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紙のピアノ 新堂冬樹


第 1 回



 二十年前のあの日の出会いが、最初で最後の恋だったのかもしれない。
 
 六歳のほのかが毎日のように通っていた児童公園は、整然と舗装された駐車場に変わっていた。
 ほのかの巡らせた視線の先……公園に隣接していた一軒屋は、洒落たカフェになっていた。
 ほのかに「生きる力」を与えてくれた思い出の地は、当時の面影を失っていた。
 しかし、ほのかの胸の中では生きていた。
 こぢんまりとした児童公園、一軒屋から聞こえるピアノの調べ……大きな窓に寄り添い耳を澄ます少女。
 昨日のことのように、遠い日の記憶が鮮明に蘇った。
 風景は変わっても、ほのかはあのときのまま時間が止まっていた。
 ほのかはすべてを手に入れることと引き換えに、一番、大切な人を失った。
 なにも持っていなかった少女の頃の方が満たされていたように思うのは、気のせいだろうか?
「ほのかさん、もうそろそろ行かなければフライトに間に合いませんよ」
「もう少しだけ」
 ほのかは言葉を返し、眼を閉じた。
 心地よいそよ風が、頬を撫で、黒髪をさらった。
 心を落ち着け、身も心もリラックスさせた。
 耳を澄ますと、聞こえるはずのない音色が風に乗って流れてきた。
「エリーゼのために」の流麗なメロディを、ほのかはハミングで奏でた。
 瞼の裏に、温かい笑みを浮かべながら褒めてくれる、あの人の顔が浮かんだ。
 通学路を歩くとき、ほのかはいつも地面をみている。
 気配を消し、速足で、目立たぬように……。
 運がよければ、なにごともなく家に辿り着く。
 運が悪い日は……。
「白石!」
 耳にするだけで息苦しくなる声が背中から聞こえた。
 どうやら、今日は運が悪い日のようだ。
 ほのかは、立ち止まらずさらに速足になった。
「逃げんなよっ、白石!」
 アスファルトを駆ける複数の足音が、ほのかを追ってきた。
 ほのかは全速力で走ったが、男子の足には敵わなかった。
 すぐに追いつかれ、三人の男子がほのかの行く手を遮った。
「こいつんちの今日の夕ご飯、当てっこしよう」
 小学一年生とは思えないほど大柄な橋本が、底意地の悪い笑顔で島田と境に言った。 
「俺は、バッタだと思う」
 橋本が言うと、島田と境が喉に手を当てて吐くまねをした。
「庭の草!」
「トイレットペーパー!」
 島田と境は、挙手しながら悪乗りした。
 ほのかは、耳朶を真っ赤に染めて俯いた。
 家が貧しいほのかのことを、橋本達は毎日のようにからかってくる。
 毛玉のついたセーター、色褪せたワンピース、くたくたになった上履き……ほのかを笑い物にする材料には事欠かなかった。
「なんで黙ってんだよっ」
 橋本が、ほのかの肩を押した。
「……そんなの食べない」
 蚊の鳴くような声は、恐怖と屈辱に震えていた。
「じゃあ、カエルか? 俺らも、白石の夕飯、一緒に捕まえてやるよ。公園行くぞ!」
 橋本がほのかの腕を掴み、強引に引っ張った。
 島田と境は囃し立てながらついてきた。
 抵抗しようにも、身体が萎縮していうことをきかなかった。
 もともと、ほのかは内気で、自分からなにかを発言したりできない少女だった。
 家でも、童話を読んだり近所の猫に餌をあげたり、ひとり遊びで過ごした。
 通学路の途中にある児童公園に入ると、橋本達は石を捲ったり土を掘ったりし始めた。
「あ! これにしよう!」
 橋本が大声を張り上げ、ほのかのもとに駆け寄ってきた。
「ほら!」
 ほのかの顔の前に、橋本がミミズを掴んだ手を差し出してきた。
「いや!」
 悲鳴を上げ、後ずさるほのかの腕を島田と境が掴んだ。
「逃げんなよっ、せっかくお前のために捕ってやったんだから!」
「やめて……いやだ……」
 逃げようにも、男子ふたりの力は強く身動きが取れなかった。
「ほら、お前のご飯だって!」
 ほのかはきつく眼を閉じ歯を食い縛った。
 あまりの恐怖に、意識が遠のいた。 
「やめなさい!」
 男性の声がした瞬間、三人の男子は一目散に逃げた。
 ほのかは足に力が入らず、腰から崩れるように座り込んだ。
「大丈夫? 痛いところはない?」
 優しく語りかけてくる声のほうに、ほのかは顔を向けた。
 若い男性が、心配げに覗き込んでいた。
 声と同じに、男性の瞳はとても優しかった。
 ほのかは、小さく頷いた。
「よかった。おうちはどこ? 電話番号教えてくれたら、ママに迎えにきてもらうけど?」
 今度は、首を横に振った。
「でも、心配だな。さっきのイジめっ子達に会ったりしたら……」
「……ここで、ママと待ち合わせしてるの」
 咄嗟に、口が動いていた。
「そっか。お母さんがくるまで一緒にいてあげたいけど、生徒がきちゃうから行くよ。でも、大丈夫?」
 ほのかは頷いた。
 本当は、一緒にもっといてほしいと思った。
 それは怖いからではなく、お別れするのが寂しかったのだ。
 だが、母がくると嘘を吐いてしまったので、一緒に待っていたらバレてしまう。
「お兄ちゃんは、二ノ宮っていう名前だよ。お嬢ちゃんは?」
 男性――二ノ宮が前屈みになって、ほのかと同じ目線で訊ねてきた。
「……ほのか」
 ほのかは、聞き取れないような小さな声で答えた。
「ほのかちゃん……かわいい名前だね」
 二ノ宮は、柔和に目尻を下げてほのかの頭を撫でた。
 とても優しい笑顔……あまりにも優し過ぎて、二ノ宮の顔をみているだけでほのかは泣き出してしまいそうだった。
「じゃあ、僕はこの家にいるから、もしなにかあったらおいでね」
 二ノ宮は言い残し、出口に向かった。
 ほのかは、二ノ宮の大きな背中が小さくなり、みえなくなるまで見送った。
 ほのかは、公園のベンチに腰を下ろした。
 母と待ち合わせしていると言ったので、すぐに出て行くわけにはいかない。
 
 ――ほのか、お洋服とか買ってあげられなくてごめんね。あなたには、いつも貧しい思いばかりさせてしまって……。
 
 着古したワンピースやスカートを縫い合わせるたびに、母は申し訳なさそうに言った。

 ――ほのか、新しいお洋服なくても平気よ。ママが作ってくれるお洋服が好き。

 幼な心にも、母を気遣っていた。
 継ぎはぎだらけの洋服も、ほのかが橋本達にイジめられる原因のひとつだった。

 ――父さんがいてくれたら、ほのかにもっといい思い、させてあげられるのにね。
 
 ほのかは、父に会ったことがなかった。
 ほのかが物心ついたときには、もう父は写真の中だった。
 母の話では、ほのかが生まれてすぐに交通事故で亡くなったという。

 ――学校で、イジめられてない?

 母は、ほのかを心配し、一日一回は訊ねてきた。
 
 ――イジめられてないよ。みんな、仲良しで、とっても楽しいんだ。
 
 そしてほのかは、決まって笑顔で答えた。
 本当のことは言わなかった――言えなかった。
 母は、パートを掛け持ちし、女手ひとつでほのかを育ててくれていた。
 朝から夕方までスーパーのレジを打ち、ほのかに夕食を作ったあと、夜はビル清掃の仕事に向かう。
 家にいるときはほのかの世話に追われ、母に自分の時間などなかった。
 ほのかは、ベンチから腰を上げながら胸もとに手を当てて確認した。
 ペンダントのチェーンをつけたカギを首からさげていた。
 いま母は、スーパーのパートに出かけている。
 夕食を作りに母が帰ってくる前に、米を砥ぎ、ご飯を炊いておくのがほのかの役目だった。
 踏み出しかけた足を、ほのかは止めた。
 耳を澄ました。
 どこからか、ピアノの音が聞こえてきた。 
 ピアノは、二ノ宮が入って行った家から聞こえてきた。
 ほのかは、吸い寄せられるように建物に近づき、窓のそばに佇んだ。
 窓から漏れてくる曲は、幼稚園の先生がいつも弾いていたものでほのかも知っていた。
 先生は、母と同じ大学に通っていた。
 大学で、ふたりはピアノを習っていたらしい。
 ほのかは、先生の弾くピアノを聴いているのが好きだった。
 窓越しに部屋を覗くと、二ノ宮が中学生くらいの少女にピアノを教えていた。
 彼は、ピアノの先生のようだった。
 ほのかは、眼を閉じた。
 この曲を聴いていると、とてもいい気持ちになる。
 優しく逞しい父と、温かく美しい母、甘やかしてくれる祖母、白亜の豪邸、フリルのついたワンピース、生クリームたっぷりのケーキ……少女漫画に出てくる主人公になったような気になれた。
 ほのかの指が、ピアノのメロディに合わせて宙で動き出した。
 まるで、透明のピアノを弾いているとでもいうように。
 先生の指の動き……どのメロディのときに指がどの鍵盤を押していたかを、すべて覚えていた。
「ピアノ、どこかで習ってたの?」
 不意に声がした。
 眼を開けると、いつの間にか開いた窓から二ノ宮が顔を出していた。
 レッスンを受けていた少女は、二ノ宮の背後からほのかを物珍しそうにみていた。
 ふたりにずっとみられていたと考えただけで、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
 ほのかは、小さく首を横に振った。
「そうなんだ。ピアノのレッスンを受けているみたいな指の動きだったよ。どうして、そんなふうにできるの?」
「幼稚園で……先生のをみてたの。先生、同じの弾いてた」
「凄いね。みてただけでまねできるなんて」
 眼をまん丸にして驚く二ノ宮を、ほのかは無表情にみていたが、本当は飛び上がりたいほど嬉しかった。
「この曲、なんていうか知ってる?」
 ほのかは首を横に振った。
「『エリーゼのために』っていう曲で、ベートーヴェンっていう人が作ったんだよ。エリーゼっていう凄くお金持ちの家の女性と恋に落ちたベートーヴェンは身分の違いで……あ、こんな話、まだわからないよね」
 二ノ宮が穏やかに笑った。
 笑うと眼がなくなる優しい顔が好きだった。
「ピアノ、好き?」
 それまで黙っていた少女が、奥から話しかけてきた。
 ほのかは頷いた。
