双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 27 回



【天草龍太郎】
 ランチタイムを終えて、バスはふたたび走り出した。
「ええと、皆さま、いまからこのバスは蛍原村を出発し、そこから一気に山を降りて行きまして、海岸へと向かいます。で……、ええと、あれ、何だっけな……」
 入道さんに衝撃の事実を告げられてからというもの、俺はずっと平常心を失いかけていた。こうして慣れたはずのガイドをしていても、すべてバレているお客さんたちの視線がやたらと痛い気がするし、ふと自分の席を見れば、その隣にはつわりで具合の悪そうな小雪がいるのだ。
「あ、えっと、今夜はですね、その海の近くの宿に泊まることになっておりまして……、で、ええと、あ、今夜は、このツアーの最後の夜となりますので、旅のしおりにもありますとおり、〆のイベントと致しまして――」
 俺はしどろもどろになりつつも、なんとかガイドを終えて席に座った。思わず「ふう」とため息をついてしまう。
「どうしたの? 台詞、噛みまくりじゃん」
 さっそく、苦笑した小雪に突っ込まれた。
「あ……、うん。そうだよね。あはは」
 首筋を掻いてぎこちなく笑った俺の視線は、うっかり小雪のお腹に向いてしまった。でも、お腹をじっと見ていたら、小雪に気づかれそうで、怖い。
 できることなら、妊娠のことは知らないフリをして、ビシッとプロポーズを決めて、見事、二つ返事でオーケーをもらい、そして、小雪の方から泣きながら「じつは、わたしのお腹には……」と妊娠を告白してもらえたらいいのになぁ……と思う。で、俺はその妊娠を心から喜んでみせて、結果、小雪も救われる。そういう流れが理想的だ。というか、そうでないと、子供ができたことを知ったから、俺は責任を取って、渋々プロポーズをした――なんて思われてしまいそうだ。
 もっと言えば、いますぐにでもプロポーズをして、ひとりで不安を抱え込んでいる小雪を安心させてやりたい。しかし、一生に一度のプロポーズを、このツアーバスのなかでコソコソと……、というのもナンだし、いや、それより何より、妊娠をしたというのに、小雪はどうして俺との別れを選んだのか? その確たる理由が分からないのが不安だった。つまりは、いま焦ってプロポーズをしても、あっさり断られるのではないか、という怖さがある。
 あれ? いや、まてよ。違う。
 大事なことは、そこじゃない。
 とにかく――。
 いまの俺は、自分の心配より、小雪とお腹の命のことを想うべきなのだ。
 それだけは――、うん、間違いない。
 ということは、やっぱり少しでも早い段階で安心させてやらねばならないだろう。プロポーズが上手くいこうがいくまいが、俺との別れを選んだ理由なんて、後から聞けばいいじゃないか。
 本当なら、小雪の誕生日の夜(つまり今夜)、俺はプロポーズに踏み切るつもりだったのだが、こうなったら、もはや待ったなしだ。二人きりで、ちょっと雰囲気のいいシチュエーションに恵まれたなら、その瞬間、迷わずプロポーズだ。よし、決めたぞ。
 俺は、すっくと立ち上がった。そして、頭上の荷台に置いてある使い慣れた旅行鞄のファスナーを開け、なかに両手を突っ込んだ。そのまま手探りで小さな箱を探す。箱に手が触れたら、鞄のなかでそっとその箱を開けて、ささやかなダイヤモンドが埋め込まれたプラチナのリングをつまみ出した。そして、小雪にバレないよう、さりげなくそのリングをジャックさんに借りたジーンズのポケットに忍ばせた。
