双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 30 回

【天草龍太郎】
◇   ◇   ◇
 お客さんたちを民宿の庭に残したまま、俺は玄関の方へと歩き出した。キャンプファイヤーの後始末は、いつも宿のおやじさんが最後にやってくれるから、任せておけばいい。
 玄関の前まで来た俺は、宿には上がらず、そのまま門の外に出た。そして、渚に沿って延びるまっすぐな夜道をふらふらと歩き出した。足元はコンクリートで、少し砂が浮いていて、一歩ごとにしゃくしゃくと砂を踏む音がした。海からは湿った風が吹いてきて、俺の着ているパーカーの背中をはたはたと揺らす。
 ちょうど正面の夜空に、三日月が浮かんでいた。歩きながら、そのシャープな輪郭をぼんやりと見つめていたら、
「龍さん」
 ふいに誰かに呼び止められた。
「え……」
 振り返ると、白い街灯に照らされたモモちゃんが足早に近づいてくるところだった。宿のおやじさんに借りたのだろう、大きな懐中電灯を手にしている。
 俺は足を止め、訊ねた。
「どうしたんですか?」
「え……、龍さんこそ、どうしたのかなって」
 モモちゃんは、俺から少し離れたところで足を止めて、不安げな顔をした。
「ぼくは、ええと――」の後の台詞が浮かばない。
「何か……、あったんですか?」
「何かって、どうして?」
「どうしてって……」それからモモちゃんは少しのあいだ言葉を探していたけれど、ふいに質問を変えた。「龍さん、お散歩、するんですか?」
「え? まあ、ちょっとだけ」
 散歩、というか、とにかく一人で黙々と歩きたいだけだけど。
「わたしも、一緒に行っていいですか?」
 反射的に、断ろう、と思った。
 しかし、モモちゃんは、俺の返事を聞くより前に、おずおずとこちらに近づいてくるのだった。海風に揺れる、やわらかそうな前髪。その下のハの字になった「困り眉」を見ていたら、なんとなく断れなくなってしまった。
「別に、いい……、ですけど」
 モモちゃんは、ちょっとホッとしたように頬を緩めると、懐中電灯の明かりを消した。
 それから俺たちは、砂の浮いたコンクリートの道を、肩を並べてゆっくり歩きはじめた。右手はビーチで、左手はまばらな住宅地。前も後ろも、ひとけがなく、まっすぐ等間隔に並んだ街灯の白い光りは、砂の浮いた道を夢のように照らして、夜の静けさをいっそう際立たせていた。
「さっき、プロポーズ……」
 少し歩いたところで、モモちゃんがぼそっとしゃべりだした。
「え……」
「しなくて、よかったんですか?」
 ようするにモモちゃんは、これを訊ねるために、わざわざ俺を追いかけてきたのだろう。だったら、俺は正直に答えようと思った。いまさらあれこれ隠しても仕方がない。どうせ、これまでの経緯は、ほとんど知られているのだ。
「あはは」俺は自嘲気味に笑ってから、自らの失態を口にした。「本当は、あの瞬間、プロポーズしようと思ったんだけど……。でも、ジーンズのポケットに忍ばせておいた婚約指輪が失くなってて」
「え、指輪が?」
「ポケットに、穴が空いてたんだよね」
 言いながら、もう一度、ポケットに手を突っ込んでみた。もちろん、あるのは穴だけで、指輪はない。
「そんな……」
 モモちゃんは眉のハの字の角度をいっそう大きくしたけれど、もはや慰めの言葉すら浮かばないようで、小さく嘆息したきり黙り込んでしまった。俺も、これ以上は、しゃべる気になれなかった。
 若干、気まずいような沈黙を抱えながら、俺たちはゆっくりと歩き続けた。その間、モモちゃんは、ずっと、なにか考え事でもするような難しい顔をしていた。
 そのまま一分ほど歩いたところで、渚沿いの道は行き止まりになった。海に流れ込む小川が道を分断していたのだ。この川を渡るための橋は、住宅地側へ五〇メートルほど歩いたところに見えていた。
「あの橋、渡る?」
 俺は、モモちゃんに訊いた。すると色白の少女は、ふいに何かを思いついたように目を見開いた――と思ったら、小さく首を振った。
「龍さん、波打ち際を歩きながら、宿の方に戻りましょう」
「え、なんで?」
「プロポーズに本当に必要なものって、指輪じゃないですよね?」
「え?」
「気持ちと言葉ですよね?」
「…………」
「だとしたら、本物の指輪がなくても、プロポーズは出来ますよね?」
 本物がなくても?
「え……、ごめん。ちょっと、言ってることが……」
 さっぱり分からない俺は、ぽかんと立ち尽くしていた。
「龍さん、あっち、行きましょう」
 モモちゃんは、俺のパーカーの袖をつまんで引っ張りはじめた。
「えっ、ちょっ……」
 俺は引かれるがままに、コンクリートの堤から階段を数段降りて、砂浜の上を歩きはじめた。モモちゃんは手にしていた懐中電灯のスイッチを点け、その明かりを頼りに俺を波打ち際まで連行した。
「モモちゃん、どういうこと?」
 ようやく袖を放してくれたところで、俺はあらためて訊き直した。
「ここから先、婚約指輪を探しながら、民宿まで戻るんです」
「え?」
「わたしも一緒に探しますから」
 モモちゃんの頬には、思いがけず小さなえくぼが出来ていた。
「え? いや、でも、リングを失くしたの、このビーチじゃないんだけど」
「分かってます。でも、リングの代わりだったら拾えるかも」
 リングの代わり? 拾う?
 小首をかしげた俺の脳裏に、ふとひらめく映像があった。
 先日、モモちゃんが白い指に通していた、あの海の漂着物。
「タコノマクラ?」
 俺の口は、ほとんど無意識にそう言っていた。
 淡い三日月の明かりのなか、モモちゃんは微笑みながらこくりと頷いた。
「あは……、モモちゃん、本気?」
「本気です。だって、今日を逃したら――、絶対、駄目ですよ」
 そこまで言うと、モモちゃんは懐中電灯で足元を照らしながら、ひとり波打ち際を歩き出した。俺は、なんだか少しおかしくなって、くすくす笑ってしまった。
 タコノマクラをリングに見立てて、求婚か。
 ある意味、幼い頃からずっとヒーローになれなくて、ちょっぴり情けない海洋生物オタクだった俺らしいかもなぁ……。
 さく、さく、さく、と白砂を踏みしめながら、俺の前を、華奢な背中を丸めたモモちゃんが歩いていた。
 俺のために。小雪のために。もしかすると、小雪のお腹のなかの赤ちゃんのためにも、たまたま流れ着いて、真ん中に穴が空いたタコノマクラを探しながら。
 本当に、やさしい娘だなぁ――。
 そう思ったら、ふと、モモちゃんの細い背中が、在りし日の美優と重なった気がした。白い病室の明るい窓越しに、じっと外の風景を眺めていたときの妹の背中。
 あのとき、美優はぽつりと言ったのだ。
 あーあ……、病気になるとさ、日々の何でもないようなことが、いちいち幸せに思えて、やたらと涙が出そうになるんだよね――。
 きっと、あのときの美優は、外を眺めながら涙を流していたはずだ。
 さく、さく、さく、さく……。
 波打ち際の湿った砂を踏む、モモちゃんの足音。
 その足元を照らす懐中電灯の青白い明かり。
 俺たちの背後からついてくるきれいな三日月。
 長いこと添乗員をやってきたけれど、おそらく最後となるであろう「失恋バスツアー」で、こんなことになるなんて……。
 小雪にフラれ、会社の倒産が決まり、ツアーは事件だらけで、暴走族にボコボコにされて、しかも、なけなしの薄給で買った婚約指輪をあっさり紛失。
 まったく……、どんだけツイてないんだよ。
 モモちゃんの背中を見つめながら、深くため息をついた。そして、それとほぼ同時に、俺はくすくすと笑い出していた。
 おそらく、俺の心のなかには「それでも」という最強の単語が転がっていたのだと思う。わずか四文字のこの言葉は、付き合いはじめた頃の小雪に教えてもらった「希望を連れてくる単語」だった。たとえば人生に何か悪い出来事が起きたなら、その出来事に続けて「それでも」とつぶやいてみるのだ。すると人間の脳みそは自然とその続きの言葉を探し出してくれるというのである。
 指輪を失くした。
 それでも、こうしてモモちゃんがタコノマクラを探してくれている。
 会社が倒産する。
 それでも、俺には東西ツーリストという転職先がある。
 暴走族にボコられた。
 それでも、わりと軽い怪我で済んだ。
 明日で「失恋バスツアー」は終わりだ。
 それでも、とにかく俺は最後まで好きな仕事をやれていて――。
 ずっと一緒だった小雪を想う。
 それでも、俺も、小雪も、お腹の赤ちゃんも、生きている。
 まだ、チャレンジも、冒険も、できる。
「ねえ、モモちゃん」
 俺は美優を彷彿とさせる背中に、そっと声をかけた。
「はい?」
 振り返ったか弱い女性は、つい四日前までは見知らぬ赤の他人で、いまでもツアーのお客さんだけど――。
「ありがとうね」
「え?」
 生きていてくれて。
 胸のなかでそう言いながら、唇の口角を上げた。
「ぼくも一緒に探すよ」
 モモちゃんは嬉しそうに目を細めた。
 と、そのとき、ザザザーッと大きめの波が打ち寄せてきて、その海水が俺たちの足元を洗った。
「きゃあ」
 モモちゃんが小さな悲鳴をあげた。
「わ、冷めてぇ」
 逃げ遅れた二人の足は、すっかりびしょ濡れだ。
「あー、もう……」
 スカートの裾を少したくし上げながら乾いた砂地へと逃げていくモモちゃんを見て、俺は笑った。
「龍さん、なんで笑ってるんですかぁ」
「あはは。だってさ」
 何がそんなにおかしいのだろう。俺は自分の内側に理由を探しながら、モモちゃんの方へと歩いていく。気づけば、俺たちが投宿している民宿の庭まで、あと百メートルというところに来ていた。
「龍さん、ちょっと懐中電灯、持っててくれませんか?」
「あ、うん」
「靴のなかに水が溜まっちゃって。もう、裸足になります」
 俺は、差し出された懐中電灯を受け取った。そして、靴を脱ぎやすいようにと、モモちゃんの足元の白砂を照らしていたら――、
 凛。
 と青く光る小さなモノが目に入った。
 なんだろう?
 そう思ったとき、裸足になったモモちゃんが口を開いた。
「あ、青いビー玉がある……」
 俺と同じものを、モモちゃんも見つけていたのだ。
「それ、ビー玉なんだ」
「はい」
 モモちゃんが足元のビー玉を拾おうとしてしゃがんだ。俺は、そのビー玉に光を当てていた。
「なんか、きれい。透明な海みたいな色をしてる」
 モモちゃんが、そのビー玉に手を伸ばしかけたとき、「あっ」と声を出した。
「龍さん、これ」
 モモちゃんは、青いビー玉ではなく、その傍らにあった青いシーグラスを手に取っていた。しかも、そのシーグラスは、普通のガラス片ではなかった。
「やった。見つけちゃいました」
 モモちゃんが、にっこり笑ってこちらに差し出したシーグラスは、青いガラス瓶の口の部分だったのだ。
 磨りガラス状の、青いリング――。
「これ、タコノマクラより」
 言いながら、手のひらの上にそれを載せてもらった。
「指輪っぽくて、いいですよね」
「うん」
 俺とモモちゃんは、思わず片手でハイタッチを交わした。
「さっきの青いビー玉が導いてくれた気がしますね」
 モモちゃんはロマンチックなことを口にした。
 俺は、もう一度、足元を照らしてみたのだが、なぜだろう、さっきの凛と光るビー玉は見当たらなかった。いまモモちゃんと喜んだ拍子に砂をかけてしまったのだろうか……。
 でも、まあ、それはいい。
 とにかく、これで――。
「龍さん」
「ん?」
「頑張って下さいね、プロポーズ」
 モモちゃんが、ニヤリと笑みを浮かべてみせた。左右の頬にそれぞれ小さなえくぼが浮かんでいる。
 この娘、本来は、こんな笑い方もできるんだな……。
 俺は密かに感動しながら微笑み返した。


【小泉小雪】
 キャンプファイヤーを囲む輪のなかから龍ちゃんが消え、それを追うようにモモちゃんがいなくなった。
 残されたお客さんとまどかさんは、喉元まで出かかっている言葉を飲み込んでいるような、よそよそしい雰囲気を醸し出していた。
 わたしはというと、誕生日の夜だけに、この事態が何を意味しているかに薄々勘付きつつも、でも、それは確信とまではいかなくて……、つまり、どうしていいか分からないまま、ぼんやりと焚き火を眺めているのだった。
 しかし、居心地の悪い空気を変えてくれる人がいた。
「おい、ビール飲む。私がご馳走するね。ビール、たくさん買うね。みんなで乾杯。どうだ?」
 すると、入道さんが「おう、そうだな」と言い、ジャックさんも「とりあえず、そうすっか」と立ち上がった。そして、男性陣みんなで人数分よりだいぶ多めに缶ビールを買ってきて、全員に配ってくれた。
 お酒ではなくウーロン茶が手渡されたのは、わたしだけだった。
 やっぱりね……。
 知ってたんだ、みんな。
「まあ、とにかく、楽しく飲もうぜ」
 入道さんが場を仕切って、そのまま乾杯の音頭をとった。
 一応、わたしもカタチだけの乾杯はしたけれど、ウーロン茶の栓は開けなかった。いまは、あまり飲みたい気分ではない。
 ビールで喉を鳴らした人たちは、少し気分が開放的になったのか、ぽつぽつと言葉を交わしはじめ、この四日間を振り返ってみたり、くだらない冗談を言い合ったりしていたけれど、龍ちゃんと、モモちゃんと、わたしについては、きっちり避けてしゃべるのだった。
 さすがに気まずくなって、一足お先に席を立とうと思っていると、わたしのスマートフォンが鳴り出した。電話だ。しかも、相手はモモちゃんだった。何かあったときのために、モモちゃんにだけはこっそり電話番号を教えていたのだけれど……。
「もしもし?」
 わたしは、少し慌てて電話に出た。そのまま立ち上がり、焚き火に背を向けてすたすたと歩き出す。
「あ、小雪先生……」
「モモちゃん、どうしたの?」
 わたしは口元を手で隠すようにして、小声でそう言った。しゃべりながらも、焚き火から足早に離れていく。
「えっと……、小雪先生と二人でお話ししたくなって……」
 心をしぼませたような、モモちゃんの声色。
「え、うん。もちろん、いいけど」
「ちょっと、来てくれますか?」
「いま、どこにいるの?」
 モモちゃんは、民宿の玄関を出てすぐのところにある、倉庫の裏手――つまり、海側にいると言った。
 なんでモモちゃんが、あの場所に……。
 若干の疑念を抱きながらも、とにかくわたしは「うん。すぐ行くから、待ってて」と答えて通話を切った。
 民宿の庭から玄関を出て、すぐ右手にある木製の古い倉庫に向かう。コンクリートの道からビーチに降り、さくさくと砂を踏みしめながら裏手へと回った。海側にくると、街灯の明かりが倉庫に遮られて、ずいぶんと暗くなる。
 わたしは倉庫の入り口の前にあるコンクリートのたたきを見た。そこに腰を下ろした人影があった。
 モモちゃん――。
 と、呼びかけそうになったとき、その人影がゆっくりこちらを振り向いた。
 わたしの足は、反射的に止まっていた。
「え、なんで……」
「よっ」
 薄暗がりのなか、龍ちゃんがこちらに手を挙げていた。
「えっ、ちょっと、なに、これ」
「ごめん。モモちゃんが仕組んでくれたんだ」
 まんまとしてやられたわたしは、「はあ」と深く嘆息して、両手を腰にやった。
「で、なに?」
「話があるんだよ。ちょっと、こっちに来て、隣に座ってくれないか」
「モモちゃんは?」
 まずは、そっちが心配だ。
「小雪にバレないように迂回して、民宿に戻ったと思うよ」
 わたしは「はあ、もう」と、つぶやいて、渋々ながらといった感じで龍ちゃんの隣に腰を下ろした。
「で?」
「っていうか、なんで、そんなに離れたところに座るわけ?」
 龍ちゃんが、ぼそっと言う。
「え、だって……」
 その次の言葉を探していたら、龍ちゃんがお尻をずらして、ほんの少しだけこちらに近づいて座り直した。
 わたしとの間に残された、微妙な距離感。
 この遠慮した感じが、龍ちゃんらしいな、と思う。
「えっと、小雪さ、この場所――」
「覚えてます」
 と、言葉をかぶせた。忘れるわけがない。はじめての「失恋バスツアー」の最後の晩餐のあと、龍ちゃんがわたしに告白してくれた場所なのだから。
「そっか。なら、よかった」
「…………」
「ってか、忘れられてたら、俺、かなりショックだけどな」
 逆の立場だったら、わたしだってショックだ。口にはしないけれど。
 龍ちゃんが前を見た。正面は、夜の海だ。わたしも前を見る。
 ひゅう、と涼やかな夜風が海から吹いてきて、足元の砂の表面がさらさらと動いた。
「あのさ、小雪」龍ちゃんが、少し不安げな声でしゃべりだした。「俺、いまから小雪にセッションをしたいんだけど」
「は? 龍ちゃんが、わたしに?」
「そう」
「なに、それ」
「いいからさ」
 いいからさって……。龍ちゃんがセッションなんて、できるの?
「じゃあ、小雪、まずは目を閉じて」
「え?」
「ほら、閉じて」
「閉じて、どうするわけ?」
 わたしが訊いたら、龍ちゃんはくすっと笑った。
「いきなりチューしたりはしないからさ。ほら、早く」
 告白したときは、したくせに。
 わたしは少しの間、逡巡したけれど、あえて「はあ」と面倒臭そうなため息をついてみせてから、目を閉じた。
「じゃあ、いくよ。まずは、小雪がいま、いちばん欲しいものを思い浮かべて」
 え? このセッションって、もしかして……。
「思い浮かべたら、それを手にした状態で、この上なく最高な未来を思い浮かべてみて。なるべく具体的に、映像にしてな」
「え……」
 やっぱり、これは……。と思ったら、龍ちゃんがおかしなことを言い出したのだ。
「あ、そうだ。思い浮かべるときに、ひとつだけ条件があるんだった」
「条件?」
