双葉社web文芸マガジン[カラフル]

永遠の城 / 新城カズマ・著

イラスト/アントンシク

第 6 回


「面白い……いや、まことに面白いな!」
 秀頼の笑みは、二十二歳の青年君主というよりも、南蛮渡来の珍奇な武具を初めて目の当たりにした悪戯好きな幼児おさなごのものだった。
「過分の御言葉――」
「ふふ、謙遜は無用。上下も無用。ここは山里、幼き頃より我が身の庭。
 しかし待て。ひとつ不審があるぞ。
 そなた、まずは我が身を……うむ、つまり我が身のふりをして初め上座に腰を据えておって、今はそこですっかり恐縮しておる怪力無双の力士めを、ということだが……千よりも先にこの者にむかって辞儀をしたはず。
 では、すでにその折、我が身の仕掛けた悪戯を見抜いておったのか。となると、なにゆえ黙っておった。不審だ、じつに不審だぞ」
「おそれながら」
 少年は答える。
「わたくしの、この奇妙なる悟り癖……対面したる方々の発したる言葉にうそ偽りあらば察せられますが――本心にあらぬ仕草を見せるのみ、あるいは当人が思い違いをして誤り事を告げる、またあるいは仕掛け心を秘めつつも明白なる偽りを口にせぬならば、一向わたくしには気づけず、また隠し事であればその仔細までは分かりかねるのでござります」
「む。なるほど」
 秀頼は、顎に人さし指を当てて、小さくうなずく。
「言葉か。言葉の偽りを識るということだな。たしかに鳥獣は言葉を用いぬ。言を尽くし言によって謀るは、人の世のこと。うむ、そうだ。道理、まさに道理だ。――よし。これ、大助」
「ははっ」
「我が身は決めた。そなたに頼もう。この城の御台所、千姫の身を護る役目を申しつける」

「……わたしは気に入りませぬ!」
 その千姫が、夫君の言葉が終わるか終わらぬかのうちに、素早く立ち上がり、転がるように秀頼の袖の前にまで近づいた。
 眉をひそめ、頬をふくらませたそのさまは、なるほど東国の覇者、さきの右大臣にして源氏長者たる徳川家康の、まさしく内孫ないそんに生まれついた姫君にふさわしかった。
「ほう。気に入らぬか」
「はい」
「微塵もか」
「ほんの少しも」
「先ほどの我らの悪戯をあまりにも素早く見抜かれたのが、恨めしいか」
「そ、そのようなわけでは……」
「では、ただ虫が好かぬのだな。はてさて三尸さんしのいずれやら。上尸か、中尸か、それとも」
「上も下も好きませぬ!」
「ふふ。だからこそ、この大助に頼むのだ」
 若き城主は笑みを浮かべたままだったが、声色はどこか哀しげだった。
「この城内、なかんずく奥御殿には、そなたの意に唯々諾々と従う女房たちばかり。いや、それが悪いと言うのではないぞ。そのように恐れ入るな。叱っておるのではないと言うに。
 ともかく――そのような者たちばかりではかえって、そなたの身が危ない。諌言居士も多すぎれば煩いが、欠いてはならぬ。
 うむ、まったく危ないぞ。箱根の関のむこうからやってくる武者もののふたちに、槍をかかえて突き進みそうな、その気性」
「当然にござります!」
 千姫は背筋を伸ばし、背後の女房たちもそれにならって、一斉に、ぴんと半身をまっすぐにした。
「この千は武家の娘、嫁いで来たる先こそは我が城、我が郷、我が命。殿下を害せんとする奴めらは、たとえ実の祖父であろうと父であろうと、刃を交えずして何としましょう!」
「その気性、その気性だ」
 秀頼公は姫たちにむかってうなずき――それから、重成のほうへ、ふと目をくれた。
「わかるな、重成」
「御意。されば例の」
「うむ。その真田の若武者にな。……さて、大助とやら。ちこう」
 名を呼ばれて、大助少年は、無作法な物音をたてぬよう、できるだけゆっくりと近づいた。
「ふふ、上も下も無しと言うておるに。こわばるのう」
 秀頼は苦笑する。
「まあよい。もそっと近う。うむ、よい。
 そなたの奇妙不可思議の技、偽りを識る技こそ大いに天晴れ。我が命により、姫の無事に勤めるがよい。されば城内御免のしるしに……何がよいかな。
 本来ならば天下御免といきたいところだが、昔日の太閤殿下の御代に比ぶれば、昨今は豊臣の権も少しばかり……ふふ、そう睨むな、千。皆の者も恐縮せずともよい。ここでうそ偽りを言うてもはじまらぬ。それこそ大助めがまた震えてしまうぞ。
 さて何としようかの……竹流しの金ならいくらでもあるが、ちと重い。ふむふむ、ここは思案のしどころ。……」
 と、若き城主が天を仰いでつぶやき始めた時には、左にひかえる重成が、いつのまにか護衛の一人から受け取った小太刀を、すでに秀頼の前で捧げ持っていた。
 が、
「……む、あいかわらず聡いな重成。愛いやつ。が、それでは少々無粋。こちらにしよう」
 右にいる千姫の髪に、つと手を伸ばし、簪を取った。
 あ、と千姫が口をひらいた。しかし秀頼のほうが早かった。
 これでい、と若き主君が微笑むと同時に重成がよどみない動きでそれを受け取り、一拝し、見惚れるような素早い足さばきで大助少年に近づく。
「真田の若殿、こちらを」
 恐悦至極……と口ごもって、大助は、北の方・千姫のほうを盗み見る。
 先ほどよりもいっそう頬をふくらませたその様を、
 ――ああ、なるほど。たしかに殿下の仰せのとおり。
 お美しい……と少年は、あやうく口に出してしまいそうな己を抑えつつ、ただただこうべを垂れるばかり。
 ごう、と冷たい風が山里丸の北東の隅から……そのむこうに横たわる淀川から、さらには遠く川上のみやこあるというあたりから、吹き寄せて、一同の髪をなぶった。

