双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 5 回



「ああ、それは、えっと――小雪は、やや不本意そうな顔をしつつも、大事な用件でもあるのだろう、とりあえずは話に乗ってくれた。「昼間、杏里あんりちゃんがね、電話でこっそり教えてくれたの」
 杏里ちゃんというのは、我が社「あおぞらツアーズ」で修学旅行などの法人営業を担当している後輩だ。本名は山崎やまざき杏里。年齢はたしか二八歳くらいだったと思うが、まるで女子高生のようによくしゃべるので、社内では若干、悪目立ちしている感がある。ところが、たまたま小雪と同じ女子大の出身だということが分かって以来、山崎杏里はときどき来社する小雪のことを慕うようになり、いまでは二人でご飯を食べに行くほど仲がいいらしいのだ。
「杏里ちゃんが言うにはね、今度の『失恋バスツアー』の参加者、注意した方がいいんだって」
「注意? どういうこと?」
「ツアーに参加するお客さん、木下課長が選んだんでしょ?」
「…………」俺は、想定外の展開に、一瞬、言葉を失いかけた。「それって……、え、まさか」
「うん。あの課長、今回のツアー応募者のなかから、わざとプロフィールのヤバそうな人ばかり選んで当選させたんだって」
 小雪はまじめな顔で言うけれど、さすがにそれは信じられない。というか、信じたくない。
「いやぁ、いくらあのイヤミ課長でも、そこまでは……」
「ううん。杏里ちゃん、この間の送別会で酔っ払った木下課長から直接聞いたって言ってたよ」
「え……」
 本人から直接、ということは、それはさすがに事実である可能性が高い。それに、山崎杏里はかなりのおしゃべりだが、竹を割ったような性格をしているから、そんなつまらないことで彼女が嘘をつくとも思えない。
「マジかよぉ、あのイヤミ課長」
 ひとりごとのように言って、俺は深々と嘆息した。
 唇の左端だけを吊り上げて「イヒヒ」と笑う木下課長の底意地の悪そうな顔が、俺の脳裏にちらつく。
「龍ちゃん」
「ん?」
「今回、ツアーの応募者が多かったんでしょ?」
 小雪が心配そうな声で言う。
「うーん、今回の人選に、俺は関わってないからさ、正直、分からないんだよな」
「失恋バスツアー」には、毎回の募集人員(バスのサイズに合わせた九~十名)を超える人数の申し込みがしばしばある。そういうときは「抽選」をして、落選者にはキャンセル待ちをしてもらったりもするのだが、すると今度は「応募してもなかなか参加できない人気ツアー」というプレミアム感が生じるらしく、それがネットに流れて噂になったりもして――、結果、ロングセラー企画となっているフシもある。実際のところ、その「抽選」は、いわゆる公正な「抽選」ではなく、お客さんが書いた申し込みフォームの内容をチェックした上で、こちら側で当選者をチョイスしているのが現実だった。そして、その「抽選」の作業もまた、ツアー発案者である俺が担当しているのだ。
 ところが今回は、なぜか木下課長みずからが、その仕事を買って出ようとしたのだった。
 俺は、そのときの不自然な会話を思い出した。

「やあ、天草くん、相変わらず忙しそうだねぇ」
 デスクに張り付いて急ぎの仕事をしている俺の背後に立った木下課長が、やけに悠長な声で話しかけてきた。
「え? まあ、いろいろ抱えちゃってて」
「ふうん。じゃあ、君が明日からの添乗に行ってる間に、ぼくが次の『失恋バスツアー』のお客さん選びと、関連書類のまとめをやっておこうか」
 まったくもって、それはイヤミ課長らしからぬ台詞だった。だから、俺も当然、いぶかしんだのだ。
「え……」
「ぼくは、いまなら少し余裕があるからさ、代わりにやっておくよ」
「課長が?」
「うん。ぼくが」
「ほ、本当、ですか?」
「なんだよ、ぼくが嘘をついたことある?」
「あ、いえ。ない、です」
 掃いて捨てるほど「ある」とは思ったけれど、さすがに直属の上司にたいして、そのまま答えるわけにはいかない。
「だろ。じゃあ、任しておけって。天草くんは明日からの添乗をしっかり頼むよ」
「はい……。助かります。じゃあ、えっと……宜しくお願いします」
 そして俺は、翌日から「失恋バスツアー」ではなく、高齢者向けの二泊三日のツアーの添乗に出たのだが、その間に、木下課長はプロフィールに問題のありそうな参加者をあえてチョイスするという悪行に出ていたというわけだ。
 そのツアーの添乗を終えて、俺がオフィスに戻ると、木下課長はいつもの薄笑いを浮かべながら近づいてきた。そして、クリアファイルに入った書類をこちらに差し出したのだ。
「天草くん、これな。『失恋バスツアー』の参加者の資料、ぼくが作っておいたから」
 ぼくが、という三文字を強調して言ったのがこの人らしいけれど、とにかく、本当にやっておいてくれたらしい。
 単純馬鹿な俺は、そのとき、少しばかり感動してしまったのだ。だから思わずペコリと頭を下げ、「ありがとうございます」と言ってファイルを受け取った。そして、旅先で自分用に買ってきた地酒をそのまま課長に手渡した。
「これ、よかったら。お礼ってわけじゃないんですけど」
「そんなに気を使わなくてもいいのに」
「いや、つまらないものなんで」
 ようするに俺は、そんな感じで、まんまとしてやられたわけだ。

「ちくしょう。めちゃくちゃ腹立つなぁ……」
 俺から地酒を受け取ったときの課長の小憎らしい薄笑いを思い出すと、胃のあたりに怒りの黒い熱が生じはじめた。せっかく小雪が買ってきてくれた珠玉の餃子とビールを詰め込んだ胃袋だというのに。
「あの課長さ」小雪が、やれやれ、といった顔で続けた。「龍ちゃんが社長に気に入られて、出世コースにのってることに嫉妬してるんだってさ。歳の離れた課長補佐に先を越されるのが、よほど怖いんだろうね」
「かもな」
「それで、わざと龍ちゃんにミスをさせて、糾弾しようと手ぐすね引いて……」
 小雪の話を聞いていたら、プロポーズがどうのこうのなんて話は、いつのまにか俺のなかから霧散していた。
「ねえ、龍ちゃん」
「ん?」
 俺は、胃のなかの熱を冷ましたくて、ビールをごくりと飲んだ。けれど、ちっとも冷めやしない。
「いまの会社のことなんだけど」
「会社って、うちの?」
「うん。あおぞらツアーズ」
「が……、どした?」
 小雪は、ほんの一瞬、言い淀んだけれど、しかし、きっぱりとこう言った。
「そろそろね、見切りつけちゃったらどうかと思うの」
「は? 見切り?」
 小雪の突拍子もないような台詞を耳にした俺は、ビールのグラスを手にしたまま小首をかしげて固まった。
「だって、あの会社、いまだに経営はぎりぎりだし、リアルに龍ちゃんの足を引っ張る上司がいることが分かったわけだし、今後もきっと引っ張られるよ」
「え……、そんな、だからって、それは話が飛びすぎだろ。ちょっと待てよ」
 しかし、小雪の唇は待ってはくれなかった。
「それに、龍ちゃん、このあいだ東西ツーリストの知り合いから誘われてるって言ってたでしょ? それってさ、はっきり言って、ヘッドハンティングじゃん。キャリアアップする、いいチャンスだと思うよ」
 テーブルの上にやや身を乗り出し、小雪はまっすぐに俺の目を見ていた。
「それは、まあ、そうかも知れないけどさ」
 たしかに、そういう引き抜きの話があるのは事実だった。先方は「失恋バスツアー」を成功させた俺の企画力に興味を持ってくれたらしいのだが、正直、俺には転職する気なんてさらさらないから、いずれやんわり断ろうと思っていたところだったのだ。
