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永遠の城 / 新城カズマ・著

イラスト/アントンシク

第 12 回


 下がれ、という短い一言で、小姓や警備の足軽たちはもちろん、本多正純もまた本陣の御座所から退いた。
 いかにも急拵えとわかる、まだ柱の表も真新しく光っている陣屋の、庇の下に残されたのは徳川宗家の大殿ただひとりとなった。
 しばらくのあいだ沈黙が続いた。
 風もなく幕が動いた、かと思うと、庭に通ずる、瓦の敷かれた小径の辺りから、軽いにも似た音が鳴った。 簡素な前庭の隅へ、細身の女性にょしょうが滑るようにあらわれて、座礼をした。
「――お久しゅうござりまする」
「よいわ」
 老人は、おもてを上げるようにと顎で指図した。その微かな動きが見えたはずもなかったが、顔を伏せていた女は、ゆっくりと目線を老人のほうへ上げていった。
「……痩せたの」
「はい」
「島の暮らしは、のう」
「はい」
「まだを捨てぬか」
 老人のまなざしは、ただ一点――女の細い首から、まるで枷のように掛けられた、不釣り合いなほどに大きく太い数珠のようなものに向けられていた。
 その「数珠」の、重たく垂れ下がった先……庭の地面に触れなんとする辺りに……銀色の、細い、があった。
「いつでもよいのだぞ、いつでも。それさえ……それさえ手離してくれれば――のう、よ」
「ジュリアにございます」女性は応えた。「それが、今のわたくしの、まことの名にございますれば」

 戦国末期から江戸時代初期における著名な女性キリシタンのひとり。出自は当時の朝鮮国であるが、幼少期に同国と日本の豊臣政権との軍事衝突(後の歴史家によって太閤唐入・壬辰倭乱・朝鮮征伐・十六世紀日明戦争半島戦線等々、多くの呼称が提案されている)が勃発した結果、捕虜として連行され、キリシタン大名であった小西行長に養育されることとなる。彼女の入信はこの時期であると推定される。しかしその後も運命の変転は続き……(中略)……家康の側室となることも拒んだ彼女は、慶長十七年(グレゴリオ暦一六一二年)の禁教令の結果、駿府から伊豆諸島へ、流刑の身となった。離島におけるジュリアおたあの生活についての一次史料はほとんど存在しないが、後代のわずかな断片的記録から、彼女が最後まで棄教しなかったことは確実と思われる。……(後略)

――『The Encyclopedia of "Great Eurasian Age of War"』(3rd Edition)より抜粋

 老人は、再びうつむいたジュリアを無言でうながし、彼女を引き連れて陣屋の中を抜けると、北東に設えられた望楼を登った。
 人払いの下知はすでに伝わっていたらしく、その静かな移動のあいだ、彼女は誰とも顔を合わせることがなかった。
 狭く、ほの暗い梯子を登り、たどり着いたのは、さほど広くない、低い屋根に覆われた板の間だった。冬の日差しはいつのまにか雲にさえぎられ、ただ、北からの風だけが頬に感じられた。
 ジュリアは、うながされるままに前へ進み、正面を見た。
 徳川本陣の、北面。
 つわものであれば心躍らせるはずの光景を……いや、男子おのこであれば両の瞳をぎらぎらと輝かせ、女子めのこでさえも身を奮わせ、思わず声を上げたであろう、その威容――幾千、幾万もの大軍勢が、甲冑と旗を擦れ合わせ、槍をかかげ、馬を引き、怒鳴り、唸り、蠢いている、その壮大なありさまを。
 しかし、ジュリアは身を奮わせなかった。声も上げなかった。ただ黙って、胸元の飾りを……十字架クルスをそっと握りしめた。
 徳川の軍勢が伊豆の島々のようにあちこちにあり、それらの間を右へ左へ駆けてゆく母衣衆があり、竹藪があり、柵と堀があり、背の高い石垣があり、それらすべての北の果てには――黒々と聳える天守閣の姿があった。
「埒もない」
 唐突に、背後の老人が言った――口中にとびこんできた小さな羽虫を吐き捨てるように。
「……大殿さま?」
「乱れとるわい。ここから眺めおろしておると、手に取るようにしかと判る。あの辺りが藤堂の手勢だ……あれはまだなほうだが。その隣の伊達めはどうじゃ。未だに柵すら組み立て了えておらん。そのくせ、こちらの遣わしとる軍監には、次から次へと立派に文句を垂れよる。
 それかと思えば、ほれ、むこうの忠直の陣を見てみい。井伊の次男坊めも。気負いすぎじゃ。あれでは正月どころか、この月いっぱいも保たんぞ。のう、このくらいはおぬしにも読めるであろう、?」
「ジュリアでございます」
「どちらでもよいわ」
 大御所・家康公は口を尖らせながら応える。
「とにかく、近ごろの若い者どもはなっとらん。――いや、慣れておらんのだ。胆力のない者、胆力のありすぎる者、胆力の置きどころを取り違えとる莫迦者ども……まったく! 若い者ほど朱子を読め、孫子を読め、と常から教えておるのに、この体たらく――はて、には孫子を読ませたことはあるかの?」
「ございません」
 名前を訂正するのは早々に諦めて、ジュリアは嘆息とともに返事をした。そして、いつのまにか苦笑している己に気がついた。
 周囲の者たちに、何かといえば読書を勧めるという「大殿さまの困った御癖」は、今に始まったことではない。駿府の奥御殿に勤めていたころから、ジュリアもまた高価な書物や真新しい草紙をお召しのたびに押しつけられ、かしこまるやら閉口するやら、なんとも言い難い目に遭ったものだった。
「ほんに、お変わりない御様子……」
「うむ?」 
「……ただひとつ、今度こたびの戦を除きましては」
 ほとんど独り言のような、ジュリアのつぶやきを、老人は聞き逃さなかった。
「なんのことだ」
 源氏長者・徳川家康は、ジュリアの背にむかって一歩踏み出しながら、言った。
 かつての主君の吐息が――いや、今でも主君であることに変わりはない、わたしの哀れな身を明日にでも滅ぼすことができるのはこの老いた男なのだ、とジュリアは眉をひそめながら思い直す――己の襟元に感じられたような気がした。
「あのような、まだうら若い御方の御城を攻め立てて……」
 こんなことを口走るつもりではなかった、と彼女は思いはしたものの、すでに遅かった。彼女の口は、よどみなく、どこか深いところから流れ出てくるものを吐き出し続けた。
「……それも、めでたい鐘の片言隻句にかこつけて――このような不義なる所業に及ぶとあらば、過ぐる関ヶ原の折以来築き上げてきた新田氏後裔徳川家の、いいえ松平一門の、名望も早晩地に堕ちようぞ、やれやれ耄碌はしたくないものよ……と、どこぞの雀たちがやかましくしておったような、そんな気がいたしましたのみにございます」
 ジュリアは言い終えてから、ゆっくりと、ふりむいた。

 虜外なことに、老人は怒っていなかった。
「不義?」
 ただ、不思議そうな目をして、ジュリアにむかって小さく問いかけたのだった。
「不義とな?」
「……はい」
「この戦が、か」
「はい」
「ふむ。しかしな、――それでは ただしい戦とやらが、どこぞにあるのか?」
 ジュリアはすぐには答えず、じっと目の前の老人を見つめていた。
「どうじゃな、
「ございましょう」
「いずこに?」
「ここに」彼女は胸元の十字架に右手を添えた。「いと高きところにおわします、天主さまの御慈悲心おんじひしんのもとに――それに従うより他に、正しき戦というものは、この憂き世にはございませぬ」
「一度もか」
「はい」
「天地開闢以来、この日ノ本に?」
「唐天竺であろうとも……もし万一あったならば、それはまさしく天主さまの御心によりたるがゆえ」
「そうか」
 またしても案に相違して、家康は怒らなかった。
 彼は、ジュリアに聞き取れぬほど小さな声で何ごとかを独りごちてから、彼女にむかって言った。
「よし。ならば、どうじゃな。
 もしも、この世にただしい戦がという証を、このわしが立てたとしたら――おぬしらの好んで止まぬ天主とやらに従おうとても、あるいは従えば従うほど、戦に義などないのだという事を、見事に証してみせた折には――おぬしが、わしの証の手際を否が応でも認めねばならぬ仕儀に相成ったらば――その時には、を捨ててくれるかな?」
 老人の言は、命令のように聞こえたが、しかし命令ではなかった。
 それは柔らかな、それでいていかにも寂しげな……だった。
 臨終の床にある翁が、ようやく逢えた孫娘にむけて、力なく口走るような。

