双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 23 回



【小泉小雪】
「モモちゃん、嘘を見抜けるの?」
 となりで浅い呼吸をしているモモちゃんは、小さく頷いた。
「わたし、子供の頃からずっと周りの人たちの顔色を窺いながら生きてきたから、嘘をついている人と、意地悪をしている人の顔が分かるんです」
「そっか……。うん、なんか、そういうの、分かる気がする」
 わたしも、なんとなく分かるのだ。
 相手を傷つけることを目的にして言葉のナイフをぶつけてくるタイプの人と、そうではない人とのあいだには、ある種、決定的ともいえる違いがある。前者は、あの黒い熊のぬいぐるみに通じる、どこか物寂しく退廃的な匂いを漂わせているのだ。
「小雪さんも、分かるんですか?」
「うん、けっこう分かるかも。まあ、モモちゃんとは似た者同士だからね」
 わたしが、ふふ、と笑うと、モモちゃんも釣られたように目を細めた。そして、「はあ」と、精気をまるごと吐き出してしまいそうなため息をついた。
「ずいぶん深いため息だね」
 わたしが、からかうように言うと、モモちゃんは細い髪を春風に揺らしながら、少し自嘲気味に笑った。
「小雪さん、わたしね」
「うん?」
「ちゃんと、小雪さんの言う通りにしたんです」
「え、何を?」
「さっきの、元彼からの電話だったんですけど……」
「なんとなく、そうかなって思って見てたよ」
「やっぱり、バレてました?」
「まあね」
「わたし、一応、がんばって、小雪さんの言う通り、興味のないような口調で最低限の受け答えをして、それで、あっさりと通話を切ったんです」
「そっか。偉いじゃん」
「でも、すぐにまたかかってきて……、そしたら、すごくやさしい口調で話しかけられて、わたし、なんかドキドキしてきちゃって」
「うん」
「それでもがんばって、あっさり切ったんです。でも、その後……」
 モモちゃんの目が伏し目がちになった。
 わたしは、首を少し傾げて、モモちゃんをじっと見詰めた。
 するとモモちゃんは、コートのポケットからスマートフォンを取り出してメール画面を開いた。
「これ……」
 震える手で、モモちゃんは端末をこちらに差し出した。
 受け取ったわたしは、メールの文面に目を通した。
「なに、これ……」
 とたんに、怒りがふつふつとこみ上げてきて、たまらず大きく息を吸った。そして、我ながらカウンセラーとは思えないような言葉を喉の奥から吐き出したのだった。
「この男、クズ以下だね。いますぐ死んじゃえばいいのに。もう、あったまくる!」
 モモちゃんは、そんなわたしを見て、ちょっと驚いた顔をしていたけれど、わたしの憤りはまだおさまらず、「ああ、ムカつく」と言ってしまった。
 わたしの目を汚したのは、こんな文面だった。
《お~い、冷たく電話切るなよ(笑) モモが俺のこと嫌いなのはどうでもいいけど、代わりにいい男を紹介するって言ってんだからさ。そいつイケメンだし、オバケ信じねえから水子もべつにオッケーだって(笑) ナイスだろ? お前いつヒマ? ってか、引きこもりだから、ずっとヒマなんだろ? 連絡待ってるぞ》
 スマートフォンごと階段から放り投げてしまいたいような気分だったけれど、さすがにモモちゃんの端末をそうするわけにもいかず、わたしは汚れ物でも扱う気分でそれを返した。
「ああ、もう、マジでムカつく」
「…………」
「モモちゃん」
「は、はい……」
 わたしの剣幕に、モモちゃんはまだ少しビビっている。
「こいつ、ちょっと懲らしめていいかな?」
「え?」
「こういうタイプの阿呆なら、簡単にやっつけられそうな気がするの」
「やっつけるって……」
「ようするにね――」
 わたしは、頭のなかに浮かんだアイデアを手短に話した。
 つまり、わたしが弁護士のふりをして電話をかけて、徹頭徹尾、冷徹な口調で慰謝料をふっかける話をしたり、過去のメールの内容を精査した結果、精神的な暴行が見受けられることから、現在、提訴を検討しているという話をしたりするのだ。そして、相手が完全にひるんだところで、ただし――、と補足をする。今後、モモちゃんにいっさい関わらないと誓うのであれば、今回だけは法には訴えないという筋書きだ。
「どう? わたし、やれると思うんだけど」