 面白い、面白いぞ――と唄うように独りごちながら秀頼公は、野点の座を退席し、千姫と護衛の男女がそれに続いた。
「ではこちらへ」
 と、大助をうながしたのは重成だった。少年は若武者の後ろについて歩きだした。
〈御城〉の本丸へ向かっているのだということは、おぼろげに分かる。が、辺りの景色もまるで霞がかかったようで、足元もおぼつかず、自分がいったい何歩進んだのか、いつのまに履物をぬいで板張りの廊下を歩いているのか、そんなことすらも思い出せぬようになっていた。
 夢見心地の少年と、美麗な若武者は、詰めの間とおぼしき簡素な十畳ほどの部屋の隅で、少しばかり遅い朝の膳を賜り、しばらくそこに坐したまま無言で時を過ごした。やがて再び、
「こちらへ」
 重成が大助を導き、長い廊下をひたすら進んだかと思うと、前ぶれもなく右へ、あるいは左へと曲がり、細長い無人の部屋を通り過ぎ、足早に進む幾人かの若い僧侶とすれ違い、階段を登り、かと思えば今度は降り、また登り、太い柱の列を横に見ながら障子のあいだをすり抜け、先ほどまで聞こえていた奥御殿からと思しきもいつしか遠くなり――もはや少年は〈御城〉の中のどのあたりに己が居るのやら、それどころか、もしや眼前のこれらはすべて不可思議な夢であり、現し身はまだ九度山の質素な寝所にあるのでは、とさえ思いかけていた。
 その時。
「この御城が――」
 前をゆく木村重成の声が薄闇に響いた。
「――天下無双の城であることの、そのほんの一端を今からご覧にいれましょう。いや、むしろお聞かせしましょう、と言うべきですかな」
 若武者が振り返った。
 その笑みが、これまでの優しげなものから、この時だけ……ほんのわずかではあるが……あの若き主君とそっくりの、悪戯好きの幼児のそれになっていた。
「亡き太閤殿下の御遺し召された、ささやかなにござりますよ」
 暗い、四方を白く塗られた壁に囲まれ、土蔵とも思われるような狭い空間に、気がつけば二人は並んで立っていた。
 わずかな明かりは、石天井の右の隅に穿たれた二つの小さな三角の穴からこぼれてくる、細い二筋の光のみ。
 その空間の、もっとも奥まったあたりに、重成は大助の手を取って座らせる。
「ここへ両手をつき、少々前のめりになりまして……このようにお耳をお寄せください……さよう、それでよろしい。ほら、床から聞こえてくるでしょう」
 少年は、指図されるがまま、座礼の半ばで止まったような姿勢をとった。指先が、石のように硬く冷たい床に触れた。
 小さな穴が穿たれている。穴の縁をかたどるのが黄金であることが、わずかな光のもとで見てとれる。
 何かが――幾人かの男たちの声が――その石の隙間から聞こえてくる。
(遠い)
 常人であれば、聞き落とすだろう。
(が、これなら)
 大助は……九度山に生まれおち、高野の樹々のあいだを獣とともに駆け巡ってきた十四歳の少年は……きつく左右の目をつむり、丹田に気を込め、ひたすらに耳をかたむけた。
(聞こえる)
 探るように、指先が動く。
(五人……十人……)
 誰か。
 何者か。
(……いや、待て……まさか)
 聞き覚えのある声色が一つ、そしてもうひとつ。
 いつのまにか、美麗な若武者も少年の左に並び、同じく前かがみになっている。二人とも、微動だにしない。
(……もしや……この声は?)
 はるかに遠く、わずかに近く――
 ――城の表御殿の一角で、男たちの声が反響する。
 男たち。
 大坂城を護るため、その主である豊臣秀頼を護るために集まった男たち。
 表御殿の千畳敷に会して、如何に徳川方と戦いこれを打ち破るべきやと彼らが鳩首凝議した折、九度山より颯爽とあらわれた智将・真田幸村は、京へ打って出て瀬田大橋を焼くべしという父譲りの秘策を開陳したが、同席した大野治長たちや他ならぬ淀殿に反駁されて事ならず、籠城と決した。
 ……といった話が後世まことしやかに伝わっている。