 抜けるような白い肌に、絹のような黒髪が印象的な少女だった。
 洒落たレモン色のワンピースと、髪につけた同色のリボン……少女が、育ちのいいお嬢様だろうということはひと目でわかった。
「じゃあ、ここで習えばいいのに」
 当然、といった顔で少女が言った。
 ピアノを習うには、物凄くお金がかかるに違いなかった。
「お家に、ピアノあるの?」
 ほのかは、首を振った。
「ママにお願いして、買ってもらったほうがいいわよ。ピアノは、弾けば弾くほどうまくなるんだから。私があなたくらいの年のときは家で五時間は弾いてたのよ」
 得意げに、少女が言った。
 ほのかは俯いた。
 ピアノがほしいなんて、言えるわけがなかった。
 なにより、ほのかの家は六畳一間のアパートで、ピアノを置くスペースはなかった。
「さ、レッスンに戻ろうか」
 二ノ宮が、少女をピアノに促した。
「ほのかちゃん、ちょっと待ってて」
 窓際に戻ってきた二ノ宮はほのかに言い残すと、部屋から出て行った。
 少女は、ほのかにみせつけるようにピアノを弾き始めた。
「エリーゼのために」――。
 美しく澄んだメロディが、ほのかの心に響き渡った。
 自分も、少女のようにうまく弾けるようになりたい。
 ほのかは、羨望の眼差しで少女をみつめた。
 あの少女のようにピアノがうまくなるには、十万円くらいかかるのだろうか?
「お待たせ」
 戻ってきた二ノ宮は、ほのかにスケッチブックを手渡した。
「捲ってごらん」
 ほのかは、スケッチブックの表紙を捲った。
「ピアノ……」
 ほのかは、思わず声を出した。
 スケッチブックには、マジックでピアノの鍵盤が描かれていた。
「僕も、小さい頃家にピアノがなくて、母さんが作ってくれた『紙のピアノ』で練習していたんだよ。音階……ドレミファも覚えられるように書いてあるんだ。
 ピアノがうまくなるには練習が大事なのはもちろんだけど、もっと大事なことがあるんだよ。
 なんだか、わかるかい?」
 二ノ宮が、優しく問いかけてきた。
「練習より、大事なこと?」
 ほのかは、首を傾げて訊ね返した。
「そんなのないわ。ママが言ってたもの。ほかの人が五時間やるなら六時間、六時間やるなら七時間練習しなさいって」
 少女が、口を挟んできた。
「君のママは正しいよ。問題は、同じくらいの時間練習している相手がいた場合さ。
 そういうとき、どっちがピアノを弾くことが好きかが重要なんだ。ピアノの音はね、弾く人の心を映すんだ。どう弾けたかじゃなくて、どう弾きたいか……あ、また難しい話をしちゃったね」
 二ノ宮の眼が見えなくなった。
 幼いほのかには難しい言葉だったが、二ノ宮がなにを言いたいかはなんとなくわかった。
 そして、もうひとつわかったことがある。
「……ピアノ大好き……これ、ありがとう」
 ほのかはスケッチブックを胸に抱き、二ノ宮に礼を言うと背中を向けた。
「また、遊びにおいで」
 ほのかは振り返り、笑顔で頷いた。
「ほのかさん? もう行かないと、本当に乗り遅れちゃいますよ」
 調律師でありパートナーでもある美沙子の声が、六歳のほのかを二十六歳のほのかに連れ戻した。
「わかってる。いま、行くから」
 ほのかは、眼を閉じたまま答えた。
「さっきからそう言って、もう五分以上経ってます。五年に一度の大チャンスを、フイにするつもりですか?」
 美沙子の声が遠のき、「鐘」の音が聞こえてきた。
 
 フイにするわけない。あの人に誓ったから。

 ――君が「パガニーニによる大練習曲の第3番」を自分のものにできたら、必ず世界の頂点を獲れる。

 ほのかの心の声に、あの人の声が重なった。
 ほのかは、眼を開けた。
 相変わらず、「鐘」が鳴っていた。
 教会などどこにもないが、ほのかにはたしかに聞こえる。
 あの人がほのかに奏でてみせた「パガニーニによる大練習曲の第3番」……「ラ・カンパネラ」の麗しき「鐘」の音色が……。


(つづく)


プロフィール
新堂冬樹
(しんどう ふゆき)

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』など多数。