 わたしはまじめに言ったのだが、モモちゃんはなぜか小さく吹き出した。そして、このツアーではじめて、心から愉快そうな顔をしたのだった。
「小雪さん、面白いです」
「え?」
「だって、弁護士のふりをして悪戯するなんて」
「え、悪戯じゃなくて、仕返しだけど」
「そういうところも面白いです」
 モモちゃんにくすくす笑われて、わたしの内側で沸騰していたマグマがゆっくり冷まされていく気がした。そして、それと反比例するように気恥ずかしさが込み上げてきた。
「あは。なんか、わたし、ひとりで熱くなっちゃった?」
「でも、嬉しかったです」
「え?」
「ありがとうございます」
 照れくさくなったわたしは「だって、友達だろ」と冗談めかして、モモちゃんの肩を肘でつついた。
 モモちゃんは、少しはにかんだと思ったら、「あっ」と声を出した。
「なに?」
「わたし、もっといい方法を思いついちゃいました」
「なんの?」
「彼への仕返しです」
 わたしは吹き出した。
「結局、仕返しするんかいっ」
「はい」
 頷いて、モモちゃんも破顔した。
「なに? どうやってやるの?」
「あの人、オバケも水子もすごく苦手みたいなので、そっちで脅かす方がいいかなって」
 モモちゃんが前歯を見せるように悪戯っぽく笑った。この娘、本来はこんなにチャーミングな顔で笑える娘だったんだと、わたしは密かに感心してしまった。
「あはは。それ、おもしろそうじゃん。で、どうやるの?」
「このツアーには、その適役がいるかなって……」
 わたしは、思わず膝を打った。
「入道さんだ!」
 モモちゃんは「はい」と頷くと、それから少しの間、この楽しい空気を味わうように微笑んでいた。そして、続けた。
「わたし、このツアーの参加者の皆さん、好きです」
「どうしたの、急に」
「なんか、安心できるっていうか……、誰も悪意のある嘘をついていない気がして」
「たしかに、悪い人はいないかもね」内心で、変わり者ばかりだけどね、と付け加えてから、ちょっと気になったことを訊いてみた。「ちなみに、善意の嘘は? 誰かついてるの?」
「それは――」
「それは?」
「誰でもつくから……」
 モモちゃんの視線が、かすかに揺れたのを、カウンセラーのわたしは見逃さなかったけれど、顔には出さずにおいた。
「そっか。うん。そうだよね」
「ええと……、たとえば、さっきの小雪さんみたいに、転んだフリして嘘をついたり」
「うわ、さっそく、そう来るか」
 わたしたちは肩を寄せ合ってくすくす笑った。
「だから、みんな、嘘つきです」
「みんなっていうのは、言い過ぎじゃない?」
「ううん、みんな、です」
「どうして、みんな、なの?」
「わたしは知ってるからです」
 わたしには嘘が分かるから、ではなく、知ってるから、とモモちゃんは言った。さっきの視線といい、この発言といい、ちょっと気になったけれど、でも、わたしは流すことにした。なにしろ、いま隣でモモちゃんが微笑んでいて、わたしもホッとしていて、うっすら花の香りが溶けた春風が吹いていて――、とりあえずは、それでいいじゃん、と思ったからだ。
 ホッとしたら、ふいに龍ちゃんのことを思い出した。
 しまった。ずっとあのベンチで心配しているかも――。
 わたしはモモちゃんに「ちょっとメールを一通だけ送らせて」と言いながらスマートフォンを手にすると、急いで龍ちゃんにメールを送った。
《モモちゃんとリスのジェットコースターのところにいます。もう大丈夫だから安心してください。詳細は、後ほど》と。そして、モモちゃんに向き直った。
「ねえ、モモちゃん」
「はい?」
「ちょっと気分が良くなったところでさ、わたしの個人セッションを受けてみない?」
「個人セッション、ですか?」
「うん。いまのモモちゃんが本当に求めているものを自覚して、なるべく心を軽くするためのセッションなんだけど」
 こちらから一方的にセッションを勧めたとき、モモちゃんのようなタイプは怪しんだり、怖がったりして、受けるかどうかを悩むケースがよくある。しかし、意外にもモモちゃんは二つ返事だった。
「はい。心が軽くなるなら」
 瞳の奥に、訴えかけるような光が揺れた気がした。
 わたしは、モモちゃんからの全幅の信頼を感じとって、頷く。
「オッケー。じゃあ、さっそくはじめようか」
「はい」
 モモちゃんは少し緊張したのか、「ふう」と息を吐いた。
