双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 6 回



「ねえ」
 と、小雪が小さな声を出した。
「え……、なんだよ」
 と、我に返った俺が答える。
「人生に安定を求めるのって、そんなに悪いことかな?」
 小雪は、相変わらず冷静な声色で問いかけてきた。
「だから、別に、それが悪いことだなんて、俺は言ってないだろ」
 小雪とは逆に、なに不自由のない中流家庭で育てられた俺は、少したじろいだような口調になってしまう。
「そう」
「ああ」
 そこで、ふと会話が止んだ。
 変に湿っぽいような沈黙がテーブルの上に降り積もっていく。
 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、なぜだろう、小雪との距離がずいぶんと離れてしまったような気がしていた。
 はらり、はらり。
 小雪の背後で、使い古したレースのカーテンが揺れた。
 ベランダに出られる掃き出し窓が、少しだけ開いていたのだ。そこから、五月の涼しい夜風が忍び込んでくる。夜風は、どこか遠くの闇から、人の声を運んできた。その声は、酔っ払ったような若い男女の奇声だった。
 なんとなく俺は、テーブルの上に視線を落とした。小雪が「俺だけ」のために買ってきてくれた餃子の残りが、いくつか皿の上に転がっていた。空っぽのビールグラスと、飲みかけの缶ビール。
 沈黙の重さに耐えかねて、俺はなにかしゃべろうとした。
 でも、先に動いたのは小雪の唇だった。
「やっぱりさ――」
「え?」
「龍ちゃんには、分かんないのかなぁ」
「なにが……」
「幸せな家庭で、愛情を注がれながら育った人とは、考え方が根っこから違うのかもって」
「な、なんだよ、それ」
「わたしには、龍ちゃんと違って、経験上、怖いものがたくさんあるんだよ」
「怖い、もの?」
「うん」
「例えば?」
「例えば……、ひとりぼっちになること、とか」そう言って小雪は、すっと俺から視線を外した。そして、宙を見詰めるようにして「怖いもの」をあげていった。「暴力はもちろん、きつい言葉も怖いし、大声も怖い。安心できる居場所がなくなることも、お金が無くなることも、不安定な生活も――そういうの、ぜんぶ怖いよ」
「それなのに、フリーになったのかよ」
 小雪の視線が、ふたたび俺にまっすぐ注がれた。
「だって、カウンセラーはフリーが基本だし、わたしは、わたしなりに、できるだけ生活を安定させようと思って、あちこちの企業の相談室に雇われたりしてきたでしょ? で、その流れで龍ちゃんを紹介されて、一緒に仕事することになったんじゃん」
「…………」
「いろんなことが怖いからさ、わたしもそれなりに考えながらフリーやってきたんだよね。でも、龍ちゃんにはそういう感覚がない気がする」
「どうして、ないって決めつけるんだよ」
「実家」
「は?」
「だって、龍ちゃん、大人になったいまでも実家にべったりなままじゃん」
「実家に? べったり?」
「うん。超べったり」
 俺は、これ見よがしにため息をついた。
 そもそも小雪には、ずいぶん前からマザコン、もしくはファミコン(ファミリー・コンプレックス)なのではないかという疑惑をかけられているのだ。たしかに俺の家族は仲がいい方だとは思うが、決してマザコンでもファミコンでもない。それを証明したくて、俺はこれまでに何度か、家族と小雪を会わせてきた。実家に招いたこともあれば、外食をしたこともある。そして、その結果、小雪とうちの母と姉は、かなりウマが合うことが判明したのだ。毎回、女同士のおしゃべりがやたらと盛り上がって、最後は互いに連絡先を交換し合っていたほどだ。
「たしかに、うちは家族の仲は悪くないけどさ、そんなに極端にべったりってことはないだろ? 小雪だって、うちのお袋のことも、姉ちゃんのことも、よく知ってるじゃん」
「知ってるよ」
「知ってたら、そうじゃないって――」
「ううん。知ってるわたしから見たら、むしろ極端にべったりだよ。ちょっと気持ち悪いくらい」
「あのなぁ。気持ち悪い、は余計だろ」
「だって、そうなんだもん」
 小雪の言葉には、あきらかに棘があった。
「じゃあ、言ってみろよ。俺のどこが、べったり、なんだよ?」
