双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 4 回



◇   ◇   ◇
 俺が勤めている「株式会社あおぞらツアーズ」は、いわゆる自転車操業真っ只中だ。長引く不景気にじわじわと真綿で首を絞められながら、毎年のように事業規模を縮小し続けている。
 二流と言われる大学を卒業後、この会社に入社してからもう十四年になるが、俺はただの一度もボーナスをもらったことがないし、そのくせサービス残業はいつもてんこ盛りだった。もちろん、そんな会社の状況に嫌気がさした社員たちは、有能な人から順番に転職していった。最盛期は五〇名以上いた社員のうち、いまも残っているのは、社長以下、たったの十五名。
 その十五名のなかの一人であるまどかさんは、「失恋バスツアー」のために専属ドライバーとして雇われた契約社員で、小雪はいわゆるフリーランスの外注スタッフだ。
 会社の経営がもっとも傾いたのは三年前だった。当時は、社長の自宅がいよいよ抵当に入れられたという噂が、まことしやかに囁かれていたほどで、社内の雰囲気も重く灰色がかっていて、従業員たちはことあるごとに湿っぽいため息を吐き散らかしていた。
 俺が一年がかりで準備し、企画した「失恋バスツアー」を立ち上げたのも、ちょうどその頃だった。周囲の同僚からは「くだらない色物企画」などと揶揄されたりもしたけれど、ひょんなことからテレビの人気バラエティー番組でこのツアーが紹介されたのをきっかけに、いきなりのスマッシュヒットとなったのだった。
 いまさら自分でいうのも何だけれど、あのとき、うちの会社が倒産せずに済んだのは、この「失恋バスツアー」があればこそだ。もちろん、そのことは社長もよく理解してくれていて、一昨年、俺は生まれてはじめて「社長賞」なる金一封を受け取ったのだった。ある朝、社員みんなの前で、社長から封筒を手渡されたときは、その思いがけないほどの厚みに舞い上がりそうになったものだ。
 しかし、帰宅後、嬉々として開封してみると――。
「おいおい、高校生のお年玉かよ……」
 思わず、俺はひとりごちた。
 中身は、たったの一万円ぽっきりだったのだ。
 やたらと封筒が分厚かったのは、社長からの直筆の手紙がどっさり入っていたせいだった。しかし、その手紙は、読んでみると悪くはなかった。達筆な文字が、三つに折られた便箋五枚にわたってびっしりと埋め尽くされていて、正直、読了後の俺は、その内容にちょっぴり感動してしまったのだ。
 社長いわく、親戚のコネとはいえ、君を採用して本当によかった。君には天性の企画力があるようだ。しかも、努力を惜しまず、最後までやり遂げる粘り強さも備えた人間である。ご両親のような穏やかで優しい性格も、お客に喜ばれる素養のひとつであろう。君の才能のおかげで、この会社は持ち直せるかも知れない。まさに君は我が社の希望の星である。他の誰よりも将来性を感じさせてくれる逸材だ。今回、会社のピンチを救ってくれた君のことを、社長として、ひとりの人間として、尊敬するとともに、心から感謝している――。
 とまあ、そんなべたな褒め言葉をてんこ盛りで浴びせられてしまったものだから、おだてに弱い単純な俺は、退職などは考えもせず、その後もこつこつと自分なりに頑張り続けてきたのだった。そして、それから約二年を費やして、このツアーを我が社の「看板」と呼ばれるまでに育ててきたのだ。
 小雪と出会えたのも、このツアーがきっかけだった。
 まだ企画段階だった頃、俺はツアーバスに同乗してくれるフリーの心理カウンセラーを探していた。
 カウンセラーに求めていた条件は、四つ。
 一つ目は、失恋で心に傷を負った女性のお客さんたちが安心してしゃべれるよう、女性であること。
 二つ目は、すでにある程度のカウンセリングの実績があること。
 三つ目は、人柄がよく、仕事にたいして誠実であること。
 そして四つ目は、申し訳ないけれど、安いギャラでも稼働してくれること。
 以上の条件をもとに、思いつく限りの人脈とインターネットを駆使して適任者を探したのだった。
 その結果、大学時代の恩師の、友人の、奥さんの、知人、という、かなり遠いご縁をたぐりよせることに成功した。そして、クリスマスが近い冬のある寒い夜、都会の小さな喫茶店で、はじめて俺は小雪と出会ったのだ。
 それから俺たちは、「失恋バスツアー」に関する打ち合わせを繰り返した。正直いえば、俺も小雪も、最初からときめいていたわけではない。でも、お互いに妙な居心地の良さを感じていたことは事実で、そのせいか打ち解けるのは早かった。最初はお茶を飲みながら仕事の話をし、それだけでは飽き足らなくなると、ご飯を食べながら互いの人となりを知り、やがてお酒を酌み交わす仲になって、小雪は俺のことを「龍ちゃん」と呼んでくれるようになった。
 それから俺たちは、勾配のゆるやかな恋の坂道をゆっくりと転がり落ちていくように、互いに好意を抱いていったのだった。
 そして、記念すべき、はじめての「失恋バスツアー」の最後の晩餐(といっても粗食だけど)のあと、俺は小雪をこっそり宿の外の海辺へと呼び出して告白をした。やわらかな潮騒に包まれ、乳白色の月明かりを浴びた小雪は、「なんとなく、今夜、告白してくれる気がしてた」と言って、くすぐったそうに微笑んだ。
 以来、俺と小雪は、まさに二人三脚で助け合いながら、このツアーを育ててきたと言っても過言ではない。小雪は、いつだって気を利かせて添乗員の補佐的な役割を果たしてくれたし、逆に俺も小雪の足を引っ張らないよう、できる限りの努力をしてきたつもりだった。日頃から小雪にカウンセリングのいろはを教わりつつ、独学にも励んだことで、ある程度の心理学の知識や、傷ついた人にたいする会話術などを身につけたのだ。
 昔から「子は鎹」というけれど、俺たちにとっては「失恋バスツアー」こそが、まさにそれだった。たまに小さな喧嘩をしたとしても、このツアーがあることで、二人は月に何度も一緒に旅に出ることになったし、そこで同じ風景を眺め、同じ食べ物を味わい、同じ風に吹かれることができたのだ。旅の途中、予想外のハプニングやピンチが訪れたときは、力を合わせ、阿吽の呼吸でなんとか乗り越えてきた。俺たちはそうやって信頼関係をこつこつと築き上げてきたのだった。
 もっといえば、このツアーがあるからこそ、二人それぞれの生活が成り立っているという現実もある。
 なにしろ、いま、このツアーがなくなってしまったら、我が社はあっという間に倒産してしまうだろうし、小雪だって、そもそもはフリーのカウンセラーとしてぎりぎりの生活をしていたわけだから、たとえギャラが安かろうとも、この仕事からの安定的な収入に頼らざるを得なくなっているのだ。
 もはや俺たちは恋人同士であると同時に、「失恋バスツアー」の育ての親であり、かつ、このツアーに生活を支えられた運命共同体でもあったのだ。
 ところが、つい三日前、予想もしないような会話のほころびから、二人の間に深い亀裂が生じてしまったのだった。

 三日前の夜――。
 珍しく早めに仕事を終えた俺が、一人暮らしをしている2Kの賃貸マンションに帰ると、小雪がリビングでテレビを観ていた。いつものように合鍵で入ったのだ。
「あっ、龍ちゃん、お帰り。早かったね」
 ソファーにもたれたまま、小雪は首だけこちらに向けて言った。
「うん。得意先で打ち合わせして、直帰してきた」
「いいね。たまにはサラリーマンもサボらないとね」
「別に、サボってるわけじゃないんですけど」
「まあまあ」小雪は少し疲れているのか、「よっこらせ」と言いながら、ソファーの背もたれから上体を起こした。
 ふと見ると、傍のテーブルの上に、餃子とサラダが並んでいた。
「あれ、まさか、餃子、作っておいてくれたの?」
「ちょっと、まさかって、何よ」
「あはは。まさかは、まさかだよ」
 言いながら、俺は笑った。
「はい。そのまさかで、皮からしっかり作らせて頂きましたよ」
「えっ、皮から作ったの? 嘘だろ?」
「はい。その通り、嘘です」小雪はいたずらっぽく笑った。「ほら、国道の裏手にある『桃龍門』っていう中華料理のお店が、すごく美味しいって雑誌で見たでしょ。その店に寄ってみたの」
「わざわざ?」
「うん。ありがたいでしょ?」
 俺は、くすっと笑って、一応頷いておいた。
「でね、持ち帰り用の餃子を買ってきてあげたわけ」
「ふぅん。それはたしかにありがたいけど、小雪の下らない嘘はいらなかったな」
「あはは。龍ちゃんを騙すのって、簡単すぎてつまんないよ」
「俺は、子どもの頃から、素直ないい人間なんです」
 言いながら小雪に背中を向けた俺は、着ていたスーツを脱いでハンガーにかけた。代わりに、洋服ダンスからゆったりめのTシャツとジャージを取り出し、さっと着替える。
「ちょっと考えれば、嘘だって分かるのに」
「考えるって、何を考えるわけ?」
「だって、わたし、今日はクライアントのところでセッションだったんだから、皮から作る暇なんてあるわけないじゃん」
