双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 21 回



【天草龍太郎】
「あはは。ちょっと不恰好なギターでしたけどね」
 笑ったら、つるりとしずくが頬を伝ってしまった。しかし、サブローさんは、それを見て見ぬフリをして、少し明るめの声で俺の名を呼んだ。
「ねえ、龍さん」
「はい」
「つかぬことをお聞きしますけど、さっき、失恋バスツアーを企画して立ち上げたのは龍さんだって言ってましたよね?」
「あ、はい」
「そもそも、どうして、このツアーをはじめようと思ったんですか?」
「ああ、それは」
 と言ったとき、俺の脳裏には、病院のベッドの上でさらりと浮かべた美優の笑顔が明滅した。
「妹が、ちょっといいことを言って、それでひらめいたんです」
「ほう、どんな?」
「失恋できるって、それだけでも幸せなことだし、人生には色々とつらいこともあるけれど、見方を変えれば、その出来事の裏側に隠された神様からのプレゼントに気がつく、とか、そんな感じの言葉でした」
「なるほど」サブローさんは、白い無精髭の生えた顎を撫でながら「その意味、龍さんは理解していましたか?」と、俺をちょっと覗き込むようにして言った。
「え、まあ、少しは」
「というと?」
「ようするに……、まあ、たとえばですけど、失恋をしたからこそ、次の素敵な人に出会えるチャンスを得られるとか、つらい思いをしたからこそ、人にやさしくなれるとか、そういうことですよね?」
「そうですね。その考え方、仏教では『逆に視る』と書いて、『逆視』って言うらしいですよ」
「逆視?」
「はい。私も、ついこの間、知ったばかりなんですけどね、なんでもそれはお釈迦様の大切な教えで、この世の出来事はすべてプラスのこととマイナスのことが一緒になってやってくる。だから、どんなにつらい出来事でも、見方ひとつでいい出来事に変えられるんだよって、そんな素敵な教えらしいんです」
 それは、俺にも分かった。
 美優も同じような説明をしていたし。
 しかし、必ずしも、この世界にはそう上手くはいかない出来事だってあるのだ。マイナスだけの出来事――それを俺は身をもって経験したのだから、断言できる。
「でも、サブローさん」
「はい」
「お釈迦様はそう言ったのかも知れませんけど、実際には、マイナスだけで出来ている、つらいことだってありますよね」
「そう、ですか?」
 サブローさんは、眉根を少し寄せて、はて? という顔をした。
「たとえば」俺は美優の死に顔を思い出して言った。「近しい人の死は、そうですよね?」
 ところが、サブローさんは首をひねったのだ。
「そうですかね?」
 え?
 思わず俺は、サブローさんの目をじっと見てしまった。
「ぼくは、妹を亡くしましたけど、それに関しては、さすがにどんな見方をしてみても、悲しみしかなかったです。妹が死んでよかったこと、プラスのことなんて、ひとつもありませんから」
 あるはずがない。そんなの、当たり前ですよね? と言わんばかりに、俺は言った。
 しかし、サブローさんは、「うーん」と唸るだけだ。
「え? だって、身内の死ですよ。それを、見方ひとつでいい出来事に変えられるなんて、さすがに……」
 俺は、サブローさんを責めるわけではなく、むしろ自分の理屈を再検証するように言った。
 しかし、サブローさんは、ゆっくりと首を左右に振ったのだ。
「龍さん」
「はい?」
「よくよく思い出して欲しいんですけど」
「え……」
「まず、龍さんと妹さんは、とても仲が良かったんですよね?」
 サブローさんは、何を言い出すのだろう?
 とりあえず俺は、黙ったまま小さく頷いた。
「お二人は、お互いを、とても大切に思い合っていた。とても素敵なきょうだいだったわけです」
「…………」
「それなのに、妹さんが若くして亡くなってしまった。おそらく龍さんは、妹さんの遺体を見て泣いたんじゃないですか?」
「まあ……」さほど涙もろいわけでもない俺でも、あのときはさすがに泣いた。「はい、そうですね」
 俺は、美優の遺体にかけられた白いシーツの上に、ぽたぽたと落とした自分の涙を思い出した。
「ということは、おそらく、お葬式でも泣いて、焼き場で骨になってしまった妹さんの姿を見ても泣いたでしょう」
「あの……、ちょっと」
 俺は、胸の内側で膨れ上がる嫌な熱に耐えかねて、少し無遠慮なサブローさんの言葉を遮ろうとした。しかし、サブローさんは、両手を前に出して、逆に俺の言葉を制止したのだ。そして、ゆっくり頷いてみせると、さらに続けた。
「龍さんは、妹さんのお骨を家に持ち帰って、それを見て泣いて、そのお骨をお墓に入れるときも泣いたかも知れません。その_後も、誰もいない妹さんの部屋を見ては悲嘆に暮れて、悲しむご両親を見ては、いっそう悲嘆に暮れたはずです。それから後も、ずっとずっと心の痛みを味わい続けていますよね?」
「…………」
「大切な妹さんだったんですから、きっとそうですよね?」
 無遠慮な言葉を投げ続けるサブローさんは、しかし、どこか恵み深いような目で俺を見ていた。
「…………」
 四年をかけてようやく半分だけフタを閉められた悲しみの壺が、俺の内側でパリンと音を立てて割れてしまった気がした。
 喉がきゅっと詰まって、言葉が出てこない。
 だから俺は、ただ、頷いた。
「そうですか。やっぱり、地獄のように悲しみましたね」
 今度は、目だけで頷いた。
 すると、サブローさんの目の笑い皺が、かすかに深くなった。
「だったら、よかったじゃないですか、龍さん」
「え……」
「龍さんは、地獄のような悲しみを、長いこと味わい続けているんですよね?」
「…………」
「その龍さんが味わってきた感情を、妹さんに味わわせたいですか?」
「…………」
 まさか、そんなわけが――と思ったところで、俺はハッとして目を見開いた。
「気づきましたよね?」サブローさんは、ひとつ小さく頷くと、いっそう穏やかな声で続けた。「万一、妹さんよりも先に龍さんが死んでいたら、大事な妹さんに、いまの龍さんと同じ地獄を味わわせることになったんですよ。でも、龍さんは、それをしなくて済んだんです。大切なきょうだいを失うという地獄のような悲しみを、大事な妹さんに味わわせないで済んだ。妹さんの代わりに、龍さんがすべて引き受けたんですから。ね?」
 そこまで言って、サブローさんはにっこりと笑った。
 ふわり。
 また、春の風が吹いて、かすかに花の匂いがした。
 その匂いが、美優の白い病室の窓辺で咲いていた花の匂いの記憶とリンクした。
「そっか」
 俺は、静かに、深く、呼吸をして、うっすら漂う花の匂いを嗅いだ。そして、続けた。
「それが、逆視……なんですね」
 なんですね、のところは、うっかり涙声になってしまった。
 頬を伝ったしずくが、ひた、ひた、と白茶けたテーブルの板上に落ちて黒いシミを作った。四年前のあの日、病院の白いシーツの上に落としたしずくを思い出す。
「はあ」
 と、ひとつ息を吐いた俺は、右の手の甲で涙をぬぐった。
「サブローさん」
「はい」
「なんか、もう……、ありがとうございます」
「いえいえ。私は何もしてませんよ」
 サブローさんはさらりと言って、バスを降りるときに配ったペットボトルの水を少し飲んだ。
「サブローさんは、どうして逆視なんていう難しい言葉をご存知なんですか?」
 俺は、心の薄皮がはがれたような、どこか清々しい気分で訊ねた。
「このあいだ、たまたま、そういう本を読んで、なるほどなぁって思ったんです」
「仏教の本が、お好きなんですか?」
「いえいえ。仏教というか、死生観について書かれた本をね、このところ色々と読んでみてたんです」
「死生観って、生きる、死ぬの、あの死生観ですか?」
「ええ」
 サブローさんは、春の風を心地よさそうに浴びて、少し目を細めている。
 俺は、その先の質問が出来なくなっていた。
 すると、サブローさんの方から口を開いてくれた。
「癌なんです、私」
 サブローさんは、あっさりと言った。
 やさしげに微笑んだまま。
「え……」
 俺は、内心で、やっぱり、と思いながらも、想像通りだったことがショックで、言葉を続けられなかった。
「癌のなかでもやっかいな膵臓癌ってやつでしてね、余命、ラッキーセブンか末広がりくらいだそうです」
 サブローさんはそう言って、悪戯っぽく笑ってみせた。
「年、ですか?」
「いえ。月、です」
 七ヶ月か、八ヶ月って……。
 嘘だろ?