「そんなの、いくらでもあるよ。毎年、家族の誕生日は必ず全員が集まってお祝いするとか、年末年始は必ず自宅にいてお正月を家族みんなで迎えなきゃいけないとか、しかも初詣も家族で行くって決まってるとか、そういうの、普通はないでしょ? いまどき、高校生だって誕生日とか初詣は、友達と祝うよ」
「…………」
「それにさ、龍ちゃんって、家族に電話とかメールをする回数が異常に多いじゃん。『失恋バスツアー』に一緒に行ってるときだって、携帯であちこちの写真を撮りまくって、それをやたらと送ってるし。なんでいちいち自分の状況を報告するの? ああいうの、普通の男の人はやらないと思うよ」
 そう言って、小雪は眉をハの字にした。やれやれ、情けない男だな、と顔に書いてある気がして、俺はいっそうイラっとしてしまう。
「旅先から俺が送ったすべてのメールが家族宛てとは限らないだろ」
「ふうん。じゃあ、誰に送ってるわけ? あんなに一日に何回も、何回も」
「…………」
「ああ~、まさか、女じゃないでしょうねぇ?」
 さすがに、その台詞だけは、多少なりとも冗談めかしてくれたけれど、とはいえ、俺を責めていることには変わりない。
 とりあえず「阿呆かっ」と、俺は鼻でわらってやった。たとえ写真を送っている相手の性別が女だとしても、浮気相手だとかそんなのではない。「俺には、俺なりに、いろいろあるんだよ」
「いろいろ、ね。はいはい。まあ、とにかく、龍ちゃんはマザコンっていうか、ファミコンだってことは認めた方がいいよ。認めた上で、そろそろ精神的な家族離れをしたらどう? ご両親だって、その方が安心するんじゃない? ようやくうちの息子も一本立ち出来たかって、むしろ大喜びしてくれるかもよ」
 小雪の言葉に、いよいよ棘を超える「悪意」が込められてきた。なぜ「悪意」を感じるのか? その理由は、はっきりと分かっていた。俺のことだけではなく、俺の家族までひっくるめて馬鹿にされた気がしたからだ。幼少期からずっと「まじめで温厚な人」でとおってきた俺も、ここまで言われると、さすがに穏やかではいられない。
「お前さ、もしかして、俺の家族にやきもち焼いてんじゃないの?」
「まさか。龍ちゃん、どんだけ自信家なわけ?」
「じゃあ、分かった。自分の悲しい生い立ちと、俺の恵まれた生い立ちを比べて、一人で勝手に負い目を感じてるんだろ」
「…………」
「だから、ふたこと目には、嫌味ったらしく俺のことをファミコンだなんだって言うんだな」
 小雪の表情がみるみるこわばっていく。
「ほらな、図星だ」
 このときの俺は、自分でもちょっと意外なくらいに嫌な奴になっていた。それが分かっているのに、なぜだろう、さらにひどい台詞を吐いてしまったのだ。
「俺にファミコンをやめろとか言う前にさ、小雪の方こそ、生い立ちコンプレックスをやめた方がいいと思うな」
 おい、馬鹿、なに言ってんだ、俺――。
 胸のなかにいる「まともな俺」が、現実の俺を諌めたとき、小雪の黒い瞳がゆらりと揺れた気がした。
 あっ、いまの嘘、嘘だよ、ごめん――。
 心のどこかで慌てて謝りながら、それでも現実の俺は、自分自身の口が動くのを止めることは出来なかった。
「泣いたって、なにも変わらないけどな」
「…………」
「なんてな」
 と、わざとらしく取り繕うのが、そのときの俺の精一杯だった。
 はらり、はらり。
 いまにも泣きそうな小雪の背後で、レースのカーテンがゆっくりと揺れた。
 ついさっき俺の舌をトロかせた珠玉の餃子が、いまは皿の上に転がされた何かの屍体のように見える。
 小雪の下まぶたに、透明なしずくがぷっくりと膨れ上がっていて、それが、つるりと頬を伝い落ちた。
「はあ……。なんか、嫌だなぁ」
 小雪は、涙の伝った痕を、右手の親指ですっと拭うと、空虚な感じのため息をもらした。そして、そのままボソッとつぶやいた。
「わたし、十年後もこのままだったら、どうしよう」
 やたらと実感の込められた台詞に、俺は返す言葉が見つからなかった。
「気づいたときには、龍ちゃんのせいで、子供を産めない年齢になっちゃってたりして」
 小雪の涙は、もう止まっていた。
 そもそも小雪は、あまり泣かない女なのだ。
 ちょっと上目遣いに俺を見る小雪の視線からは、いつのまにか険がなくなっていた。
「あのさ、いま、子供の話なんて、ぜんぜん興味ないんだけど」
 俺は、苛立ちと罪悪感とのはざまで揺れながら、そう返した。
 嘘ではなかった。
 いまは、子供の話なんて、どうでもいい。
 そんなことよりも、まずは、小雪にしっかりとプロポーズをすることの方が百倍大事だし、さらにそれ以前に、いまのこの二人の険悪な状況をなんとかすることの方が重要だ。
