人はとても長い時間をかけて海から陸へとあがったというのに、どうしてこんなにも水が肌に馴染むのだろう。
海に入るたび、潮はいつもそう思う。
一度だけ、シルクのシャツというものを着たことがある。あの滑らかな肌触りと心地よさは大したものだったが、水はそれを軽々と上回る。服には決してない肌との一体感、自分の皮膚感覚がどこまでも広がるような、そんな不思議な感じを、水は——海は与えてくれる。
だから潮はスーツをなるたけ着なかった。ドライでもウェットでも、あれは自分と水を隔てるものだからだ。もちろん水温によっては着用するが、兄の言葉を借りるなら、分厚い手袋をして恋人に触れるようなもの、だった。
潮はその譬えを聞いた時、なんの違和感もなく、すとんと胸に落ちた。
彼女と呼べる相手は中学の時の一人きりであったし、それもあくまで子供の付き合いでしかなかったが、それでも兄の言わんとしたことはわかった。
それは、骨を得た気分だった。
海に潜るならスーツを着なさいと五月蠅くいわれても反論できずにいた自分は、クラゲのようにぐにゃぐにゃでふらふらした無脊椎動物だった。けれど自分は進化した。兄の言葉によって背骨を得、堂々とスーツを着ないと言えるようになった。
そう話すと兄は笑った。だがすぐに、わかる、と言ってくれた。
それで十分だった。この感覚は、たとえ他の誰にも理解されずとも構わなかった。兄に話し、兄がわかると言ってくれたことで、潮は満足した。
以来、意地は消え、水温によってはスーツを着ることにも抵抗はなくなった。
人は所詮、水の中で生きるようにはできていない。
俺たちは異邦人なんだ——兄はよくそう言っていた。庭先を借りているに過ぎないことを忘れてはいけない。その上で、弁え、敬意を払えば、海は素晴らしい体験をさせてくれる、と。
それを聞いた兄の恋人は、涼一はロマンチック過ぎる、と笑ったが、潮には兄の言いたいことが言語の外の感覚として理解できた。
いまもそうだ。
こうして海の中にいて乗ってきた船を見上げている自分は、肺の中の酸素が尽きればそれで死んでしまう。この素晴らしい世界に滞在することを許されるのは限られた時間だけだ。一般的な人間よりは長く息を止めていられても、決して留まり続けることはできない。呼吸法と訓練によって延ばせる時間にも限界はある。
水中における人間の生理の研究が進めば、そうしたこととは別のアプローチ方法が見えてくるのかもしれないが、それがどんなことでいつになるのかは潮には分からなかった。おそらくは兄にも答えられはしなかっただろう。
だからこそ限られた時間は有効に使いたかったのだが、潮は水面に浮かぶ黒い葉のように見える船の縁から、腕が突き出されて自分を呼ぶために動くのを見た。
肺の空気にはまだ余裕がある。左手に嵌めた使い込まれたダイバーズウォッチを見ると、設定した時間の半分も過ぎてはいなかった。
だが、潮は素直に従うことにした。この季節、急に天候が変わることなどよくあることだったし、そうでなくても、陸から何か緊急の連絡があったのかもしれない。
潮は身体を大きくしならせるように動かした。左右の足にそれぞれ履く一般的なものとは違って両足をそろえて装着する巨大な一枚鰭のフィンが大きく水を掻く。
モノフィンと呼ばれる足鰭を使って泳ぐにはイルカのように身体を動かす必要があり、習熟には時間がかかるが、その分、慣れてくるとまさしくイルカのように自在に、そして素早く泳ぐことができる。その感覚が好きで、潮は何年も前から愛用していた。
ゆっくりとフィンを振りながら上昇すると、ただの黒い葉のような影はすぐに色と細部を取り戻し、船とわかるようになった。
といっても小さなもので、ちょっとした釣りに使うような代物だ。漁師を引退した祖父の持ち物で、今日のように沖に潜りに行きたい時には、頼んで出してもらっている。
浮上して縁につかまりながらシュノーケルを外し呼吸を整えてから訊いた。
「何、じいちゃん?」
「上がれ、潮。野田の倅の船で面倒が起きとるようだ」
潮は頷き、マスクを外して船に放り込み、ウェイト、そしてモノフィンも外して同じように放り込んでから、転がるように上がった。
反対側の船縁でバランスを取ってくれていた祖父は二馬力しかないエンジンのところへ行くと、潮がアンカーを引き上げるのを待って手際よくエンジンをかけ、舵を握った。
祖父の言った船は、自分たちのいる場所から僅かに沖に出たたところに停泊しているのが、潜る前から見えていた。小型の漁船だが、漁だけでなく釣りや観光にも使っている。甲板には水着の上にパーカーを羽織った男女がいて、男の方が野田に詰め寄っているようだった。四十くらいだろうか? 顎の下の肉がたるんで、陽に焼けたのか肌は真っ赤になっている。女は三人いて、そんな男をうんざりとした様子で見ている。