「まあ、そうだけどさ……。つーか、この餃子、本当に美味そうだな。羽つきだし」俺はテーブルの前でしゃがんで、餃子の皿からラップをはがした。「おお、美味そうな匂い。腹が鳴りそう」
「でしょ。お酢と胡椒だけつけて食べると最高に美味しいんだって、お店の人が言ってたよ」
「えっ、醤油は使わないの?」
「うん。使わないんだって」
「マジかよ」
「マジ」
「まさか、それも嘘だったりして?」
「あはは。それは本当です」
 そんな感じで、俺たちはいつも通りの、ごくごく自然な会話を交わし合っていた。でも、その直後からの小雪は、いつも通りではなかったのだ。
 俺がキッチンから二人分の箸と、冷えた缶ビールを持ってきたとき――。
「あ、ごめん。わたし、今日はいいや」
 と、両方の手のひらを前に出してみせたのだ。
「え、どうして? どこかで飯を食っちゃったとか?」
「ううん。なんか、今日はちょっと、食欲がなくて」
 よくよく顔を見てみると、なんとなく血色がよくない気もした。
「風邪か?」
「ううん、違うと思う。熱ないし」
「餃子も食べないの?」
「うん」
「せっかく自分で買ってきたのに?」
「ごめん。龍ちゃん、まるっと食べちゃってよ」
 そういえば以前、お腹を下していたときの小雪が、いまとまったく同じような台詞を口にしていたのを思い出した。だから俺はもう、それ以上、訊くのはやめておくことにした。
「そっか。じゃあ、まあ、遠慮なく頂くよ。俺、すげえ腹ペコなんだ」
 いただきます、と言って、ビールを飲み、餃子をほおばった。咀嚼した刹那、まるで小籠包のように肉汁がどっとあふれ出た。その肉汁の甘みに、酢と胡椒の風味が見事にマッチしている。有名なグルメ雑誌で紹介されるだけあって、すこぶる美味い。
「なるほど。醤油なしでもいけるよ。最高だね」
「ほんと? よかった」
「こりゃ、箸が止まらなくなりそうだ」
 もともと餃子が好物な俺が、目が無くなりそうなくらいに喜んでいたら――、ふいに小雪が、ちょっとあらたまったように背筋を伸ばして「あのさ」と切り出してきた。
「ん?」
 ビールのグラスに手を伸ばしかけたまま、俺は顔を上げた。
「ちょっと、龍ちゃんに、言いたいことがあるんだけど」
 言いたい、こと?
「え、なに? そんな真面目な顔して」
 一瞬、俺は、自分が何か粗相でもしたかと思考を巡らせた。でも、とくに思い当たるふしはなかった。
「まあ、なんて言うかさ……、ちょっと、重たい話なんだけどね」
「重たい、話?」
「うん」
 こんな風に小雪が口ごもるのは珍しい。俺はグラスに伸ばしていた手を戻し、正面から小雪を見た。
「なに?」
「あのね、これを言っちゃうと……、龍ちゃんに――」
 と、小雪がしゃべりはじめた瞬間、俺にはピンときてしまった。
「あ、ちょっと待って!」
「えっ?」
 俺には、分かる。
 そろそろ、結婚のことを考えて欲しいんだけど――。
 小雪は、きっとそう言うつもりだ。間違いない。
 この一年ほどのあいだ、それとなく小雪は、言葉の端々に自分の結婚願望を匂わせ続けてきたきらいがあった。
 そして、俺は、それに応える準備ができていた。
 こっそり指輪だって買ってあるのだ。
 ただ、いまはプロポーズをするタイミングを見計らっている、というか、あと数日後まで、あえてとってあるのだった。だから、このタイミングで小雪からその話題を切り出されるのは、困る。とても困る。
「あのさ、俺、小雪が何を言いたいか、だいたい想像できるんだけど」
「え、龍ちゃん……、分かるの?」
 小雪は、どこか切実な感じの目で俺を見た。
 この目。やっぱり、そうだ。
「うん。分かるよ」そう言っておいて、俺はあらぬ方へと会話の舵を切った。「木下課長のことだろ?」
 俺の上司にして天敵ともいえる、イヤミな課長の名前を出した。
「え……」
 当然、小雪は、ぽかんとした顔で俺を見た。
「あのジジイ、俺を降格させようと悪巧みをしてるって、昼間、小雪がメールしてくれたじゃん」
「あ、えっと」
「その話、詳しく教えてくれよ。こっちも対策を練っておかないと」
 俺は、ほとんど力技でもって、話題を仕事の方へと向けた。

(第5回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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