った方がいいですよ」
 朝食の配膳を待っている時に用紙を渡されて、主任に勧められた。
 だから、趣味はラジオだと言っているのに。
「できたら、一人で没頭されるような趣味と大人数での趣味、二つあるといいですね」
 さすがに年の功、信子が断る前に言葉を重ねてきた。そして、なるほどと思わされることを言う。
 深夜ラジオを聴いているといっても、信子は反抗期の中学生ではないのだ。
 教室には、「貼り絵」「ボタニカルアート」「編み物」「日本刺繍」など、「一人で没頭」できるものと、「合唱」「ニコニコ体操」「社交ダンス」など「皆で」楽しめるもの、ちゃんと二種類が用意されていた。
 まあ、何か一つぐらい始めてみるのもいいか。主任や山田の顔をつぶすわけにもいかないし。あんまり部屋に閉じこもっていて、おかしな偏屈な人間だと思われても困るから、と渡された用紙を改めて見る。
 心の中で言い訳しているけれど、実はほんの少し、心がはずんでいるのがわかる。手芸などのこまごまと手を動かすことは嫌いでないし、女学生の頃、音楽の合唱の時間は好きだった。信子のソプラノの声はとてもきれいだと先生にも褒められたほどだ。
 音楽の古沢先生は東京の音楽学校を出た後、信子の学校に配属されてきた先生だった。女性の先生ばかりが幅を利かせていた女子高で、音楽なのに、男の先生? と最初は戸惑ったけれども、ピアノがとてもうまくて、授業中にベートーベンの「月光」などを弾いてくれた時には皆、うっとりしたものだ。信子も先生がソプラノ指導のために近くに来るだけで、密かにどきどきしていたっけ。
 いやいや、年を取ると、自然に昔のことばかり思い出してしまう。また教室の一覧を手に取った。
 本当は、一瞬、社交ダンスにもひかれた。というのは、以前、洋画などで外国人がレストランで食後に立ち上がって、臆面もなくダンスを踊るのを観て、少し、ほんの少しだけすてきだな、と思ったことがあるのだ。
 しかし、それは配偶者あってのものだ、という気もする。
 親の知人から紹介されて結婚した、信子の夫は武骨な人だったけれども、頼んだことはやってくれる人だった。息子たちが巣立ち、仕事も退職したら、一度、大型客船にでも乗ってみようか、などと話している矢先に病に倒れた。
 あれがなければ、船旅中に二人で踊っていたかもしれない。
 まあ、入所時、自己紹介をさせられた集会所には、ダンスを踊りたいと思うような男は一人もいなかった。半分以上は車いすだったし。
 信子はごくわずかでも「社交ダンス」に目を留めた自分を恥じて、首を振る。
 さすがの自分も新しい場所に来て、浮かれているのかもしれない。
 朝食を終えると、さっさと自分の部屋に戻って、ラジオのつまみをひねった。
 朝のラジオを聴くのではない。昨夜(正確には本日未明の)録音したものを聴くのだ。本当はリアルタイムで聴きたいところだけど、寄る年波、最近めっきり寝落ちしてしまうことが多くなった。それはあまりにももったいない。
 信子は録音できるラジオを二台持っている。深夜はTBSジャンクとオールナイトニッポンがかぶるから。FMにも聴きたいのがあるし。
 木曜日などはジャンクでおぎやはぎ、オールナイトで岡村隆史がしゃべるから忙しい。東京の笑いと大阪の笑い、どちらも聴き逃せない。性格はまったく違うけど、どちらも気のいい、まっとうな青年であることが、過激な発言の中にも見え隠れしている。土曜日は少し前まで、オードリーとFMのふかわりょうのラジオが重なっていたから大忙しだったのに、ふかわのラジオが終わってしまったのが残念だ。
 まあ、そうは言っても、二台のラジオがあればたいていのことは間に合う。
 今日は火曜日だった。前夜の伊集院のラジオが聴ける。
 朝ごはんを食べている時から、嬉しくて口元がほころぶほどだった。ちゃんと録れているか、デジタルの機械だから大丈夫だとわかっていても、毎回ドキドキしながらスイッチを入れる。
