双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 31 回


「俺が素人だからって、馬鹿にしないで、ちゃんと味わうんだぞ」
「はいはい。分かってますよ」
 龍ちゃんは「よし。じゃあ、いくぞ」と、変に気合いを入れてから、セッションを開始した。
「いいか、小雪が、俺と、二人の子供と一緒にいる未来な。もう、最高に素敵な未来を思い描いてみて」
「…………」
「子供は、男の子かな、それとも女の子?」
「どっちでもいいなぁ」
「え? じゃあ……そうだな、両方いる設定にしようか。俺みたいな兄妹ってことで」
「分かった」
「その状況をなるべく具体的にイメージして、俺に教えてくれる?」
 龍ちゃんは、わたしのセッションをパクっただけあって、しゃべり方がなかなか上手だった。ゆっくりと、穏やかな声色で、わたしの心のコアにまで浸透するように語りかけてくる。
「四人でね、近所の公園にいるよ。天気がよくて、龍ちゃんが上の子を抱っこして頬ずりしてる。下の子はまだよちよち歩きで、満面の笑顔でわたしの方に歩いてくるの」
「うん、いいね。その時、小雪はどんな気持ち?」
「わたしは……」しっかり感情を味わったら、閉じたまぶたの隙間からしずくが滲んできた。「穏やかでね、すごく安心してて、やさしい空気に包まれている感じ」
「そっか。最高だな。ちなみに俺は、どんな顔をしてる?」
「うふふ。龍ちゃんは、子供たちより、無邪気に微笑んでるよ」
「えっ、俺、そういうキャラなのか」
 龍ちゃんも、わたしも、くすくす笑った。
「小雪の周りの世界は、どんな風に見えてるかな?」
 まるい風も、青い空も、とにかく、きらきらしていた。
 子供達が遊ぶ遊具も、歩く地面も、雑草の花も、すべてが輝いている。
「まぶしい感じ。きらきらだよ」
「そのきらきらした世界にいる小雪は、俺に何でも話せる?」
 わたしは、イメージのなかの自分の左手の感触を確かめた。
 いなかった――。あちらの世界には、あの不細工な黒熊のぬいぐるみがいない。いや、いないのではなくて、必要ないのだということに、わたしは気づいた。あちらの世界では、あのぬいぐるみは不要なのだ。ということは、現実のわたしは、アレを〝必要としていた〟のだろうか。きっと、そうなのだろう。おそらく、無抵抗でくにゃくにゃしているアレは、幼い頃のわたし自身に向けた哀しい執着の象徴であり、誕生を拒まれた胎児への鬱々とした祈りだったのではないか。そんな気がした。
「どう? 話せそう?」
 龍ちゃんが、静かに訊いてくれる。
「うん。話せる気がする。何でも」
 大切な人に「要求」できそうなわたしが、あちらの世界にはいる。
「そっか。いいね。じゃあ、逆に、そこにいる俺は、小雪のことを完全に信頼しているかな?」
 きらきらした空気のなかで微笑む龍ちゃんを、じっと見つめた。子供を抱いた龍ちゃんが、微笑みかけてくる。その龍ちゃんが、わたしのことを完全に信頼してくれているかどうかは、正直、分からなかった。
「分かんない。でも、わたしは信頼してるよ」
「そっか」
「うん」
「片方は信頼してるのに、もう片方はそうではないかも知れないんだ」
「うん……」
 残念だけれど、正直に言えば、そういう感じだ。
「それってさ、逆に、最高なんじゃないか?」
 龍ちゃんが、ふいに意味のわからないことを口にした。
「え……、どうして?」
「だって、その世界の小雪はさ、自分を信頼しているかどうかも分からない男と一緒にいるのに、それでも、まぶしくてきらきらした世界に生きていられるんだぞ」
