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行方 春口裕子

イラスト/姫野はやみ

第 1 回



 あの子がいない。
 どこにいるのか。どこに行ったのか。
 だだっ広い夜の公園を、懐中電灯の明かりを頼りに、山口妙子やまぐちたえこはただひたすら歩いていた。外灯はなく、今夜に限って月明かりもない。
 次にどこに向かうべきか何をすべきか考えなければならないのに、頭の中に立ち込めた霧が思考を邪魔して、足元をふわふわとおぼつかなくさせる。なにか夢の中にいるようなのだ。辺り一面、漆黒の闇に塗りつぶされた悪い夢。
 自分も塗りこめられそうな気がして、妙子はあわてて懐中電灯を向けた。あちこちに光をぶつけて、闇を押し戻しながら進む。
 光の先に、巨大なゾウの遊具が浮かび上がった。鼻の部分が滑り台になっている、子供たちに人気の遊び場だ。あの子も好きで、つい昨日も夢中で遊んでいた。
 おそらくは今日も。
 滑り台の下を覗こうと、近づいて手をかけて、その冷たさに息を呑んだ。夜露の下りた硬く冷たいコンクリートの感触は、まやかしの微睡まどろみから妙子を非情に呼び覚まし、改めて現実を突きつけてきた。
 そのまま動けずに立ちすくんでいると、少し離れた場所から野太い声が聞こえてきた。
 ――おうい。
 ――いるか。
 警察や近所の人たちが一緒に捜してくれているのだ。
 三歳の我が子、琴美ことみを。
 声に引っ張られるようにして妙子はまた歩きだした。
 歩いても歩いても、ここじゃない、こっちでもない、あっちだったろうかと、気持ちが後ずさりしてしまう。そんな迷いや焦りをせせら笑うかのように、澄んだ声で蟋蟀こおろぎは鳴き、笹の葉が微風に揺れて涼やかな音を立てる。そのどちらもが暗闇の中でことさら美しく響きわたり、妙子の耳に迫ってくる。
 前方に竹林が現れた。上り斜面は奥へ行くにしたがって傾斜がきつくなり、天高くそびえる竹はひしめきあって、まるで行く手を阻むかのようだ。
 自宅から歩いて十分ほどの、慣れ親しんだ公園なのだ。あの子と毎日のように歩き、遊び、過ごしてきたいつもの場所。なのに今日はどこもかしこもがそっぽを向き、醒めた横顔で冷笑している。
 妙子は挑むように竹林を見上げ、大きく一つ息を吐いた。
 スニーカーのつま先で地面の硬さを確かめてから、斜面を上がりはじめる。幹や葉をかき分け、斜面に足を取られないように、倒木につまずかないように、慎重に上っていく。スカートの裾が一足ごとにまとわりつき、時に歩みを遮ってひどく邪魔だった。
 葉ずれの乾いた音に、湿った呼吸音が重なって、斜度に比例して荒く大きくなっていく。そこへふと誰かの――琴美の息遣いが混ざった気がして、妙子はあわてて顔を上げた。
 とたんにバランスを崩して、懐中電灯ごと手をついた。手首のあたりに鋭い痛みが走ったが、反対の手で手近な枝をつかみ、なんとか体を引き上げた。
 たどり着いたのは、やや視界の開けた平らな場所だった。妙子は辺りに目を凝らした。
 今にもひょっこり現れるのではないか。そこの木陰から。あっちの暗がりから。かくれんぼの最中に待ちきれずに、自分から飛び出してしまういつものように。
「琴美」
 声はあっけなく闇に吸い込まれた。
 もう一度、ありったけの力をこめて叫んだ。
「琴美!」
 返事はない。
 身震いがして、とっさにコートの襟元を掻き合わせた。歩き回っているうちはいいが、いったん立ち止まると十一月の風は体から容赦なく熱を奪っていく。
 こんな寒さの中で、暗闇の中で空腹で、どんな思いでいるか。
 そこに思いを馳せると叫びだしそうだった。
 握り締めた手の平に、ぬるりとした感触があった。さっき手を付いたときに、枝か何かを突き刺したらしい。えぐれたような傷ができ、そこから血が流れていた。懐中電灯も濡れている。たすき掛けにしていた革のポシェットからハンカチを取り出して血を拭い、傷口に巻きつけると、今ケガに気付いたというように、とたんにじんじんと痛みはじめた。
 しかし琴美の不安を思えば――を考えれば、こんなことで苦痛に顔を歪ませる権利は自分にはない。
 懐中電灯の光がちらちらと瞬いた。
 電池が無くなりかけているのだろう、スイッチを切って点け直せば灯ることは灯るが、確実に光は弱まっていた。完全に消えてしまえば琴美を探すことはできなくなる。焦燥感にまた突き動かされて、残りの斜面を妙子は一気に上りきった。
 もう一度。場所を変えて、斜面を今度は下りていく。下り切ったら、また上りだ。
 ――おうい。
 ――琴美ちゃーん。
 捜索はここより東口に近い雑木林――琴美が最後にいたと推測される場所を中心に行われている。クヌギの木が群生し、ドングリがたくさん落ちる一帯で、そこで琴美らしき女の子の泣き声を聞いたという証言があったのだ。
 ドングリを拾っていたのか。
 拾っているうちに迷ったのか。
 ケガをして動けずにいるのか。
 心細さに泣いているかもしれない。しくしくと、声を立てずに泣く子だ。大きな声で泣いてほしい。お願いだから、ママはここにいるのだから、届くくらい、聞こえるくらいの大きな声で。それが聞こえないのはなぜか。声が出ないのか。不安でか、空腹でか、それほどまでに衰弱しているのか。あるいは――。
 ダメだ。考えてはいけない。
 竹林を出て、いったんゾウの広場に戻った。ここからどこかへ行くとしたら……そう考えて真っ先に浮かぶのは、児童広場だった。砂場とベンチのあるその広場はここより低地にあり、琴美はいつも、クネクネ道と呼ばれる未舗装の道を下って行く。
 クネクネ道の入口に近づいていくと、懐中電灯の光の輪が何かを照らしだした。
 入口の左右に立っている、腰ぐらいの高さの木の杭。その左側の杭の先に、赤い花が咲いているように見えた。
 すぐそばまで行って確かめて、息が止まりそうになった。咲いているように見えたそれは、赤い花の髪飾りだった。平らな杭のてっぺんに、ちょこんと置いてある。
 おそるおそる手を伸ばし、取り上げて、掌に載せた。
 牡丹の花弁を模した赤い縮緬地、中央にあしらった黄色いビーズ、ゴムの太さ、結び目……間違いない。四日後に控えている琴美の七五三祝いのために、妙子が手作りしたものだ。
 今朝、この手であの子の髪に着けてやったものだ。
 震える指先を折り、しっかりと手で包みこんで胸に抱いた。
 新たな涙がこみあげてくる。
 琴美は確かにここにいた。これを着けて、ここで遊んでいた。
 見つかる。見つけてみせる、必ず――。
 涙をぬぐい、髪飾りをそっとポシェットにしまった。鬱蒼と茂る草木の間を抜け、迷路のように曲がりくねる道を進んでいく。
 半分ほど下りたところで、懐中電灯の光が大きく揺れ、不規則に何度か点滅をして、ついには消えた。
 やむを得ず立ち止まって、目が慣れるのを待った。この先の児童広場には外灯が一本立っていて、おかげでこの辺りの闇はわずかな明度をはらんでいる。
 周囲の様子がぼんやりと見えてきて、妙子はふたたび歩きだした。とはいえ足元は真っ暗だ。慎重に、手探りをするように、ゆっくりゆっくり下っていく。
 ふいに広場のほうで声がした。
「こっちこっち」
 乾いた空気によく通る、あどけない高い声。
 この声は。
「あそこでね、お弁当を食べたり、おやつを食べたりするの」
 もう一人、誰かが低い声でぼそぼそ答えているが、はっきりとは聞こえない。
「あそこだよ、間違いないよ」
 知らず足が速まっていた。地面の窪みに足を取られそうになりながら、なんとか堪えて広場に出る。
 開けた視界の、見渡した先に、一組の親子の後ろ姿があった。大小の背中が水銀灯の明かりに照らしだされ、向こう側の地面へ影が細く長く伸びている。
 夫の和彦かずひこと、息子――琴美の兄の遼太郎りょうたろうだ。
「遼くん」
 からからの喉から絞りだすように声を上げると、二人は振り向き、同時に懐中電灯の光もこちらを向いた。
 目を射られて思わず目を細めると、かすんだ視界の中で「ママ!」と声がし、遼太郎が駆けてくるのが見えた。懐中電灯の光も一緒に、でたらめの方向を射して揺れながら近づいてくる。
「ママ!」
 小さな体が飛びこんでくる。
 妙子はずるずるとしゃがみこんで、その小さな体の、柔らかな手触りと温もりを確かめた。汗まじりの干し草のような髪の匂いをいっぱいに嗅ぐと、鼻の奥がきゅうっと詰まった。遼太郎は身じろぎもせず、黙って妙子の肩に顔をうずめている。 
 妙子の頭にふわりと、大きな掌の感触が舞い降りた。見上げると和彦がそこにいた。
「大丈夫か」
 分厚い手は、労わるように頭を撫でた。
「すぐに駆けつけられなくてすまなかった。出先にいて遅くなった」
 和彦はトレンチコートに革靴姿だった。コートの下は、今朝着て行った背広のままなのだろう。
 ほっとする思いと、申し訳ない、やるせない気持ちと……さまざまな感情が急激にこみあげてきて胸を詰まらせていると、遼太郎が突然「あ!」と言って体から離れた。
「そうだった」妙子の顔をまっすぐに見て、あっけらかんと言う。
「琴ちゃんを見つけるんだった」
 劇の台詞を読み上げるような口調だ。
「ちょっと、行ってくるからね」
 言い置いて、脱兎の勢いで駆けていく。サッカーウェアにジャンパーという格好で、そういえば今日がサッカー教室の日だったことを思い出した。
 後ろ姿を目で追いながら、和彦が言った。
「家にいるよう言ったんだが、一緒に行くと聞かなくてね」
 ゆっくりとこっちを向いた。
「琴美と君を探しに行くと言って」
「琴美と、私を?」ふらふらと立ち上がった。
 和彦が手を貸しながら、小さく頷く。
「ママがご飯を食べてないって、心配してたよ」
「……大丈夫。私は」私なんか、と口の中でつぶやいた。
 和彦は、握った手でそのまま妙子の体を引き寄せて抱きしめた。他の誰でもない和彦の匂いに、張りつめていたものがかすかに緩んだ。
 温かくて大きな胸だった。大きすぎて、温かすぎて、めまいがした。
「行こう」と和彦が肩を抱く。その手に支えられ、後押しされて、歩きだした。
 切り出さなければ、話さなければ。
「あなた」顔はとても見られなかった。「ごめんなさい……私」
 あなたに、話さなければならないことがあるんです。
 けれど和彦は、
「後にしよう」
 と優しく遮った。
「疲れただろう。ともかく話は帰ってからだ。真田署さなだしょの人も来てる」
「真田署の人……」
「詳しい話を聞きたいらしい。家で母さんと待ってもらってる」
 同じ話を何度もするのはしんどいだろうからと和彦は言った。本当は、本当なら、すぐにでもすべてを聞きたいはずだった。
 ブランコの前を通り、砂場の脇を過ぎて、広場の端の、ベンチが並ぶ場所に着いた。
 遼太郎はそこで懸命に、ベンチに懐中電灯を向けていた。薄暗闇のなか、三つ並ぶ木製ベンチの一つひとつを、「あれえ、あれえ」と言いながら順繰りに何度も照らしている。
 あそこの真ん中のベンチだった。琴美が昨日座って、足を揺らして、焼き芋が食べたいと言ったのは。
 ダメだと妙子は答えた。夕飯が食べられなくなるでしょうと、にべもなかった。
 あのときの琴美の、しょんぼりと落ちた頬――。
 遼太郎はベンチの下を照らし、裏側を照らし、それ以上照らすところがなくなって、ぽつんと立ち尽くした。
 近づいていって隣に立ち、そっと肩を抱いて引き寄せると、遼太郎は手の甲でごしごし両目をこすって言った。
「いると思った」
 涙声だ。
「なんでいないの!」
 どんと体当たりするように、しがみついてきた。
「琴ちゃんどこ行ったの。どこにいるの」
 声をあげて泣く。
 小学生になってからこんな風に大声で泣くことはなくなっていた。
「大丈夫よ」
 むせそうになるのを、妙子は必死に堪えた。まだ華奢な遼太郎の背中をさすりながら、「大丈夫。琴ちゃんはきっと見つかる」と、自分にも言い聞かせるように繰り返した。
「そうだぞ」隣で、和彦も歯を食いしばるように言った。「大丈夫。琴美は強い子だ」
 そう、お腹の中で切迫早産しそうになったときも、滑り台のてっぺんから落ちたときも無事だった。何事もなかったようにケロッとして、健やかに伸びやかに育ってきてくれた。
「だから泣くな」
 和彦に髪をくしゃりと撫でられて、遼太郎はようやく顔を上げた。
 妙子がポシェットから、あの髪飾りを取り出すと、遼太郎は「琴ちゃん、の、だ」としゃくりあげながら言った。
「そう。ママがさっきクネクネ道で見つけたの」
 遼太郎と、和彦にも見えるように、掌に載せる。
「琴ちゃんが戻ってくるまで、みんなで大事に持っておかないとね」
 こくりと遼太郎が頷いた。
 和彦も赤い目を瞬かせて、何度も小さく頷いている。
 髪飾りをポシェットにしまって、代わりにちり紙を取り出した。遼太郎の涙と鼻を拭いてやってから、しゃくりあげるその体をもう一度抱きしめて、そして手をつないで歩きだした。
 家へ。
 遼太郎をはさんで三人で、静かな夜の公園を並んで歩いていると、またあの奇妙な感覚が襲ってきた。ふわふわとしていて、何もかもが夢のような。
 現実味のないこの現実。
 三人であること。
 琴美がいないこと。
 こんなことになったのも、元はといえばすべて――。
「ママ」遼太郎が顔を覗きこんでくる。「手をケガしたの?」
 つないだ手と反対側の、ハンカチを巻いた手を心配そうに見つめて、痛くないかと尋ねてくる。遼太郎の向こうで和彦が、帰ったら手当てをしなきゃなとつぶやく。
 遼太郎の、和彦の、優しさが痛かった。
 二人は知らない。
 警察も知らない。
 伝えていない事実があるのだ。
 それを知ったとき、二人は……和彦はいったいどんな顔をするだろう。
 その瞬間を思うと、足がすくみ、逃げ出したい衝動に駆られる。しかしそんなわけにはいかないことも分かっている。
 琴美のため――琴美を見つけ出すためにすべてを話さなくてはならない。

(つづく)



プロフィール

春口裕子
(はるぐち ゆうこ)

1970年神奈川県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。損保会社に勤務、広報の仕事などに携わる。01年、退職。同年『火群の館』で「第2回ホラーサスペンス大賞特別賞」を受賞する。 アンソロジー『翠迷宮』『結婚貧乏』『めぐり逢い』『With you』『Ecstasy』に短編が収録されている。他の著書に長編の『女優』、日本推理作家協会賞短編部門の候補作となった「ホームシックシアター」を含む短編集『隣に棲む女』があり、また女性社会の“チクチク感”をリアルに掬った短編集『イジ女』は、文庫化されると話題を集め、3万部を超えるヒットとなっている。