格好から釣り客ではないとわかる。おそらくイルカ目当てだろう。
イルカは漁師にとっては漁獲を競う嫌な相手でもあるが、酔狂な都会の観光客には人気があり、彼らを案内することで得られる収入は小さくはなかった。しかし野生の生物ゆえに、いつも見られるとは限らない。そのことは前もってきちんと説明されるのだが、金を払ったのに見られないとなると、文句をつける客もいる。おそらく今回もその手のトラブルだろうと思えたが、何故それに祖父が首を突っ込もうとしているのかが潮にはわからなかった。
野田のことは潮も少しは知っている。話し好きで腰が低く、観光客をあしらうのもうまいという評判だ。観光案内所に行って最初に勧められるのは、彼の船だと聞いている。
だが、彼も海の男だ。普段は凪ぎでも、内には嵐も秘めている。
船上では男が一方的に何かを喚いているようだった。
野田の顔からは、いつもの柔和な表情が消えている。だが、激昂している男はそのことに気付いていない様子だった。それとも大したことはないと思っているのだろうか。だとしたら大きな間違いだ。でっぷりした男の体重が何キロあるかわからないが、それでも魚のたっぷりと入った網より重いということはないだろう。
近くなる船を見ながら、あのオッサン、海に叩き込まれるんじゃないだろうか、と潮は危惧した。ありえない話ではない。ひょっとしてそれを見越して、祖父は船を向かわせているのだろうか? だとしたら厄介だった。溺れている人間を助けるのは簡単なことではない。ましてあの体重だ。船に押し上げるのは不可能に近い。暴れられでもしたらこっちも危ない。
「どうしてくれるんだって聞いてんだよっ!」
ようやく男の声が聞こえた。顔が赤いのは日焼けというより激昂しているからだったらしい。
「いくらするかわかってんのか!? 俺は別にイルカなんぞ見たかなかったんだよ! くだらねえ! しかたなく来てやったあげくがこれか!? ふざけんな!」
なにそれ、さいあく、と女たちの口が動いたように見えた。実際そうは言っていなかったのかもしれないが、顔を見ればそんなようなことを呟いたのだと思えた。同年代の女子とは違って大人の雰囲気がある女性たちだった。年はさほど上には見えなかったが、学生という雰囲気ではなかった。
「何黙ってんだ、てめえは! 取ってこい! 今すぐとってこいや!」
口の端から蟹のように泡を飛ばしながら男は船の外を、海を指した。野田の切れ長の目が男の指を追う。結果としてその先には潮の乗った小船があった。
こちらに気付いて野田の顔に表情が戻る。と言ってもそれはにがだまを潰してしまったカワハギの刺身を口にしたような苦いもので、我慢も限界に近いことを示していた。
「おおい、どうした?」
エンジンを切って惰性で進みながら、祖父がそう呼びかけた。怒鳴っているわけでもないのに声は波の音にも負けずに辺りに響く。
潮はアンカーを下ろしながら、今日はビキニタイプの水着にするんじゃなかったと後悔した。見られている。海を最大限に味わうためには水着の面積は少ない方がいいのだが、女性に見られていると思うと、気恥ずかしさを感じて居心地が悪かった。
野田はちらりと男を見てから、
「串良さん」
と、潮と祖父の姓を言ったのだが、男には別の言葉に聞こえたようで、
「クジラもどうでもいいんだよっ!」
そう怒鳴った。
どうやらそれが野田の堪忍袋の緒を切ったようだった。彼は無言で丸々と太った鰹のような腕を伸ばすと、その大きく分厚い手で男のたるんだ首を鷲掴みにした。
「黙れ」
締めているわけではないのは男の様子からわかる。だが、ちょっと力を込めればどうなるかは十分に伝わったようで、男の顔からは面白いように血の気が引いた。船尾の女たちの顔にも緊張とも恐怖ともつかない表情が浮かんだ。
「んで?」
エンジンの脇に腰を下ろしたまま、何事もないかのように祖父が訊く。野田は太いため息をつくと顎で男を示し、
「この男が時計を落としたんですよ。汗で痒くなったのかしらんですが、外した拍子に船が揺れて、投げ出されはしなかったんですが、代わりに時計が飛んでった」
「そんなことでがったがた抜かしとったんか」
祖父が呆れたようにいうと、
「ロレックスだぞ! いくらすると思ってんだ!」
男は泣きそうな声で喚いた。
「妻が半分出してくれて、ようやく買ったサブマリーナだったんだぞ! なくしたなんていったら……泣かれる!」
「潮、知っとるか?」
