双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 9 回



【小泉小雪】
 小さな道の駅で、短いトイレ休憩があった。
 全員が揃ったところで、バスはふたたび走り出す。
 わたしは自分の座席に戻っていた。背もたれに上体をあずけ、ぼんやりと窓の外を眺める。薄曇りのせいで、田舎町の風景は沈んで見えた。こういうのっぺりとした景色は、心をフラットにしてくれるけれど、すぐに飽きてくるのが難点だ。
 ときどき、隣の席から視線を感じた。龍ちゃんはきっと、いつものやさしい視線を向けてくれているのだろう。この人は、根っからのお人好しで、馬鹿正直で、疑うことを知らない犬のようなところがある。だからこそ、男女問わず、周囲から愛されているのだけど。
 わたしは、ふと考える。
 いま、本当のことを話したら、どうなるだろう――。
 窓の外の風景は、ひたすら単調だった。ぽつぽつと現れては後ろに流れていく山あいの古い民家。てっぺんが丸い山々。薄汚れたガードレール。苗を植えたばかりの田んぼ。その田んぼは四角い大きな鏡のように、冴えない灰色の空をひらひらと映していた。
 わたしはそっと目を閉じた。
 まぶたの裏に、かつての母の後ろ姿が浮かんできた。
 輪郭が少し曖昧で、陰鬱な映像だった。母は、安アパートの狭い台所に無言で立っていた。まだ年端もいかない小さなわたしは、目の前にある母の茶色いスカートを引っ張って「ねえ……」と声をかけたがっていた。しかし、たったそれだけのことができない。心がひるんで、出しかけた手を引っ込めてしまうのだ。そうこうしているうちに、母の背中がすうっと遠ざかっていく。陰気で薄暗かった台所が、いっそう暗くなっていく。幼いわたしは、ひとりぼっちになってしまう恐怖に耐えながらも、じっと黙って、手の届かないところへと消えてゆく母の背中を見詰めていた。やがて母の背中は遠くの闇に吸い込まれるように消えてしまった。暗がりにひとり取り残されたわたしの左腕には、やわらかな感触があった。ちょっと不細工な顔をした黒い熊のぬいぐるみを抱いているのだ。わたしは唇を噛んで涙をこらえると、そのぬいぐるみを抱く腕にぎゅっと力を込めた。
 無抵抗なやわらかさ――。
 その感触は、なぜかわたしをとても悲しくさせるのだった。
 これは、わたしが思春期だった頃にはじまり、以来、何度も、何度も、脳裏で再生され続けてきた映像だった。心のごく浅いところにタトゥーのように刻まれ、どうやっても消し去ることのできない記憶の欠片かけらのようなものらしい。できることなら、パソコンのデータみたいにさくっと消去してしまいたいのだけれど、わたしが消そうとすればするほど、むしろ深く刻み込まれてしまう感があった。だからもう、わたしはすっかり諦めていた。うっかりこの映像が流れてしまったら、なるべく心を空っぽにしつつ、自分とは無関係なものとして傍観する。それが、わたしにとって最も痛みをともなわないやり方だから。
 バスの速度が落ちて、交差点で右折した。
 わたしは閉じていた目をゆっくり開けた。窓の外には、いつの間にか広々とした牧場が広がっていた。雨上がりの濡れた牧草を、数頭の牛たちが気だるそうに食んでいる。
 隣の龍ちゃんに聞こえないよう、静かに、ゆっくりと、ため息をついた。ふいに、またレモンの酸味が欲しくなり、膝の上のショルダーバッグからタブレットを取り出して、口に入れる。
 それを見ていた龍ちゃんが、わたしの左肩をツンとつついた。
 ん? という感じで振り向くと、眉をハの字にした龍ちゃんがわたしを見下ろした。
「もしかして、具合でも悪い?」
 わたしは首を振った。
「大丈夫だけど」
「そっか。なら、まあ、いいんだけど」
「うん」と、小さく頷く。
 わたしは昔から、伝えたいことをまっすぐに伝えられないタイプの人間だった。しかも、伝えなくてはならない大事なことほど、どうしても伝えられなくなってしまうという困った人なのだった。子供の頃からずっとそうだ。実の母親に「わたしを愛して欲しい」「かまって欲しい」「優しくして欲しい」というシンプルな思いすら伝えることができなかったのだから。
「食べる?」
 わたしは、レモン味のタブレットを差し出した。
「あ、いいや。それ、酸っぱすぎるし」
「そう?」
「小雪、よく、そんなの食べられるよな。しかも、噛んで」
 少し目を細めるようにして、龍ちゃんが微笑んだ。
 裏表のない、やさしい笑い方。
 こんなにやさしい人なら――、現状のわたしのことも、まるごと受け入れて、真綿にくるんで慈しむように扱ってくれるのではないか。でも、わたしは、そうして欲しいという「要求」ができないのだった。もしも、その「要求」を撥ね付けられたら、と思うと、心も身体も硬直して、喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んでしまうから。
 他人への「要求」とは、ある種の「甘え」と似ている。もちろん「甘え」が悪いものだとは思っていないけれど、でも、そもそもわたしは、他人に甘える方法を知らないのだった。他人に甘えさせてあげることなら、いとも簡単に、しかも、いくらだってできるのに。
「ふつうに酸っぱくて、美味しいと思うけど」
「それ、ふつうじゃないよ」
「ふつうだよ」
「小雪って、前からそんなに酸っぱいの好きだったっけ?」
 好きになったのは、わりと最近だったから、「さあ」とわたしは二文字で答えた。我ながら素っ気ない口調だと思う。でも、その二文字の裏側には、あまりにもたくさんの想いが隠れているから、口にしたと同時に心がずっしりと重たくなる。
 もしも、わたしが、心の内側をそのままむき出しにして見せられるような――まっすぐな台詞を口にできる人間だったなら、きっとこんなにも気持ちが重くなることはないだろう。そのことをわたしは充分に知っている。知識としては完璧にモノにしているのだ。なにしろ、わたしは、心のコントロール方法については脳みそが溶けるかと思うほど必死に学んできたプロなのだから。そして一方では、その知識と同じくらい濃密に学んできたこともある。それは知識としてではなく、実体験としてリアルに味わい、胸の内側に刻みつけられた心の「痛み」だった。
 だれかに……、とりわけ自分の大切な人に受け入れてもらえなかったときの痛みがどれほど耐え難いものであるかは、これまでの人生で嫌というほど思い知らされてきた。だからこそ、わたしは、相手が近しい人であればあるほど、上手に「要求」ができないのだと思う。
 路面が悪いのか、バスがガタガタと横に揺れた。
 目を開けているのに、わたしの左手には、あの黒い熊のぬいぐるみの感触が蘇ってきた。
 悲しいほどの、無抵抗なやわらかさ。
 なんだかたまらなくなって、レモン味のタブレットを二粒まとめて口に放り込み、奥歯でカリカリと噛んだ。
「ほんと、よく噛めるよな」
 龍ちゃんが、あきれたような声を出す。
「だから、美味しいんだってば」
 わたしは、なるべく平静な顔で返事をする。
 すると龍ちゃんが、何かを思い出したように声のトーンを落とした。
「そういえばさ、モモちゃん、どうだった?」
「ああ、モモちゃんは――」わたしは、視点の定まらないようなモモちゃんの瞳を思い出した。「とりあえず仲良くはなれたよ」
「そっか。よかった。で、どんな娘なの?」
 どんな娘?
 あのふにゃふにゃしたおとなしい存在は、どこか、わたしの黒い熊のぬいぐるみとよく似ている気がしていた。
「どんなって……、まあ、見た目どおりかな」
 はぐらかすようなわたしの返答に満足しなかったらしく、龍ちゃんは目で先を促した。
「なんて言うか……、たくさん傷ついてて、世界におびえてる感じの娘だよ」
「それは分かってるよ、俺だって」
「…………」
「過去に何があったか、具体的に訊いた?」
「まあ、だいたいはね」
「そっか。で?」
「それ、いま、話すの?」
 龍ちゃんは、もちろん、という顔で頷く。
「まだ到着まで、たっぷり時間あるし」
 わたしは腕時計に視線を落とした。たしかに、到着予定時刻までは、あと一時間近くもある。
 バスはいま山裾にへばりつくように広がる寒村を走っていた。次の目的地はこのツアーの定番スポットのひとつ、双葉城址だった。そこは、雲海の上に幻想的にそびえる「天空の城」として知られた竹田城址の「劣化版」と言いたくなるような、ちょっと残念な城跡だ。一応は山のてっぺんにあるから、見晴らしは悪くないけれど、でも、標高が中途半端なため雲海の上に顔を出すこともなく、城跡の面積も悲しいほどに小さい。もっと言えば、城にまつわる歴史にたいしたドラマがないうえに、石垣の保存状態もかなり悪いのだった。
 ようするに、不人気だけれど、一応、トイレや駐車場のある地方の小さな観光スポット――ということは、いい具合に寂れていて「失恋バスツアー」にはぴったりな場所、というわけなのだ。
「だいたいでいいからさ」
 龍ちゃんに急かされたわたしは、渋々といった感じで口を開いた。
「ええと、あの娘はね」
「うん」
「なんて言うか」そこでわたしは、いったん大きく息を吸った。そして、一気に言った。「生い立ちに、ちょっと、わたしと似てるところがあるんだよね」
「え……」
 龍ちゃんの目が、うっすらと曇る。
「幼い頃に両親が離婚しててさ、一緒に住んでいた母親から、汚い言葉で罵られ続けてたんだって」
「…………」
「それも、相当ひどかったみたいで」
 わたしには、想像がつく。実の母の口から吐かれた言葉のナイフは、そのひとことひとことが的確にモモちゃんの胸のいちばん痛いところをえぐり、そして、生きる気力もろとも削ぎ落としていったのだ。やがて心と身体がふにゃふにゃになってしまったモモちゃんは、あの黒い熊のぬいぐるみのような、無抵抗なやわらかさを身につけていった。どんなときもぐったりとして、力まず、無抵抗で、周囲にされるがまま。つまり、死んだように生きる。それがモモちゃんにとって唯一の生きていく術となったのだ。
「そっか……」
「うん」
「兄弟は?」
「お兄ちゃんがいるんだって」
「へえ。一人っ子に見えたなぁ」
「ああ、そう見えるかもね。でもね、そもそも、そのお兄ちゃんが、小学生の頃に肥満をネタにいじめられて、引きこもりになっちゃったんだって。で、それが原因で、今度はモモちゃんが『引きこもりの妹』ってことで、五年生のときからいじめられるようになって、それからずっと不登校がちになったみたい」
「そっかぁ……」龍ちゃんは、眉をひそめて小さく嘆息した。「兄妹そろって、引きこもりになっちゃったのか」
「うん」
「シングルマザーのお母さんも、いろいろ大変だったんだろうな」
 龍ちゃんは、ぼそっと正論を口にした。
「そうだろうね」
 わたしは、カウンセラーの立場として頷く。
 でも、わたしのなかにいる黒い熊のぬいぐるみは、それを認めない。
 大変だからって、子供を言葉で虐待するのは許せない――。
 この思いも、正論だ。絶対に。
 わたしは続けた。
「モモちゃんね、中学もほとんど登校拒否したままで、結局、高校には行かなかったんだって」
「その間は、ずっと引きこもり?」
「ううん。ときどきはバイトをしてたみたい」
「学校には行けなかったのに、バイトには行けたの?」
「うん。家でぼうっとしていると、お母さんに『役立たず』って罵られるから、学校から少し離れたところにあるコンビニとかスーパーとかで働いてみたんだって。で、頑張ってはみたんだけど――」
「続かなかった、と」
 わたしは黙って頷いた。
「なるほどなぁ」とひとりごちて、龍ちゃんはさらに続きを目で促した。けれど、わたしは小さく首を振った。この先は、とてもナーバスな問題だから、いまは龍ちゃんにも話せない。
「だいたい、それくらいかな。わたしがモモちゃんから聞けたのは」
「リスカのことは?」
「そこはあえて聞いてないけど、もう原因は分かってるからね」
「そっか。まあ、そうだよな」
 そう言って、龍ちゃんは静かに腕を組んだ。そして、少し声のトーンを明るくした。
「それにしても、あの短時間で、よくそこまで聞けたよな」
「まあね」
「どうやったら、そこまで相手の心を開かせられるわけ?」
 心理術を学びたい、という顔で龍ちゃんが小首を傾げた。
 正直、コツはいくつもある。でも、わたしはそのなかのひとつをチョイスした。
「わたしの弱みというか、秘密を、先に話したのが功を奏したみたい」
「え、なにそれ」
 龍ちゃんは、まさか、という感じで少し目を大きくした。わたしとの関係をバラされたとでも思ったのだろう。
「大丈夫だよ。わたしの過去のことをちょこっと話しただけだから。わたしとモモちゃんは似てるかもって。そしたら、本当に似てたんだよね。生い立ちが」
「それだけ?」
「もちろん、他にも話したよ。いろいろとね。でも、男の龍ちゃんには内緒」
「なんだよ、それ」
 子供みたいな不平丸出しの顔に、わたしは思わず苦笑した。
「とにかく、先にこっちの弱点とか秘密とかを教えて共有すると、相手から信頼されやすくなるの。それが心を開いてもらうコツかな」
「なるほど」
「あとね、わたし、モモちゃんにお願いしたの」
「お願いって?」
「この旅のあいだ、わたしのことを守ってね、よろしくねって」
「守るって、どういうこと?」
「人間って不思議なものでさ、自分のことじゃなくて、他人のことを心配したり、他人のために何かをしようとしたりすると、なぜか気力が充実してきて、しかも免疫力も一気に上がるんだよ」
「マジで?」
「うん。きっと人間って弱い生き物だから、助け合ったり愛し合ったりすることで上手く生きられるよう、DNAに書き込まれてるんだと思う。だから、モモちゃんにとっては、誰かに心配されることも大事だけど、逆に他人を心配したり役に立とうとすることも大事なの」
「へえ。免疫力が……。それは知らなかったな」
 なぜだろう、このとき龍ちゃんは、ふと遠い目をしていた。
「おもしろいでしょ?」
「うん」
 バスがまた細かくガタガタと揺れて、登りの勾配にさしかかった。
「つーかさ」気をとりなおしたように、龍ちゃんは、ちょっと悪戯っぽい目でこっちを見た。「あの、か弱そうなモモちゃんが小雪を守るって、想像すると、なんか笑えるかも」
「どういうこと?」
「だって、強さから言ったら、どう考えても逆だもんな」
「ちょっと、なによ、それ」
「えへへ。なによって、言葉のまんまだよ」
 いつもだったら――、ここで、わたしは笑いながら龍ちゃんを睨んだり、ウイットの利いた台詞を返したりするところだ。でも、さすがに今日はそういう気分じゃない。
「ピンチのときに守ってくれない誰かさんより、心のやさしいモモちゃんの方がずっと頼れると思うけどね」
 さっきのイノシシの襲撃事件のことを引っ張り出して、わたしはこれ見よがしにため息をついてやった。
「え……、だって、あのときはさ、うっかり、おにぎりが喉に……」
 龍ちゃんは真顔になって、下手な弁明をはじめた。
 わたしはそれを右から左へと聞き流しながら、レモン味のタブレットをまた一粒口に放り込んだ。ちょっと意地悪かも知れないけれど、それくらいしても許される気がする。なにしろ、あのとき身体を張ってわたしを守ってくれたのは、龍ちゃんではなくて、赤の他人の、しかもご高齢のサブローさんだったのだから。
 龍ちゃんの弁明は、短いわりにぐだぐだで、最後に「はあ」とため息のおまけまでついた。そして、何ともいえず情けないような顔をしてわたしを見たのだ。
「あのさ、小雪」
「…………」
「ごめんな」
 わたしは何も答えず、レモン味のタブレットを奥歯でそっと噛んだ。
 酸味のなかに、ひそかな苦味を感じた。

(第10回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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