 ジュリアの、微かな応諾のつぶやきが発せられた――と同時に、それをかき消すように、
「よし!」
 意外なほど力強い口調で家康公は言った。
 そして、と中空を見上げ、
「――居るか?」
 と呟いた。
 ジュリアは、思わず周囲を見回した。誰もいない。……いないはずであったが、どこからか、
 ――暫し御待ちを。
 人のものとは思われない、まるで霞のような答えがしたかと思うと……しばらくして、望楼の登り口に暗い影のような塊があらわれた。
 彼女の細い両手が口元を覆った。
 はじめは、山中の熊か猪でも迷い込んだのかと思ったが、まさかそのようなはずはない。そこにうずくまっていたのは、おそらくはジュリア当人よりも若いだろう一人の武者だった。
 彼の右の頬には、縦に、大きな傷跡があった。まるで守宮やもりのような。
「大殿」
 若武者の声は低く、暗かった。
「うむ、よい」老人は小さく頷いた。「証人が要ると思うてな。たった今、この老いぼれ源氏長者ととのあいだに約定が成った。おぬしはその証人じゃ」
「は」
 若者は座したまま一礼した。
 ジュリアが眉を寄せる。
「大殿、こちらの御方は……」
「んむ? おお、そうか、初めてであったか。これはしたり、わしも歳をとったかな」
 軽く笑ってから駿府城のあるじは、平四郎、と呼びかけた。
 若武者は、あいかわらずの暗い声で、
「――坂崎平四郎とお見知り置きくだされ」
「坂崎……」
「あるいは宇喜多平四郎とでも。お好みのほうでお呼びくだされば、参上つかまつります」
 ジュリアがとまどっているうちに、老人が焦れたのか、大声になった。
「名前なんぞどちらでもよい、よい! さ、、これで決まりじゃ」
「大殿」ふとジュリアは言った。「ただいまの約定……大殿は、証を立ててくださるのでございましょう?」
「うむ?」
 徳川家康公は、その日初めて、目をむいた。
 が、それもほんの刹那だった。
「そうじゃのう」老人は応えた。張りのある声だった。「 今度の戦の終わらぬうちに、としておこうか?」
 ――ふと、何かが光ったような気がして、大助は西南のかなたへと遠眼鏡を向けた。
「あれは?」
「ははあ」隣の与七は、右手をかざして遠くを眺めたが、さほど間をおかずに応えた。「あれは徳川殿の本陣でしょうな。いや、将軍家ではなく大御所のほうで」
「なにゆえに判る」大助は、青年の顔を見上げる。「見えるのか。幟が」
「いえ、そうではなく――あちらのほうは、たしか四天王寺さまがある、と申しますか、辺りで……つい先日に大坂 のどなたかが派手に燃やしてしまわれたようですね……その向こう側に、なかなか良い小山があるのですよ。茶臼のように、こんもりとしておりましてね。本陣を構えるならばそこだろう、と推察したわけで」
「そうなのか」
「はい。将軍家は……ええと、辰巳の方角ですな、ここからですと。あそこの前田勢から南にちょいとばかり進んだ辺りかと」
「そちらにも『良い小山』がある、というわけか?」
「まあ、そういうことです」
「親の家康めが前に押し出て、子の将軍家が奥に控えるのか。関東の軍法を定めた輩は、たいしただな」
 大助は精一杯の皮肉を口にする。が、
「なにしろ戦ですからね」
 思いもよらない答えが返ってきた。
「ここで二代目将軍が斃れたりなんぞしたら、跡目争いで江戸湊どころか尾張以東は大騒ぎでしょうしね」
「そういうことなのか?」
「ではないかと、わたくしは睨んでおるのですが」京の豪商一族に生まれついたという青年は、朗らかに微笑む。「どこの御家も、肝心かなめは、それだけです。武家でも、公家でも、やんごとなき朝家でも、そこのところは変わりません。もちろん商家しょうけでもね」
 ふむ、と鼻を鳴らして大助は腕を組んだ。
「なにか御不審の点でも?」
「いや」と少年。「ならば分家の子息は気楽に命を投げ出せるものか、と思案していたところだ」
「あはは」
 与七は頭を掻きながら、冷たい青空を見上げた。
「これはしたり! まあ、叔父貴にも似たようなことは言われましたがね。わたくしには、わたくしのお役目があるので、それさえ果たせれば、如何ような次第になろうとも無駄死にとはならぬ按配ですが……ときに、御武家さまは、怖くないのですか」
「うん?」
「死ぬのが」
「怖いものか」大助は強く言った。「わたしは武家の男だぞ」
 もしも今……と大助の心中で、もうひとりの己が笑いながら囃し立てた……うそ偽りを見通せる者がこの場に居合わせて、今の一言を耳にしたらば、はたして何と言ったかな?
(偽りではない)
 大助は己にむかって、あるいは何者でもない何者かにむけて、無言で叫んだ。
 たしかに、偽りではなかった。彼は、今の今まで、そのことを――己がこの戦で命を落とすかもしれないということを――深く考えたことがなかったのだ。
 大助は、咳払いをした。
 いずれにしても戦は始まっているのだ。あの木村重成殿が諭してくれたように。
 そして、大助の父が造らせたこの真田丸は、まもなくの中心となるのだ。

 不意に、歓声が、西のほうから聞こえた。大助は素早く遠眼鏡を向けた。ついに敵が〈御城〉に攻め込んだか……と思ったが、そうではないらしい。すぐに声は止み、代わって甲高い罵声が飛び交ったが、それもすぐに風にかき消された。
「鳥の群れ、でしたかな」
「そうだな」
 真田大助は眉をしかめたまま、西を……それから南のほうを見渡した。
 戦はすでに始まっていたが、それは大助の想い描いていたものとは異なっていた。ではなかった。もちろん、大助少年がそれを見知っているはずもなかったが。

 ――まことの戦が少年の眼前でくりひろげられたのは、それから七日の後だった。

(つづく)

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新城カズマKazuma Shinjo

1991年『蓬莱学園の初恋!』でデビュー。2006年『サマー/タイム/トラベラー』で第37回星雲賞を受賞。他の著書に『さよなら、ジンジャーエンジェル』『15×24』『島津戦記』『玩物双紙』などがある。

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