 が、もちろんそのようなことはない。
 そもそもこの軍議に招かれた面々は過半が討ち死にし、生きのびた数名もまた城内での仔細をいっさいふみに記していない。
 もし万一、なにがしかを書き遺したとすれば、それはおそらく織田有楽斎ただ独りであったろう。
 その有楽斎、広さ二十畳ほどの謁見の間の、上座に最も近いところに坐している。
 有楽斎如庵――かつての織田長益、このとき齢六十 八。
 本能寺の炎から逃げ切った男。
 大山崎の決戦を他人事のように眺め、長久手の戦の始末を裏であやつり、亡き太閤殿下の御伽衆として優雅に暮らし、利休居士が腹を召しても秀次殿下が高野山に蟄居しても微動だにせず、ついには関ヶ原の乱戦を目の当たりにしてなお生き延びた男。
 あの織田信長の弟。
 などと、この老人を呼ぶ者は最早この世にすっかりいなくなった。憶えている者さえ、はたして幾人いることか。
 織田の名も、信長のことも。
 天下を一統したのは――太閤さまこと豊臣秀吉。
 朝廷より、前代未聞、新たなかばねを賜ったのは――太閤さま。
 兵乱を治め、街道を整え、黄金こがね白銀しろがねを土中より喚びおこして湯水のごとく津々浦々へと流し込み、諸国の民を栄えさせ、宸襟しんきんを畏れ多くも悩ませる諸悪万難をことごとくはろうてさしあげたのは――これまたもちろん太閤さま。
 近ごろは誰も、織田上総介信長のことなど、思い出しもしない。
 今は亡き太閤さまが、若かりし折に仕えた尾張の田舎大名。しかも大した血筋でもない。どこぞの守護大名の傍流の陪臣だ。
 それに比べて太閤さまときたら、日輪の御子、日吉山王さんのうさまの申し子、しかも実のところは帝の御落胤だという噂。織田某とでは格が違う。云々。
 ……では明国を獲ろうとしたのは、と老いた有楽斎は腹の底で静かに嗤う。
 朝鮮国に十五万以上の軍勢を送り出し、寒さと飢えで磨り潰したのは、どなたであったろう?
 怨嗟の声と不穏なつぶやきに耳を傾けもせず、美姫を並べて桜を愛で、嬲るように茶器を愉しみ、ようやく儲けた己が一子のために有能な若き関白を……実の姉の子を死に追いやったのは、どなたであったろう?
 罪もなき関白・秀次殿の、生首ひとつ三条河原に晒し置き、あの暑い夏の陽射しのもと腐るに任せたその前で、それ以上にとがも何もない妻妾、侍女、子女ら総勢三十余名、次々と斬首させたのは?
 それに比べれば……そう、今にして思えば織田上総も、ここまで忘却されるほどの男でもなかったかもしれない。
 跡を継ぐべき係累が、どれもこれも碌でもなかっただけで。
 嫡男の信忠は、父・信長と同日に討ち死に。親不孝にも程がある。津田家に養子となっていた信長の甥・信澄も、似たり寄ったりの最期。
 そんな本能寺の騒ぎのあとで後継者のひとりと目された三男・信孝も、そしてその十数年後には信忠の子・三法師こと秀信も、狙いすましたように必敗の側と組んで露と消えた。
 そのほかの子弟・一族も、推して知るべしの有り様。
 まともに残ったのは有楽斎と、彼と同じく秀吉にすり寄って生き長らえた常真こと次男・信雄――つい先日、一足先に大坂を退転して徳川のふところに滑り込むなど、それなりに先読みが出来ぬでもない奴だ。
 あとは、しおらしく老犬斎などと号して隠棲と参戦のあいだをうろついていた信包くらい。有楽斎の兄にあたるその老犬も、先々月、この城内で血を吐いて死んだ。
 みな死んだ――誰もかれもが、有楽斎より先に死んでいった。
 あの太閤でさえ……殺しても死なぬような面をしていたあの男でさえ……ひどくあっけなく、しかし実に傍迷惑なことに、この黄金の巨城のただ中で、糞尿をまき散らしながら死んだのだ。
 詮も無し、詮も無し――なべて憂き世に益も無し。いずくにや楽の有らん。
 と嗤いながら長益の名を放り捨てたのは、さて、もうどれほど昔のことか。