「そう」
「なに?」
 わたしは前を向いて目を閉じたまま、小首をかしげた。
「小雪がイメージする最高の未来のなかに、必ず――」
「必ず?」
「俺を入れること」
 わたしは、一瞬、息を飲んだ。でも、すぐに自分を取り戻す。
「あはは。なに、それ」
「しかも」
「…………」
「その未来の俺は、小雪が産んだ赤ちゃんの〝お父さん〟という設定にして欲しい」
 すうっと海風が止んだ。
 わたしは閉じていた目をゆっくりと開けて、左に振り向いた。
 龍ちゃんは、相変わらず前を向いていた。
 わたしは、何かを言おうと思った。
 けれど、喉のあたりに熱っぽい塊のようなものが詰まっていて、胸の奥で膨れ上がった想いを言葉にすることができなかった。
「小雪さぁ」
「…………」
「どうして俺に言ってくれなかったんだよ」
 責めるような口調ではなかった。むしろ、いまにも頭を撫でられそうな声色だ。
「わたし、言おうと、したよ」
「え?」
 龍ちゃんが、こちらを振り向いた。
「わたし、言おうとしたんだよ」
「いつ?」
 わたしの脳裏に、あの夜の光景が甦ってくる。
「龍ちゃんとわたしが喧嘩をした夜。わたしが餃子を買ってきて……」
「えっ。あの夜?」
「うん」と、わたしは頷く。
「どうして言わなかったの?」
「だってさ……」
 龍ちゃんがさ――、
 と言いかけて、わたしは大きく息を吸った。
 ふいに鼻の奥がツンと熱を持ってしまったのだ。
「ゆっくりでいいから、続けて」
 龍ちゃんが、わたしに言葉を促す。
 わたしは深呼吸をしてから、ふたたび口を開いた。
「あのとき龍ちゃん、子供なんて興味ないって言ったんだよ」
「え……」
「だから、わたし――」
 妊娠を打ち明けるのが怖くなってしまったのだ。
 薄暗がりのなか、龍ちゃんの瞳を見ていたら、あの夜の会話が、わたしの脳裏で再生された。

 わたし、十年後もこのままだったら、どうしよう。

 気づいたときには、龍ちゃんのせいで、子供を産めない年齢になっちゃってたりして。

 あのさ、いま、子供の話なんて、ぜんぜん興味ないんだけど。

「俺、そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ」
「ぜんぜん記憶にないんだけど」
「言ったもん」
「ってか、もし言ったとしてもさ、悪意を持っていたわけじゃないし、小雪と俺の子供だったら、興味がないなんて思うわけないだろ」
「…………」
 わたしだって、あのとき瞬間的にはそう思った。龍ちゃんが、わたしと子供を拒むはずはないと。でも、そこに確信を持つことができなかったのだ。どうしても。
「なあ、おかしくないか。小雪はさ、俺をそんな人間だと思ってたわけ?」
 違う。わたしは首を小さく振った。
「そうじゃないけど」
「けど?」
 その理由が脳裏にちらついた刹那、寒くもないのにわたしの背筋に鳥肌が立った。左手に、あの厭わしい感触が蘇ってきたのだ。
 無抵抗なやわらかさ――。
 絶望的に暗い台所。
 わたしを罵る母の赤い唇。
 触れられない母のスカート。
 闇の中へ吸い込まれ、どんどん小さくなっていく母。
 淋しさと不安に溺れそうなわたしがぎゅっと抱いている、ちょっと不細工な黒い熊のぬいぐるみ。
 わたしは深呼吸をした。
 夜の海風で、胸のなかを洗ったのだ。
 三回も続けて、そうした。
 龍ちゃんは、その間、ずっと黙ったままわたしの言葉を待ってくれていた。
 やっぱり、誠実な人なんだよな――。
 そう思ったら、少しだけ胸のつかえがとれて、しゃべれる気がしてきた。
「わたしね」
「うん」
「前にも言ったかも知れないけど、自分が生まれてきたことを、誰かに喜ばれた記憶がないのね」
「…………」
「だから……」
「うん」
 わたしは右手でそっとお腹に触れた。
「もし、龍ちゃんが、この子のことをね……」
 そこまで言ったわたしは、いったん気持ちの態勢を整えようと、口を閉じた。放っておいたら、いろいろな想いが一気に溢れ出して、支離滅裂になってしまいそうだったのだ。
「その、もしも、は、俺にはないだろ?」
「…………」
「俺は、そういうタイプの人間じゃないよね?」
「…………」
「小雪も、そこは分かってくれるだろ?」
「そうとは、限らないんだよ」
 つい、強い口調でそう言ってしまった。でも、この台詞は、わたしがしゃべったのではなくて、過去のわたしがしゃべった――、無責任だけれど、そんな気がした。
「え……」
 龍ちゃんは、わたしの言葉の強さにひるんだみたいだ。
「はっきり言っちゃうとね、わたし、龍ちゃんと出会う前に付き合っていた人がいて、その人とのあいだに赤ちゃんができて――」
 しゃべっているのが、いまの本当の自分じゃないと思ったら、胸の奥にしまいこんでいた言葉がつるつると喉から滑り出してくる。
「妊娠に気づいたのは四ヶ月のときで、わたしはすごく嬉しかったの」
「…………」
「それを彼に伝えて、そのあとわたし……」
 ちょっと待って。
 と、いまのわたしが、過去のわたしを一瞬だけ黙らせた。
 でも、止められなかった。
「堕胎したの」
 ダタイシタノ。
 この六文字は、もはや自分ではない誰かの声に聞こえた。
「え……」
 龍ちゃんは口を半開きにしたまま、呼吸を止めていた。
「その彼ね、やさしい人だったんだよ。でも、堕ろしてくれって。育てる自信がないからって。まだ父親になれるような器の人間じゃないからって……」
 ほとんど無意識に、わたしは左手に力を入れていた。幻の熊のぬいぐるみの胴体を、ぎゅっと握っていたのだ。その不細工な黒熊は、愛おしいくらいに無抵抗で、くにゃくにゃで、わたしにされるがまま――、すべてを諦めていた。
「そっか。うん。そっか……」
 龍ちゃんは、そっか、と二回言った。なんとか現実を受け入れて、自分自身を納得させようとしているのだ。
 わたしはゆっくりと視線を落として、足元の砂を見た。そうしたら、世界がすうっと静かになった気がした。静かになったら、自分がいま穏やかな波音に包まれていることを思い出した。まるで長いこと失っていた聴力がふいに戻ってきたかのように。
「なあ、小雪」
 龍ちゃんが、わたしの名を呼ぶ。わたしは返事ができず、ただ波音のなかで浅い呼吸を繰り返していた。
「俺さ、なんか変なんだけど――」
「…………」
「いま、ちょっと嬉しいのかも」
 思いがけない台詞に、わたしは顔を上げた。
「俺の知らなかった小雪を知ることができたからかな」
「…………」
「なんだろう、その元彼に嫉妬してるんだけど、でも、どこか嬉しいんだよな」
 わたしは、まだ、何も答えられなかった。心がぽっかり空白になっていて、つかみどころがなくて――、ただ、波音のなかにわたしと龍ちゃんがいるという感覚だけがリアルだった。
「っていうか、どうりで小雪がモモちゃんに入れ込んでたわけだよな」
「え……」
「同じ想いを経験した者同士、分かり合えてたんだね」
 どうして……。
「龍ちゃん、モモちゃんのそれ、なんで知ってるの?」
「モモちゃん本人から聞いたんだよ」
「えっ、本人から直接?」
「うん」
 空白だったわたしの内側に、カウンセラーとしての人格がふたたび輪郭をなしてきた。
「モモちゃんに、そこまでしゃべらせたの?」
「うん。ちなみに、相手に心を開かせて、素直にしゃべらせるには、コツがあるんだよ」
「え……」
「まずは、先に、自分の秘密を打ち明けること。それがコツ」
 そこまで言って、龍ちゃんが微笑んだ。
「それ、わたしのパクリ」
「あはは。小雪は俺の先生だからな」
 龍ちゃんの笑い声を聞いたら、わたしたちを包む波音が、いっそう穏やかに響きはじめた気がした。