「…………」
「ってことは、だよ。もしも、その先に、俺から信頼されているって確信を持てるようになれたら、まぶしくてきらきらした世界よりも、さらに幸せな世界になるってことじゃん」
 わたしは目を閉じたまま、息を飲んでいた。なるほど。その通りだ。足りない状態を幸せだと思えたなら、未来は、もはや「幸せ以上」でしかなくなるのだ。
 龍ちゃんは、案外カウンセラーの才能があるのかも知れない。というか、いまこの瞬間、わたしの先生じゃないか。
「小雪、まだ続くからね。さらにイメージしてくれよ」
「うん……」
「その世界の小雪は、俺から完全に信頼されてるの。しかも、世界一、大切に思われている」
「…………」
「小雪の悲しかった過去も、俺はまるごと受け止めていて、いつも二人は同じ方向を向いて安心している。そういう世界をリアルにイメージしてみて」
「うん……」
 わたしの心は安堵でいっぱいになって、それが一気にあふれだした。
 ぎゅっと閉じたまぶたから、どんどんしずくがこぼれていく。
 嗚咽を堪えているのに、肩の震えが止められない。
「イメージした?」
「うん……」
「いま、どんな気持ち?」
 わたしは呼吸を整えたくて「ふう」と息を吐いた。
 そして「ねえ」と龍ちゃんの方を向いた。
「あ、まだ目を開けちゃ駄目だぞ」
 龍ちゃんは少し慌てたように言った――、と思ったら、ズリズリと音がした。龍ちゃんがお尻をずらして、わたしに近づいたのだ。気配で分かる。
「あ、うん……」
 頷いたわたしは、目を閉じたまま、ふたたび波音のする正面を向こうとした。そのとき、右の頬にぬくもりを感じた。龍ちゃんの手が当てられて、わたしは前を向けなくなったようだ。
「え?」
 濡れていた右の頬だけが、やけにあたたかい。このおおらかなぬくもりは、わたしにとっての精神安定剤そのものに思えた。
「小雪」
「…………」
「目を閉じたまま、左手をこっちに出して」
 わたしの頬から、おおらかなぬくもりが離れた。
 左手をそっと差し出す。
 その手を、やさしく掴まれた。
 そして、薬指にリングがはめら――れ、ん?
 そのリングは、ずいぶんと大きくて、変に重たくて、サイズがまったく合っていない気がしたのだ。
「小雪、まずは、誕生日おめでとう」
「え? あ、ありがと……」
「あと、もうひとつ伝えたいことがあるんだけど」
「…………」
「ええと……、いま小雪が心のなかでイメージしている最高にきらきらした未来を」
「…………」
「その未来を、そのまんま俺に、現実の世界で叶えさせて欲しいんだけど」
 もう我慢できない。わたしは目を開けた。
 目の前に本物の龍ちゃんがいて、ここにわたしがいて、夜空と、海風と、波音に包まれていた。
「龍ちゃん――」
「俺さ」珍しく龍ちゃんが言葉をかぶせた。「小雪から見たら、ちょっと頼りないかも知れないけどさ」
「ううん」
 そんなことないよ、と、わたしは首を振った。
「でも、俺、絶対に小雪のことを幸せにするから」
「うん……」
「小雪、俺と、結――」
 と、その刹那。
「きゃーーーーっ!」
 わたしたちを包んでいた波音が、一瞬にしてかき消された。
 鼓膜をつんざくようなキンキン声。
「みんな、いたぁ! ねえねえ、そんなところに集まって何してるの?」
 聞き覚えのある、この声は。
 わたしと龍ちゃんは、目を丸くして砂の上に立ち上がった。そして、慌てて声のする倉庫の左手へと回ってみた。
 え……。
 なに、なに? どうして、みんながここにいるわけ?