あいまいに潮は頷いた。
「確か、すっげー高いんだよ、じいちゃん。百万とかすんじゃなかったかな? ほら。久口の親父がしてる時計。あれ」
「あの金ぴかか! そんな大事なもんだったら、ちゃあんと嵌めとったらよかったんだ」
「サブマリーナはあんな趣味の悪い時計じゃない!」
男はそんな、潮たちにとってはどうでもいいことを喚いた。どう違うのか潮にはわからなかった。久口も、
「ほら、ロレックスだぞ」
と自慢をして従業員に嫌がられていると母から聞いたことがある。そういう点では二人のしていることは同じに思える。
「諦めたらどうだ?」
祖父は言った。
「この辺は水深が一五メートルほどある。どのみち壊れて使い物にならんだろ?」
「サブマリーナはそんなヤワじゃない! ダイバーズウォッチだぞ!」
潮はそんな高いダイバーズウォッチがあることに驚いた。
何か特別な機能でも備えているのだろうか? 潮がしているのは兄のお下がりで、五万円しない代物だった。実際に潜って試したことはないが、それでも二百メートルまでは防水できるということになっている。百万もするとなるとどのくらいすごい物なのか想像もできない。日本海溝に落としても無事な気がする。
「なんだ。おまえさん、潜るのか。だったら自分で潜って取ってきたらどうだ? 戻ったらこっちで拾い上げてやる」
そう祖父が言うと、
「俺は泳げないんだよ!」
男は泣きそうな声で答えた。
船尾のほうで成り行きを見ていた女たちがひそひそと何かを言い交わし、潮は祖父と顔を見合わせた。泳げないのに百万もするダイバーズウォッチをする理由が、潮にはさっぱりわからなかった。日常で何十気圧にも耐える時計が必要な場面があるとは思えない。それともそういう特殊な職場か、特殊な風呂でも持っていて、常につけているのだろうか。
「潮」
祖父はもう一度ため息をつくと、
「取ってきてやれ。後で弁償だなんだっつう話になったら、野田だけじゃない、観光課の連中も困んだろう。最近じゃあ風評被害ってもんがうるせえんだろ?」
「ネットがあっからね」
言って、潮はウェイトを腰に巻いた。
潮自身は、ブログやツイッターはやっていないが、クラスメートにははまっているやつらも多い。祖父も自分と同じだ。いちおうノートパソコンは持っているが、床の間の飾りになっていて、この前見たら上に花瓶が乗せられていた。
潮はモノフィンではなく、左右それぞれの足に履くノーマルのフィンを装着した。モノフィンはスピードは出るが、海中に留まって周りを見たりするのには向いていないからだ。
シュノーケルとマスクをつけ、祖父が反対の船縁に移動するのを待ってから、海に背を向けて縁に腰かける。
「すまんな。あの辺りだ」
野田の指した辺りを潮は確認した。
指でOKサインを作って見せてから、マスクを押さえて後ろに倒れる。
ざんぶと飛び込んだ瞬間、今日の海は暖かいがそれでも気温との差に肌が引き締まる。焼けた肌に海水はぴりぴりと小さな棘を刺すようだったが、それもまた心地が良かった。
その場でぐるりと回転して海面に顔を出した潮は、船に手を当てて体を支えながら息を、吸う時の倍の時間をかけて吐き、呼吸を整えた。
「がんばって」
そんな声がした。あの三人の女性の内の誰かだろう。
僅かに胸が騒いだが、それも肺に空気が満ちていくと同時に波の泡のように消えていく。フラットになる。そうなるまでは潮は海に潜らない。陸に気持ちがあるうちに潜っても、海は自分を受け入れてはくれない気がするからだ。
体が水温に馴染んで境があいまいになるのを待って、潮は海面にうつぶせになった。
息を止め、上半身を海の中に深く、垂直にまで折り曲げる。同時に両足を振り上げると、体は水に対して垂直に逆さに立つ格好となって、足の重みですうっと沈んでいく。
世界はとても静かだ。
完全に体が水の中に入ってから潮はフィンを振った。ぐううっと水を押しのけるようにして体が進む。なめらかに、とはいかない。あちこち出っ張った人間の体の形は、イルカや魚に比べれば泳ぐのに向いた理想形とはまったく言えない。
周囲からまず、赤い色が消えていく。
海に潜ると、色とは光に含まれているのだということがわかる。物体はそれをただ反射しているにすぎず、赤い魚も海の底ではただ青い濃淡でしかない。潮は幸いにしてまだ経験したことがないが、深海では血すら青く見えるらしい。
痛みを感じる前に鼻を摘んで耳抜きを行って鼓膜が破れるのを防ぎ、潮はさらに海の深みへ、水の底へと静かに潜っていった。
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