 特徴的なジングルが鳴り、ほっとした。「今週、気づいたこと!」という声が聞こえてきて、信子は寸時、すべてを忘れる。
 彼は今夜、とある芸能人の覚せい剤での逮捕事件について話している。
 時々、「ああ、そんなことを言っていいのかしら」と芸能界に疎い信子までひやひやするようなことを言う。けれど、芸能界のご意見番と違うところは、彼は自分の駄目なところや嫌なところも、話の端々に挟み、さらけ出すのだ。自分だって弱い人間で誘惑があれば薬物使用で捕まるかもしれない、だけど。
 彼は言う。自分には薬よりもっと楽しい、気持ちがいいことがあるのを知っている。自分でもっと気持ちがいいことを見つけたり、探したりする方がずっと楽しいのに、なんで彼らはそれを選ばないのか。
 ラジオを聴きながら信子は思う。伊集院は決して自分たちを裏切らない。いや、裏切っても、その裏切ったことをちゃんと話してくれるだろう。それが物理的に可能な場所にいれば。
 だから、自分も他のファンたちも絶対に彼を裏切らない。
 その一体感の中で、信子は彼の声に身を埋める。

 信子は自分が深夜のラジオを聴き始めた日をはっきり覚えている。
 一九八一年一月一日だ。
 正月だった。
 家には、新年のあいさつに夫の部下が家族を連れてきたり、近所に住む親類が訪ねてきたりした。一昔前の正月というのは、都会でもそんなふうに過ごしたものだ。
 三男はまだ生まれておらず、それでも小学生の長男と次男がいて、てんてこ舞いの忙しさだった。
 夫の独身の部下たちは夜遅くまで酒を飲んでいた。子供たちや夫が風呂に入って眠りについたのは、深夜零時を回っていたと記憶している。
 信子は一人、台所に立って、汚れ物を洗い始めた。
 そのとたん、涙があふれた。
 片付け物が嫌だったのではない。さんざん飲んだ挙句に、信子に一言のねぎらいもなく、さっさと風呂に入って寝てしまった夫に不満があったわけでもない。そんなこと、当時の主婦には当然のことだった。今の「家事も子育ても手伝ってくれる」夫など夢にも見たことのない時代だ。
 そんなことではなかった。
 信子は前年の六月に流産していた。
 妊娠して七か月。胎動もあり、名前なども考えていた矢先の流産だった。女の子でした、と担当医は教えてくれた。
 退院した直後は悲しかった。けれど、夫や子供たちの日常を調えるので手一杯で、感情をあらわにするのは彼らに悪い、と思っていた。そんな中で必死に働いたのがよかったのか、体調もほどなく戻り、記憶はじょじょに薄れかけてきた。自分は立ち直ったのだと思っていた。
 しかし、なぜか、その日、ふっと思い出してしまった。
 無事に生まれていれば、今頃三か月。表情も豊かになり、親の顔を識別して笑うようになった頃かもしれない。忙しいお正月の中、家族の一員として存在感を発揮したことだろう。
 けれど、あの子はいない。
 しかも、あいさつに訪れた夫の弟に「義姉さんも去年はあんなことがあったけど、また、すぐできるから。男二人も作れたんだから、あんたのお腹が悪いわけじゃない」と言われたのもつらかった。彼が妻とともに、二歳になる娘を連れてきたことも。
 悪気がないことはわかっている。元気づけようと言ってくれたのだろう。現代なら考えられないけど、当時は親類ならあのぐらいの無神経な言葉遣いは普通だった。実際、その翌々年に三男が生まれた。
 けれど、その日は、信子は泣きながら皿を洗っていた。そして、少しでも気をまぎらわそうと、また、泣き声が寝室に漏れないよう、ゴム手袋をはめた手でラジオをつけた。
「ビートたけしのオールナイトニッポン!」
 適当につまみをひねったラジオからその声が聞こえてきたのは、今思うと奇跡だとしか思えない。
 その日が、あの伝説の番組の初日だったのだ。信子は三十六歳だった。あれ以上若くても、年寄りでも、ラジオにはまったかわからない。