「セッション中は、リラックスしていいからね。じゃあ、まずは、そっと目を閉じてくれる?」
「はい」
 立入禁止のアトラクションの階段に並んで腰掛けたまま、このツアーでは初となる――というか、最初で最後となりそうだけれど――、わたしの個人セッションがはじまった。


【天草龍太郎】
《モモちゃんとリスのジェットコースターのところにいます。もう大丈夫だから安心してください。詳細は、後ほど》
 そのメールを受信したとき、俺はすでに二人の間近まで到達していた。じつは小雪からの連絡に待ちくたびれて、モモちゃんを探しに出ていたのだ。
 俺はゆっくりとリスのジェットコースターに近づいていき、やがて二人が並んで座っている階段のそばに立った。二人はなにか話し込んでいるようで、俺の存在にはまったく気づかなかった。
 上を見上げて、何かしら声をかけようとすると、落ち着いた小雪の声が降ってきた。
「セッション中は、リラックスしていいからね。じゃあ、まずは、そっと目を閉じてくれる?」
「はい」
 どうやら小雪がセッションをはじめたらしい。
 このタイミングで声をかけるのは気が引ける。かといって、わざわざ離れていくのも不自然な気がした。ついでに言えば、小雪のセッションを聞いてみたいという好奇心もあった。
 そんなわけで、なんとなく俺は、二人の真下へと入った。
 つまり、階段の下に身を隠したのだ。
 このアトラクションの階段は、段と段の間に隙間があるから、俺はちょうど二人のアキレス腱を後ろから見ている格好になった。
 ふわり、と相変わらず花の香りのやさしい風が吹いている。
 俺は階段の下の太い円柱状の金属の柱に背中をあずけ、耳を澄ました。
「これから、わたしがモモちゃんに質問をしていくから、なるべく正直に答えてね」
 小雪は、目を閉じさせたモモちゃんに、穏やかに語りかけた。
「はい」
「じゃあ、最初の質問ね。この世に、実際にあるもののなかで、いま、モモちゃんがいちばん欲しい、手に入れたい、と思っているものって、なに?」
「いちばん、欲しいもの――」
「うん。もうね、何でもいいんだよ。心の思うままで。例えば、十億円の豪邸でもいいし、イケメンでやさしい彼氏でも、幸せな結婚でも、高級車でも、車の免許でも、一人暮らしの穏やかな生活とか、世界一周の旅とかでもいいよ」
「うーんと……」
「目を閉じたまま、自分の心の深いところにゆっくり降りていって、本当に欲しいものは、なに? って自分に訊いてみてね」
「はい。ええと……、なんだろう」
 モモちゃんはしばらく考えた後に、ぽつりと答えた。
「いちばんは……、不安と恐怖のない心、かな……」
「なるほど。そっか。じゃあ、次の質問ね。モモちゃんがいちばん欲しているという、心に不安と恐怖のない状態って、モモちゃんがどんな生き方をしていたら得られるかな?」
 また、モモちゃんはじっくりと考えてから答えた。
「ちょっと、恥ずかしいですけど……」
「うん、いいよ。恥ずかしいことでも、そのまま素直に答えてね。それがこのセッションの大事なところだから」
「はい。えっと、家族かもって、思います」
「家族?」
「ちょっとベタですけど、ホームドラマに出てくるような、あったかい感じの家族のイメージかも……」
「いいね。それをもっと具体的に教えてくれる?」
「ええと……、怒って大きな声を出したりしない、やさしい旦那さんと、ちっちゃくて可愛い娘がそばにいて、家にはお花の咲いた庭があって、元気な犬がいて……」
「いいねぇ。その世界で、モモちゃん自身は、どんな存在?」
「わたしは……専業主婦かな。にこにこしながら、家族に美味しいご飯を作ってあげてる。家事も楽しい。そういう感じです」
「素敵だね。わたしも、憧れちゃう。じゃあね、今度は、それをモモちゃんが本当に手に入れたと思って、その状況をなるべくリアルに思い描いてみて。あたかも自分がその場所にいるように。周囲の風景とか、空気感とか、匂いとか、手触りまで、具体的にイメージしてね」
 モモちゃんの返事は聞こえてこない。おそらく小雪の言葉に頷いて、想像を膨らませはじめたのだろう。
 なんとなく、俺も目を閉じて想像してみた。
 俺の作る家族。すぐ隣には――、やっぱり小雪がいて、小さな娘がいて、俺は穏やかな気分で微笑んでいる旦那さんで……。
 ああ、やっぱり、そういうの、悪くないなぁ……、と思ったら、うっかりため息をついてしまった。