 あまりにも驚いて、わたしたちは声を奪われていた。
 代わりに、るいるいさんが夜空の星をすべて落としそうな声を張り上げたのだった。
「きゃーっ、龍ちゃんと小雪先生もいたぁ!」
「おいおい、なんだよ。空気を読めよ」
 太い声を出した入道さんが、つるつるの頭を掻いた。
「まあ、バレちまったら、仕方ねえな」
 ジャックさんも苦笑いをしている。
 なんということだろう。つまり、いまのわたしたちのやり取りを、お客さんたちは倉庫の陰に隠れてこっそり聞いていたのだ。よく見れば、まどかさんの顔まである。隠れて聞いていたみんなを、るいるいさんが発見して大喜び――と、そういうことらしい。
「ちょ、な、なんですか、これは……」
 ようやく龍ちゃんが声を出せたと思ったら、か細い声が返ってきた。
「あの、ごめんなさい。わたし、やめようって言ったんですけど……」
 モモちゃんが、申し訳なさそうに首をすくめた。
「だけどさ、みんな、あんたたちのことを心配してたんだからよ。これくらいは許せよな」
 ジャックさんが臆面もなく言い、そして、ふたたびキンキン声が夜の渚に響き渡るのだ。
「ねえねえ、龍ちゃんと小雪先生、ラブラブに戻ったんだね! わーい、嬉しい、うふふ」
 わたしと龍ちゃんは、顔を見合わせた。
 そして、同時にため息をついて、やれやれ、と笑うのだった。
「るいるいさん、彼氏と温泉に行かれたんじゃ」
 龍ちゃんが訊いた。
「うん。そうしようと思ったの。だけど、旅のしおりを見直して、やっぱり最後の夜のキャンプファイヤーだけは、みんなとやりたいなって思って戻ってきたの。ダーリンと一緒に」
 自由すぎるるいるいさんは、「この人がね、わたしのダーリン」と自分の後ろを指差した。
「あ、どうも。えっと、ぼくが、彼氏です」
 すらりとしたるいるいさんの背後から、十センチは背の低そうな男性がひょっこり顔を出して、小さくお辞儀をした。小柄だけれど、なかなかのイケメンだ。
 そうか、この人が、るいるいさんにプロポーズをしたのか……。
 なるほど、るいるいさんの左手の薬指には指輪が。
 って、あ、そうだ!
 わたしは、さっきの違和感を思い出して、自分の左手を見た。
 プロポーズを受けそこなったわたしの薬指には――。
 へ?
 状況を理解しようと思考を巡らせていたら、隣から龍ちゃんのひそひそ声が聞こえてきた。
「えっと、ごめん。それには、いろいろあってさ。あとでちゃんと話すから」
 龍ちゃんを見た。ちょっと困ったような、情けない顔でわたしを見おろしていた。
 わたしは思わずプッと吹き出して、左手を握りしめた。
 そうでもしていないと、あのぬいぐるみの代わりとなってくれる、ぶかぶかな青いガラスが落ちてしまいそうだったから。

 
【天草龍太郎】
 宿のおやじさんが薪をじゃんじゃん足してくれた。
 すると、消えかけていたキャンプファイヤーの炎が息を吹き返した。
 炎の周りに集う面々のなかには、るいるいさんと彼氏の顔もある。
 缶ビールを手にし、みんなそれぞれ気持ち良く喉を鳴らしていた。
「それにしてもさ」と、ヒロミンさんがしゃべり出した。「龍ちゃんと小雪先生のせいで、わたしたちは、ちっとも落ち込んでる余裕がなかったよね」
「あはは。マジでそうだよな」
 ジャックさんも茶化す。
「まあ、でも、悪かねえよな、こういう旅もよ」
 入道さんが言うと、サブローさんと教授が、うんうん、と頷いた。
「二人を見てたらさ、わたしもまた恋愛をしてみたくなっちゃったな」
 ヒロミンさんは、アルコールが入ると声も表情も陽気になるようだ。
「うふふ。楽しかったですね」
 珍しく桜子さんが口を開いたと思ったら、今度は入道さんが突っ込んできた。
「楽しいは楽しいけどよ、このツアーの名前、変えた方がいいぜ。失恋バスツアーじゃなくて、失恋した添乗員の面倒をみるツアーに」
「ええっ、そんなぁ……」
 俺がボヤいたら、みんな手を叩いて笑った。
 すると、アルコールですっかり赤ら顔になった陳さんが、すっくと立ち上がった。
「おい、このメンバーで、またツアーに行くだろう。今度は、誰も失恋していないバスツアーね。いっぱい遊ぶ。いっぱい飲む。楽しいだろう。どうだ、添乗員」
 斜め向かいから陳さんが俺を指差した。
 焚き火の周りからは「いいね」という声がいくつも聞こえてきたけれど、俺は、返事に窮してしまった。
「えっと、まあ、それはですね……」
「なんだよ、駄目なのかよ」
 ジャックさんが不満げにピアスのついた眉をひそめる。
 もう、こうなったら仕方がない。俺は小さくため息をついて、「じつは」と切り出した。「このツアーなんですけど、おそらく今回で最後なんです」
 焚き火を囲んだ座の空気が、一気に冷めていくのが分かった。
 俺は、ためらいながらも続けた。
「ええと、ツアーというか、もっと言いますと、このツアーを運営している旅行会社そのものがなくなってしまうんで……」
「えっ、倒産するってことかよ?」
 入道さんも眉をひそめる。
「はい。すごく残念なんですけど……」
 隣を見たら、小雪が少しうつむき加減で炎を見つめていた。
「そんな……」
 モモちゃんがため息みたいな声を出したら、あの無表情な教授までが無念そうな顔をしてくれた。
「おい、そんなの、あたしは聞いてねえぞ」
 いちばん驚いていたのは、まどかさんだった。このツアーがなくなれば、まどかさんだって職を失うのだ。
「まどかさん、黙っていて、すみません。本当はまだオフレコの情報なんですけど、ぼくは、たまたま知っちゃって……」
「は? たまたま?」
「はい」
「つーか、今回が最後なんて、急に言われても……。会社の連中はみんな知ってんのかよ?」
 こんなに不安そうなまどかさんは、これまで見たことがない。
「知ってるはずです。ただ、現時点でツアーに出ている従業員には、仕事を終えて帰社してから伝えられることになっているそうです」
 まどかさんは、しばらく黙って俺を見ていたけれど、ふいに「はあ」と嘆息して、缶ビールの残りをあおった。
 と、そのとき、不敵にも「ぐふふ」と笑い出した人がいた。
 赤ら顔の陳さんだった。
「おい添乗員。このツアーを考えたのは、おまえだろう?」
「え? あ、はい」
「どうして、このツアーやろうと考えたか?」
 陳さんは、不敵な笑みを浮かべたまま、変な質問をしはじめた。
「ええと……」べつに隠す必要もない。どうせ二度と会えない人たちだろうし、嘘をついて得られるものだってないのだ。「じつは、私は妹を亡くしているんですけど――」
「ほう」
「ずっと病院に入院していた妹が、生前のある日、こんなことを言ったんです。失恋できるって幸せなことだよねって。わたしも彼氏を作って、思いっきり楽しんで、こっぴどくフラれて、悲劇のヒロインを味わってみたいなあって」
 あのときの俺は、美優の言葉にまともに応えることができなかった。その夢がもはや叶わないことを知っていたし、もっと言えば、俺のなかの価値観が瓦解がかいした瞬間でもあったからだ。
 俺は美優に気付かせてもらったのだ。たとえそれが物であろうと感情であろうと、それらを得たり失ったりできるということは、すべて「幸せ」というステージ上の出来事だということに。喜びも悲しみも幸せのうち。だったら、どちらの感情もしっかりと味わわなければ損だ。たとえそれが悲しみの感情であっても、それはいわば「スイカにかける塩」みたいなもので、次に味わうであろうプラスの感情をより大きく感じさせてくれる魔法のひと振りとなるのだから。
 俺は、そのことを、なるべく分かりやすい日本語で陳さんに話した。
 すると陳さんは、不敵な笑みを浮かべたまま、太くて短い親指を立てて見せた。
「オーケー、添乗員。合格ね。ビジネスのはじまり、そういう考え、いいだろう。成功するパターンね。金が集まるだろう。添乗員、ビールを持ってこっちに来い」
「え?」
「すぐに、来い」
 なんだ、この命令口調は――とは思ったけれど、もうすっかり慣れているので、俺は言われたとおり缶ビールを手にしたまま椅子から立ち上がり、陳さんの方へと歩み寄った。その様子を、焚き火を囲んだみんなが黙ったまま眺めている。
「添乗員の会社、なくならないだろう」
 ふいに陳さんが、予言じみたことを言いはじめた。
「え?」
「私、このツアーの会社、『あおぞらツアーズ』を、金で買うだろう。私が買収するね。どうだ。がははは!」
「は?」
 何を言っているのだ、この人は。
 俺は、すぐ目の前にいる怪しげな中国人の目を見た。サングラスの奥の目は、笑っているせいでほとんど「線」だった。
「おい、添乗員、乾杯だ」
「あ、え?」
 言われるままに、ビールの缶と缶をコツンと合わせた。
「私がシャチョになったら、給料もらえるだろう。がははは! 嬉しいか? 当たり前だ。金は大事だろう」
「ええと……、すみません、陳さん」
「なんだ?」
「冗談、ですよね?」
「ノー! 私は嘘をついたことがないね。『あおぞらツアーズ』のシャチョも、私に会社を買ってくれと言っていたね。しかも、何回も言ったね」
 は……、どうして、うちの社長が?
 と思った刹那――。
「えええええっ!」
 俺の口が大きな声を出していた。
「も、もしかして、陳さんって――」
「なんだ?」
「うちの社長が、何度も電話しているのに、連絡が取れないでいる外資系の……」
 まさか、まさか、と思って訊いてみたら、陳さんはでっぷり太った腹を突き出すようにして笑った。
「がはははは。それ、私だろう。モバイル、わざと家に置いてきたね。うるさいバカ女、金、金、言うだろう。だから連絡、取れないね。おまえのシャチョも連絡とれない。がはははは!」
「え、え、あ……」
 もはや俺は、焚き火の前に刺さった杭だった。突っ立っているだけで、声も出せない。
「私、頭いいシャチョね。会社を買う前に、その会社、自分で調べる。このツアーがいちばん大事なツアー。だから、お客になってみた。分かるか?」
 俺の頭のなかで、パズルのピースがぴたりとハマった。
 そうだったのか。初日から陳さんが俺のことをやけにじっと見ていたのだが、あれはゲイだからではなくて、俺の働きっぷりをチェックしていたのだ。
「陳さん、じゃあ、本当にうちの会社を……」
「おい、私は、嘘をついたことがないと言ってるね。ツアーから帰る。そしたら、すぐに契約するだろう」
「陳さん……」
 俺は、ため息をもらした。深く、深く。
 すると「よかったね」「おめでとう」「陳さん、かっこいい」などと、お客さんたちから声がかかり、焚き火の周りで拍手が起こった。
 まどかさんを見たら、やってらんねえぜ、という顔でビールを飲んでいたけれど、でも、どこか口元が緩んで見えた。
 やがて拍手が鳴り止むと、小雪の声がした。
「龍ちゃん、よかったね」
「うん」
 俺は、心から素直に頷いていた。
「結局、あのイヤミ課長に、感謝だね」
「え、どういうこと?」
「だって、あの課長が陳さんを選んでくれたから――」
「あ、そうか」
 俺と小雪の会話を聞きながらポカンとしているみんなに、上司のイヤミ課長がこのメンバーを選んだのだと教えてあげた。もちろん、ヤバそうな人ばかりがあえて選ばれた、という事実は伏せて。
 小雪は、右手にウーロン茶を持ち、左手でそっとお腹をさすった。そして、この旅のシーンを思い返すような顔をして言った。
「あと、陳さんの言うとおりだったよね」
「え?」
「自分の嫌いなモノに、いちばん感謝しろっていう、あの名言」
「たしかに。さすが中国四〇〇〇年のことわざだなぁ」
 俺が素直に感心して嘆息したら、焚き火の周りのみんなも、うんうん、と真顔で頷いていた。
 すると陳さんが、ふたたび「がははは」と盛大に笑い出した。
「お前ら、馬鹿ね」
「へ?」
「あれは私のジョークだろう」
「は?」
「え?」
「そんなことわざ、中国にはないね」
 えええええええっ!
