双葉社web文芸マガジン[カラフル]

永遠の城 / 新城カズマ・著

イラスト/アントンシク

第 21 回


 すべてが風に転じた。
 叫び声も、臭いも、激しく揺れる己の身も、ことごとく風となっている。
 大助は瞬きをする。風は冷たい。が、この身は熱い。馬の息も熱い。汗が飛び散る。
 敵はどこだ?
 どこにも見えなかった。馬鹿な、と彼は思う。いるはずだ。それを蹴散らすべく我らは出馬したのだ。だが眼に映るのは、遠い、無数の旗印と、竹林と、細い煙と、そしてそれらのはるか彼方に――あれは海だろうか?
 白い、遠い光が、あった。
 海だ。あれこそが海に違いない。そう気づいたとたん、無限の幻が大助のもとへ大波となって打ちよせた。
 そうか。彼はようやく悟る。この国が平らかであるのは、すべてが海であるがゆえだ。
 そういうことだったのか。海だ。すべては海だ。この摂津国も、和泉も、河内も、大和も、播磨も、そして山城までも――すべては平らかで、おだやかで、うるわしい大海原だ。我らが秀頼公のしろしめす、わたつみの国だ。
 身が揺れる。激しく、上下に。そして左右に。
 燃える臭いがした。どちらからだ。大助は右手を素早く振り返る。背後に、黒煙が太い。先ほどの大音声はこれか。惣構の内側、石川殿の陣あたりが燃えている。
 そうか。敵はこれを見て、内通が成ったと思い込んだのだな。城内の裏切り者が、火をつけたのだと。
 もちろんそのようなことはない――あるはずがない。なぜならすでに大助は、
(しかし今は眼前の敵だ)
 とはいえ、いったん大助の脳裏に浮かんだ、きらめく千姫のすがたは消え去ろうとせず、少年はあの夕べを思いかえしていた。――
 ――それはほんの数日前のこと。
 奥御殿の主だった方々が、五色の鎧に身をかため、あちらこちらの陣を巡察し、慰労していたのだった。
 その日は真田の陣の番だった。
 あらわれたのは千姫だった。夕暮れのとばくちに、同じく甲冑に身をつつんだ大勢の従者を連れて、姫は無言で歩を進める。鎧が、兜が、長い薙刀が、松明の火にと輝く。見れば、従者たちもことごとく女性にょしょうだった。真田の郎党は息を呑んだ。火は揺れて、そのたびに女武者たちの大きな影が、ふわりふわりと左右に跳ねた。
 あの簪を、と姫が口をひらく。あわてて迎えに出た大助を前にして。
 片膝ついてこうべを垂れていた大助は、顔を上げ、惚けたように、ただ口を開け閉めする。
 簪を返してほしい、と姫様が仰せでございます。
 となりに控えた、そばかす顔の、質素な当世具足に身を固めた女房が告げる。
 なにゆえでござりますか、と彼はかろうじて声を発する。声は揺れている。
 この簪は、わたくしの大切な……それにこの身はまもなく初陣、せめてもの護符にと思っておりましたれば。これさえあれば、きっとこの大助、大いにいさおしをあげて無事に戻ってこられると、そのように信じておりましたれば。
 それゆえにこそだ、と返事が聞こえる。
 そなたが戦の場にたおれ、あるいは斬られて取り落とし、万一あの簪が敵の手に落ちたらば、なんとするつもりか。
 そばかす顔の女房がくり返し、さらにつけ加える。千姫さまに……この豊臣の北の方さまに、御恥をかかせようとてか、真田の。
 しかし――大助は声はさらに震え、やがて嗚咽に変わろうとする、その刹那。
 よい。
 では代わりのをくれてやろう。
 そして、ふわりとかぐわしい香りが大助の全身をつつみ、右の頬に温かい息がかかった、かと思うと。

 ――死ぬことは許さぬ。生きて戻れ。

 その短い響きが、かぐわしい香りと共に、大助の耳朶にとりつき、いっこうに離れようとしなかった。
 我に返ると、懐に秘めていたあの簪は見当たらず、すでに美しき女武者たちの群れも眼前にはいない。ただ、かぐわしさだけが……そして、一同のしんがりに、ゆっくりと立ち去ろうとする、木村重成の後ろ姿だけが。
 そこで大助は、肝心なことを思い出す。木村殿、とあわてて声をかけると、相手は優雅にふり返る。
 ――何事ですかな。
 ――実は南条殿のことで。
 ――南条……元忠殿のことか。なにか不審でも。
 ――はい(と夕闇の中で、大助は早口になる)……さきほど元忠殿の陣を訪れた折、すでに面会する約束のあったはずが、どうにも都合がつかぬと急に断られ……もしや私の評判を聞いて、うそ偽りを見抜かれるとおそれられたのではと。
 ――なるほど。それは不審。その件、しかと承りました。判り次第、すぐにでもお知らせしましょう。
 そして足早に重成は立ち去り、夕闇の中に大助はただ立ち尽くし、ただ耳の奥には、いつまでも、姫の短い言葉が響き続けて――
「左!」
 だみ声が、大助を引き戻した。誰かが手綱をつかんで左手にむかって引き戻そうとしていた。
「かたじけない!」
 大助は叫び返す。
 それにしても敵はどこだ?
(正面だ……正面のみを見るのだ!)
 何かが頬に触れる。雨か。と思ったが違った。臭いが異なる。血だ。敵の血。
 大助は足元を見下ろす。鐙が赤黒く濡れている。そうか。正面ではなく、敵は下にいたのか。馬上というものが、ここまで高いものだとは。
(可笑しいな)
 彼は思った。初めて騎乗したわけでもあるまいに。しかし、敵陣へ飛び込むのは初めてだな。
(なるほど、たしかに違う……これは違うぞ)
 これは――これが戦なのか?
 槍の重さが消えていた。取り落としたわけではない。なぜだ。掴んでいる。しかし重さが感じられない。さては重さだけを落としてしまったか。あとで拾いに戻らなければ。いやいや私は何を考えているのだ。
(正面……いや、左手のほうへ)
 背が見えた。七郎右衛門殿の背。揺れていた。いや、揺れているのはこちらか。
 誰かが叫ぶ。血飛沫が目の前にひろがって消える。敵の顔が見えた。雑兵の顔。見開いた両目。欠けた歯。父上のようだ、と彼は思った。歳をふれば誰でもこうなるさ、と父は言った。では私もやがては歯を欠くのだろうか。そして血まみれになって倒れるのだろうか。この雑兵のように。
 と思う間もなく、雑兵は、はるか後方へと流れ去った。
 大助をはじめとする真田の騎馬の群れは、井伊直孝や松平忠直のかき集めた有名無名の武者たちを踏み潰し、赤黒い骸へと転じながら、大きく左へ……南の前田勢にむかって脚を速めていった。

(第22回につづく)

バックナンバー

新城カズマKazuma Shinjo

1991年『蓬莱学園の初恋!』でデビュー。2006年『サマー/タイム/トラベラー』で第37回星雲賞を受賞。他の著書に『さよなら、ジンジャーエンジェル』『15×24』『島津戦記』『玩物双紙』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop