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フリー! 岡部えつ

イラスト/栗城由香

第 1 回



1・ドロップ
 深夜一時二十分過ぎ、中央線下り最終電車が三鷹駅に着く。仕事でくたびれきった上に一時間近く立ちっぱなしでよれよれと車両から吐き出されながら、わたしは今朝ベッドに脱ぎ捨ててきた使い古しのパジャマを思い出す。改札を出て北口の階段を下り、ロータリーに出たとたん、吹きつける冷たい風に首をすくめる。数日前に桜前線のニュースを聞いた気がするが、この時間にはもう、太陽の温もりは微塵も残っていない。
 五分で自宅マンションに着き、玄関ドアを開けてすぐ、男物の革靴がそこにあるのを見るよりも前に、昭人あきひとが来ているとわかる。いつも彼が部屋に籠らせる、微かな体臭のせいだ。つき合って六年になるが、今でもこのにおいは、違和感と共にわたしの鼻先をほんの一瞬不快にする。
 上がってすぐのダイニングの照明を点けると、流しにコンビニ弁当の殻とビールの缶が二本、投げ捨ててあるのが見えた。バスルームの換気扇が、微かな唸りを上げている。奥の寝室から、小さないびき。肩からおろしたバッグをわざと乱暴にダイニングチェアに置くと、鼾はふた呼吸分止まって、再開した。
 洗面所で化粧を落として歯を磨き、服を脱いでキャミソールとショーツだけになって寝室に行く。床に落とされたパジャマを蹴り上げてソファーに載せ、ベッドに潜る。石鹸の匂いと熱を発している昭人に背を向け、横たわる。再び鼾が止まった。
千春ちはる、遅かったね」
 甘え声とともに、ごそごそと布団の中が蠢く。熱い手と固い脚が、わたしの腰と太腿に巻きつき、尻に性器が押し当てられる。
「やめてよ。終電まで仕事してたんだから」
 昭人はやめない。
「お前、風呂、入ってないの」
「朝入る。へとへとなの」
「頭、臭いよ」
「うるさいな、だったら向こう向いてて」
 右足の踵で、昭人の脛を押しやる。
 体は間違いなくマットにめり込みそうなほどくたびれているのに、頭が冴えきって眠らせてくれない。会社を出る三十分前に缶ビールを一本飲んでゆるませたはずの緊張が、昂奮に変化して心悸しんきを高まらせている。隣に昭人がいることとは関係ない。ここ最近、一人でもこんなふうになることが多い。
 寝返りを打ちながら落ちるようにベッドを出、サイドボードまで這って、カリラのボトルとロックグラスを出す。ワンフィンガーほど注いで、ソファーに腰を下ろす。尻の下によじれたパジャマがあるが、気にならない。グラスに口をつけると、舌を刺すような刺激と甘苦い香りが、鼻を通って頭の先まで抜けていきながら、熱のこもったそこを冷ましてくれる。空腹に腹が鳴る。カップラーメンをかきこんだのは九時くらいだから、四時間と少し。胃をもたれさすくせに腹持ちが悪く、栄養にもならないそんな夕食が、もう何日続いているだろう。そういえばわたしは今日、他に何を食べたのだったか。思い出そうとしたら再び頭が熱くなりかけたので慌てて首を振り、残りを一気に呷る。咳き込みながらベッドに戻ると、背中に張りついていた怠さが全身に滲むように広がり、瞬く間に意識が遠のいた。