 と、声を上げる人たち。焚き火の前でコケて見せるジャックさん。
「陳さん、さっき、嘘つかないって言ったのに、めっちゃ嘘つきじゃーん!」
 夜空にとんがった声を突き刺するいるいさん。
 がははは、と大笑いする次期オーナー。
 その人が、さらに言う。
「私は嘘をつかないね。だから暴走族にやった十五万円、ちゃんと取り戻すだろう。そう約束したね」
「どうやって取り戻すの?」
 ヒロミンさんが破顔したまま訊いた。すると陳さんは、急にクソまじめな顔をしてこんなことを口走ったのだ。
「この添乗員の給料から、毎月一万円ずつ引くだけね。どうだ。金持ち、頭いい。損しないだろう」と言って胸を張ると、いきなり「がはははは!」と笑って俺の背中をバシバシ叩いた。それを見ていた面々も、一気に笑い出した。
 まいったなぁ、という顔で、俺は小雪を見た。
 小雪は幸せそうに目を細めながら、左手をお腹に当てていた。そして、その手の薬指には、青いシーグラスのリング。
 まあ、とにかく――、俺はまたこつこつ「失恋バスツアー」で会社を儲けさせて、きちんと給料をもらって、涙ぐましい努力でもって小遣いを貯めて、そして、ふたたび本物の指輪を買うのだろう。プロポーズは、指輪を買う前にさっさとやり直した方がいいかもしれない。なにしろ来年には赤ちゃんが生まれてくるのだ。そもそもプロポーズに必要なのは、気持ちと言葉なのだから。
「おい、添乗員、給料減るのに、なぜ笑ってる?」
 陳さんこそ愉快そうに笑っている。
 俺はなんだか、腹の底から楽しくなってきて、思わずみんなに向かってこう言ってしまった。
「最後に笑うのは、誰だ?」
 ふいの問いかけに、一瞬、静まった。その瞬間を狙って、俺は続けた。
「それは――、いつも笑顔でいる人なんだぜ」
 一秒、二秒、三秒、で、「なにそれ?」と、みんなが笑いはじめた。
 すぐさまジャックさんが椅子から立ち上がる。
「おい、なんだよ、あんた、それ、俺の台詞じゃねえかっ!」
「あはは、すみません。パクるの得意なんで」
 小雪が、くすっと笑った。
 ジャックさんも、あらためてニカッと笑う。
「でもよ、俺、あんたにパクられて、嬉しいぜ」
「え?」
「だってよ、俺のイカした言葉がビシッと刺さって、あんたのハートに火をつけたってことだろ?」
 そう言うなり、ジャックさんは、とても不器用なウインクを投げてきた。
 それを見たみんなが手を叩いて笑う。
 でも――、みんなは笑っているけど、案外ジャックさんの言う通りかも知れない。きっと俺はすでに、この御曹司パンクロッカーのファン第一号になっているのだろう。
「もちろん、私のハートに火をつけてもらいましたよ」
 俺はジャックさんに親指を立てて答えた。
「マジかよ、やっぱ俺、ロッケンロールじゃね?」
 ジャックさんは、ひとり「乾杯だぜ」と言ってビールをあおった。
「ねえねえ、なんか、いま、みんなの笑顔が最高だからさ、ちょっと集合写真を撮ろうよ」
 ヒロミンさんの提案にみんなが賛成して、俺たちは椅子から立ち上がった。そして、俺と小雪を真ん中にして焚き火の前に並んだ。
 ヒロミンさんは、椅子を三脚代わりに一眼レフをセットすると、
「あら、入道さんだけ頭がはみ出してて顔が写らないけど、許してね」
 と冗談を言って、セルフタイマーのシャッターを押した。
「なんだよそれ。俺は屈めばいいのか? おい、ジャック、顔をどけろ!」
「うわ、馬鹿、痛てえな。でかい手で顔を押すなっつーの!」
 二人のやりとりに、みんなが吹き出した瞬間――。
 ピカッ!
