双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 8 回



「馬鹿、あんた、何やってんだ。逃げろ! 女たちも、逃げろ!」
 入道さんの野太い声が響いても、サブローさんは直立したまま微動だにしなかった。俺は、その光景に見とれたようにポカンとしてしまい、走り出そうとしていた足が止まっていた。
 バフゥ!
 バフゥ!
 サブローさんの登場に刺激されたのか、イノシシの鼻息がさっきよりも一段と激しさを増した。
「龍ちゃん!」
 懇願するような声で、小雪が俺の名を呼んだ。
 しかし、俺は、うん、うん――と頷くばかりで声すらも出せず、しかも、肝心の足は、地面に根が生えてしまったかのように動かせなかった。
 バフゥ!
 サブローさんは杭のように突っ立ったまま、二〇メートルほど先にいるイノシシをじっと見つめていた。その右手に握られているのは、黒い洋傘だった。
 まさか、あんな傘一本で、巨大なイノシシと渡り合おうというのか……。
 無謀にもほどがある。
「おい、何やってんだ、おめえ、早く行けよっ!」
 ドスのきいたまどかさんの声が、俺の背中に刺さった。
 その声が俺の目を覚まさせた。足から生えていた根が、ふと消えて、反射的に前へと進み出した。
 しかし、その刹那――。
 バフゥ!
 イノシシが赤土を蹴立てて猛進しはじめた。
 ヤ、ヤバい!
「小雪!」
 咳き込んでいた俺の口から、ようやく声が出た。
 小雪はふたたび「龍ちゃん!」と俺を呼んだ。
 そして、そこから先はスローモーションだった。
 全身から強烈な野生の殺気を放ちながら突進するイノシシ。
 対するサブローさんは、手にしていた黒い洋傘をすっと前に突き出した。
 先端をイノシシの方に向けたのだ。
 しかし、それにはかまわず、イノシシはドスドスと低い音を響かせ、さらに巨体を加速させていく。
 サブローさんとイノシシ、両者の距離が一瞬にして縮まった。
 もう駄目だ。
 激突する。
 サブローさんっ!
「きゃぁ!」
 どこかであがった女性の悲鳴。
 と、次の瞬間――。

 ボフッ!

 布が強い風をはらませるような音がした。
 サブローさんの黒い洋傘が、ワンタッチで勢いよく開いたのだ。
 すると、どうしたことか、猪突猛進していたイノシシは、四肢を前方に突き出すようにして強引にブレーキをかけると、開いた傘ギリギリのところで急停止した。しかも、非常に慌てた様子でUターンしたと思ったら、そのまま霧に霞んだ藪のなかへと逃げ込んでいくではないか。
 バキバキ、バキ、バキバキ、バキ……。
 しばらくの間、イノシシが藪のなかを突き進んでいく音が聞こえていたけれど、やがてその音も白い霧に吸い込まれるように霧散した。
 公園内に、重苦しい静寂が漂った。
 すうっと風が吹き、霧がゆっくりと地面の上を滑っていく。
 ごほっ、げほっ――。
 俺は、思い出したように咳き込んだ。
 とても場違いな感じのその咳が、期せずして静寂を破り、園内に散らばっていた俺たちは現実へと引き戻された。
 張り詰めていた緊張が、ゆっくりとほどけていくのが分かる。
「はあぁ……」
 力ないため息をもらして、小雪とモモちゃんがへなへなと地面に座り込んだ。安心したら、腰が抜けてしまったのだ。
「いやぁ、おっかなかったぁ……」
 サブローさんが禿げた頭を掻きながら、冗談ともつかないような口調でひとりごとを口にした。そして、開いていた洋傘を元どおりに閉じると、ゆっくり後ろを振り向いた。
 地面にへたり込んだ女性二人を見下ろし、にっこりと目を細める。
「お二人さん、大丈夫かい?」
「は、はい……」かろうじて返事ができたのは、小雪だった。「ありがとうございました。モモちゃん、大丈夫?」
 礼を言った小雪は、そのままモモちゃんの背中を撫でた。
「はい……」
 モモちゃんは蚊の鳴くような声で応えた。
 そして俺は、いまさらながら、サブローさんの隣にたどり着いた。
 しかし、まだ、咳が止まらない。
 自分の情けなさと格好悪さに、消えてなくなりたいような思いを抱きつつも、サブローさんに小さく頭を下げた。
「ど、どうも、ごふっ、げほっ、助かりました。ありがとうございます」
「いやいや、私は何も。それより添乗員さん、何でむせてるの?」
 痩せぎすのサブローさんが、心配そうな顔をしてくれた。
「いや、あの……、じつは、イノシシに驚いた拍子に、おにぎりのご飯粒が、げほっ、気管に入っちゃいまして、げほっ、ごほっ、ごほっ」
「ああ、それは苦しいですねぇ」
「す、すみません」
 もう一度、小さく頭を下げながら、地面にへたり込んだままの小雪を見下ろした。小雪は上目遣いで俺を一瞥すると、視線をすっとモモちゃんに移した。
「モモちゃん、もう大丈夫だよ」
「はい」
 小雪が先に立ち上がり、モモちゃんの手を引いて立たせてやった。
 その様子を眺めながら、俺はまた小さく咳き込んだ。
 立ち上がった二人の足元には、土にまみれた食べかけのおにぎりが二つ転がっていた。
「あ、えっと……、ごほっ、ごほっ、予備のおにぎり、まだバスにあるんで」
 咳き込みながら、かろうじて出したその声を、小雪はさらりと無視した。
「あぁ、モモちゃん、お尻のとこ、土が付いちゃったね」
 まゆをハの字にして苦笑した小雪が、モモちゃんの汚れたスカートをパタパタとはたきはじめた。
 会話をスルーされた俺は、ただぼんやりと突っ立っているしかない。
 すると斜め後ろから、サブローさんが穏やかな声を出した。
「添乗員さん、咳、少しおさまりましたね」
「ええ、まあ……」
 俺は生返事をして、土にまみれた二つのおにぎりをそっと拾った。
「モモちゃん、バスに戻って、またご飯を食べようよ」
 小雪は、こちらを見ずに言った。
「はい」
 俺をちらりと見たのは、むしろモモちゃんの方だった。
 せめて愛想笑いでも返そうと思ったのだが、残念ながら唇の端っこがひくひく動いただけで、ちっとも上手くいかなかった。
 二人の細い背中が、俺から離れていく。
 サブローさんが「あれ、雨ですね」とつぶやいて、さっき閉じたばかりの黒い洋傘をふたたび開いた。
「ですね」
 俺は、両手に土のついたおにぎりを持ったまま上を向いた。
 白くもやのかかった空から、ぱらぱらと冷たいしずくが落ちてきた。
◇   ◇   ◇
 雨は、本降りにはならなかった。
 しかし、またあのイノシシが乱入してきたら危険なので、俺はお客さんたちに声をかけてバスに戻ってもらった。停まった車窓越しに、寂れた雨の公園を眺めながらの侘しいランチである。
 小雪は、俺のとなりにいるのが嫌なのか、あるいは「仕事」の続きなのかは分からないが、モモちゃんのとなりの席に移動していた。俺は俺で、やっぱり小雪のとなりの席には居づらいから、サブローさんのとなりへと逃げていた。
「あの、サブローさん」
「はい、何でしょう」
「さっきは、本当にありがとうございました」
 添乗員として、あらためて礼を言った。
「いえいえ。そんなにありがたがられるほどのことじゃないですよ」
 サブローさんは、いかにも古い人らしく謙虚な言葉を口にしながら、ちょっと照れくさそうな笑みを浮かべた。
「あの傘の使い方って……」
「ああ、あれは以前、テレビで紹介されてたんです」
「テレビで?」
「ええ。突進してくるイノシシを簡単に撃退できる、とても意外な方法があるって。番組名は――、えっと、忘れちゃいましたけど、何かのバラエティ番組でしたね」
「へえ。そんな番組があるんですね」
「そうなんです。イノシシってね、急に大きくなるものが苦手で、驚いて逃げ出す習性があるんだそうですよ」
「それがまさに、傘を急に開いて驚かせる撃退法だったと」
「そういうことです。なんだか、おかしな撃退法ですよね」
「でも、そのおかしな撃退法が、まさかこんなところで現実的に役に立つとは――」
「あはは。そりゃあ、私だって思いませんでしたよ」
「ですよね」と言って、俺も釣られて笑う。「とにかく、サブローさんがそれを知っててくださったおかげで、みんな命拾いをしました。ぼくも、まさか、このツアーの最中に野生の動物に襲われるなんて……、完全に想定外の、初体験のトラブルです」
「それは、そうでしょうねぇ」
「はい。本当にもう、びっくりしちゃって……」
「あ、そうそう、この公園にバスが着いて、いざ我々が降りようってときにね、るいるいさんが『なんか雨が降りそうだよね~』って私に言ったんですよ。それで私、ふと、じゃあ傘を持っていこうかな、と思って」
「え、そうだったんですか」
「そうなんです。持っていって正解でした。違う意味で」
 サブローさんは、屈託のない笑みを浮かべた。
「じゃあ、じつは、るいるいさんも陰の立役者だったんですね」
「そういうことになりますね」
「でも、るいるいさん自身は、傘を……」
「持ってませんでしたね」
 俺とサブローさんは、あのキンキン声を思い出して、ふふふ、と小さく笑い合った。
「それにしても、サブローさんって、勇気がありますね」
「いやいや」
「イノシシ、怖くなかったですか?」
「え、そりゃ、めちゃくちゃ怖かったですよ。もう、おしっこちびりそうなくらい」
 冗談めかしたサブローさんは、顔をしわしわにしてみせた。
「それなのに、あたりまえのようにイノシシの前に飛び出して……」俺は、あの瞬間の驚愕を思い出しながら続けた。「恥ずかしながら、ぼくなんて完全にビビっちゃって、膝が震えて動けませんでしたから」
「相手は、でっかいイノシシですから、それがふつうでしょう」
「でも、サブローさんはふつうじゃなかった。男として、本当に尊敬します」
 と、俺がストレートに褒めたら――、なぜだろう、サブローさんはどことなく影の薄いような感じの微笑を浮かべたのだった。そして「まあ、私は……」と何かを言いかけて、いったん口を閉じた。それから、あらためて小さな笑みを作り直した。今度は、ふつうの笑みだった。
「私は、ほら、見てのとおり、老い先みじかい老体ですから。添乗員さんみたいな若い人と比べると、残り時間が少ない分だけ命が軽く感じられてしまうのかも知れません。残り少ないのは、髪の毛だけじゃないんですよ」
 若干、芝居がかったような声色で自虐ネタを口にすると、サブローさんは毛のない頭頂部をペチペチと叩いて見せた。
「…………」
 俺は笑っていいものかどうか少し迷ったけれど、結局は、微妙な薄ら笑いを浮かべながら「いやいや、そんな」などと意味のない台詞を口にしていた。
 するとサブローさんは、視線を宙に漂わせながら、またさっきと同じ影の薄い微笑みを浮かべた。
 この微笑み、どこかで見たことがある気が――。
 ふいにデジャヴのような感覚に陥った俺は、過去の記憶を探ってみた。しかし、すぐには見つかりそうになかった。
「若いってのは、いいものですね」
 サブローさんが、ぼそっと言う。
「え?」
「だって、この先、まだまだ何でもできるんですから」
「何でも、できます……かね?」
 俺は、少し頬のこけた横顔に向かって問いかけた。
「きっと、できますよ」
「失敗して、やり直したいって思っていることも、ですか?」
 俺の脳裏には小雪の顔がちらついていた。
 ようするに、サブローさんに肯定してもらいたくて、俺はそんなくだらない質問をしたのだ。どうせ気休めにしかならないと知りながら。
 そして、やさしいサブローさんは、俺の予想どおり小さく頷いてくれた。
「もちろんです。時間があれば、やり直すチャンスだって来ますから」
 そう言った後、サブローさんは、なんとなく気持ちを整理するような感じで「ふう」と短く息を吐くと、そのまま車窓の向こう、小雨に濡れた公園に視線を送った。
「時間こそが、我々の宝物ですからね」
 外を見たまま、静かに言う。
「あの、それって」
 どういう意味ですか? と俺が訊ねる前に、サブローさんはイノシシが逃げていった藪のあたりを眺めながら答えてくれた。
「時間って、命のことですから」
「…………」
 俺は、そんなサブローさんの横顔を眺めながら、返す言葉を探した。しかし、適当な台詞が俺の内側には見当たらなかった。だから、とりあえず、当たり障りのない、この世でいちばん便利で使い勝手のいい言葉をそっと口にした。
「そうですね。なんか、ありがとうございます」
 サブローさんは、かすかに微笑んだように見えた。もしかすると、気のせいかも知れないけれど。
 それから少しのあいだ、会話は途切れたままだった。
 なるべく沈黙を重くしたくないから、俺もサブローさんと同じように、イノシシが消えた藪のあたりをぼんやりと眺めていた。
 やがて――、
「やっぱり、怖いよなぁ……」
 と、サブローさんがつぶやいた。
「相手は、でっかいイノシシですから、それがふつうです」
 俺は、さっきのサブローさんの台詞をパクった。
 サブローさんは、くすっと小さく吹き出してくれた。そして、その笑みの余韻を頬に残したままこちらを向いた。
「死ぬのは、誰だって怖いですよね」
 そう言ったときの笑みは、もう、さっきのような影の薄い微笑ではなくなっていた。
「怖いと思います。すごく」
 俺は小さく頷いた。
「ねえ、添乗員さん」
「はい?」
「人は、どんなに死が怖くても」
「…………」
「いつかは、死ぬんですよね」
 サブローさんは、少し遠い目をしてそう言った。
「えっと、サブローさん……」
 俺の顔に、心配です、と書いてあったのだろう、サブローさんはちょっと慌てて取り繕うように笑ってみせた。
「あは。いやいや、なんか、すみませんね。人間、歳をとるとね、残りの人生が短いなぁって、しばしば感傷的に考えてしまうんです」
「歳を、とると?」
「ええ、まったく、歳はとりたくないですねぇ」
 歳をとっていなくても、残りの人生の短さをおもう人はいるんですよ――。
 知らず知らず俺は、胸裏でそうつぶやいていた。
 でも、声にはしなかったし、胸の奥からこみあげてくる熱っぽいため息も、ぐっと飲み込んだ。
 このとき、俺の脳裏には、美優みゆの笑顔がちらついたのだ。
 四年前、再生不良性貧血という難病で亡くなった妹が、最後に病院のベッドの上で俺に見せてくれた、とても儚い笑顔だった。
 はかない笑顔。
 影の薄い笑み。
 俺は、ハッとして顔を上げた。
 まさか、と思いながらサブローさんを見ている自分が少し嫌だった。

(第9回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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