 それなのに小雪は、人生における大切なモノすべてを諦めてしまったような、やけに遠い目をして、こうつぶやいたのだ。
「そっかぁ。やっぱ、興味、ないんだ」
「え……」
「龍ちゃんが興味あるのは、実家の家族だけだもんね」
 チクリと嫌味を返されて、また俺はイラッとしてしまう。
「あのさ、俺が何に興味があろうと、なかろうと、いまはそんなのどうでもいいじゃん」
「うん。そうだね。どうでもいいよ、もう」
 言葉をポイと放り投げるように言うと、小雪は「はあ」と声に出して嘆息した。
「おい、なんだよ、その言い方」
「…………」
「お前さ、冗談抜きで過去に縛られるの、もうやめろって。カウンセラーなんだから、不幸な過去じゃなくて、幸福な未来を見るべきだってことぐらい知ってるだろ?」
 つまり、俺との未来をさ――。
 と言うのは、小雪の誕生日=七日後の「失恋バスツアー」の最後の晩餐のあと、と決めている。だから、いまは言えない。
 それなのに、なんなんだよ、この展開は。
 まるで急坂を転げ落ちていくみたいに、二人の会話がひたすらネガティブな方へと進んでいるではないか。
「ほんと、うん。分かった。もう、いいや」
 急にさっぱりとした口調で言って、小雪はゆっくりと立ち上がった。
「え……」
 俺は、ちょっとポカンとして、あぐらをかいたまま小雪を見上げた。
「龍ちゃん」
「え……」
「もう、終わりにしようよ」
「は?」
「別れよう」
「は?」
「さよならしようって言ったの」
「えっ? ちょっ、な、なに言ってんだよ」
「なんかね、やっぱりもう駄目だなあって、わたし分かったから」
 小雪は力のない目で俺を見下ろし、そして少し淋しそうに微笑んだ。
 どうやら、本気らしい。
「なんだよ。俺のなにが駄目なんだよ」
「いま、いろいろ話したじゃん。あれも、これも、だよ」
「あれもこれもって……、言ってくんなきゃ分かんないだろ」
「いま話してたことだよ」
 小雪は首を左右に小さく振りながら、苦笑して見せた。
「だから、それが何なのか、分かんないって言ってんの」
「ね、やっぱり、分からないでしょ?」
「…………」
「龍ちゃんって、優しいのに鈍感男だよね、やっぱ」
 苦笑したままの小雪の目に、ほんのわずか、憐憫の色が浮かんだ気がした。
 鈍感男――。
 それは、マザコン、ファミコンと同じくらいの回数、小雪に言われ続けてきた言葉だった。
 でも、今回は、違う。
 俺は決して鈍感なわけではないのだ。
 そう言い切るだけの自信がある。
 なにしろ俺は、ちゃんと気づいているのだから。小雪が結婚をしたがっていることも、だからこそ将来の安定を願っていることも。
 でも、小雪のそういう想いをひとまとめにして、あと一週間だけ待っていてくれよ、とも思う。
 一週間後は、小雪の誕生日じゃないか。
 その日に、俺がプロポーズをする可能性だって、充分にあるだろう。それを想像できない小雪の方こそ、むしろ「鈍感女」なのではないか。
「言っとくけど、鈍感なのは、そっちじゃないの?」
 うっかり口をついて出た俺の言葉など、どこ吹く風で、小雪はさっさと傍のバッグを手にした。そして、これまで見たことがないような、悲しげな笑みを浮かべたのだ。
 なんだよ、その笑顔――。
「じゃあね、龍ちゃん。さよなら」
 え――。
「いままで、ありがとうございました」
「ちょ……」
 小雪が俺に背を向けた。
 そして、そのまま部屋のドアを開けて、玄関へと歩いていく。
 最後に見せたあの悲しげな笑みに呆然としていた俺は、その華奢な背中を呼び止めることが出来なかった。
 ただ、頭のなかで、
 嘘だろ?
 と繰り返しつぶやくだけだった。
 カチャ。
 玄関のドアを小雪が開けた音がした。
 部屋のなかを涼しい風が通り抜け、俺の正面のレースのカーテンがまた、ひらり、と揺れた。
 パタン。
 今度は、ドアの閉まる音が聞こえてくる。
 揺れていたカーテンが、すうっと静止した。
 ほんのついさっき、美味しい餃子をわざわざ「俺だけ」のために買ってきてくれた彼女に、俺はふられていた。

(第7回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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