「いったん冷静になって、シンプルに考えてみなよ。東西ツーリストの方が、ずっといい会社じゃん。親会社が一部上場だから潰れる心配もないし、ボーナスだってちゃんと出るよ。家から会社までの距離も近くなるから、通勤もだいぶラクになるじゃん」
「いや、だから、ちょっと待てってば。なんで急にそんな話になるんだよ」
「なんでって……、心配してるからだよ」
 小雪がちょっと唇を尖らせた。
 その顔を見て、俺はハッとした。
 あ、なるほど。そうか。そうだったのか。
 もしかすると、今日、小雪は、このことを言おうとしていたのではないか。プロポーズをせかそうとしているのではなくて、むしろ結婚したあとの二人の生活の安定を考えて、転職を進言しようとしていた、というわけか。
 だとすれば――、話は早い。
 俺は、俺の気持ちをそのまま言えばいいだけだ。プロポーズは当初の予定どおりに敢行できそうだし。
 少し安堵した俺は、餃子を口に放り込んだ。コクのある甘い肉汁が舌の上にどっとあふれ出す。ビールをグラスに注ぎ、濃厚な旨味と一緒にごくごく喉に流し込む。
「ふう。美味い。まあ、そんなに心配すんなって。いまの会社で大丈夫だよ、俺は」
「え?」
「イヤミ課長なんかに絶対に負けるつもりはないし、経営状況だって、俺が頑張って安定させるからさ。それにさ、俺、親戚のコネで入社してるから、そう簡単には辞められないし」
「え、でもさ――」
「ちょっと考えてみろよ。俺が辞めたら、もう俺たち一緒に『失恋バスツアー』に行けなくなるんだぞ。小雪だって、二人で必死に育ててきたツアーを、そんなに簡単に捨てられないだろ? 社長だってさ、もう少し経営が安定してきたら、銀行からカネを借りて、いまよりも大きなツアーバスを買ってくれるって言ってるし。まあ、中古のおんぼろバスだろうけど」
 そこまで言って俺が苦笑したとき、小雪は「ふう」と、やけに湿っぽい息を吐いて、肩を落とした。そして、また少しあらたまったような顔をしたのだ。
「外資に買収されても?」
「は?」
「あの会社、もうすぐ外資系の会社に買収されるって噂が流れてるよ。そしたら『失恋バスツアー』だってなくなるかも知れないじゃん」
「小雪、その噂、誰に聞いたんだ?」
「杏里ちゃんだよ」
「…………」
 俺は、腕を組んだ。山崎杏里、口が軽すぎる。
 たしかに、半月ほど前に、外資に買収されるのではないかという噂を小耳に挟んだことは、ある。でも、その噂の出処を確かめようとしても、どうにもはっきりしなかったのだ。つまり、所詮はただの噂話としか言いようがない。それ以上でも以下でもないのだ。それこそイヤミな木下課長ですら「こんな傾いた小さな会社を買収するような阿呆な経営者、世界中探したっているわけないだろ」と自嘲していたくらいだ。
「小雪、ちょっと冷静になろう」
「は? わたしは冷静だよ、ずっと」
「そうか。うん、まあ、わかった。でもさ、買収ってのは、あくまでも社内でほんの一時的に流れただけの、ただの噂話なんだよ。噂話で俺の人生を左右させるわけにはいかないだろ。つーか、そもそもうちみたいな傾いた小さな会社を買い取って、どうするんだよ? あり得ないって、そんなの」
 俺は木下課長の台詞をちょいと拝借した。
「…………」
「それにさ、万一、買収してくれたなら、むしろラッキーだろ。資金が潤沢になって、経営が安定していくわけなんだから」
「まあ、安定するなら、それは、いいことかも知れないけど――」
「だろ?」
「でもさ、わたし、リスクはなるべく少なくしておいて損はないと思うんだよね。東西ツーリストの方が――」
「大丈夫だってば」俺は、なかば強引に言葉をかぶせた。「そのリスクも、俺が『失恋バスツアー』でなんとかするから」
