双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 29 回

 
【天草龍太郎】
◇   ◇   ◇
 ツアー最後の夜は、低い空に三日月がぶら下がっていた。
 海辺の民宿で質素な夕食を頂いたあと、俺はお客さんたちに声をかけて庭に出てもらった。この庭は、軽くキャッチボールができるくらいの広さがあって、しかも、コンクリートの長い堤を乗り越えれば、そこはもう白砂のビーチというロケーションだ。いまは夜だから澄明ちようめいな海もビーチもよく見えないけれど、広大な暗がりからは、ざざざぁ、ざざざぁ……、と穏やかな波音が届けられる。
 庭の真ん中には、焚き火ができるファイヤースペースがある。俺は、民宿のおやじさんと一緒に、ファイヤースペースの中心に薪を組み上げてキャンプファイヤーの準備をした。
 お客さんたちは、そのファイヤースペースの周りを囲むように置かれたガーデンチェアにそれぞれ腰掛けて談笑している。そのなかには、小雪とまどかさんの顔もある。
 丸めた新聞紙を、組んだ薪のいちばん下に潜り込ませた俺は、立ち上がって声を上げた。
「はい、それでは皆さん、お待たせ致しました。いよいよツアー最後の夜となりました。今夜は『旅のしおり』にもあるように、焚き火に近いサイズではありますが、キャンプファイヤーを楽しんで頂こうと思います」
 民宿のおやじさんがパチパチと拍手をしてくれて、それに釣られるようにお客さんたちも手を叩いてくれた。
「盛大な拍手、ありがとうございます。ええと、皆さんとお会いしてからの、この四日間は、正直申し上げまして、信じられないようなというか、信じたくないというか、とにかく、いろんな事件がありました」
「ホント、事件、多すぎ!」
 ヒロミンさんが笑いながら突っ込みを入れて、周囲のお客さんたちが小さく吹き出した。
「ですよね。私もそこそこ添乗員を経験してきましたけど、今回のようなツアーは初めてです」
「あんた、ボコボコにやられたもんな」
 ジャックさんが俺を揶揄する。
「あれには参りました。いまも口の中が痛いです。っていうか、全身がけっこう痛いです」
 答えながら、俺は少し腫れた唇に指で触れた。小雪がちらりと俺を見て、眉をひそめる。暴走族の一件から、ずっと不機嫌なままなのだ。
「まあ、しかし、あれは美しい土下座だったなぁ」
 太い声で入道さんが言ったら、みんながまた吹き出した。
 俺は、「もう、その話は勘弁して下さい」と苦笑した。そして、この四日間でだいぶ気心が知れた面々の顔を、あらためてぐるりと見回す。
 よくもまあ、これだけ濃い人たちが集まったものだ。この人たちを選んだイヤミ課長の手腕は、ある意味、天才的だと思う。
「龍さん、そろそろ、火、つけちゃうよ」
 民宿のおやじさんが言うので、「あ、お願いします」と頷いた。そして、俺はこのキャンプファイヤーについての説明に入った。
「さて、これまでの四日間、皆さんには十分に落ち込んで頂けたことと思……えるような、思えないような、とても複雑な心境ではありますが」
 と言って、みんなが笑ったとき、丸めた新聞紙に火がついた。そして、その火がみるみる大きくなっていく。炎の明かりに顔を赤く染めた面々を見渡しながら、俺は続けた。
「とにかく、落ち込んで頂けたという前提でいきますが──、皆さんには今夜のキャンプファイヤーをきっかけに、ここから一気に浮上して頂こうと思います。明日の朝から、帰途に着くバスのなかでは、もうあの鬱々とした失恋ソングは流れません。代わりに元気が出るような、明るい曲ばかりをご用意しております。途中のお昼ご飯も、ハイカロリーでちょっと豪華なメニューです。というわけで、これから浮上される皆さま、廃墟の遊園地でお配りした『質問用紙』をお持ち頂けましたでしょうか? はい、皆さん、お持ちですね」
 パチパチと薪がはぜる音がして、キャンプファイヤーの炎はいっそう勢いを増していく。オレンジ色の炎からは白っぽい煙が上がり、それが龍のようにするすると星空に向かって伸びていった。
「ええと、このキャンプファイヤーはですね、皆さん一人一人の思いを天に昇華するのが目的です。まずは、お一人ずつ順番に、自分の味わった失恋について、炎と仲間たちに向かって告白して頂き、最後にお手元の質問用紙を丸めて炎のなかに投げ込んで頂きます。もちろん、告白なんてしたくない、内緒にしていたい、という方は、それで結構です。でも、可能でしたら、ひと言だけでもいいので、どん底まで落ち込んだ後の、未来へ向けたポジティブな思いを口にして頂けると嬉しいです。言葉には言霊が宿ると言われていますので、きっと素敵な未来になると思います。というわけで、それでは──」
 説明を終えた俺は、ぐるりとみんなを見渡した。ふと目が合ったのは、ジャックさんだった。
「ぜひ、ジャックさんから、時計回りでお願いします」
「えっ、マジかよ、俺からかよ」
 言いながらジャックさんは立ち上がった。そして、ちょっと照れくさそうに「質問用紙」に視線を落とした。何を書いたのかまでは読み取れないが、炎の明かりでうっすらと文字が透けるので、細かい文字がびっしり並んでいることは分かる。
 おそらく、この人は、ポエムみたいな文章を、悦に入ったように読み上げるのではないか──、と俺は思ったのだが、意外にもジャックさんは、ふと顔を上げて、ニカッと破顔したのだった。それは、この四日間で見たことのないような、いかにも好青年といった笑顔だった。
「えっと、俺さ、本当は、失恋なんてしてねえんだよな」
 え──?
 という顔をする人たちがいるなか、ジャックさんは続けた。
「だから、とくに何も言うことはねえんだけど……、でも、なんかさ、この旅であんたらのこと見てたら、ちょっと羨ましかったな。みんな個性的だし、めっちゃロッケンロールだと思うよ。俺も負けねえくらいロックな男になって、近い将来、マジで一発当てるからよ。俺の顔と名前、覚えておいてくれよな」
 そこまで言うと、ジャックさんはこちらを見た。
 俺は、なんだかほっこりした気分になって頷いた。殴られて腫れた唇の口角が上がっているのが鈍い痛みで分かる。
「はい、皆さん、拍手」
 俺の言葉に、大きな拍手が上がる。ジャックさんは「なんだよ、別に拍手なんていらねえっつーの」と言いながらも、とても嬉しそうに首筋に手を当てていた。
「では、ジャックさん、用紙に書かれた断ち切りたい過去と思いを丸めて、燃やしちゃって下さい」
「オッケー」
 びっしり文字が書かれた紙をぐしゃぐしゃに丸めると、それをジャックさんは炎のなかに投げ入れた。すでに俺の身長ほどにも成長した炎は、一瞬にして紙を燃やし、灰にして、バラけたその欠片が夜空へと舞っていく。
「次は、ヒロミンさんですね」
「はあ……、恥ずかしいなぁ」
 とひとり言を漏らしつつも、ヒロミンさんはすっくと立ち上がった。
「わたしは、付き合っていた彼氏に『家族も子供もいらない』って言われて──」と、その経緯を手短に話した。そして、ちょっと淋しそうに微笑みながら、「このツアーで皆さんと出会えて、すごく楽しかったです。明日から生まれ変わって、いい写真を撮ります。どうもありがとうございました」と言った。そして、用紙を丸め、炎のなかにそっと投入。
 ヒロミンさんへの拍手が上がる。
 照れ笑いを浮かべたヒロミンさんは、焚き火と、炎に染められたみんなの顔と、夜空へ立ちのぼる煙を、一眼レフカメラで撮影した。
 その後も、みんなの告白は続いた。
 教授は美しいバリトンで、これまで自分が無感動な人間になりかけていたことをカミングアウトして、みんなを驚かせた。
「そんな私ですが、今回、野生のイノシシや暴走族に、直接的な恐怖を味わわせてもらえました。それが私にとっては久しぶりの感動体験になりました。で、これらの経験から導き出された結論としましては、今後、私はスカイダイビングや、サメと泳ぐシャークダイビングなどをすることで、自分のなかの恐怖の感情を刺激し、じっくりと心の動きを味わってみようと思います。皆様には、心から感謝申し上げます」
 言い終えたとき、このツアーではじめて教授は笑顔らしい笑顔を見せてくれたのだった。にっこりと、思いがけないほど愛嬌のある微笑み方で。
 しかし、教授の結論はそれでいいのか?
 と思っているみんなは、しばらくポカンとしていたけれど、陳さんだけは盛大に手を叩いて「あんた、面白いだろう。死ぬなよ」と大笑いをしていた。
 その教授も紙を丸めて、炎のなかへ投入。
 そして、みんなからの拍手。
 次は入道さんだった。霊界が見えるらしい巨漢は、ずっと入れ込んでいたキリコさんという喫茶店のオーナーが失踪した話をしたり、「炎の周りには霊が集まるんだぞ」と嘘をついて、怖がるジャックさんをからかったりしてから、用紙を丸めて焚き火に投入した。
 続く桜子さんは、様になってきたポニーテールを揺らしながら立ち上がった。そして、ちょっと恥ずかしそうにうつむきつつ、楚々とした声でしゃべりはじめた。しかし、その内容が、親たちの政略結婚に振り回されました──などと、浮世離れをした告白だったので、皆が度肝を抜かれたことは言うまでもない。桜子さんは用紙を丸めるのではなく、丁寧に八つに折って、焚き火にそっと投げ入れたのだった。
 桜子さんの左隣にいたのは、モモちゃんだった。
 俺と目が合って、モモちゃんが静かに立ち上がると、そのさらに左隣にいる小雪が、ささやくような声で「がんばって。別に、全部は言わなくていいからね」と言った。
「はい」モモちゃんは、こくり、と頷いてから口を開いた。「えっと……、わたしは……、ここに来るまでは、毎日、死にたくて……、彼氏には……」
 そこまで言って、モモちゃんは黙り込んでしまった。
 座に静寂が降りると、代わりに俺たちを包む潮騒が存在感を増した。
 やさしい海風が吹き、キャンプファイヤーの炎を揺らす。
 心配そうにモモちゃんを見上げる小雪。
 そろそろ、助け舟を出さねば──。
 そう思ったとき、意外なところから太い声が上がった。
「この娘はよ、四日間のツアーのあいだに、霊的にひと皮むけたようだぜ」
 入道さんだった。
「まあ、強くなったんだな、魂が。自力で憑き物もきれいさっぱり落としちまったし。たいしたもんだぜ。おい、あんた──」
 入道さんが、モモちゃんに呼びかけた。
「はい……」
「よかったな、このツアーに参加してよ。生まれ変わった気分だろう?」
 頼り甲斐のある太い声が、潮騒のなかでやさしく響くと、モモちゃんの目にしずくが光った。
「よかった……です。わたし、皆さんのことが、大好きになりました。明日から、生まれ変わります」
 最後はうるみ声になったので、釣られて俺まで涙腺が緩みそうになってしまった。見ると、小雪も泣きそうな顔をして、うんうん、と娘を見るような目で頷いていた。
「じゃあ、モモちゃん、捨てちゃいましょうか」
 俺が促すと、モモちゃんは白くて細い手で用紙をくしゃっと丸めた。そして、あふれた涙を親指でぬぐい取り、「ふう」と気持ちを入れ替えたように息をついてから、用紙を炎に放り込んだ。
「生まれ変わったね。新しいモモちゃんの誕生、おめでとう」
 小雪が言うと、みんなも「おめでとう」と口々に言って、あたたかい拍手が起きた。
 最後は、サブローさんだった。
 サブローさんは、いつもとまったく変わらぬにこやかな顔のまま、「じつは、皆さんには内緒にしておりましたが──」
 としゃべり出した。身体が癌に冒され、医師から余命宣告を受けていることを、包み隠さず告白したのだ。
 ほとんど花粉症を告白するくらいの軽いノリでしゃべったサブローさんだったけれど、炎を囲む空気が一変したことは言うまでもない。
 女性陣は瞬きを忘れて固まり、ジャックさんは「な、なんだよ、それ。聞いてねえぞ、そんなこと……」と声を震わせた。無感情なはずの教授ですら細い目を見開いていた。いつもふざけている陳さんは、むっちりした腕を組んで難しい顔をしているし、あのまどかさんまでハッとした顔でサブローさんを見つめている。
「とまあ、そんな老い先短いジジイではございますが、最後に、皆さんにお願いしておきたいことがありまして」
 ひとり愉しそうに目を細めたサブローさんは、笑えない前置きに続けて、あの話をしたのだった。
「皆さんには、生きているあいだに、ぜひともチャレンジと冒険をしておいて欲しいんです。そうしないと、死ぬ時に、きっと後悔しますから。ちなみに今回のツアーは、私にとって、大いなる冒険でした。イノシシに襲われたり、暴走族に襲われたり。長いこと生きてきましたけど、こんなのは初めてですよ」そこまで言って、サブローさんはくすくすと思い出し笑いをした。「おかげさまで、人生の最後に、とても刺激的な冒険ができました。こうして皆さんとお会いできて──」
 サブローさんが挨拶を締めようとしたとき、「おい」と、ふたたび太い声が響き渡った。
「これが人生の最後って決めんのは、まだ少し早いんじゃねえのかい?」
 え? と、みんなが入道さんに振り向いた。
 入道さんは、不敵に笑ってサブローさんを見た。
「冒険ってのはよ、途中であきらめたらつまんねえだろう」
「…………」
 サブローさんは早朝の湖のような目で、じっと入道さんを見つめていた。
「別に信じなくてもいいけどよ、あんた、医者に言われた余命よりも長生きできそうだぜ」
 ふと見ると、入道さんの手には、あの黒い数珠玉が握られていた。霊視をしていたのかも知れない。
「おい、おっさん」
 ジャックさんの声だ。
「あんたも、この霊能者が本物だってことは知ってんだろ? だったら信じろよな。少なくとも、俺がデビューして、バリバリ格好いい姿を見せるまでは、絶対にあきらめんじゃねえぞ」
 切実な目でジャックさんがそう言ったのに、サブローさんはむしろ悪戯っぽい笑みを浮かべて、こう返した。
「わかりました。では、ジャックさん、あと最低でも十年はデビューしないでください。あなたの格好いい姿を見たら、安心して、あきらめちゃいそうなので」
「ぷぷぷ。あんた、面白いね。二〇年は死なないだろう」
 陳さんが吹き出して、場の空気が少し和んだ。
 サブローさんは笑顔のまま、大きく深呼吸をした。放っておいたら涙腺が決壊しそうだったのだろう。
「ふう……。皆さん、ありがとうございます。では、ヤブ医者の余命宣告などは信じないで、まだしばらくは冒険を続けることにします。というわけで、こんなものは──」
 サブローさんは用紙をビリビリに破いて、ぐしゃぐしゃに丸めて、「ポイですっ」と言いながら炎のなかに投げ込んだ。
 用紙にサブローさんが何を書いていたのかは、誰にも分からないけれど、でも、なんとなく、この瞬間、俺はサブローさんの余命に変化が起きたような気がするのだった。
 パチパチパチパチ……。
 誰かが拍手をはじめた。反射的に、その音の方を見た。手を叩いているのは、ちょっと面倒くさそうな顔をしたまどかさんだった。
 まどかさんに釣られて、拍手の輪が一気に広がった。
 この拍手の誠実さに、ついにサブローさんの涙腺が決壊した。
 それを見た幾人かがもらい泣きをした。もちろん、俺もだ。
 最後の告白は、陳さんだった。
「女と上手くやる。これは難しいだろう。でも、暴走族にバイバイする。これ、簡単ね。やっぱりユキチと仲良しの私はヒーローだろう。がははは」
 豪快に笑った陳さんは、なぜか失恋とは無関係な、昼間の暴走族との顛末をしゃべり出した。
 いわく、俺がボコボコにされているとき、陳さんはこっそりヒロミンさんに頼んで、一眼レフで暴力を振るった証拠のムービーを撮らせていたのだという。そして、バスの外に出た陳さんは、扇状にした数枚の一万円札を暴走族たちに見せながら近づいていき、そのままバスの裏手に連れていくと、こんなやりとりをしたのだという。
「おまえら、ユキチと警察、どっちが好きか?」
「はぁ? ジジイ、てめえ、ナニ言ってんだ、コラ?」
「私は金持ちだろう。頭いいね。だから、バスのなかから暴力のムービー撮ったね。私が警察呼んでムービー渡す。おまえたち、アウト。がははは」
「な、なんだと、コラ!」
「しかし、おまえらは、ラッキーね」
「は?」
「聞け。いまから、ビジネスの話するね」
「…………」
「おまえら、すぐに帰るなら、私、このユキチをプレゼント。帰らないなら、バスのなかから電話で警察を呼ぶ。オーケー? がははは。おまえら、ユキチと警察、どっちが好きか? ん? どっち選ぶ?」
 陳さんは札の枚数を増やしながら、さらに畳み掛けた。
「ユキチ、五人欲しいか? ん? 私は金持ちだろう。十人か?」
 そうやって、結局は十五万円の現ナマを握らせたというのだ。
「え、そんな大金を……。大変なご迷惑をおかけしてしまって……、本当に申し訳ありませんでした」
 添乗員として責任のある俺は、深く頭を下げたあと、勢いでしゃべり続けた。
「あの、その十五万円は、なるべく早めに返済させていただ──」
「がはははは」
 陳さんの盛大な笑い声が、俺の言葉をさえぎった。
「私は金持ち。頭がいいね。だから損はしない。ユキチは必ず戻ってくるね。そのアイデア、最初からある。だから、いまは気にするな」
「え……」
「いまは、無問題。分かったか、添乗員」
 い、いまは──?
 さっぱり意味が分からないけれど、とりあえずは頷いておくことにした。
「あ、はい……。えと、ありがとうございます」
 とにかく、返済については、あとで陳さんと二人きりのところで話し合おうと思う。
「無問題。ぜんぶオーケーね」
 やたらと太くて短い親指を立てて格好つけた陳さんは、質問用紙をひらりと裏返してこちらに見せた。用紙には、何も書かれていなかった。
「ん? あんた、何も書いてねえじゃんかよ」
 ジャックさんが俺の心を代弁してくれた。すると陳さんは、夜だというのにかけっぱなしのサングラスの奥の細い目をいっそう細めて、ぐふふ、と不敵に笑ったのだ。
「おまえら、私を見ろ。どうだ、幸せだろう? いま、幸せ。なぜか? 過去があるからね。悲しい過去。つらい過去。めんどくさい女。金で騙す奴ら。ぜーんぶ、むかついたよ。でも、楽しかったね。だから、私は捨てる必要ない。過去がある。だから、いま幸せ。分かるか? おまえら、みんな金持ちになれ。幸せになれ。そしたら、過去が好きになるだろう。悪い過去、思い出になる。好きになるね。あー、あの頃は大変だった。でも、楽しかった。そうなるね。金持ち、みんなそうだろう。がはははは」
 陳さんは自慢のような名言のような長台詞を口にしたと思ったら、手にしていた用紙を俺に押し付けてきた。
「客、みんな、しゃべったね。最後は添乗員だろう」
「え? 私、ですか?」
「いいじゃない、龍さんも告白しちゃいなよ」
 ヒロミンさんがはやし立てるけれど、いまの俺がしたい告白と言えば……。思わず、ちらりと小雪の方を見た。
 すると、空気を察したのか、男性陣が盛り上がりはじめた。
「おお、そりゃいいアイデアじゃねえか」と入道さん。
「男なら、ロッケンロールだぜ!」とジャックさん。
 教授を見たら、いつも通りの仏像顔で頷いていた。
 まどかさんはニヤニヤ笑い、桜子さんとモモちゃんは、口に両手を当てて好奇心いっぱいの目でこっちを見ていた。
 ちょっとポカンとしているのは、何も知らされていない小雪だけだ。
「え、な、なんですか……」
 当然たじたじになっていたら、男性陣の方から「龍さんコール」が起きてしまった。
 龍さん! 龍さん! 龍さん! 龍さん!
