双葉社web文芸マガジン[カラフル]

永遠の城 / 新城カズマ・著

イラスト/アントンシク


第 19 回


 ……その、同じ夜の闇の中を駆けているのは、名も無き目、名も無き足だ。
 数多の名前、数多の苗字、けっして記されず後世にも届かない。
 とはいえ、そんなことを気にもせず、目は闇をにらみ、足は駆け続け、汚れた指さきはあらゆるものをまさぐる。
 有楽斎の屋敷から、そしてその他の屋敷からも、無数の影がとびだしてゆく。その幾つかはかえらない。しかし風聞うわさだけは、ぐるりと巡っては、もどってくる。寄せては返し、また寄せる。
 紀伊から、伊勢から、しらせは早い。あちこちで一揆は始まっている。むらむらの合議、一味同心を誓うさかずき、かかげられた松明。浅野の領地を囲むように、男たち、女たちが動き出す。皺だらけの手が鎌を磨き、小さな手が凍えながら石をかき集める。
 よし、このままいけば、と男のしゃがれた声がつぶやく。大坂のお城を囲んで攻める奴ばらは、わしらに囲まれて青くなることだろうて。
 いいや、まだまだ、と若い女の声がする。伊賀がまだ居る。甲賀は動かぬし、柳生も声をあげぬ。あの山道を塞がねば、この大籠城は全うされぬわ。
 しかし高野山と熊野はこちらについたぞ。
 あのような秘密の約定、いつでもまた寝返ろうさ。
 それでは何一つ、信を置けぬではないか。
 肝要なのは海の道だ、と、これはまた別の声――深く、歳を経て智慧を重ねたものの声だ。
 闇の中で大勢がうなずき、さらに深い闇へと散ってゆく。そして、しらせと風聞が返ってくる。
 奥州はすっかり相場が荒れているそうだ。馬が高く売れると耳にして、田畑を捨てる連中がまだ居るらしい。
 なるほど、あの風聞はたいそう効き目があったな。
 東海道のほうも、あいかわらずだ。伊勢参りに潜ませた連中がうまくやっている。
 よし、そちらにはさらに金銀を注ぎこめ。春には箱根のむこうに暮らす老若男女、ことごとくを伊勢にむけて歩かせるくらいの勢いでな。さすれば、敵方の食らうはずだった兵糧を、すべて飲み込んでくれよう。なあに、伊勢までたどり着かんでもかまわぬ――道みちに飢えた骸がころがってしまうのも、また一興……ふふ、将軍家の驚くが、見えるようだ。
 それにしても西国はどうなのだ。なにゆえ動かぬのだ。
 動かぬどころではない。島津から、大野さまのもとへ書状が届いたそうだぞ。この戦には加わらぬ、とな。
 口という口が、息を呑む。
 なんだと。しかしそれでは肝心の策が。博多に遣わしたものたちは何をしておるのだ。有楽さまはご存知なのか。
 闇が揺れ、ふたたび、みたび、散っては集う。その波の中へ、新たなしらせが転がりこむ。近江、そして山城からだ。
 徳川の大御所が、若く英明なる大坂の君主を妬み、うらやみ、それがためにこの戦を始めたのだと。
 そして大坂の御歴々は、大御所めが天下の権を……征夷大将軍の位を秀頼公に譲り返さぬがゆえに、怒り、うらみ、関東を憎んでおるのだと。
 薄闇の底で、幾つもの目が互いを見交わし、首をひねり、しまいには口を歪めて笑い出す。
 なんだ、そのおかしな風聞は。
 いや、わしもわけがわからぬが、たしかに聞いたのだ。
 いずこで。
 山城で……のほうから。
 そんな阿呆な、と、あらゆる道のあらゆる辻から、吐き捨てるような声。
 そもそも豊臣宗家は関白位が本分。征夷大将軍などという無粋な武家の位など欲しがるはずもない。そもそも将軍位は従五位下、それにくらべて関白太政大臣といえば正一位か従一位……いやいや、そもそも二つをくらべようというのさえ烏滸おこがましい。
 大坂が不満を感じ、不審に思うておるのは、あくまでも関白の位が近衛殿からこちらへ戻されぬ、その一点……その背後に徳川がおるのは満天下が承知のことだが……かしこきあたりの勅を巡りて西と東が目に見えぬ相撲を取り続けて十余年、あるいは天正壬午の乱から数えれば三十年以上、その長くひそかなの、これはほんのひと雫にすぎない。
 とはいえ、いずこの邑だろうと浦だろうと、童でも承知しておることを――この大戦おおいくさのそもそもの由縁を、なにゆえ今さら偽らねばならんのだ?
 名も無き目や足は、口々につぶやきながら、それでも動きを止めない。やがてこのおかしな風聞の出処があきらかとなってゆく。みやこの奥の奥……数少ない摂家と、数多の清華や羽林とのあいだの細い隙間のむこうから――禁裏の軒の下から、あるいはまた茂みの陰から――涅槃宗の傾きかけた本堂の中から。
 まちがいない、と一つの声が大坂城へと駆け戻る。
 このおかしな仕掛け、あの天海僧正の仕込んだものと見て、九分九厘。
 その答えは口から口へ走り抜け、やがて城の本丸の下、白く塗られた石室に響く。
 しかし、と女の声が問う。なにゆえそのような、愚にもつかぬ話を。
 わかりませぬ、と、これはまた別の若い娘の声。されど、いまひとつ、別の風聞も拾うてまいりました。
 なにごとだ、今度は。天狗あまきつねでも飛んだか。
 いいえ――三日前、夜半……方広寺より、白装束の女子おなごらが、列をなして、賀茂川のほとりにむけて歩いてゆくのを見た、と。
第四章 「関東不吉の語あり」
――慶長十九年、十二月
(グレゴリオ暦一六一五年初頭)
 また夜のあいだに雨が降り、地面は濡れていた。
 真田大助は、朝餉を済ませると、足早におもてに出た。
〈真田丸〉を覆っていた臭いが、どこかしら昨日とは異なっていた。
(皆の、汗の臭いだ)
 それだけではない。彼の眼前――広かったはずの出丸の、どこもかしこもが、人で埋め尽くされ、忙しない物音や掛け声に満ち満ちているのだ。
 かき集められた足軽たち、信州から馳せ参じた古株たち、さらにはどこからあらわれたのか素性もしれない商人やら念仏宗やら腕自慢の漁師やら……そしてもちろん、女たちだ。
 足軽や商人の女房、歩き巫女、遊び女、乳飲み子を抱いたままあちこちを歩き回る女がいる。
 跳ぶように踊りながらなにやら呪句を唱える女たちの群れがある(そのまわりには、ありがたそうに手を合わせる髭面の男たちもいるのだが)。
 酒を売る女、煙草を売る女、琴にも似た楽器を縦にかかえて爪弾きながら唄を売る女、銭を換える女、薬を売る女、籤や福神の札を売る女があちこちにいる。殊に、「お伊勢様の守り札」とやらを振り回す女は、以前にもまして多くなったように思われた。
(それにしても今朝は、いやに多いな……何事か、あったのか)
 と、ざわめきの中から、いくつか、よく通る声がする。
 ――博労淵の砦が陥ちたさかい、この値や。もう鐚一文まからんど。
 ――大勢、戻って来よってなあ。そこから拾うてきたのが、このありがたい脛当てや。見てみい、傷ひとつあらへんで。神仏の御加護あってこそや、どや?
 大助は苦笑しながら、声の主……〈戎橋の辰〉とその配下の童たち……を眺める。そして、気づかれぬように――あの者たちにつかまっては、今度は如何なる商売の種にされるか分かったものではない――そっと雑踏を離れる。
(水争いの終わりだ)
 大助は己にむかって呟いた。
 ものの値は、戦の風向き次第で、毎日変わる。
(そして次は、崖争い……南面の空堀と土居と、曲輪をめぐる戦いだ)
 つまり、この〈真田丸〉で両軍勢がぶつかることになる。
 大助は、奥にはむかわず、南の端……紅い戦装束の男たちが無言で守っている柵のほうへ急いだ。
 砦の奥には、古参の将兵がいるはずだった。幾人かは、大助も顔なじみだ。まだ幼なかったころ、九度山に彼らはいた。
 そうして、いつのまにか、いなくなっていたのだ。
(――あの者たちの忠心が薄いわけではない)
 そう言いながら、山を降りてゆく奉公人たちを見送った祖父のさみしそうな横顔を、大助は憶えていた。
(食わせてゆかれぬ、儂の無力ゆえだ。忘れるな、大助……将は、兵を食わせるのが務め。その他は、ただの飾りにすぎん)
 しかし。と幼い大助は、声に出さずに祖父の教えにあらがったのだ。
(しかし、忠義というものは、もっと……永遠とこしえにとは申しませぬ、申しませぬが……せめて最後の最後まで、のが、まことの 忠心なのでは……)
 あの日、自身の喉から出ることのなかった小さな抗いと、そして祖父・昌幸の哀しげな声色が、くるくると大助の裡で回り続けた。

「角じい」
 砦の南端で、彼は声をかけた。
 ふりむいたのは、胡麻塩髭と皺の目立つ、馴染みの顔だった。
「おお、これは若」
「あれを如何に読む?」
 あれ、と指さしたのは、他ならぬ正面に陣取っている前田利常麾下の大軍勢だ。
 真田丸を丸ごと飲み込まんばかりの人数……とはいえ、こちらの弓矢や大筒をおそれてか、距離はとっている。手前の篠だらけの小山を避けるように、左手に前田勢、右手には松倉・榊原・桑山の小勢、そして古田織部の配下が少々あり、そのまた隣に脇坂、寺沢の兵が控える。
 ふと、浅野の軍勢が南面こちらがわに居ればよいのに、と大助は思った。そうすれば、あの憎き〈長晟〉をこの手で退治てくれように。――しかし、その裏切り者の名前がなんとも遠く懐かしいもののように感じられて、大助は笑い出しそうになった。
(あの山……いや、ほんの三月前までは〈この山〉と呼んでいたのだった……あの九度山でのことが、まことに、遥か昔のことのような)
「いかがなされまいたか、若」
「いや。なんでもない」
 角じいの心配そうな顔に、大助は軽く手を振った。
「それよりも、敵方のことだ。動きはあるのか。……なにか光ったぞ」
 篠山の斜面に、時折、川魚のようにきらきらと輝くものがある。刀か、槍の穂か、あるいは名のある武将の鎧甲冑か。
「ああ、あれは我らの手勢ですな。身の軽い者を、あの小山におりまいてな……敵が動こうかという隙に、ちょいちょいとをするようにと言うてありますわい」
「伏兵で牽制済み、というのか」大助はうなずく。「ではしばらくは攻めて来んのだな」
「さにあらず。米の値も上がりまいたからな。あちら様も、そうそうしてはおれぬでしょう。さようですなあ、そろそろ――まあ明朝には仕掛けて参りましょう」
「わかるのか」
「こうして毎日眺めておれば、掌を指すようにわかりますわい」老臣は笑った。「この数日で、左の柵がとこちらにむかって近づいておりまいた。昨夜には、右手のほうから新たに伝令が駆け込みまいて……あちらの大御所からですな」
「ほう」
「そして今朝がた、風向きがひょいと変わりまいた折に、南のほうから粥の匂いが、こう……だいぶん脂じみておりまいたわ。ははは」
「脂?」
「猪、でしょうかな。鶏にしては、ちょいと薄うござった。――はは、おわかりになりませぬか。 戦となれば今生の別れやもしれぬ、せめて命のあるうちに手元にある美味いものは食らいつくしておこう、と思案するのが人の常」
 あ、と大助は思わず声をあげる。
「それで猪か。待てよ、となると……」
「御不審でも?」
「近ごろは北風ばかり。我らの朝食夕餉の匂いも、敵方に筒抜けとなっておるのではないか?」
「心配御無用!」
 角じいが呵呵と笑う。
「我が方は三日に一度、とびきりの魚を購うては焼いておりまいてな――そのたびに、前田勢は、まさか出丸のほうから攻め寄せてくるのかと戦々恐々、踊りでも踊るように騒いでおりまいて。さすがは幸村の大将と、すっかり評判になっておりますわ!」
「そうだったのか」
(そういえば……日がな〈御城〉の裡を経巡って出丸に戻ってくると、三日に一度は良い味の夕餉が待っていたが、あれはそういうことか)
「とはいえ、それもそろそろしまい」
 角じいの声が、ふと、低くなる。
「活きの良い魚も、先日来、なかなか高価たこうなりまいて……ほれ、川沿いの砦からはお退きなされまいたからの……亡き太閤殿下の黄金も、あれだけ大盤振る舞いしたからには誰も彼もが黄金持ち。おかげで値が張っても痛くも痒くもない」
「なるほど」
「――はは、ここらで関東の奴ばらに攻め込んで来てもらえれば、むしろこちらの算盤の帳尻が合うて有難や、ですわい!」
 算盤か、と大助は呟いた。この角じいでさえも、あの道具のことを知っている。ところが、この真田大助は、未だに算盤とやらに触れたこともないのだ。
(算盤、銭、戦の組み立て――いや)
 それだけではないな、と彼は想う。この身が触れていないものは、まだまだいくらも、この憂き世にある。
 この、〈御城〉の中にさえも。

(第20回につづく)

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新城カズマKazuma Shinjo

1991年『蓬莱学園の初恋!』でデビュー。2006年『サマー/タイム/トラベラー』で第37回星雲賞を受賞。他の著書に『さよなら、ジンジャーエンジェル』『15×24』『島津戦記』『玩物双紙』などがある。

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