 正直、あの日だって、信子が彼の言葉をちゃんと聞いていたわけではなかった。
 深夜ラジオは初めてだったし、それは信子が昼間、家事の合間に何気なくつけるような、生活百科を教えてくれるようなものとはまったく違うものだというのはわかった。
 だけど、ただ、男がものすごい早口で何やら楽しそうに話しているのを聴いていれば、それでよかった。
 あんな夜は、自分が一人じゃない、ということを確認できるだけで、十分なのだ。

 ケアハウスに入所して最初の週末に、三男・正武が訪ねてきた。
 午前中の時間で、信子は朝食を食べた後、自室にこもってまたラジオを聴いていた。
 ドアのノックの音に振り返ると、係員に案内されて来た彼が、「よっ」と言うように片手を上げた。
 現金なもので、「来なくていいよ」と言っていたのに、息子の顔を見ると悪い気はしない。
「また、ラジオ、聴いてるの?」
「まあね」
「ラジオばっかり」
 三男はふふふっと笑った。
「何よ」
「ウディ・アレンの『ラジオデイズ』の中にさ、親が子供に『ラジオばっかり聴いて!』って怒るシーンがあったな、と思って」
「確かに」
 その映画は三男が教えてくれて、DVDで観た。ラジオ時代もテレビ時代も親が言うことは同じなのだ、とおかしかった。さしずめ、今なら「スマホばっかりして!」と言うのだろうか。
「ああ、それで、こんなもの、持ってきた」
 正武がバッグから黒くて平べったいものを出す。
「何よ。スマートフォンなら使わないって言ったでしょ」
 信子はガラケー派だ。勧められても、新しいものを使う気にならない。
「違う。タブレット」
 正武は彼の手のひらより少し大きめの板を渡す。
「こんなの、いらないわよ」
「いいから、いいから。使ってみれば便利だから。Wi-Fiはちゃんと完備してあるって、義姉さんが言っていたから」
 そのぐらいはある。今どきの老人はパソコンぐらい使えない場所には集まらない。
「ここ、意外に広いね。日当たりもいいし」
 介護士が持ってきてくれた椅子に座りながら言う。
 だから、ケアハウスをどんなところだと思っていたのか。牢獄じゃないのだ。
「タブレットだなんて、高いんじゃないの?」
「たいして高くないよ。一万円もしない。実を言うと、アマゾンのセールで四千九百八十円だった」
 彼はそのタブレットを指で触りながら、使い方を教えてくれた。
「だめよ、うまく使えない」
 信子は、パソコンは使える。夫が亡くなった後、ちゃんと近所の公民館で、老人のパソコン教室に通ったのだ。
 原理は同じだ、と正武は言うのだが、ちゃんとキーボードがないから文字入力がうまくいかない。
「大丈夫、すぐ慣れるから。何よりね」
 正武は三角の矢印がついたアプリ、と呼ぶ、しるしを叩いた。
「このユーチューブっていうものを使ってほしいんだ」
「ユーチューブぐらい、知ってるわよ」
「え、そうなの?」
「伊集院光さんが言ってた。これで、深夜ラジオを録音して、勝手に流している輩がいるんだってね。しかもその再生回数でお金がもらえるっていうじゃないの」
 自然に眉をひそめてしまった。これは悪魔の道具らしいことはわかって いるのだ。
「はははは。ずいぶん、悪者にされてるな」
「当たり前よ。それじゃ、泥棒じゃない」
「まあね、でも、録音をし忘れた時なんかに聴くことができるし」
「いらないわよ。そういう時は潔くあきらめるの」
「何より、お母さんが昔聴いてたっていう、たけしのラジオなんかも公開している人がいるらしいよ」
 少し心が動いた。
 三十五年前、信子にラジオ開眼させてくれた、ビートたけしのラジオのことは実は今ではもううっすらとしか覚えていない。
 ただ、彼は「本音」というものを教えてくれた。「かっこつけない」ということも。信子の平坦で平凡な人生に。人々が本当はそっと心に忍ばせていて当たり前の、人前では少し「きど」ったり、「杓子定規に」「まじめに」ラジオの前でしゃべったり、曲紹介するのはこっけいで、おかしなことなのだ、ということ。