 荒涼と広がる冬の枯畑かれはたに、まっすぐ伸びる畦道。そこを自転車で走るわたしは、砂埃ひとつ上げず、水面を滑るように進む。ペダルを漕いでも漕いでも、景色はまるで変わらない。もしかしたらすでにもう、目的地に着いているのではないか。そう思ったとき、耳障りなメロディーに叩き起こされた。
 隣で昭人が、寝返りを打とうとしてわたしにのしかかりかけ、不満げなうめき声を上げながら体を戻す。手を伸ばしてテーブルのiPhoneを取り、アラームを止めたとたん、強い雨音が聞こえた。
 五時間眠れたろうか。会社の始業は九時だが、わたしは今日「お茶当番」で、三十分早く行かねばならなかった。あと四十五分でシャワーを浴びて化粧をし、七時十五分には家を出なければならない。
 布団から出、冷えきったフローリングに素足を下ろす。よろけながら立ち上がったとき、背後で、わたしがまくった掛け布団を乱暴に戻す音がした。自分の顔が歪むのがわかる。おそろしく醜い顔をしているだろう。エアコンを入れ、去年の春以来出しっ放しの物干からバスタオルを取り、風呂場に入る。熱い湯を浴びても、頭の中はいつまでも泥が詰まったように重い。シャンプーだけしてすぐに出る。部屋はまだ暖まっていない。昭人は布団にもぐったままだ。同じ会社に勤めていても、彼はわたしに構わず、始業時間にぎりぎり間に合う時間まで寝る。照明をつけようがドライヤーをかけようが、布団の山は動かない。いったい、何をしにうちに来るのだろう。わたしが毎晩終電まで仕事に追われるようになってからも、習慣のように四、五日おきにやってくるが、今は会話もセックスもほとんどない。土日はわたしが寝溜めをするので、デートもしていない。
 ハンドクリームを擦り込んだ顔にファンデーションを叩き、口紅だけを塗って服を着る。昨日着ていたコートのポケットからSuicaの入った定期入れを出し、レインコートのポケットに移してそれを羽織る。
 生乾きの髪のまま、マンションを出る。雨脚はさほど強くはないが、空気を冷やしていて、頭が凍りつきそうだ。ゴミ置き場の前まできて、今日が再生ゴミの日だったことを思い出す。キッチンの流しの脇には、定期購入している水の空きペットボトルを詰めた袋が三つ、山になっているのに。取りに戻ってもたった一分だが、通り過ぎる。歩道には、駅に向かう人たちの無言の背中が、ベルトコンベアーに乗せられたように流れている。ハイヒールの靴音があちこちで響き、どこかでシャッターが開き、頭上でカラスがひと声鳴いた。
 駅に着くと、売店でホットの缶コーヒーを買い、頬と首筋にあてながら、上りエスカレーターに乗る。Suicaを出そうと右ポケットに手を入れたとき、指先に何かが当たった。先週の雨の晩『dropドロップ』のマスターからもらった、桜味の飴玉だ。わたしはそれを、そっと握って放した。
 ホームには、すでに長蛇の列ができていた。会社がある日本橋までは東西線で一本だが、この線は終電が早いので、帰りが遅いときには途中で中央線に乗り換えねばならない。今夜もそうなるだろう。吹き込んだ雨粒が目に当たり、思わず強くつむったとき、人の群れを薙ぎ払うような風とともに、列車がすべりこんできた。
 運良く、ドア脇シート横のスペースに体を入れられた。ここなら壁に寄りかかれる。電車が動き出してから、ポケットのiPhoneを出して時間を見ると、七時三十二分だった。メールアプリを開き、昭人に宛て『ごめん、ペットボトルのゴミ出しお願い』と打って送る。しばらく画面を睨んでいたが、返信がないので閉じ、ポケットにしまった。壁に体をあずけると、とたんに眠気に襲われる。手すりを両手で掴んで体を支えるが、何度もがくりと膝を折ってしまう。似たような様子の人が、車内に何人もいた。いくつもの他人の顔が、息がかかるほど近くにあるのに、誰の声も聞こえない。人々の気配は押し殺され、けたたましい列車の走行音や車内放送の合間に隠されている。
