双葉社web文芸マガジン[カラフル]

永遠の城 / 新城カズマ・著

イラスト/アントンシク

第 23 回


「もちろんおったとも」
 重能が答える。
「今でもおらんことはなかろうて。南蛮の宗にあらためた者は少なくないぞ」
「それはそうですが……あちらの文字を読めるまでになるのは」
「ふふん。おぬし、南蛮文字を見たことはあるのか」
「は……いや、覗いたことくらいならば」
 なんじゃその言い草は、と初老の武将は苦笑しながら革表紙を開いた。
「なに、さほど難しいものではないらしいぞ。わしも、もう少し若ければ――まあ、それはともかく。このとした文字が二十ほどあるのみで、それをこのように横に読めばよいだけのこと」
「二十、ですか?」
 仮名いろはよりも少ないのか、と与七は思わず身を乗り出す。
「梵字のようなものですか」
「まあそうじゃ。難しいのは、そこから先……南蛮の言葉を数多く憶えてゆけるかどうか、じゃて。この城内にも伴天連ばてれんは数人おるようじゃが、はたしてこののなかで、のんびり通詞をしてもらえるかどうか」
「でござりましょうね……しかし、難題ではありますが、無理ということはないでしょう、ふうむ……とはいえ秘伝をあちらこちらに広めてしまうのも考えもの、なんとか内密に、それと知られぬように……いやいや待てよ……」
「ふふ」
 重能の瞳が、 遊び好きな童のように光る。
「なんなら、ちょいと齧ってみるか? この秘伝書、しばらく貸してやってもよいぞ。試しに、あたまのところを書写してみるとよい。うん、そうじゃ。それがよいわ。――貸すだけじゃぞ、もちろん」
 それに応えず、与七の指先がそのをめくってゆき……そして、半ばを過ぎたあたりで、ふと動きを止めた。
「お師匠」
「どうした」
「この辺りから、文字のすがたが変わっておりますが」
「ん?」
 重能もまた、身を乗り出した。
「ああ、んむ、これか。なあに大したことではない。後ろ半分はそうなっとる。南蛮には――というよりも更にそのむこうには――また別の文字があっての」
「南蛮の……むこう?」
 おう、と重能はうなずき、先ほど取り出した巻物をひろげながら目を細めた。
「なんと言うたかな……おう、これじゃこれじゃ。文字とか申すものじゃな、これは。回々ふいふい宗の徒が用いるもので――ええと、なになに、本来はこちらの衆が編み出した算法を、南蛮の伴天連どもが書き写したそうじゃ。この秘宝を体得しておったひじりたちの名も、ここにある。――……の著したる算法奥義、すなわち之術式、是れ国より伝わりたるものなり、云々と」
「ある、不破泉ふわりずみ――這止はいやむ――」
 与七は、舌足らずではあったが、初めて耳にした音をなんとか繰り返した。
「そうじゃ。この書物は、その者らがまとめ、とやらより伝わってきたものじゃ。
 とはいえ、その回々の聖らもさらに古の大秦国より伝わりし術を学び伝えたのだという。
 そしてまた大秦国も、さらにそのかみの聖より学んだとか。
 はるか昔……延喜天暦よりも、上古の御代よりも、さらに昔――あるいは三皇五帝の頃にまで遡るやもしれん算法が、これじゃ」
「…………」
「ちなみにこの文字も横に読むが、こちらは南蛮文字とは逆さまに、右から左へ進む」
「右から左へ?」
「と、書いてあるんじゃから、しょうがあるまい」
 毛利重能は、怠けているところを見つかった小姓のような顔になった。
「わしゃ算法は少々が、異国の文字は苦手なんじゃ」
「それはわたくしも同じですよ。――お師匠」与七は、顔を上げた。「もしや、御自身で読み解くのが面倒なので、この与七に代わって解かせようと企んでおられるのではないでしょうね。
 その巻物と折り本は、もしや抜粋で、こちらの南蛮の書物にはまだまだ秘伝が残されているのでは?
 そもそも、城内の伴天連たちは、この蛇のうねったような文字とやらをも、ちゃんと読み解けるのでござりますか?」
「む」
 重能は、あわてて目をそらした。
「い、いや、そこはそれ、おぬしに読み解かせようなどと、そのような了見ではないぞ。そうとも。やろうと思えば、老いたりとはいえ毛利重能、これくらい」
 顔を赤くしたり青くしたりしながら必死で語り続ける師匠を横目に、若者は、ため息をついた。
「……まあ、わたくしも、さほど忙しいとは言いかねる身ではござりますがね」
「まだまだぁ! 蹴散らせい!」
 七郎右衛門どのの声か、と大助は直感した。
 血飛沫が左右に跳ねる。汗の臭いが押し寄せる。
 大助はひたすら唱え続けた。槍は構えるだけでよい。動かせば、かえって馬上の身が傾く。相手は動いている。いや、動いているのはこちらだが。猛然と突き進む勢いだけで十分だ。槍を動かすな。穂先を見るな。ただ前へ。前へ。
 馬のいななき。降り注ぐ矢。雲よりも濃く、影をつくりながら。
 雲!
 大助は正面を見た。鬣のむこう、はるか上空に、巨大な龍が悠然と飛んでいた。
(違う! ――あれは)
 龍ではなかった。
 今や、左手に〈真田丸〉の四角張った崖があり、右からは前田勢の矢の雨だった。
 その左の奥……先ほど失火した石川康勝の陣から高々と立ち上る黒煙が、折からの北風に押し流されて、大助の正面を悠然と通り過ぎ、そのまま音もなく南へと――前田の大軍勢が詰めかけ、崩れ、死に物狂いでそれでもこちらにむかって矢を放ってくる側へと、ただよい続けているのだ。
 ただただ、南へと。
 訳もなく。魂もなく。
 黒く光りながら、背後に曇天を背負いながら、そしてその陰からわずかに冬の冷たい陽光をしたたらせながら――
(ああ!)
 大助は感得した。
 あれは千姫さまの御手だ。
 姫さまの御言葉だ。
 ――死ぬことは許さぬ。
 姫さまそのものだ。
 ――生きて戻れ。
 なぜならそれが真田の戦だから。姫さまの命令だから。
(ああ! ああ!)
 馬上の大助はしずかに叫んだ。誰もその響きを聞かなかった。そして誰もがその響きの中にいた。
 なにもかもが正しかった。
 なにもかもが平らかだった。