 三〇秒ほどして、再び小雪の声が頭上から降ってきた。
「イメージできたかな?」
「はい」
「じゃあ、あったかくて幸せな家族に囲まれている『空想のなかのモモちゃん』に訊きますよ。いま、あなたの胸の内側はどんな感じですか?」
「えっと……、なんか……、すごく、やさしい気持ちで、ほかほかしてます」
「うん。いいね。他には?」
「とっても大事なものが周りにたくさんあるから、満ち足りていて、すごく幸せです。心が光っているというか、光に包まれているというか……」
「自分のことも、大事かな?」
「……はい。この生活のすべてが大事なので、そのなかにいる自分も、いとおしいような気がします」
「それは素敵だね。目の前に広がっているその世界は、どんな感じに見えてる?」
「きらきらしています。すごく」
「じゃあ、そのきらきらした世界にいられる幸福感を、あらためて、じっくり、丁寧に、深く、心に染み込ませるように味わってみて。ああ、もう、本当に幸せだなぁって。しみじみと」
「はい」
 モモちゃんのこの「はい」と言った声色が、すでにやさしいきらめきを含んでいるように俺には聞こえた。それは、ちょうど、いま吹いている春風と、とても相性のいい声でもあった。
 せっかくだから、俺もまた目を閉じて、空想の世界での幸福感を味わってみた。すると、気持ちが徐々に穏やかになり、しっかりと地に足が着いてきて、心地よいエネルギーが体内に満ちていく感じがした。小雪と娘のためなら、何でもやれそうな気にさえなってくる。そして、そういう自分自身が、どこか誇らしくも思えた。
 また三〇秒ほどして、小雪がそっと言う。
「じっくり味わえた?」
「はい」
「じゃあ、次に行くよ。いまは『空想のなかのモモちゃん』が、いちばん手に入れたいものを手にしたときの最高な気分を味わっているんだけど、その気持ちを胸にそっと抱いたまま、『空想のなかのモモちゃん』と、いまわたしの隣にいる『現実のモモちゃん』がひとつになってみて」
「はい……」
 空想のなかの俺も、穏やかさや誇らしさを抱いたまま、現実の俺とゆっくりひとつになってみた。すると、イメージのなかにあった至高の幸福感が、現実の自分の胸のなかに満ちた気がした。
「まだ、目を閉じたままだよ」
「はい」
「モモちゃん、いま、どんな気分?」
「幸せです。最高に。涙が出そうなくらい」
「じゃあ、そのまま『現実のモモちゃん』に質問を続けるね。いま、人生でいちばん手に入れたいものを手にした気分を味わっているけど、具体的には、どんな感じ?」
「なんか、もう、すごく素敵です。胸のなかがクリアで清々しいのに、明るくて、ほかほかしています」
「じゃあ、そのクリアで清々しいのに、明るくて、ほかほかした気持ちを、そこからさらにふわーっと大きく広げてみて」
 俺も目を閉じたまま、幸福感を広げてみた。
「ふわーっと、気持ちよく、どんどん広げて、無限大にまで広げていくイメージね」
「はい」とモモちゃんが答える。
 俺も、そのイメージを試す。すると、幸福感が、ぬくもりのある光のようになって、みるみる世界を満たしていくような気分になった。
「さあ、遠慮しないで、もっともっと、モモちゃんの幸せが広がっていくよ」
 耳に心地いい小雪の声が、俺の心の奥にまで浸透してくる。
「モモちゃんの胸にある幸せが、どこまでも広がって、日本を覆い尽くして……、地球を覆い尽くして……、宇宙にまでふわーっと広がっていく感じ」
「…………」
「信じられないほど大きな幸福感――、それが心地よく無限の広がりに溶けて、さらに広がっていくよ」
 俺の心は、もはや無重力に浮かんでいるような、不思議な心地よさを感じていた。
「モモちゃん」
「はい……」
「いま、どんな気分?」
「えっと、なんだか、真っ白な世界に浮かんでふわふわしてるような……、味わったことのない幸福感っていうか……」
「そう。じゃあ、その究極の幸福感をじっくりと味わってみて」
 俺も、味わった。じっくりと。なんだか不思議と涙が出そうになってくる。
 それから二〇秒ほど、小雪は何も言わなかった。
 俺とモモちゃんは、おそらく似たような感覚を胸に刻みつけていたのだと思う。
「じゃあ、究極の幸福感を味わったまま、ゆっくりと目を開けてみて」
 ささやくような小雪の声が、頭上から漏れ聞こえてきた。
