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どうしてこんなところに
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第一章(第1回)
本当にひどい話さ、おれたちみんな、どんなに頭の中はおかしくなっても、
物事をてきぱきとこなしてゆくんだ。
――マイケル・ヴェンチュラ

 これでいいんだ。
 こうするしかなかったんだ。
 ハイビームのヘッドライトに切り裂かれてゆく青黒い闇とそこに浮かび上がる灰色の路面を血走った目で見据えながら、久保田輝之は胸の内で呪文のごとく何度も繰り返し唱えていた。
 これでいいんだ。
 こうするしかなかったんだ。
 高速道路に乗り入れてからというもの、輝之が運転するマツダ・デミオのスピードメーターの針は130km/hを示すポイントの前後を行ったり来たりしていた。普段ならそのようなハイスピードでの運転は不得手だった。運動神経や反射神経は悪いほうじゃないが、というより、むしろ良いほうといってもかまわないだろうが、スピードだけはどういうわけか昔から大の苦手だったのだ。しかしながら、この時は輝之はひとかけらの恐怖も感じていなかった。なぜなら、人はふつう狂乱の中にあって、同時に恐怖を感じるなどという芸当はできないから。そして、この時の輝之は、まさに狂乱の渦中にあった。それがどんな種類の狂乱かはともかくとして。
 視線を少しだけ右へスライドすると、黒々とした山の稜線の向こう側がかすかに白みを帯びているのが見えた。夏の終わりの夜が明けそめているのだった。一方、西の空の低いところには満月に幾日か足りない黄ばんだ月がひっかかっていた。その月の下には小さな町のさみしげな街灯りも見えた。さみしげだがいかにも平穏そうな街灯り。大多数の人はまだ寝床の中にいるだろう。普段の輝之がそうであるように。カーステレオからはサム・クックのベスト盤がごく小さな音量で流れていた。半世紀前に録音されたソウルフルかつハートフルなキラー・チューンの数々。もっとも、本人は音楽のことなどまったく気にかけていなかった――輝之はただ、イグニッションに連動して流れ出したFMラジオのパーソナリティのおしゃべりがうっとうしくて、インプットボタンを押しただけだった。そうしてずいぶん前から挿入されっぱなしになっていたCDがおのずと流れ出したのだった。
 とその時、対向車線、すなわち東京方面車線に、赤色警告灯を点したパトカーが突如出現し、甲高いサイレンを響かせながら瞬く間に走り去っていった。たちまち輝之の尾てい骨付近から頭のてっぺんにかけて冷たい怖気が駆け上がり、少なくとも速度制限というものが存在することを思い出すくらいには冷静さを取り戻すと、やにわにアクセルペダルを踏む足を緩めた。減速するのに比例してアドレナリンの分泌量も下がってゆく。ミラーで後方を確認しつつ左車線に車を移す。ほんのさっき抜かしたはずの大型トラックが逆にデミオを抜かしていく――派手な装飾を施したトラックで、後部の扉には?御意見無用 お先にご免 日本列島一人旅?と勘亭流の書体で塗装されている。スピードが90km/hまで下がったところで、輝之は自分がいかに常軌を逸した興奮状態にあったのかにあらためて気づかされてぎょっとした。心臓はケージに押し込められた小動物のようにのたうち、ステアリングを握る両手は硬直したままにぐっしょりと汗ばんでいる。運転しながらでは確認しようがないが目つきだって尋常とは言えまい。もし警官に尋問でもされたら、住所や職業を平然とかつ正確に答えられていただろうか? ましてや目的地やその理由を訊かれたら? ただのスピード違反では済まなかったにちがいない。
 そんな自分の精神および肉体状態を曲がりなりにも認識し、事故を含めた何事も起きなかったことに少なからず安堵を覚えるや、今度は圧倒的な恐怖やら罪悪感やらが暴風雨のごとく襲いかかってきた。
 おれはいったい……。
 手のひらの根元でステアリングを強く連打した。
 おれはいったい何を……。
 しかしながら、輝之は水滴でも振り払うがごとく首を強く左右に振り、それら恐怖やら罪悪感やらをひとまず脇に退けた。そうして、自分自身に言い含めるように再び、しかも今度ははっきりと声に出して言った。
 これでいいんだ。
 こうするしかなかったんだ。
 おれと同じ立場に置かれたら誰だって同じようなことを――少なくとも似たようなことをしたはずなんだ。
 ボタンダウンシャツの襟や脇や背中が汗でじっとりと湿っているのを今さらながらに意識した。袖や前身頃には土汚れがついている。おそらくカーゴパンツやスニーカーはもっと汚れていることだろう。顔だって汚れているかもしれない――鏡に映る自分の顔を想像するだけでぞっとしたが。できることなら自分の顔など見たくない。もう二度と。金輪際。
 サービスエリアまで1キロメートルという案内標識が目に入った。いったん運転という行為から離れて神経を休ませ、次の行動を吟味する必要がある。こんな事態に至ってなお、そんなことをおめおめと考えている自分の冷酷さにほとんど嫌悪の念すら覚えながらも、輝之はいささか早すぎるタイミングで左ウィンカーを点滅させた。
 背のあまり高くない針葉樹に囲まれたサービスエリアは閑散としていた。そもそもが小規模なサービスエリアだったが、大小のトラックと様々なタイプの乗用車がそれぞれほんの数台ずつ、他者と交わることを好まない孤高の肉食獣のごとく相応の距離を保ちながら駐車している。軽食堂や売店の入った平屋の建物は照明が消えており、離れのトイレと数台の自動販売機の周囲にわずかの人影――一見する限りはすべて男――が見えるだけだった。
 洗面所の鏡に映る自分と努めて目を合わせないようにしながら、念入りに手と顔と首まわりを洗った。グローヴボックスにガラス拭き用のタオルが入っていたので、それを使って水気を拭き取った。シャツの前身頃やカーゴパンツについた目立つ土汚れをどうにか目立たない程度にまで擦り落とした。それから、自動販売機でペットボトルのコカ・コーラを買い、目についたベンチに腰掛けるとキャップを外して、一息に半分ほどを飲んだ。普段はあまり好きじゃない炭酸の刺激が、なぜか喉にしっくりくるのだった。
 夜が終わり、朝が始まろうとしていた。もはや夜ではなく、かといってまだ朝でもない、あるいは夜でありながら同時に朝でもある、現実という下地に夢や幻が織り込まれたような、不思議な時間。うっすらと立ちこめた靄が幻想的な雰囲気をいっそう助長させている。すでに空は全体的に白み始めていたが照明灯はいぜん明々と灯っており、明かりのまわりには蛾や蚊が群がっていた。風はほとんどなく、山地特有のほのかに湿った空気が肌の露出部分にまとわりつく。何種類かの虫の鳴き声がする。そういえば、と輝之はふいに思った。以前は虫や蝉の鳴き声を聞き分けたものだ。しかし今は……うまく聞き分けられない。いつからだ? いつから聞き分けられなくなったんだ? いや、というか、いつからおれは虫の鳴き声に注意を払わなくなったのだ? ぜんぶがごちゃ混ぜになって頭にからみつく。そしてごちゃ混ぜになっているのは頭の内側も同じだ。いや、ひょっとしたら頭の内側が混濁しているから虫の鳴き声も混濁して聞こえるのかもしれない。頭の中さえすっきり整理されれば――。
 そんなことを考えるともなしに考えながら何の気なしに視線を横にそらした。隣のベンチには、年の頃は四十代後半、おそらく長身、あきらかに痩躯、ほとんど坊主頭といっていい短髪の男が座っていた。灰色のスラックスと白のポロシャツ、それに青のマジックテープ式のトレーニングシューズは、不潔ではなく古くもないが、どれもが一見して安物とわかる。傍らには運動部所属の高校生が愛用していそうな黒のエナメル生地のスポーツバッグ。男は骨張った肩を丸め、国産のウィスキーを瓶から直飲みしつつタバコを吸っていた。繁華街のはずれの児童公園とかでならとくに目を引く光景ではないだろう。しかし、ここは高速道路のサービスエリアだ。どうしたって浮き立ってしまう。なんだよ、このおっさん――輝之がそう思うが早いか、男が輝之の側に顔を向けた。眉間と額にはまるで傷跡のような深いしわが刻まれ、鼻柱から下顎にかけてが妙な具合に歪んでいた。アルコールのせいだろう目つきは虚ろだったが、よく見るとその底には、この男の存在の証であるかのような、鈍い光が宿っている。
「なんだ?」
 紫煙を吐き出しながら男が言った。
 そう言われて輝之ははっとした。自分が無遠慮に他人を凝視していることを自覚していなかったのだ。いいえ、と答えて慌てて目をそらした。大型トラックが警笛を一度鳴らして駐車場を出てゆく――後部が見えるまではそれとわからなかったが、抜かし抜かされた例の?御意見無用?のトラックが。
「おい、なんだよ?」
 男はもう一度言った。今度はじゃっかん凄みを利かせた声で。
「いいえ、なんでも」
 いったんそらした目を男に戻し、詫びるような調子で身をすくませながら輝之は再び答えた。
「ふんっ」
 鼻を鳴らして男も目をそらした。フィルターの際まで吸い尽くしたタバコを地面に弾き落として靴底でもみ消し、それからウイスキーの瓶を口にくわえて、ちょうどショットグラス一杯分ほどを勢いをつけて飲み下した。まるでそれが、ひどく不味いが生命を維持するためには飲まねばならぬ薬でもあるかのように。
 そんな男の所作を輝之は横目で捉えていた。なにか心に引っかかるものがあった。ほとんど惹かれるといってもかまわないくらいの感覚を覚えた。あたかも男が磁石で、自分が釘でもあるかのように。しかし、その男のどこが自分にそんな感覚をもたらせるのかは皆目わからなかった。
 男のほうも何か思うところがあったのだろうか、再び輝之に顔を向け、今度は打って変わって親しげにさえ聞こえる声音で言った。
「なあなあ、あんた、どうしたんだよ?」
「え?」
 その問い自体よりも声音の変化のほうに驚いて輝之も再度男に顔を向けた。
「ぼ、ぼくが、ですか?」
「そうだよ、あんただよ。あんたしかいねえだろが」
「はあ、まあ」
 たしかにそのとおりだ。話し声の聞こえる範囲には誰もいない。
「どうしたと言われても」
「手が震えてる」
 輝之はどきっとして自分の両手を見下ろした。震えていた。自分とは異なる意思や習性を持った、まったく別の生物のようにわなわなと小刻みに震えていた。止めようと思っても止まらなかった。それどころか、止めようとするとかえって震えが大きくなった。
「ほら、吸いなよ」
 男はスラックスのポケットからマイルドセブン・スーパーライトの100sボックスを取り出し、スナップを利かせたアンダースローで投げてよこした。それは手裏剣みたいにきれいに回転しながら輝之の脇腹めがけて飛んできた。とっさに受け止めた。
 タバコなんて何年も吸っていなかった。吸いたいと思ったこともしばらくはなかった。でも、そうやってタバコのケースをじっさいに手にすると、吸いたいという欲求がやにわに湧きあがってきた。枯れていた泉にみるみる水気が戻るみたいに。
「吸いなって」
 男は繰り返した。その目つきは同郷の後輩に思いがけず邂逅した時のような柔和なものに変わっていた。
「少しは落ち着くぜ」
「じゃあ……」
 輝之はぺこんと頭を下げた。
「いただきます」
 震える指先にてこずりながらタバコを一本つまみだし、口にくわえた。男がすかさずベンチを移ってきて、百円ライターで火をつけてくれた。
 おそるおそる煙を吸い込んだ。頭がくらっとした。こめかみから目の奥にかけて鈍痛が走り、墨液を一滴だけ垂らしたみたいに視界がわずかに黒ずんだ。それから、落ち着きがやってきた。懐かしい落ち着きだった。体じゅうのこわばりが解けてゆくのがわかる。
「なあ?」
 今や傍らに座っている男が言った。得意そうな笑みを歪んだ唇の端に浮かべている。
「少しはちがうだろ?」
「ですね」
 輝之は答えた。おのずと頬が緩んだ。
「ありがとうございます」
「これも飲むか?」
 ウイスキー瓶を輝之のほうに差し出しながら男は言った。
「いえいえ、それは」
 サービスエリアらしからぬ会話に可笑しささえ覚えながら輝之は言った。
「運転中なんで」
「ま、そうだよな」
 男もそのことに思い当たったのだろう、にやりと笑って肩をすくめた。
「そりゃそうだ」
 だしぬけに輝之はこの男にすべてを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。どうして手が震えていたのか。どうして自分はこんな時間にこんな場所にいるのか。いったい何をしてしまったのか。これからいったい何をしようとしているのか。でも、なにから話せばいい? どうやってこの混迷した思いを言葉にすればいい? とうてい無理だ。そんなことはできっこない。
 しばらくは無言でタバコを吸った。靄がいっそう濃くなっていた。背後でカラスの鋭い鳴き声がした。それを合図にしたみたいに小鳥たちの鳴き声も聞こえ始めた。まもなく完全に朝になるだろう。新しい一日が始まるだろう。そうして、とてつもなく重い現実が輝之の肩にのしかかってくるだろう。
「あんた、東京の人間だよな?」
 輝之がタバコを吸い終えたところで男は訊いてきた。
「ええ、まあ、だいたい」
 そう答えて視線を爪先に落とした。苦手な質問だった。生まれと幼少時は神奈川の厚木、小学校時代は東京の東村山、中学は埼玉の越谷、高校から大学を中退するまでは千葉の柏、実家を出てからは練馬と東大和――おおまかに言えば、そういうことになるのだが、「どこの出身?」という問いに対してすっきり一言で答えられないことに、これまでも輝之はいわく言い難い思いを抱いてきた。どの場所にも少しずつは思い入れがあるが、あくまでも少しずつであって、いわゆる郷土愛的なものとはかけ離れている。この中途半端さが自分という人間を根本で形作っているような気がして時々そら恐ろしくなる。どこでもかまわない、「東京」でも「茨城」でも「沖縄」でも「北海道」でも、躊躇なく一言で答えられる人がうらやましかった。
 ありがたいことに男はそのことについてはそれほど関心がないみたいだった。
「で、どこまで行くんだ?」
「……とりあえず、海まで行こうかと」
「海?」
「ええ、海が見たくて。長いこと見てなかったんで」
 男は一瞬怪訝そうに顔をしかめ、それから声を立てて笑った。
「はははは。あんた、なかなか面白いことを言うんだな。海が見たい、ねぇ。海が見たい、か。大の男が吐く科白じゃないよな。はははは」  
 輝之もいっしょになって笑った。それは自嘲の笑いであり、相手にそれ以上追及されないための護身の笑いでもあった。そして、そのような屈折した笑いでも、笑うことで現実との間にいくらか距離を保つことができた。いつのまにか手の震えは止まっていた。
「それじゃあよ」
 ダメ元で物事を頼む時のような、なかば投げやりな口調になって男は言った。
「おれを乗っけてってくんないか。新潟まで。ほんとに海まで行くつもりなら」
「いいですよ」
 二つ返事で答えた。
「……ほんとか?」
 あっさり願いが聞き入れられたことに男は少なからず面食らっているようだった。
「まだゆうに二時間はかかるぞ」
「かまわないです。ほんとに海まで行くつもりですから」
「そりゃ助かる」
「でも……どうやってここまできたんです?」
「新宿発の夜行バスさ」
「え? それで、そのバスは?」
「無理言って降ろしてもらった」
「えっと、その……」
「怖じ気づいてしまってな、弟のところに行くのが」
「はあ……」
「もう大丈夫だ。最初っから飲んでおけばよかったんだよな。いざというときのために買ってはあったんだが」
「……」
「ま、いろいろとあるんだよ。長い話さ」
「長い話……ですか」
「そんなに聞きたきゃいくらでも話してやるよ。車ん中で黙り込んでるのもお互い気まずいだろうし」
 そんなわけで輝之は、藤野栄治と名乗ったその男をデミオの助手席に乗せて関越自動車道を北上することになった。旅は道連れ世は情け――そんな言葉が輝之の胸に切実に響くようになるのはもっともっと後のことだが。

(つづく)


プロフィール
桜井 鈴茂
(さくらい すずも)

1968年北海道生まれ。さまざまな職歴を経て、2002年『アレルヤ』(双葉文庫)で第13回朝日新人文学賞を受賞。他の著書に『終わりまであとどれくらいだろう』(双葉文庫)、『女たち』(フォイル)、『冬の旅 Wintertime Voyage』(河出書房新社)がある。
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