 柄にもなく始めてしまった追想を、剃髪の老人は一つ、ふりはらって、眼前に参集した男たちの顔をあらためて眺めてゆく。
 彼の左の下座には――まずは大野治長。その隣に、弟の治房、治胤。いずれも淀殿の乳母の子。
 次いで真木島昭光。もともとは一色氏の出で、身罷られて久しい最後の室町将軍・足利義昭に奏者番として仕えた老人だ。この場に召された中では最年長かもしれない。
 彼らに相対するように、速水守久、青木一重、中島氏種、伊藤長実 ……秀頼を護る精鋭、通称「七手組」組頭を代表して四名。
 右手に有楽斎以下五名、左に四名の、あわせて九名の首脳を、下座から仰ぎ見るように横一列に坐するは――九月の東西手切れ以来陸続と入城した武将らのうち、従五位下もしくはその上にのぼり、一万石以上の大名であった者かあるいはその子息・縁者たち。
 顔ぶれは、長宗我部盛親を筆頭に、箸尾高春、明石掃部、毛利勝永、氏家行広、石川康勝、そして末席に真田幸村こと信繁。
 長宗我部、は知らぬ者もない。もとは土佐一国の主、戦国の雄、宮内少輔。
 明石掃部もまた同じく名高い。ただしこちらは熱烈なる切支丹として、だが。
 箸尾という老人。かれを知る者こそ少なくなった。が、だからといって、そのおそるべき戦歴が――あるいは強運が――減ずるわけでもない。なにしろ、あの松永弾正と羽柴秀長に仕えて生き延びたのだから。
 毛利勝永。この猛将も多くの者が知る。今以上に知られて咎めだてる愚か者はおるまい……と有楽斎は思っている。いたとしても、半月と経たぬうちに冥土に旅立っているはずだ。いうまでもなく、勝永当人のふるう槍の鋭さによって。
 氏家行広、これも真木島翁と並ぶ老人だが、数年前に卒した細川幽斎の縁戚という変わり種。行広の姪の嫁ぎ先が、幽斎の後を継いだ忠興の次男・興秋で、その興秋ともども細川家当主の忠興と仲違いしてこの城に駆け込んだらしい。あの家は、とかく親子喧嘩が多すぎる。
 石川康勝も似たようなもので、石川数正の次男として太閤に仕えたが関ヶ原の折には東軍につき、これで安泰と思いきや例の大久保長安がらみの騒ぎで改易となって、ようやく流れ着いたのがこの軍議の場なのだから、出世したのか落ちぶれたのか、答えはこの戦次第という身。
 その隣、末席に居るのが……上州で十万石ほど治めていた真田昌幸の息子で、歳は五十前くらい。三十年ほど昔、この城で顔を合わせたこともある……はずなのだが、たしかあの頃は、花も萎れて逃げ出すほどの眉目秀麗なる青年だった。
 いやはや、さても憂き世は無常なり――と独りひそかに老有楽斎が苦笑しているうちに、その右側に垂れた御簾の奥、一段高く設けられた上座へ、ゆっくりと本日の軍議の主があらわれる。
 正二位、前右大臣、豊臣氏長者にして宗家の主、天下無双の大坂城の城主、秀頼公。