「――止まるな! 吉兵衛!」
 誰かの声。それよりも早く、右手前をゆく一騎が崩れ落ちる。長槍が深々と刺さっている。
 同時に、数本の矢が大助の乗る馬の腹に刺さり、火縄銃たねがしまの放った熱い鉛が彼の右脚に襲いかかった。
 そのころ――茶臼山、徳川本陣の一角。
「さて、おたあ」
「ジュリアにござります」
 すでに人払いを済ませた茶室のただ中で、家康公は、目の前の若い女性にょしょうの前に、その冊子を差し出した。
 曇天の正午――小さな窓からすべりこんでくる微かな明るさのもと、室内の二人の姿は、かろうじて捉え得るほどでしかない。
 ジュリアは、かつて習い覚えた作法に従い、静かに茶を喫んでいたが、目の前の老人の仕草に、ふと眉をひそめる。
「こちらは……?」
「秘伝じゃ」
 家康は答えた。どこかしら、戯れを好む童のような響きがある。
「算法の、な。幽斎から――細川の大殿から、しておったものじゃが、数年前にぽっくりうなりよってな」
「…………」
「いや、それとも、亡くなってからお借りしたのであったかな。はてさて、歳を重ねると物忘れがひどうなっていかん――はっはっは」
「…………」
 ジュリアの眉間の皺が、さらに深くなる。
 まさか、これを奪うために間者を放って細川殿を――という、あらぬ妄想を打ち消しながら、ジュリアは、冊子に手を伸ばした。
 流麗な仮名文字が上質の紙の上に舞っている。
 見事なだ、と彼女は感嘆する。朝鮮国より連れてこられ、小西の家中にて文字を学び、徳川の御殿につとめること十余年、どれほどのことを身につけ得たのか自身でも確かではなかったが……それでも、美しいものを目の当たりにすれば、気づけるほどにはなっていた。
 間違いなく、これを記した方は高貴な女性だ。武家であれば大大名の御息女、それも典雅のことをわきまえた古い家柄。公家ならば三位よりも上――羽林、大臣……いやいや、もしかしたら清華や摂家ということさえあり得る。
 しかし、それにしても、算法とは――そのような商家の技を、このように美しく綴るとは、一体?
 そして、なによりも――と彼女は考える――なにゆえ、これをこのジュリアに?
「わたくし……算法には明るくございません」
「わしもじゃ」
「では」
「が、秘伝というだけあって、なかなか佳きものらしくてのう――なにしろ言うことが大きい」
「大きい?」
「うむ。この秘伝があれば、わしらはことごとく仁者になれるそうな。水と風を御し、山を動かし、天文を読めるようになる、とな」
「仁者? で、ござりますか?」
 ジュリアが眉をひそめる。
 老人は、なにかに気づいたように、鼻を鳴らした。
「――仁者というのはな、戦なぞせんでよい者のことじゃ」
「しかし」
 ひどく奇妙な沈黙が二人のあいだにあった。
 源氏長者にしてさきの将軍家、淳和奨学両院の別当をも務めた大御所・徳川家康公は、にやりと笑いながら、言った。
「せんでもよい戦に、義も不義もあるかの、おたあ?」
「ジュリアにござります」
 応えた彼女の声は、しかし、先ほどまでよりは、いささか弱々しい。
 と、その手が冊子の表紙に戻り、そこにあるべきものを探した――が、見つからなかった。
「大殿さま」
「なんじゃ」
「この……秘伝書の、名は?」
 女性の問いへの、老人の答えは、どこかしら、ため息にも似ていた。
「――……砕けたる諸々を再び繋げ合わせる、という意味だそうな」

(第24回につづく)

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新城カズマKazuma Shinjo

1991年『蓬莱学園の初恋!』でデビュー。2006年『サマー/タイム/トラベラー』で第37回星雲賞を受賞。他の著書に『さよなら、ジンジャーエンジェル』『15×24』『島津戦記』『玩物双紙』などがある。

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