 俺も、言葉の通り、まぶたをゆっくりと開けた。
 目の前の世界は、きらきらした春の光に満ちていて、やけにまぶしく感じた。
「モモちゃん、どう?」
「はあ……、すごいきらきらした幸福感が胸に残ってます。目の前の風景も、きらきらして、明るくて、素敵に見えます。なんか、催眠術にかかったみたい」
「うふふ。いま、モモちゃんが味わった感情はね、モモちゃんが自分で作り出した最上級の幸福感なの。ものすごく心地よかったでしょ?」
「……はい」
 モモちゃんの返事には、しみじみとした実感がこもっていた。俺も、まったくもって同感だった。
「ねえ、モモちゃん」
「はい」
「じつはね、人間が本当に心の奥底から求めているのって、物質を手にいれることじゃないんだよ」
「え……」
「求めているのは、満ち足りたときに味わう感情なの。つまり、いまモモちゃんが味わった感情。みんな、それを味わいたくて、お金を求めたり、恋人を求めたり、物欲に走ったりしているの。いまモモちゃんは、欲しいものをすべて手に入れた後の、最高の気分を味わっているでしょ?」
「はい……」
「ということは――、モモちゃんがこの人生で究極的に求めているものを、いま手に入れたってことじゃない?」
「あ……」
 俺も、心のなかで、あ……、と言っていた。
 なるほど。人は結局、モノを得たいのではなくて、モノを得ることで味わえそうな、その先の感情を求めているのか。つまり、自分が本当に得たいモノは――。
「もう分かったよね。モモちゃんがいちばん欲しいものは、すでにモモちゃんのなかに全部あるんだよ。しかも、いつでも、いまみたいに味わえるの」
「…………」
「だからね、もう、他人に何かを求めなくてもいいし、何かがないと不幸せだって考えなくてもいいの。モモちゃんが、ここにいること――それだけで、じつは最高なのね。だってモモちゃんは、最上級の幸せとセットになった存在なんだから」
「はあ……」
 モモちゃんのため息が聞こえてきた。幸せ一〇〇パーセントのため息だ。
「たとえば、贅沢な暮らしをしているお金持ちでも、不幸のあまり自殺しちゃう人もいるよね? 反対に、貧しくとも、すべてを手にしたかのようにニコニコしていて、とても幸せそうな人もいるでしょ? ってことは、結局、物やお金を手にしたり、人を思い通りに動かすことと、自分が幸せを感じることって、別問題なんだよね。自分の内側にある幸せを味わえなければ、どんな大富豪だって不幸なわけ」
「そっか……」
「人間の不幸っていうのはね、いつだって自分の外側に何かを求めることからはじまるのね。人でも物でもお金でも、求めるから、ときに思い通りにならなくて不幸を感じるの。そもそも求めなかったら、不幸なんて感じたくても感じられないんだよ」
「はい」
「だから、いまこの瞬間から、モモちゃんは、何もなくても幸せな人になってね。いつだって満ち足りている人。そもそも、究極に欲している幸福とセットな存在なんだからさ」
「はい」
「で、もしも、自分以外のところから、ほんの少しでも何かが得られたら、それは、何もなくても幸せだったところに、さらにプラスされた、いっそう幸せでラッキーなこと。そうやって考えようね」
「はい……」
「ちなみに、いま、わたしは、ここで春の空気を深呼吸できるのが幸せだよ。隣でモモちゃんがにっこりしているのも、大きな幸せ。そうやって幸せを数えていくと、人生は感謝であふれてくるからね」
「はい。なんか、わたし、生まれ変わったみたい」
 モモちゃんの返事に、明らかな声の張りが出ていた。ついさっきまで、死にたい、なんて考えていた人間とは思えないほど、極端な変わりようだ。もちろん俺の心のなかにも、俺自身が作り出した幸福感がしっかりと残されていて、しかも、周囲の世界が明るく鮮やかに目に映っていた。
 やっぱりすごいな、小雪は……。
 胸裏でつぶやいた俺は、ため息をこらえながら踵を返した。
 そのまま頭上の二人に気づかれないよう忍び足で歩き出す。
 少し、一人で散歩でもしようかな――。
 俺は、そんな気分になっていた。

(第24回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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