 ――一同、大儀。
 若き君主の、その一言で、正式に軍議は始まる。
 治長が、入城した将兵の数を、配った金銀の嵩を、読経のように読み上げる。
 真木島翁が籠城の策を告げ、宿将の速水が大いにうなずき、それを合図とばかり下座の諸将が順に賛同する。
 いずれも発する言葉は多くない。
 というよりも、すでに決するべきことは決せられている。 淀殿おふくろさまと、秀頼公と、有楽斎とで……つまりはこの城の真の主人あるじたちによって。
 この場は、今月入城を果たした歴戦のつわものどもに、来たるべき戦のすがたを伝えるための儀式だ。
 ――まさに天下無双の城なれば籠城は必勝の策にござりましょう、と石川康勝が述べ了える。
 そして真田左衛門佐幸村の番となった。
 幸村、という呼び名が、すでに例の入城の一件以来、城内では広まっている。
 集められた諸将も、そちらのほうを憶えてしまい、太閤・秀吉の時代に彼と出会い言葉を交わしたことのある者でさえ……つまり有楽斎でさえもが、心中では「真田昌幸の子・幸村」と思うほどだ。
 それほどまでに、あの真田の入城騒ぎは愉快で、まるでよく出来た狂言のように捉えられている。
 あの淀殿おふくろさまも、ひさしぶりに声をあげて笑った……という噂が、奥御殿のほうから、城内はもちろん、船場の商人たちのあいだにまで伝わったという。
 さもあらん、と有楽斎は無言でうなずく。ただ彼だけが。
 なぜならば、その噂を広めるよう秀頼公に進言し、また少なからぬ手下を放って実際に広めたのは、他ならぬ彼自身なのだから。
 ――籠城、にござりまするか。ふうむ。
 その幸村が、ぼそりと呟いて、頭を掻く。一同が、おかしな羽虫でも入り込んだとでも言いたげに、この無名の男のほうに目をやる。
 ――不服か。
 ――いえいえ。籠城大いに結構。籠城こそ戦の華、武家の本懐。実のところ、拙者も九度山からの道すがら、どのあたりで籠城しようかと思案しておりましたゆえ。
 と、おかしなことを言い出す。
 どのあたりも、このあたりもない。籠城とは読んで字のごとく城に籠ること。そして城とは、この大坂城に他ならない。
 さてはこの男、惣構えの巨きさに畏れ入って、舌足らずになっているのだな……と、長老格の真木島玄蕃が察したらしく、鷹揚に、
 ――おお、軍勢の配置のことか。それはこれから吟味いたすこと。とはいえ望みがあるならば聞かぬでもない。北辺が所望か、それとも西の堀か。
 ――いえ、そうではなく。拙者どもは