 だから、信子は立ち直れた。心の中で、本当の気持ちをつぶやくことができるようになって。
 そんなことをぼんやり、覚えているだけだ。
 録音できるラジオも持っていなかったし、そういう時代でもなかった。
 信子自身忙しい年頃でもあり、録音をしていたところで再生して聴けたかどうか、あやしいものだ。ぼんやりとラジオをつけておき、寝落ちしてしまったらそれでいい、というような感じだった。
 しかし、深夜ラジオというものはそんなものだという気もする。それこそが正しい聴き方なのではないかと。
「ラジオなんて、流れたらそれでおしまい。聞き直すようなものじゃない。今は歳が歳だから録音してるけど」
「お母さんの言うこともわかるような気がするよ。たださ、有名な『駅馬車』という映画があるじゃない。ジョン・ウェインが出てる」
「昔、テレビでやっているのを観たことがあるかもしれないわ」
「あの映画、オープニングに一瞬、ピンボケしているところがあるんだよね。昔は映画の全盛期で毎週毎週新しいものがどんどん作られていた。だから、結構、いいかげんに作られていたらしいんだよ。あれが後世に残るかどうかなんてわからなかったから」
「何が言いたいの」
「だけど、結果的に『駅馬車』は残った。いいものは残るし、ユーチューブだろうがネットの中だろうが、聴きたい人がいる限り、それが生きていくことは否定できないことなんじゃないか。誰にも」
 熱弁した後、俺もよくわからなくなってきた、と言って、彼は頭をかいた。
「まあいいわ、あなたの言うことも考えておく」
「そろそろ、クリスマスだよね。蒼佑くんたちのプレゼント考えた?」
 次男のところの子供たちだ。
「まだよ」
「『マリオメーカー』っていうゲームソフトがほしいんだって。お母さんと俺と半分ずつで贈らない? マリオゲームを自分で作ることができるソフトらしいんだけど」
「『マリオメーカー』だって知ってるわよ」
「え。そうなの?」
「伊集院さんもやってるって、言ってた。子供にもおもしろいんじゃないか、って勧めていたからいいんじゃない?」
「なんでも伊集院、伊集院だな」
 正武は笑った。
「あんた、今日は、けいさんはいいの?」
 彼の恋人だった。彼女がいることはなんとなく知っていたが、ケアハウスに入る数週間前に改めて紹介された。恵子でなくて、恵。その名の通り、どこかさばさばした男っぽい女性だった。ぼんやりしている三男坊にはちょうどいいと思った。
「この後、会う」
「じゃあ、早く行きなさいよ」
 いいよ、いいよ、と言いながらも、その言葉を合図のように彼は立ち上がった。
 また来るよ、と言い残しながら。

 三男、正武が来た翌週に、新しい介護士が入ってきた。
 大沢未来みきという。未来と書いて、みき。そんな名前なのに、男だ。
 さらに、そんな名前なのに、身長がやたらでかく、太っている。
「あんた、身長何センチだい」
 昼食時に、老人にずけずけと尋ねられて、まるで悪いことをしているかのように身を縮めて「百八十三センチです……」と答えた。
 その身長を聞いて、ピンとくるものがあった。
「あなた、体重は何キロ?」
 まわりの老人たちがこちらを見ているのがわかった。信子はほとんど自分からは話さない。特に、人の個人的なことを聞くようなことはない。それがいきなり、最もプライベートといってもいい、体重を質問したから、驚かれたのだろう。
 人々に見つめられて、信子は顔が赤くなった。
「百三十キロです」
 大沢はさらに背中を丸めて、ささやくように答えた。彼は信子が発言をすること自体がめずらしいなんて知らないから、そこには疑問を持っていないようだった。ただ、「生きててすみません」ではないが、「こんなに育ってすみません」と言いたげに、恐縮していた。
 身長、体重、すべて伊集院と同じである。
 食後、信子は少し離れたところから大沢を眺めた。
 彼は新入りらしく、老人たちからいじられて、にこにこ答えている。
 そうか……と思いながら、信子は彼を見る。
 テレビの中の人間というのは、存外、本当の大きさというのがわからないものだ。伊集院は常々、ラジオの中で、実際に会った人から「大きいですね」と言われる、と語っていた。
 確かに大きい。彼はよくダイエットをするから体重の増減は激しい人だけれど、百三十キロというのは、わりに多い時の体重ではないか、と思う。
 伊集院さんは実際に見たら、あんな感じなのか、としげしげと眺めた。
 それから、信子は大沢のことに興味を持って、彼の情報を少しずつ集めた。
 体重を聞いてまわりから驚かれたので、こちらから彼について質問したりすることはないものの、「大沢」の名前が入った会話がなされると、草原の小動物のように耳をそばだてる。
 結局、教室は「編み物」に入ることになった。
 それなら、これまでもやってきたし、あと一か月ほどでクリスマスという季節でもあるので、マフラーでも編んで三男か孫にあげようか、と思ったのだ。
 編み物教室は近所の手芸店の女店主が講師となって、五人の老婆が参加している。講師は大した講師料をもらえるわけではないようだけど、毛糸や編み棒の注文はその店にすることになるから、多少収入には貢献しているらしい。今は手芸する人が少ないから、こうして少しでも売り上げにつなげたいのだろう。
 講師の女性は五十代の女で、そうセンスが悪いわけでもなく、変な毛糸を押し付けたりもしない。信子たち生徒が編みたいものを自由にやらせてくれ、それを指導する、という形でレッスンは進んでいる。
「大沢さん、大学院まで出ているんだって、知ってた?」
 教室で一番、噂好きの話好き、得意になると目をぎょろりと動かすのが癖の神林という老女が、息子のベストを編みながら言った。
 信子は、紺色のマフラーを編みながら、はっとしてそちらに耳を向ける。いつもはうるさい神林の声がありがたい。
「景気が少し良くなった、って言っても、まだ就職難だもんねえ。ケアハウスの介護士の募集は三人だったのに、二百人も応募があって、大沢さん以外にも大学院卒の人が六人もいたんだってよ。所長が、いくら学歴があっても、そんな人使えない、って皆落としたんだけど、大沢さんだけは体が大きくて力持ちだし、三十前だし、性格がおとなしくて優しそうだから、採ったんだって。ねえ。学士さんがあたしらの世話をするなんて」
 神林は誰もあいづちを打っていないのに勝手に、ははははは、と笑う。
 それは学士さんじゃなくて、修士さんでしょ、と信子は心の中で訂正してやった。大学院卒なら修士だし、ひょっとしたら博士論文を書いて、ドクターになっているかもしれない。
「大学院の人の就職は、高卒の人より、厳しいらしいね」
 さにあらん。
「大沢さんは、なんだっけ? 国文科で、江戸時代の学者の……もともと……本居なんとか」
 ああ、本居宣長か。
「その人は源氏物語の研究もしたんだってさ。その人の書いた、源氏についての本になんだか、三種類の本があるんだか、ないんだか、で、それを読んだり考えたりする勉強をしたんだってさ」
 ニセ伊集院は大学院出、専門は本居宣長の研究、と信子は心に刻んだ。

(第2回につづく)




プロフィール

原田ひ香
(はらだ ひか)

1970年神奈川県生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞、07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞を受賞する。著書に『東京ロンダリング』『人生オークション』『母親ウエスタン』『アイビー・ハウス』『彼女の家計簿』『ミチルさん、今日も上機嫌』『三人屋』『ギリギリ』『復讐屋成海慶介の事件簿』がある。