 よし。これで準備完了。
 いつチャンスが訪れてもオーケーだ。
 俺は小箱のふたを閉じて、旅行鞄のファスナーも閉めた。そして、なに食わぬ顔でシートに腰をおろす。幸いにも、小雪は窓の外を眺めていてくれた。そうなると必然的に俺の視線は小雪のお腹に向いてしまう。
 ここに、俺の――。
「はあ……」
 感慨深くて、うっかりため息をついたら、小雪がこちらを振り向いた。
「なに?」
「え? あ、いや、ちょっと会社のことを考えたらさ、つい……」
「そっか。そうだよね……」
 小雪は、俺をちょっと心配そうに見て、元気付けるように小さく微笑んだ。そして、
「食べる?」
 例の、やたらと酸っぱいレモン味のタブレットを差し出してくれた。
 あまり食事を摂れず、酸っぱいものばかりやたらと口にしていた小雪。その様子を間近で見ていたというのに、俺はどうして気づいてやれなかったのだろう。そう考えると、またため息をつきそうになる。
「うん。ありがとう」
 俺は、小雪にもらったタブレットを口に入れた。強い酸味で、口中に唾が溜まる。
「ん……、酸っぺぇ」
 顔をしかめて見せた俺を見て、小雪がふっと微笑んだ。
「ねえ、龍ちゃん」
「ん?」
「落ち込んだり、悲しんだりするのはさ、このツアーが終わってからにしない?」
「え……」
「だってさ、最後の最後まで、ちゃんとプロとしてやり抜かないと、この仕事に後悔の念が残っちゃうかも知れないじゃない?」
「小雪……」
「龍ちゃんはさ、このツアーの立ち上げから、いままでずーっと手を抜かずに頑張ってきたんだから、あと一泊だけしっかりやり抜こうよ」
「…………」
「で、龍ちゃんの仕事は、きっちり百点満点で終えるの。ツアーがなくなることは残念だけど、ツアーにたいする後悔をゼロで終えられたら、少しは救われると思うよ」
 小声でそこまで言ってから、念を押すように「ね、そう思うでしょ?」と俺の目をじっと見つめた。
「うん。そうだよな……。小雪……、えっと――」ありがとう、と言いかけたとき、俺はうっかり感極まりそうになってしまった。だから、会話のベクトルを変えて、潤んだ感情を散らそうとした。「これさ、マジで酸っぺえよなぁ。刺激、強すぎるよ」
 そんな俺を見て、小雪は小さく微笑んだ。そして、ふたたび窓の外を向いた。あえて俺から視線をそらしてくれたのだ。
 俺は目を閉じ、ジーンズのポケットの上からそっと小さなリングを撫でた。
◇   ◇   ◇
 蛍原村を出たバスは、昨日とおった道を逆に辿るルートで、少しずつ標高を下げていった。
 森のなかを抜ける九十九折の道を下り、小さな集落をいくつか通り過ぎ、ふたたびうねうねとよく曲がる山道を下りていく。バスは右へ左へと静かに揺さぶられるが、まどかさんの運転は常にスムーズだった。
 しばらくして道路がまっすぐになると、まどかさんはステアリングを切り、田舎町の小さなドライブインへとバスを滑り込ませた。
 俺は腕時計を見た。予定時刻ちょうどだ。
 さてと――。
 いつものように俺は席を立ち、バスの後ろに向かって声を張った。
「皆さん、お疲れ様でございます。このドライブインで十五分のトイレ休憩をとらせて頂きます。トイレは、あちらに見えます黒い屋根瓦の建物の、向かって右手にござ……って、えっ?」
 アナウンスの途中で、俺は言葉を止めた。それとほぼ同時に、桜子さんが「きゃっ」と短い悲鳴をあげた。
 バスがいきなり横揺れをはじめたのだ。
 地震か?