「パクるなら、これからは、ちゃんと先生って呼んでよね」
「了解しました、先生」
 龍ちゃんが、おどけたように敬礼のポーズをしてみせた。
 つい、わたしの頬も緩みはじめる。
「先生がいま、先に秘密を告白してくれたので、俺も心を開いて、ずっと隠していたことを告白しちゃおうかな」
「え……」
 なにそれ――、と思っていたら、龍ちゃんは、ジーンズのヒップポケットからスマートフォンを取り出して、ちょこちょこと操作したと思ったら、表示した画面をこちらに向けた。見ると、有名なSNSのサイトに、このツアーで撮影したと思われる写真が投稿されていた。
「俺、ツアーのあいだ、よく写真を撮ってどこかに送信してただろ? じつは、このSNSにアップしてたんだよね」
「え……」
「このSNS、俺と妹以外は非公開の設定にしてあって」
「妹さん?」
「そう。えっと、最初から、順に話すとさ――」
 それから龍ちゃんは、わたしと付き合う前に可愛がっていた妹さんを亡くしたことや、それをわたしに伝えられなかった理由などを、切々と告白してくれた。さらに、龍ちゃんの家族が変に仲がいいように見えるのは、妹さんを失ってからずっと家族を覆い続けている鬱々とした空気を晴らしたくて、家族みんなが無理に明るく振る舞っていることが原因らしいということも話してくれた。
「なんか、ごめんな。ずっと黙っててさ」
「ううん」
 わたしは首を振って、洟をすすった。
「このSNSがバレたら、俺、絶対にシスコンだと思われて、小雪に嫌われるだろうなって――」龍ちゃんは照れくさそうに首筋を掻くと、スマートフォンの電源を落とした。「まあ、天国の妹を相手に写真をアップしてるなんて、正直、自分でもヤバいと思うんだけどね」
「龍ちゃん」
「え?」
 わたしは、もうこれ以上、龍ちゃんに自虐的な台詞を吐かせたくなかった。だから先生の特権で無理やり話題を変えた。
「他に、先生に隠しごとはありませんか?」
 わたしは自分を先生と呼んでふざけることで、目の奥からこみあげてくるしずくをなんとかこらえた。
「あはは。ええと……うん、ないです」
「よろしい」
「小雪先生は? もう、隠しごと、ない?」
 わたしも笑いながら小さく頷いてみせた。
「よし、じゃあ、腹を割ったところで、続きをやるぞ」
「続き?」
「そう。セッションの続き。小雪先生、あらためて目を閉じて下さい。で、最高の未来を思い描いて」
 龍ちゃんが、あまりにもやさしく微笑むから、わたしは「オーケー。じゃあ、パクリの出来栄えを見てあげる」と言ってやった。
「あはは」
「っていうか、そもそも龍ちゃん、なんでこのセッションを知ってるわけ?」
 ここでわたしは、ずっと気になっていたことを訊けた。すると龍ちゃんは、先生に叱られた子供みたいに首をすくめてニヤリと笑ったのだ。
「じつは俺、小雪がモモちゃんにやったセッション、階段の下でこっそり聴いてたんだよね」
「えっ……、嘘でしょ?」
「ううん、本当。しかも、モモちゃんと一緒に目を閉じて、俺も勝手に小雪のセッションを受けてた」
「もう、なに、それ……」
 まさかの展開に、わたしは苦笑するしかない。
「あのセッションを受けながらさ、あらためて、小雪ってすげえなぁと思ったよ」
「一応、これでもプロですから」
 答えながら、わたしは、龍ちゃんとの距離をもう少し詰めたくなっていた。でも、腰を上げる前に龍ちゃんが口を開いたのだ。
「よし、じゃあ、そのプロにセッションするから。目を閉じて」
 わたしは正面の夜の海に向かって目を閉じた。
(第31回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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