「だから、わたしは、それが出来なかったときのことを言ってるの」じわり、と小雪の声が気色ばんできた。「いまは、たまたま『失恋バスツアー』が当たってるからいいけど、たまたまは、人生にそう何度も来ないものでしょ?」
 俺の内側には、もちろん「たまたま」という単語が引っかかった。
「いま、たまたまって言ったよな?」
「言ったよ」
「俺の『失恋バスツアー』のヒットは、たまたまだって言うわけか?」
「だって、そうじゃん。たまたまテレビで紹介されたのがラッキーだったって、龍ちゃん自分でも言ってたじゃん」
 たしかに、それは言った。だけど――。
「なんつーか、その言い方、ちょっと腹立つなぁ」
「なんでよ?」
「俺がまるで仕事の出来ない人間みたいな言い方だからだよ」
「別に、そういう意味じゃないけど――」
「けど、なんだよ?」
 少し眉間にしわを寄せて俺が憤然としたら、小雪は乗り出していた上半身をゆっくりと引き戻し、いったん呼吸を整えた。そして、ふいに冷静な声のトーンで、こう言ったのだ。
「会社の人たち、みんな言ってるよ」
「……何て?」
「色物だって」
「は?」
「あの『失恋バスツアー』は色物企画だって。色物だから、いずれは流行りも終わるって」
 一瞬、俺は返す言葉を失っていた。会社の連中に陰口を叩かれるのはともかく、小雪の口から「色物」という単語が出てくるとは思わなかったし、これまで二人三脚で育ててきた「失恋バスツアー」を、まさか小雪にけなされるなんて想像もつかなかったのだ。
「色物、か」
「…………」
「小雪は、どう思ってんだよ」
 どこか祈るような気持ちで、俺は訊いた。
「そりゃあ、わたしは」と、いったん言いかけてから、小雪は息を吸い、そして、ゆっくりとした口調で言い直した。「わたしも……、いつかは終わる――可能性は、あるかもって、思うよ」
 あえて遠回しの表現にしたものの、結局は小雪も「失恋バスツアー」の未来にさほどの希望も抱いてはいないのだ。
「はあ。なんだよ。マジかよ……」
 肩を落とした俺は、とても深いため息をついて、グラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した。
「ねえ、龍ちゃん」
「…………」
 俺は、返事をする気にもならなかった。
 それでも、小雪は続けた。
「はじまったものは、いつかは終わるでしょ。終わったときのことを考えておくのって、リスクヘッジとしては、そんなに間違ってないじゃん? もしも『失恋バスツアー』が終わったら、あの会社、もう駄目だよね。それは確実でしょ? 他社から才能を買われた龍ちゃんにはさ、もっと安定した未来が選択肢にあるわけなんだからさ――」
「小雪」名前を呼んで、俺は小雪の言葉を制した。「お前さ、なんか、どこぞの母ちゃんみたいだな」
「え?」
「さっきから、安定、安定ってさ。自分はフリーランスで楽しく仕事をしてるくせに、俺にだけ安定を選べって言うのかよ」
「ちょっと、なに、その言い方」
 小雪は、心外だ、といわんばかりの顔をした。
「気に障る言い方をしてんのは、そっちだろう」
 少し声をとがらせた俺の目を、小雪は正面から見据えてきた。その目に、普段は見せないような切実な色が浮かんでいるな――と思ったら、じわりと瞳が潤んだように見えた。でも、すぐに、ゆっくりと深い呼吸をした小雪は、涙をこらえることに成功したようだった。
「わたしがフリーで不安定だから、せめて龍ちゃんには安定してて欲しいって思ってるんだけど。それって、悪いこと?」
「…………」
 俺は、いまの小雪の言葉の意味を考えた。
 つまり、二人の財布は、将来は一緒ってことだろうか?
 だとすれば、いまの言葉は、逆プロポーズになっていないか?
 この流れは、よくない。
「ねえ、わたし、悪いことかって訊いてるんだけど?」
「べつに、悪くはないよ、そりゃ」
「じゃあ、なんでわたしがそんな言い方をされなくちゃいけないわけ?」
「は?」
「わたしのこと、どこぞの母ちゃんみたいだとか、フリーで自分だけ楽しんでるとか、そんな言い方される覚えはないんだけど」
 かりかりした小雪の言葉に、俺は決して小さくはないストレスを感じていた。
「じゃあ、根本的なことを訊くぞ。そもそも俺の人生を俺が決めて、何が悪いんだよ? 安定か冒険か、フリーかサラリーマンか、いまの会社か別の会社か、どちらを選ぶのか、決めるのは俺だろ? 違うか?」
「俺の、人生?」
 小雪は意図的に、俺の、でいったん言葉を切るようにして言った。
「そうだよ。俺が生きるのは俺の人生で、小雪が生きるのは小雪の人生だろ」
 言い終えた瞬間、俺は胸の浅いところでチクリと痛みを感じていた。後悔していたのだ。思わず口をついて出てしまった、無神経かつ不本意な言葉に。
 二人の人生――を描いてくれている小雪の顔から、薄い皮膚を剥がすかのように、表情がすっと消えていくのが分かった。
 なんだか、小雪がこのまま俺の前から風のように消えてしまいそうな気がして――、俺はごくりと唾を飲み込んだ。と同時に、俺の脳裏には、小雪の悲しい生い立ちが巡りはじめた。

 小雪の父は、べたなテレビドラマで見るような典型的なアルコール依存症だったという。ろくに仕事もせず、酔えばいつも奥さんに絡み、最後は決まって暴力を振るっていたそうだ。幼い小雪でさえも、しばしばその犠牲になっていたらしい。だから、小雪にとっての「父親」とは、ひたすら恐怖の対象でしかなかった。
 両親が離婚したのは、小雪が五歳のときだった。以来、小雪は母子家庭の子として育てられることになる。母はなるべく時間の融通の利く会社に勤め、そこで事務をしながら必死に生計を立てた。しかし、いつもいい母親でいられるほど強い人ではなかったらしい。というのも、夜、仕事から帰ると、安アパートの台所で自分の不遇な人生を嘆いては、溜まったストレスを言葉の刃物に変え、それを幼い小雪に向けて執拗に投げつけていたのだ。いわゆる「言葉のドメスティック・バイオレンス」というやつだ。いとけない小雪の心は、実母の口から吐き出される言葉によって、無数の傷を刻み付けられた。そして、その傷口からは、四六時中じくじくと血がにじんでいたという。
 それでも、幼子が頼れる存在は、やはり母だけなのだ。
 小雪は、母に嫌われることを極端に恐れるあまり、甘えることもせず、ひたすら手のかからない「いい子のふり」をし続けた。そして、それだけが唯一の、言葉の刃物にたいする防御方法でもあったのだという。
 やがて小雪は、自分がこの世に産まれてきたことにたいして、鬱々とした罪悪感を抱くようになった。不安定な精神状態のまま思春期を過ごし、孤独に押しつぶされそうな日々に耐えながらも、なんとか大学を卒業した。学費は奨学金制度を利用したそうだ。
 卒業後、中規模な厚紙加工メーカーの事務職に就くと、小雪は働きながら心理学を学びはじめた。そして、優良なカウンセラーになるべく多くの民間資格を取得したのだった。
 そしていま、様々な紆余曲折を経て夢のカウンセラーとなった小雪は、こつこつと経験を積み上げ、腕を磨き、かつての自分のように心から血を流す人たちに寄り添い続けているのだ。
「龍ちゃん、わたしね、腕のいいカウンセラーになって、まず最初に救ってあげたかったのは――、きっと、わたし自身の心だったんだよね……」
 一年ほど前、ほろ酔いの小雪が、俺にそうこぼしたことがある。そのときの小雪は「えへへ」と、照れくさそうに泣き笑いをしていたけれど、俺が小雪の涙を見たのは、それがはじめてのことだった。

(第6回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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