 俺は窓の外を見た。しかし、駐車場に止まっている他の車も、電線も揺れていなかった。売店の前を歩いている人たちも、何も感じていないようだ。それなのに、このバスだけがぐらぐらと揺れている。しかも、その揺れがどんどん大きくなってきて……。
 そう思った刹那、「あ、ちょっと、龍さん!」と叫んだヒロミンさんが、バネのように座席から飛び上がった。そのままヒロミンさんは中央の通路に逃げて、自分の席の窓の外を指差している。
 バスの揺れが止まった。
 俺はヒロミンさんの示す方を見た。
「あっ!」
 と声を上げたのは、俺だけではなかった。同じ窓を見た数人のお客さんたちが声をそろえたのだ。
 そこには、どうにも信じたくない光景があった。窓のすぐ向こう側に、若いヤンキーたち三人のにやけ顔が並んでいたのだ。しかも、俺はそのうちの一人の顔を覚えていた。昨日、このバスを煽ってきた暴走族のなかで、うっかり目を合わせてしまった少年だった。
「なんだよ、昨日の暴走族じゃねえか。こいつらがバスを揺らしてやがったんだな」
 入道さんが、やれやれ、と呆れたような声を出すと、続けて運転席から不穏な声が漏れ聞こえてきた。
「あのクソガキがぁ……調子こきやがって。半殺しにしてやっか」
 俺は慌てて運転席に行き、「ちょ、ちょっと待って下さい」と両手を前に出し、立ち上がろうとしているまどかさんを制止した。
「まどかさん、さっき反省してくれたばかりじゃないですか。冷静になってください」
 恐るおそる元ヤンの運転手に言うと、今度は客席で悲鳴が上がった。
 ドンドンドン! と外からバスのボディーやガラスを連中が叩きはじめたのだ。
「み、皆さん、落ち着いて下さい。大丈夫ですので」
「大丈夫って、おめえ、どうすんだよ?」
 まどかさんが長い茶髪をかきあげながら、俺をじっと見詰めた。
「ぼ、ぼくが……」返事をしはじめると、ふたたびバスが揺れた。そして、ドンドン! と叩かれる。「えっと、彼らと話をしてきますんで」
「だったら、あたしが一緒に行ってやるよ」
「そ、それは、駄目です」
 バスがさらに揺れ、ガスッ、ガスッ、と蹴られたような音もした。
「なんでだよ。あたしがいた方が手っ取り早いじゃねえか」
「駄目です」
「おまえ一人で、やれんのか?」
 やれるかどうかなんて、分からない。
 でも、やるしかない……、多分。
「や、やります。ぼくが外にいる間、絶対にバスのドアを開けないで下さい。とにかく、お客さんの安全が第一なんで」
「だったら、あたしが出てった方が早いって」
「駄目です」
「じゃ、警察呼ぶか?」
「それは……、それも、駄目です」
「は? なんでだよ? あいつらのやってること、完全に犯罪じゃねえか」
 バスが揺れる。ボディーが叩かれ、蹴られ、ときどき女性たちの悲鳴が上がる。重苦しいような緊張が、みるみる車内に張り詰めていく。
「ぼくの――モノだからです」
「は?」
「このツアーは」そこで俺は深く息を吸って、はら に少し力を込めた。「ぼくの大事な仕事なんで」
 小雪も、お腹のなかの新しい命も――。
「まるごと全部、ぼくの大切なモノなんで」
 揺れる車内で足を踏ん張りながら、俺は、まっすぐまどかさんの目を見ていた。
「…………」
 このとき、まどかさんは、ちょっと怖い顔をしていたけれど、もう何も言わなかった。
「警察沙汰にはしたくないんです。いま、ちゃんと彼らと話し合って何とかしますんで。ぼくが外に出たら――」
「分かったよ」
「え?」
「ドア、閉じたままにしてりゃいいんだろ?」
「まどかさん……」
「その代わり」
 ふいに、まどかさんが射抜くような目で俺をにらみ上げた。
「…………」
「おめえ、ぜってー、負けんじゃねえぞ」
「え……」
「死んでも、負けんなよ」
「いや、別に、これは勝ち負けじゃ……」
「うっせえ」ピシャリと言ったあと、ふいにまどかさんの声のトーンが落ちた。「おめえの大事なモンが見てる目の前で、みっともねえ姿を晒すんじゃねえっつってんだよ」
 それは俺だけに聞こえる声だった。まどかさんの視線からは、もう、さっきの射抜くような怖さが消えていた。
 バスのガラスが激しく叩かれた。いくつかの悲鳴が上がる。
 はい――。
 俺は心で返事をして、深く頷いてみせた。
 客席を見ると、入道さんとサブローさんが立ち上がろうとしていた。
 ヤバい。早くしないと。
「皆さん、彼らをバスの中には絶対に入れませんので、ご安心ください。とにかく、なるべく彼らと視線を合わせないようにして、しばらくお待ち下さい。大丈夫ですので!」
 俺はそう言って、小雪の席に顔を覗かせた。
「大丈夫?」
「え……、うん」
 小雪の両手が、下腹部に添えられているのを俺は見逃さなかった。
「ちょっと待っててな」
「龍ちゃん、どうするつもり?」
 俺は、ニッと笑って見せた。しかし、頬がひきつっているのが自分でも分かった。
「ちゃん付けは禁止だろ。いまは仕事中だから、龍さん、だよな」
 それだけ言って、ふたたび運転席の横に立った。
「じゃ、すみません。ちょっと出てきます」
 まどかさんは無言でドアを開けてくれた。俺はいったん深呼吸をしてから、ステップを降りて外に出た。振り返ると、まどかさんと目が合った。
 プシュウ。
 ドアが閉められた。ドアのガラス越しに、俺はまどかさんに向かって小さく会釈をした。
 俺の心臓は嫌な熱をはらんだまま早鐘を打っていた。気を緩めると、膝が震えてしまう。そりゃそうだ、と思う。なにしろ俺は幼少期から一度たりともヒーローになれたことのない男なのだ。でも、そんな男にだって、守りたいモノはある。
 俺は恐怖心に無理やり蓋をして足を前に出した。バスの前をぐるりと回り、奴らのいる右側へと顔を出す。ガラの悪い三人は、ゲラゲラ笑いながらバスを押して揺らし、ときには叩き、そして蹴飛ばしていた。
「あ、あの、すみません」
 変に高くて嗄れた声が聞こえた。それが俺の声だと気付いたのは、一瞬あとのことだった。
「あ?」
 三人が一斉にこちらを見た。いや、見た、というより、凶暴な目でにらまれた、というべきだった。
「あ、ええと、ちょっと、す、すみませんけど――、それ、やめてもらえませんか?」
「ああ? 誰だよ、てめえ」
 昨日、俺と目が合った若者が言った。三人のなかではいちばん背が低く、年齢も若そうだった。俺はこいつの顔が恐怖のあまり忘れられずにいたのに、こいつは俺のことなどまったく記憶にないらしい。
「ぼくは、こ、このバスの添乗員です」
「ふーん」
「んじゃ、てめえが落とし前つけるってことな?」
「お、落とし前……ですか?」
「ったりめえだろうがよ」
「てめえのこのクソ汚ねえバスと、運転手のババアのせいで、俺らの仲間は昨日、二人もパクられたんだぞ。それ、どう責任とんだ、コラ。ああっ?」
 三人そろって、俺の方にずいずいと歩み寄ってきた。と思ったら、あっという間に周囲を囲まれてしまった。
 ドンッと背中を小突かれた。
「あっ、ぼ、暴力は、やめて下さ――」
 今度は横から。
「ちょっと」
 このヤバい状況を、バスのなかから皆んなに見られている。
「半殺しにすんぞ、コラ」
「落とし前、さっさとつけろよ、オッサンよぉ」
「で、でも、警察に捕まったのは、あなたたちが暴走行為をしていたからで……」
 俺は、せいいっぱい反駁はんばくしてみたのだが、そのとき背後から両膝を軽く蹴られた。カクン、と膝の力が抜けて、俺はその場に崩れ落ちてしまった。両手、両膝を地面に着いた、まるで犬のような無様な格好だ。
 起き上がろうとしたとき、鳩尾みぞおちを蹴り上げられた。
 うっ……。
 声が漏れたと思ったら、そのまま激痛で呼吸ができなくなってしまった。俺はイモムシみたいに地面に転がされた。両手で蹴られた鳩尾を押さえ、ただ必死に口をパクパクさせていた。息ができず、声も出せない。
 ごめんなさい。すみません。
 謝ろうにも、肺に空気が入らない。
 俺の頬はごつごつしたアスファルトの硬さを感じていた。すぐ目の前に短いタバコの吸殻があった。その吸殻を、いちばん大柄な男の黒い靴が踏みつけた。その男がしゃがみこみ、苦痛に歪む俺の顔を上から覗き込む。
「あ……、あ……」
 まだ、声が出せない。
 大柄な男が、ニヤリと下卑げびた笑みを浮かべた。前歯が一本折れているせいか、それは異様なほど凶悪な顔に見えた。
「おい。オ、ト、シ、マ、エ。どうやってつけんだ、コラ」
 男がドスの利いた声を出す。
「す、すみ、ま、せん……」
 ようやく肺に少し空気が入り、かすれた声が出せた。
「すみませんじゃねえんだよ。オッサン、コラ、起きて汚ねえツラ見せろよ」
 背後から声がして、髪の毛をぐいっとつかまれた。そのまま強引に上半身だけ引き起こされる。次の瞬間、顔面に衝撃を感じた。俺は後ろに倒れ込んだ。数秒遅れて、鼻と唇のあたりに焼けるような痛みが弾けた。平手で思い切り殴られたのだ。
 あ、う、う……。
 呻きながら仰向けになった。薄く目を開けると、春めいた水色の空が見えた。
 なぜか、そのとき俺は、失恋バスツアーのバスと同じ色だなぁ……、と場違いなことを思っていた。
 ふと視線をバスの方に向けた。
 窓にへばりつくようにして、お客さんたちが俺のことを見下ろしていた。そのなかに小雪の顔を見つけた。小雪は、目を見開いたまま泣き出しそうな顔をしていた。
 大丈夫だよ。泣くなよ。
 俺は小雪に向かって笑おうとした。しかし、引きつった俺の口角は一ミリたりとも上にあがってはくれなかった。
 視線を滑らせて、運転席の窓を見た。まどかさんは、こちらに横顔を見せていた。情けない状況を見ていられないのだろう。
 死んでも、負けんなよ――。
 さっきの声が、耳のずっと奥の方で再生される。
 俺はまた、髪の毛をつかまれて、力任せに上半身を引き起こされた。
「とりあえず、正座しろ、コラ」
 言われたとおりに膝を折り、正座をしながら、考えた。
 負けんなって言われても、どうしたらいいんだ?
 喧嘩じゃ勝てない。仮に、負けを覚悟で喧嘩をすれば、今度は警察沙汰になる。そうなったら、俺のツアーに泥が塗られてしまう。
 謝ったら――、負けなのだろうか?
 前から、横から、後ろから、ゴツゴツと微妙に加減された蹴りが飛んでくる。大怪我はしないが、小さな痣にはなりそうな力加減だ。
「あの」正座をしたまま、俺は顔を上げて、少し大きな声を出した。「ぼくは、どうしたら許して頂けるんでしょうか?」
 ふと三人の蹴りが止まった。
「んじゃ、とりあえず、土下座からやってみっか?」
 オレンジ色の細いサングラスをかけた男が言った。
「ぼくが土下座をしたら、このバスとはもう関わらないって、約束してもらえますか?」
 ヤンキーたちはそれぞれ顔を見合わせた。そして、サングラスの男が口をひんまげるようにして言った。
「まあ、てめえの土下座の美しさ次第じぇねえか? そうだよな?」
 同意を求められた二人は、俺をあざ笑いながら「ですよねぇ」と敬語を使った。どうやらサングラスの男がリーダー格のようだ。
「どうすんだ? 土下座すんのかよ?」
 俺は、バスの窓からたくさんの視線を浴びながら頷いた。
 すると男たちは、三人とも俺の前側に回った。ニヤニヤした顔で、こちらを見下ろしている。
 とにかく、守れるなら、それでいい。
 俺の大事なモノを――。
 そうすれば、少なくとも俺は、負けない。
「てめえ、なにうだうだしてんだ。早くしろよ、ボケ」
「はい」
 頷いた俺は、つばを飲み込んだ。鉄っぽい血の味がした。
 ゆっくりと両手をアスファルトに着いたら、ちょうど右手の横にさっきのタバコの吸殻があった。
「あの、本当にぼくが土下座をしたら――」
「だーかーらー。てめえの土下座のやり方によっちゃ、許さねえっつってんだろうが」
 小柄な少年の声が上から降ってくる。
「美しくなかったら、てめえは半殺しで、バスのなかの連中もボコっちゃおうかなぁ」
「そ、それは」
「だったら、さっさと土下座してみろよ、コラ」
「はい……」
 両手で触れたアスファルトは、春の日差しのせいで少し温かく、砂でざらついていた。
「オラ、早くしろよ。ぶっ殺すぞ、てめえ」
 大柄な男の声に怒気が加わった。
 俺はもう、バスの方を見られなかった。ゆっくりと両手に重心をのせて、頭を下げていく。乾いたアスファルトが顔に近づいてきた。
 情けないよな、俺。
 でもさ――。
 目の裏が熱くなり、ぎゅっとまばたきをした。
 アスファルトに、ひた、ひた、と黒い染みができた。
「オラ、ジジイ。もっと頭を下げて、おでこを地面にこすり付けんだよ、バーカ」
 小柄な少年の声が降ってくる。

(第28回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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