 ストロボの閃光が、俺たちの記念すべき人生の一瞬を切り取った。

 
【吉原まどか】
 おかしな連中との「失恋バスツアー」を終えた翌朝は、まさに五月晴れという言葉がぴったりの空が広がっていた。
 あたしは会社の駐車場の一角に造られた事務所(という名のプレハブの掘っ建て小屋)に入ると、髪を後ろでひとつにまとめ、着古したつなぎに着替えた。足元は白い長靴だ。そのまま外に出て、バケツに水を汲み、雑巾とモップとゴミ袋を準備する。
「さーて、ピッカピカにしてやっからな」
 言いながら、相棒の空色のボディーをぽんぽんと叩いてやる。
 もの言わぬ相棒は、清々しいレモン色の朝日を全身に受けて、笑っているみたいだ。
 おっと、掃除の前に、やることがあったか――。
 大事なことを思い出したあたしは、事務所の備品置き場からワイパーのブレード(ゴム)を持ってきて、さくっと新品に取り替えてやった。
 あの田舎の暴走族が投げたタバコは、あたしの相棒のフロントガラスに当たり、そのままブレードをチュルリと溶かしやがったのだ。
 あたしとしては暴走族なんてどうでもいいのだけれど、大事な相棒を傷つけられれば腹が立つ。腹が立つといえば、翌日のトイレ休憩のときに、三人の暴走族に相棒をガンガン叩かれたり蹴られたりしたのも許せなかった。時代が時代なら、かつて女子キックボクシング界の新星と呼ばれたあたしのハイキックが、連中のこめかみにめり込んでいただろう。
 溶けたブレードを新品に交換したら、いつもどおり車内の掃除だ。
 バケツ、雑巾、モップを運転席の横に置いて、ゴミ袋を手にする。
 まずは客席にゴミが落ちていないか点検だ。
 あたしは客席の通路を歩いて、いったん、いちばん後ろの席まで行くと、ベンチシートの上と足元の床をチェックした。
 よし。ゴミはなし、と。
 そういえば、この席には「教授」とかいう仏像みたいな男が座っていた。あいつは、やたらといい声をしているのに、ほとんどしゃべらない変わり者だった。あれで大学の教授が務まるのか? まあ、中卒のあたしに心配されたくもないだろうけどさ。
 なんて、ひとりの顔を思い出したら、それが引き金となって次々とキャラの濃い連中の顔が脳裏をよぎりはじめた。
 入道、サブロー、陳、ジャック。
 桜子、ヒロミン、モモ、るいるい。
 あたしは思わず「ふう」とため息をついた。
 なんて濃くて、阿呆な連中だろう……。
 でも、あらためて想うと、あの連中は、誰ひとりとしてあたしの嫌いなタイプではなかった気がする。
 それぞれが「愛すべき阿呆」とでも言うべきか――。
 そもそも、大型二種免許を持っていることくらいしか取り柄のない阿呆なあたしが、この「あおぞらツアーズ」に拾ってもらって以来、ずいぶんとツアーの運転手をこなしてきたけれど、さすがに今回ほどおかしなツアーはなかった。
 まさに、愉快痛快だ。
 あの阿呆な連中がやらかした、たくさんの阿呆なシーンを思い返して、あたしはうっかりニヤニヤしてしまった。
「ったく、変な奴ら」
 つぶやきながら、ひとつ前の座席と足元をチェックした。
 よし。ここも、ゴミは、なし。
 そうやってあたしは一列ずつ前の席へと移動しながらゴミの有無をチェックしていった。
 客席の最後は、運転席のすぐ後ろだ。
 まさか添乗員とカウンセラーがゴミを残していくなんてことはないだろう。これまでも、一度だってなかったし――。
 そう思いながらも、念のため座席をチェック。
 続けて、足元の床を覗き込んだ。
 すると――、
 ん?
 あたしは膝を折って、座席の下に手を伸ばした。
 小さな落とし物をつまみ上げる。
 それをまじまじと見たあたしは、添乗員とカウンセラーが座っていた席にどっかりと腰を下ろした。
「ったく、あいつら――」
 どんだけ世話を焼かせんだよ。
 あたしの頬がふっと緩んだとき、窓からレモン色の朝日が差し込んできた。その光は、零細企業の悲哀をそのままサイズに現したような石ころに降り注いだ。
 きらきらと七色に輝く石ころ。
「ふうん」
 あたしはそれをつなぎのポケットにそっと入れて立ち上がった。
 そして、濡らしたモップを手に、車内を見渡す。
「さてと。んじゃ、相棒、床から行くぞ」
 そう言ったあと、念のため、阿呆と同じ失敗をしないよう、つなぎのポケットに穴が空いていないかどうかを確かめた。
 よし、大丈夫だ。
 あたしはモップをぎゅっと握り、大事な相棒の床を磨きにかかった。
 
《了》

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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