「あはは。そんなに驚かないで下さい。私は大丈夫ですから。まあ、そんなわけで、最近は、死生観の本を読み漁っていたんです。そうしたらね、この歳にしてすごく勉強になりまして、色々と賢くなってしまいました」
 サブローさんは、笑いながら自分の禿頭を撫でておどけた。
 俺は、まだ口にすべき言葉を見つけられずにいた。
「本ってのは、もっと若い頃からたくさん読んでおくべきでしたよ」
 俺は曖昧に頷いて応えながら、頭では、これまでのサブローさんの行動を振り返っていた。猛々しいイノシシの前にあっさりと立ちはだかったり、時間があるって幸せなことだと言ったり、そして、ときどき見せる、遠くを眺めるような目――、それらが一気に腑に落ちた。
「あの、山田さんとは……」
 俺の脳裏には、今朝のサブローさんと山田さんの別れのシーンが思い出されていた。
「山田さんは」と言って、サブローさんは息を吸った。そして、少し言葉を選んでつぶやいた。「ずいぶんと、いい人でしたね」
「山田さんは、ご存知だったんですね」
「最初は知らなかったんですけどね、お互いに」
「お互いに?」
 胸のなかの嫌な予感が、また増幅した。
 サブローさんは、小さく二度、頷いた。
「彼とは、たまたま同い年だったんで、昨日、会ってすぐに気心が知れたんです。でね、同世代なら分かる懐かしい思い出話をしていたら、彼がふとこんなことを言ったんです。そういえばアメリカのある大学で老人たちにアンケート調査をしたら、ほとんどすべての老人が『若いときに、もっと冒険やチャレンジをしておけばよかった』と答えたらしいよって」
「冒険と、チャレンジ」
「そうです。でね、私たちは、本当にそうだよなぁって、後悔の念を共感し合ったんですよ。そこから、なんとなくね、お互いの病気のことを打ち明けたんです」
「…………」
「若い人たちに、冒険やチャレンジをすべきだって伝えるのは、後悔している年寄りの仕事なんですよね。彼らが将来、後悔しないように」
 サブローさんが、また微笑んだ。
「あの、つまり……、山田さんも」
 言い淀む俺をまっすぐに見て、サブローさんが小さく頷いた。
「私と同じ病気でした」
 俺は目を閉じて、ひとつ、ため息をついた。
 駐車場の方から工事の音がかすかに響いてくる。
 やさしい春の風と、その匂い。
 まぶたを上げると、サブローさんの屈託のない微笑。
 今朝の山田さんとサブローさんの別れは、おそらく、お互いにとって今生の別れのつもりだったのだ。そのことを想ったら、俺は、お腹のあたりからすうっと力が抜けてしまった。
「ねえ、龍さん」
「はい……」
「チャレンジと冒険、しておいて下さいね」
「え……」
「ほら、失敗しても、ちゃんと神様からのプレゼントが、失敗の裏側にはありますから」
「そうですね」
 と答えたら、声がかすれてしまった。
「よし。これで任務完了です」
 サブローさんが、ゆっくりと立ち上がって、腰に両手をあてて背中を少しそらした。
「え、任務って」
「龍さんに、チャレンジと冒険をするよう伝える任務です」
「何です、それ。誰かに頼まれたんですか?」
「いいえ、私が自分に課した任務です」そう言って笑ったサブローさんは、ふいに何かを思い出したような顔をした。「あ、そうだ。私、龍さんに謝らないといけないんです」
「え……、何を、ですか?」
「じつは、私ね」サブローさんは、また悪戯っぽい顔で俺を見下ろした。「失恋をしていないんです」
「…………」
「このツアーは、いったん落ち込んだ後にすっきりするって評判だったので、どうせなら私もとことん落ち込んで、ちゃんと浮上しようと思ってね。それで申し込ませて頂いたんです」
「サブローさん」
「はい?」
「色々と、添乗員の私に内緒にしてたんですね」
 俺も、少しは悪戯っぽい顔をしてみせることにした。
「いやはや、申し訳ないです」
 サブローさんは耳の後ろあたりをぽりぽりと掻きながら、眉をハの字にして微笑んだ。
「しっかり、落ち込んでもらえていますか?」
「それがね」
「…………」
「残念ながら、いまいちです」
「え……」
「でも、いいなあって、しみじみ思えました」
「…………」
「いろんな人がいて、楽しくて……、この世界に生きているって、いいなあってね、しみじみ思えましたよ。だから――」
 そこで、サブローさんは、すっと笑みを消した。
「医者に言われた余命なんて忘れて、やりたいことをやって、なるべく長生きしようって思えました」
「サブローさん……」
「せっかくなんで、悪あがきして、恋愛なんかもしちゃおうかなってね」
 また、笑った。
 顔をしわしわにして、あっけらかんと。
「じゃ、龍さん」
「はい」
「私も、そろそろ散歩に出てきます」
「え……」
「じゃあ、お昼に」
 そう言ってサブローさんは微笑むと、こちらに背を向けた。そして、ジェットコースターの方へと歩きはじめた。
 老人の背中と、ジェットコースターと、まぶしくない青空と、そして、ちりぢりになってしまった美優のギター。
 俺もゆっくりと立ち上がった。そして、声を上げた。
「チャレンジと冒険――しましょう。お互いに」
 サブローさんは振り返らずに、ただ右手を上げてひらひらと振るだけだった。
 振り返らなくても、俺には分かっていた。
 いま、サブローさんの目尻には、くっきりと深い笑い皺が刻まれていることを。

(第22回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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