 何度目かわからぬ膝の脱力と、ポケットの振動を感じたのが同時だった。iPhoneを取り出して見ると、昭人からの『悪い、今メール見た。もう電車』というメッセージだった。おそらく嘘だろう。再び目をつむろうとしたとき、電車は目的地に着いた。周囲の数人が、慌てたように隙間に隠していた自分の気配を引っ張り出して纏い、足早に出て行くのについて出る。
 駅を出ると間もなく、勤め先の六階建てのビルが見えてくる。この、中堅食品メーカーの子会社である広告代理店は、入社当時こそ、バブル崩壊後の不景気を乗り越えた安泰企業と言われていたが、一昨年に親会社が起こした異物混入の不祥事以降、経営は徐々に悪化している。それより前、東北の震災と原発事故の影響で負った傷のまだ癒えぬところへ、さらに鞭打たれたようなものだった。末端社員には、その傷がどれほどのものであるのかは想像もつかないが、従業員数が百名に満たぬ小さな会社の空気が、この二年で重たくなっているのは肌で感じる。所属する制作部でも、二十四人いたスタッフのうち八人が辞めた。転職したのが五人、独立した者が一人、残りの二人は心身を壊しての退職だった。会社はその穴埋めに、新たに人を雇う気配はない。
 静まり返った会社のビルに入る。二階の事務所のガラスドア越しに、いつも八時には来ている常務が、自分の席で新聞を読んでいるのが見える。その机上にはすでに湯呑みが置かれ、グレーの制服を着た事務員の女が、周囲のデスクを雑巾で拭き回っている。彼女は経理課の一番の古株で、キャリアは常務より一年長いはずだ。事務員がこちらに気づいて寄越した会釈に軽く首を倒して応え、三階に向かう。震災以来、就業時間外のエレベーター使用は禁止されている。
 冷えきった給湯室に入る。昨晩帰るときに見たまま、十数個の湯呑みが流しに放置されている。そのほとんどは、わたしよりも何時間も前に帰った、マーケティング部の男たちのものだ。そこに昭人のものを見、こめかみに熱いものが走る。思いきり蛇口をひねって勢いよく湯を出しながら、スポンジで湯呑みを洗っていく。
 お茶当番制は、古い体質の親会社から引き継がれた慣習だったが、わたしが所属する制作部では、仕事に男女差がないことから、少なくともわたしが入社したときには廃止されていた。しかし、同じフロアのマーケティング部では、この悪習を引き継いでおり、部署全体の三割にあたる四人の女性社員が、交代でお茶の準備と朝、昼、午後のお茶配りを行っていた。給湯室は両部署の共有だったから、自然、彼女たちがコーヒーメーカーにセットしたものを、制作部の者が飲むこともあった。その代わり、マーケティング部の男はやらない自分のカップの始末や、来客時のお茶の用意などを、制作部の男たちはやっていた。
 様子が変わったのは、制作部に新しい部長が就任してからだった。前部長が定年退職したあと、そのポストに収まったのは、長年チーフを務めていた三上みかみではなく、社長の肝煎りで中堅広告代理店から引き抜かれてきた、平木ひらきだった。前部長も三上も、社長とは折り合いの良いほうではなかったのが、その理由だろう。三上より年若い平木が、就任してまずしたことが「お茶当番制」の復活だった。それに端を発し、平木はこれまでの部のやり方を、ことごとく引っ掻き回して荒らした。会社が経営悪化から「成果主義」を導入し、それまで法定どおりについていた残業代が、いっさいつかなくなったのもその時期だ。
 こうした職場の変化についていけず、次々と人が辞めていく中、残ったわたしたちの負担は限界に近づいている。それをすんでのところで支えてくれているのは、三上の存在だった。
 わたしはこの上司に、新卒で入社した当初、一から仕事を教えてもらった。彼がいなければ、今のわたしはない。三上は、特に会社に反発しているわけでもなければ、人間関係に支障をきたすような性質でもなく、ただ、社長と犬猿の仲だった前部長と仲が良かったというだけのことで、社長の息がかかった平木から目の敵にされている。その理不尽はお茶当番どころの話ではなかったが、大学受験を控えた子供を持つ彼は、静かに堪えていた。
「緑川さん、おはようございまあす」
 大きな声を張りながら給湯室に入ってきたのは、後輩の等々力有美とどろきゆみだった。
「ああ、おはよう有美ちゃん」
「お茶当番、お疲れさまでえす」
 有美は手に提げていたコンビニの袋を冷蔵庫に入れて、鼻歌を歌いながら出て行く。昨晩も一緒に深夜過ぎまで残業していたというのに、瑞々しい肌を輝かせて、髪はきれいにカールまでさせている。まだぎりぎり二十代であることを差し引いても、有美の元気は異様にさえ見える。お茶当番にも大して反発せず、それどころかどこか楽しげに応じている様子も、わたしには理解できないことだった。これはやっかみだろうか、それとも、疲労のせいだろうか。
「あっ、すみません緑川さん、またうちの分まで、洗ってもらっちゃいました?」
 遅れてきたマーケティング部のお茶当番が、そう言いながら、使いやすいほうの長手盆をさっさと棚から取り、まだ水の滴っている洗いかごから、湯呑みやマグカップを取って並べだす。しかたなく、わたしは残った使いにくいアルマイトの丸盆を手に取る。流しと電子レンジの掃除も、ゴミ捨ても、わたしがやった。この仕事のために、女性社員だけが、月に八日も三十分早く出社する。それも当然、無報酬だ。
 重たい盆を持って給湯室を出ると、エレベーターを下りてくる昭人と目が合った。その視線が、一瞬不快を浮かべたような気がするのは、さっきのメールのやりとりのせいかもしれない。
 昭人とのことは、会社には隠している。気づいている者がいたとしたら、知らない振りをしてくれているのだろう。交際をはじめて間もない頃、一度だけ、三上に話しておこうかと思ったこともあったが、機を逸してそのままだ。今では、言わなくて良かったと思っている。
「おはようございます」
「おはようございます」
 廊下に誰もいなくても、他人行儀にする。こういうところで意味ありげな視線を送り合ったり、人目を盗んで触れ合ったりした頃もあったが、いっときの遊びだった。
 昭人がマーケティング部のドアの向こうに消えたとき、そのうしろから来た三上が、両手のふさがったわたしの前に回って、ドアを開けてくれた。
「ありがとうございます、三上さん」
「ああ、おはよう。ご苦労さん」
 紺色のコートの肩に、白いフケが積もっている。髪も顔も脂っぽく光り、しかし唇はささくれ、目の下は重たくたるんでいる。
「三上さん、お疲れじゃないですか」
「うん、まあ、今だけだよ、今だけ」
 三上は最近、平木を飛び越えて社長に直接、人員補充を訴えているらしかった。平木は、自分が部下の訴えをのらりくらりとかわしてきたのを棚に上げてへそを曲げ、三上に対する態度を日に日に厳しくしている。わたしは三上が心配だが、最近、彼にこうしてかけている言葉ほどには、実は胸が痛んでいないことに気づいている。自分のことに精一杯で、他人を気遣う余裕がないのだ。
 お茶を配り終わり、盆を下げて自分の席に着くと、机の上の依頼書の山が、ざっと崩れて床に落ちた。

 土曜日。
 表の気配と瞼の裏の明るさで、すでに昼を回っていることはわかっていても、まだ体を起こすことができない。枕元のiPhoneが何度か着信音を鳴らしたこともわかっているが、そこまで手を伸ばすのも億劫だった。そろそろ起きなくては、間に合わなくなるかもしれない。そう思っても、体が動かない。
 わたしはこの週末、はじめて会社の仕事を家に持ち帰ってきていた。一日で終わるのか、二日かかるのかわからない。新商品の冷凍食品シリーズ十五品、これのスーパー向けPOPをデザインするのだ。催事コーナーに設ける島陳列用のバナーとスタンドPOP、棚陳列用のカード、ついでにオンラインショプ用のカットまで引き受けさせられてしまった。以前なら、打ち合わせの段階で、どのくらいの時間でできるかをざっと算出できた。しかし今は、それができない。集中力にむらがあることも原因のひとつだが、それ以上に、デザインの質が重要事項でなくなってしまったことが大きい。こちらのスケジュールに関係なく、きっちりいついつまでと決められてくる締切りが、最優先だ。もう誰も、デザインのクオリティなど求めてこない。そんなことは言っていられなくなった。今日の仕事も、どれだけの手抜きをしようがしまいが、月曜日の朝までに仕上げさえすればいい。
 仕事が楽しくない。苦しいだけになっている。
「仕事なんて、楽しんでやるもんじゃないよ。アーティストじゃあるまいし」
 昭人に言われたのを思い出す。そういうことじゃないと、反論する気力も残っていなかった。二日前のことだ。いや、三日前だったかもしれない。そう思ったら、今はもう日曜日なのではないかという気になり、わたしはベッドから跳ね起きた。
 クリーム色のカーテンを、午後の柔らかい日光が撫でている。部屋はすっかりその光に温められて、床も冷たくない。iPhoneを開くと、昭人からのメールと、未登録電話番号からの不在着信が、一件ずつあった。先にメールをチェックする。
『洗濯できてる? もししてないなら、明日そっちに行くのやめとく』
 昭人は、替えの下着が洗濯済みかどうかを尋ねている。決して「洗濯しろ」とは言ってこない。それは彼の優しさだ。いいや違う。優しさだと思いたくて、そう受け止めているだけだ。
「そんなに辛いなら、やめたら、会社」
 アーティストじゃあるまいし、のあとに、昭人はそう言った。言って、口をつぐんだ。六年ものつき合いになる恋人にそう言ったとき、普通はそのあとに「結婚」という言葉が続くものではないだろうか。わたしは三十七歳で、昭人は三十四歳なのだ。しかし、つぐまれた彼の口は、そのまま吸いかけの煙草を挟み、何も発しなかった。
 メールアプリを閉じ、着信した未登録の電話番号を見る。その数字の羅列に、覚えはない。それをコピーして、メモ帳アプリに貼りつける。そこにはそんな数字が、およそ六年分ずらりと並んでいる。
 もしかしたら、亮介りょうすけではないか。あるいは、彼の家族からではないか。そう思うと無視ができなかった。死んだものと踏ん切りをつけてはいるが、どこかで「もしや」の気持ちを消せない。かといって、ここに並んだ数字のボタンを押したことはない。
 亮介から連絡がこなくなったのは、二人で『drop』に行くようになってから、半年経つか経たぬ頃だ。それまでわたしたちは頻繁に、メールのやりとりをしていた。ただの挨拶だけのこともあったし、ひと晩に何度も往復を繰り返すこともあった。彼は当時、経営していた会社を手放すことを決め、その準備に忙しいこともあり、数日連絡が途切れることもあった。それでも、寄越すメールはいつも前向きだった。会えば『drop』で旨そうに酒を飲み、肴に舌鼓を打ち、陽気に話した。
 連絡が五日途絶えたところで、胸が騒いだ。最後のメールはわたしから、おやすみの挨拶だった。それを何度も読み返し、もう一度何か打とうとして、逡巡してやめる。さらに五日待ってから、わたしは意を決し、二人の唯一の共通の知人である『drop』のマスターに会いに、あの店のドアを、はじめて一人で開けた。
「もう十日、連絡がないんです。どう、……どう思われますか」
 どうしたらいいでしょう、と言いかけた言葉を呑み込んだ。
「連絡がないということが、あなたの求めている答えの、すべてだと思います」
 亮介と二十代からの友人であるマスターのこの言葉を、わたしは何度も頭の中で反芻しながら、その晩、黙ってしたたか飲んだ。
 それからしばらくの間、かかってくる電話は知らない番号でもすべて取り、取り損ねたら折り返した。そうして、心臓が縮むような思いと落胆の繰り返しに疲れた頃、昭人と出会った。以来、不在着信した未登録番号は、メモ帳アプリに保存するだけにしている。
 わたしはiPhoneをテーブルに戻し、ラックに掛かったレインコートのポケットを探った。飴玉の包みを出して、袋を破る。ピンクと乳白色がマーブル模様になったビー玉ほどの大きさの玉が、手のひらの窪みに転がり出る。口に放り込むと、桜の香りとミルクの甘味が口いっぱいにひろがった。
 亮介は、生きていれば今年六十七歳。この三十歳年上の恋人と、わたしはまだ別れきれていない。

(つづく)




プロフィール

岡部えつ
(おかべ・えつ)

1964年、大阪府生まれ。群馬県育ち。2008年に第3回『幽』怪談文学賞短編部門大賞を受賞し、翌年に受賞作を表題とした短編集『枯骨の恋』でデビュー。他の著書に『生き直し』『新宿遊女奇譚』などがある。カラフルで連載された『残花繚乱』(双葉文庫・好評発売中)はTBS「美しき罠〜残花繚乱」として今年1月からの連続ドラマ(主演・田中麗奈)となり、男女の愛憎が交錯するスリリングかつ濃密な内容が話題に。