 ふたたび男たちが沈黙する。
 いっぽう幸村は、先ほどから、無骨な左手の中指と親指の先で、平たい組紐をもてあそんでいる。
 真田紐。
 というその紐の名は、久しく以前から、ひろく知られているものだった。
 商人たち、修験者たち、あるいは歩き巫女たちも好んで用いる。
 山を越え、谷をまたぎ、川をさかのぼる者たちが真田の名を冠する紐を求め、その作りの確かさを褒めながら道みちをゆく。
 諸国の噂を耳にすれば、それを次の宿場で面白おかしく語ることもあろう。すると隣り合わせた別の商人が、あるいは虚無僧が、また別の噂を聞かせてくれる。そうやって、真田の紐を持つ者が、まるで池に投じた小石がつくるさざ波のごとく広がり、商いが一段落すればまた中心へむかって戻ってゆく。新しく聞きつけた噂話をかかえたまま。
 ということはすなわち、それを編んで売りさばく真田の家の郎党こそが、すべての中心なのだ。
 そんな有楽斎の想いに気づかぬように、幸村は、唄うように言を継いでゆく。

 ――やはり南面でしょうな。西南と申しましょうか。あのあたり、手頃な起伏があるように見受けました。そこに、ちょいと出丸を設けて。
 なに、さほど日数ひかずはかかりますまい。拙者の耳にした噂では、徳川の諸軍は東海道でひしめき合うておるようですが、近ごろ流行りの伊勢踊りとやらとぶつかって、なかなか急げぬ様子とか。こちらに着いて、陣を構えて、いざ合戦となるには……さよう、早くても来月の下旬あたり。
 人手さえあれば、拙者、さらに南の四天王寺までってしまうか、その近くの、あの臼のような小山も砦にしたいところですが……はは、さすがにこれは望みが勝ちすぎますかな。
 ちなみに北辺についてでござりますが……いずれ徳川勢は淀川の水を用いて攻めてくるでしょうから、こちらは昔の野田城あたりに砦を築くのもよかろうかと。
 それから、やはりいちへの仕掛けですな。いや、なにも御城下でなさることはございませぬ。近江の商人たちに米やら何やらを高く値付けてもらえれば、それだけで諸国に高値は広まりましょう。東国のお歴々の懐を痛めるには、これが上策。戦は銭と金が肝要ですからな。亡き我が父も、たびたび申しておりました。おかげさまで拙者どもの旗印もあのような仕儀となりまして。いやお恥ずかしい。
 まあ、夏の初めころより諸事万端高騰しておるゆえ仕掛けは済んでおられる御様子、さておくとして。あとは……そうですなあ、あとはでき得ますれば熊野か大和の民を巻き込み……あの辺り、関東に靡かぬ豪の者が多いと聞き及びますので……紀州一国まるごとを民草の一揆同心によって燃え上がらせたき所存。
 さよう……いわば浪速の海から伊勢の湾までを、押し寄せてきた徳川勢をぐるりと囲む戦火の檻に……いや、と成すことができますれば……さすれば今度こたびの大籠城、我らの勝ちとなりましょう。

 とてつもないことを口にする。
 と誰もが思ったのだろう。皆、無言のまま動かない。
 上座の若き城主もまた同じ。
 気宇壮大。珍奇夢想――だからではない。
 言い当てていたからだ。有楽斎たち三人がひそかに固めつつあった、不敗の秘策を。すでに遠近各地に密使を遣わし、米の値をつり上げ、材木を買い占め、大和から紀州南辺の国人衆とは盟も交わし始めている、まさにその手順を。
 決して必勝ではない。そもそもそんなものはこの憂き世にはない。
 しかし、負けなければよい。
 残ればよいのだ。家が。名が。ひとしずくの血が。
 それが戦というものだ。
 なるほど、これは面白いわい――と老いた有楽斎は、秀頼に目配せする。上座の青年もまた目線で答えを返す。
 風が、外の木々を揺らす音がする。老人は耳をかたむける。またそろそろ次の手下どもを放つ頃合いだ。
 熊野へ、高野へ、堺へ、伊勢へ、京のみやこへ、江戸湊へ――それから南の彼方、薩摩の海へ。


(つづく)

バックナンバー

新城カズマKazuma Shinjo

1991年『蓬莱学園の初恋!』でデビュー。2006年『サマー/タイム/トラベラー』で第37回星雲賞を受賞。他の著書に『さよなら、ジンジャーエンジェル』『15×24』『島津戦記』『玩物双紙』などがある。

  • 双葉社
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