 騒々しい声のなかで、ふと俺は思い出した。
 そうだ。いま、俺のはいているジーンズのポケットには──。
 婚約指輪が、ある。
「さあ、龍さん、チャレンジと冒険ですよ」
 サブローさんに言われたとき、俺はみんなに向かって、ひとつ頷いてみせた。そして、黙って両手を挙げて「龍さんコール」を止めてもらった。
 いつの間にかキャンプファイヤーの炎が少し小さくなっていた。
 夜の涼しい海風と、やわらかな潮騒。
 星空の隅っこには輪郭のはっきりした三日月。
 目の前には、ちょっと愉快なお客──というか、仲間たち?
 俺はひとつ深呼吸をして、小雪を見た。
 小雪の大きな瞳には、オレンジ色の光が揺れている。
 ちらりと、お腹を見た。
 その瞬間、俺の心のなかでスイッチの入る音がした。
 いまこそ、一発逆転のチャンス。
 ビシッと人生を決めるところだ。
 俺は、ジャックさんに借りたジーンズのポケットに右手を突っ込んだ。そして、密かにしのばせておいたダイヤモンドのリングを──、薄給を必死に貯めて、ようやく買った、あのリングを……。
 あの、リングを……。
 って、あれ?
 えっ?
 慌てて反対のポケットに左手を突っ込んで──。
 え……。
 もう一度、右側も確かめた。
 え、うそ。
 背筋が凍りついた。両腕にザザザと鳥肌が立つ。
 そんな、馬鹿な。
 俺はしつこく両方のポケットをまさぐった。すると、右側のポケットの底に違和感を覚えた。中指と人差し指の先端が、ポケットからすっぽり突き出ていたのだ。
 あ、穴が……。
 なんと、リングをしのばせたポケットには、指二本が悠々と通り抜けるサイズの穴が空いていたのだった。
 ちょ、ちょっと待て。
 いったい、どこに落とした?
 俺の頭のなかは、もはや走馬灯のようになって、今日のいろいろなシーンが次々と映し出された。暴走族たちにボコボコにされたときに駐車場に落としたのだろうか。あるいは、その後に立ち寄った鳴き砂の浜を歩いているときか。もしくは、最果て感のある淋しい無人の岬の草地だろうか。
 いずれにせよ、いまから探しに戻っても見つかるとは思えない。
 終わった。
 すべてが……。
 俺は、全身の毛穴から、ぷしゅう、と気力が抜け出していくのを感じていた。穴の空いた風船みたいに、心が一気にしなびていく。
 しかし、お客さんたちは、期待に目を輝かせたまま、俺のことを見上げた。
「あ、ええと……」俺は必死に声を張ろうとしたのだが、心とは裏腹なか弱い声になってしまった。「ぼくは、その、やっぱり、添乗員なんで……」
 曖昧に笑ってそう言ったら、小さなブーイングが上がった。
「えっ、なんだよそれ、ロックじゃねえなぁ」
「す、すみません」
 ジャックさんにぺこりと頭を下げて、顔を上げると、なんとなくモモちゃんと目が合った。モモちゃんは眉尻を下げて、分かりやすいくらいに心配そうな顔をしてくれていた。俺は、力なく「ふっ」と笑って見せると、焚き火の匂いのする空気を吸い込んだ。そして、最後の力を振り絞るように声を出した。
「ええと、これをもちまして、四日目の行程はすべて終了となります。これから皆さんは、どんどん浮上して幸せになるだけですので、ビールで乾杯も解禁とします。いますぐ飲みたい方は、宿の一階の廊下の突き当たりにある自動販売機でお買い求め下さい」
 普段なら、ここで数人は盛り上がるはずなのだが、今夜は違った。誰も声を上げずに、こっちを見ているのだ。
 みんなの視線がさすがに痛くて、俺はさっさと退却することにした。去り際、ふと連絡事項を思い出して、明日の朝食の時間と、集合時間を告げた。そして、まだ炎の周りから立ち上がろうとしないみんなに、かすれた声で「それでは、お先に。おやすみなさい」と言った。誰も返事をしてくれないなか、なぜか小雪だけが「おやすみなさい」と淋しそうな声を返してくれた。
(第30回につづく)

バックナンバー

森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop