双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 20 回



【天草龍太郎】
(承前)
 小雪は、今日もさりげなくモモちゃんの背中を追うように、少し距離を置いて付いていった。やはり彼女のことは気になっているのだろう。
 俺は、そんな彼らの背中を眺めながら「さてと」と小さな声を出した。これから約一時間半ほどはフリータイムとなる。添乗員も、多少は気を抜いていられる時間なのだ。
 荒涼とした遊園地のなかには、つねに弱い風が吹いていた。
 風向きによっては、建設現場となっている駐車場跡から重機の音が聞こえてくる。それ以外は、嘘のように静かな場所だ。
 俺は、いつものようにジェットコースターがある方へと少し歩き、無人の売店の前に並べられたテーブル付きベンチに腰掛けた。
 コーヒーでも飲みたい気分だったが、手元にあるのは参加者と同じペットボトルの水だけだった。そのキャップを開けて、ごくごくと喉を鳴らす。
 水を飲むとき、自然と春の空を見上げる格好になった。
 頭上には、やわらかなブルーが広がっていた。
 よく晴れているのに、不思議とあまりまぶしくない空なのだ。
 俺は、ついさっきまで乗っていた、くたびれた空色のバスを思い出した。おんぼろだが、かなり愛着のわいたバスだった。
 ジェットコースターの真上に、ギターを彷彿ほうふつさせる形の雲が浮かんでいることに気づいた。
 俺は、ショルダーバッグのなかからスマートフォンを取り出すと、それを空に向けてかざした。そして、ジェットコースターと雲の両方をフレームに収めた写真を何枚か撮影した。
 撮りたての写真を、ひとつひとつ吟味する。
 いちばん構図と色味のいい一枚を残して、あとは消去した。
「んでもって、こいつを……」
 ひとりごとを言いながら、俺はフェイスブックを立ち上げた。そして、ギターの雲の写真と、短い文章を投稿した。
《ギターが空に! 美優みゆが、久しぶりに弾いてくれたのかな? 失恋バスツアーでこの遊園地に来るのも今日が最後だと思うと、ちょっとセンチメンタルだなぁ……》
 そう書いたら、なんだか本当にセンチメンタルな気分になってきて、スマートフォンの画面に向かって「ふう」と深いため息をついてしまった。
 と、次の瞬間――、
「フェイスブック、やってるんですか?」
 俺のすぐ後ろで声がした。
「うわっ」
 驚いた俺は、ベンチから尻を五センチほど浮かせていた。
 慌てて振り返ると、目の前にしわしわの顔があった。いつの間にかサブローさんが後ろにいて、スマートフォンを覗き込んでいたらしい。
「あはは。驚かせちゃいましたか。こりゃすみませんね」
「あ、い、いえ。なんか、ぼうっとしてたら、急に声がしたもんで」
 サブローさんは「いやあ、申し訳ない」と、禿げた頭を掻きながら、テーブルの向こう側に回り込むと、俺の正面のベンチに腰を下ろした。
「空の写真を投稿したんですか?」
「まあ、はい。たいした写真じゃないですけど」
「ほう、どれどれ」
 サブローさんは、俺のスマートフォンではなく、空を見上げた。
 あまりまぶしくないブルーなのに、目を細めている。
「あそこに、ひょうたんみたいな雲がありますね」
 老人特有の、少しかすれた声で言う。
「あの雲、ぼくにはギターに見えたんですけど」
「ああ、なるほど。たしかに、そうも見えますね」
「ええ」
「それにしても、今日はやさしい空ですね」
 ポジティブな言葉なのに、なぜだろう、サブローさんが言うと、なんだか少し淋しく響く。
「サブローさん、散策には、行かないんですか?」
 空から視線を下ろして、俺は訊ねた。
「なんだか、少し疲れましてね」
「え……、大丈夫ですか?」
「いやいや、そんな心配するようなことじゃないんです。単純にね、この歳ですから」
 目尻に人懐っこい皺を作って、サブローさんがこちらを見た。
「私もね、最近、フェイスブックをはじめたんですよ」
「あ、はい」
「もしよかったら、龍さんに友達申請をさせて頂いても?」
「え? あ……、ええと、それは、ですね」
 思いがけない急な申し出に、俺は失礼のない辞意の言葉を見つけられずにいた。そんな俺の様子から、あれこれ察してくれたサブローさんは、すぐに両手を前に出して「ああ、すみません。さすがに友達っていうのは気安すぎましたよね。なにぶん、初心者なもので、失礼しました」と肩をすくめてみせた。
「いや、えっと、違うんです。そうじゃなくて――、本当なら、友達になって頂きたいんですけど、でも、ちょっと、このアカウントはですね……、ええと、何て言ったらいいんだろう」
 俺は、できるだけ上手な言い訳をしようとしたのだけれど、むしろどつぼにハマった感があった。
 サブローさんも、そんな俺を見て、少し困惑気味の表情を浮かべている。
 色あせた木製のテーブル越しに、微妙な沈黙が生まれてしまった。
 そのとき――、
 ふわり、と、俺たちの間を木綿の肌触りの風が吹き抜けた。
 それは花の匂いをうっすらと含ませた、春めいた風だった。
 ふと、駐車場の工事現場の音が聞こえた。
 風向きが変わったのだ。
「ああ、ほら、龍さん、さっきの雲が、真ん中からちぎれそうですよ」
 サブローさんは、俺を気まずさから解放しようとしてくれたのだろう、ふたたび空を見上げてしやがれた声を出した。
「え?」
 俺も、空を見上げた。
 美優のギターは、すでに形を失っていた。
「この世で形のあるものは、はかないですなぁ」
 しみじみとサブローさんが言う。それとなく話題を変えようとしてくれるやさしさに、俺は妙なくらいほっこりとしてしまった。
 また、いい風が吹く。
 その風の肌触りのせいか、サブローさんの人懐っこい笑みのせいか、あるいは、美優のギターが消えてしまって淋しかったからか――、理由はよく分からないけれど、とにかくこのとき俺は、サブローさんになら打ち明けてもいいや、という気分になっていたのだ。
「あの、サブローさん」
「はい」
「ぼくのフェイスブックのアカウントなんですけど、じつは、一人以外、誰にも教えていないんです」
「誰にも?」
 サブローさんと、まっすぐに目が合った。笑っているわけではないのに、その目尻には深い笑い皺が刻まれている。この人は幸福な人生を送ってきたのだろうな、と俺は素直に思う。
「はい。誰にも、です。フェイスブックの友達は一人だけって決めてるんで」
「あ、それは、もしかして、例の……」
 サブローさんが想像していることは、容易に分かった。
「あはは。違います。最近フラれた彼女じゃないです」
「あ……」
「じつは、妹なんです」
「妹さん?」
「はい」
「そうでしたか。きょうだいの仲がいいんですね」
「いい、というか……、良かった、という感じです」
「え?」
 サブローさんは小首を傾げた。
 俺は、そこでいったん静かに呼吸をしなければならなかった。
 そして、できる限り軽い声色で返事をした。
「妹は、再生不良性貧血っていう難病で、向こうに逝っちゃったんです」
 言いながら俺は、やさしい春の空を指差した。
 なるべくさらりと言ったつもりだったのに、実際に俺の喉から出てきたのは、むしろ湿っぽい声だった。
「ああ――、そう、でしたか。それは、なんと言うか……」
 サブローさんは、いたたまれなそうな顔をしてくれた。
「あ、でも、大丈夫です。もう四年も前のことなんで」
 俺は、今度こそさらりと返事をした。口角に小さな笑みを浮かべる余裕すら見せながら。
 サブローさんは、黙って小さく頷いて、俺をまっすぐに見ていた。
「あはは、なんか、暗くなってしまって、すみません」俺は、悲しいような、淋しいような、変な照れ笑いをして、「っていうか、なんで亡くなった妹だけを相手に、いまもフェイスブックをしてるのかって思いますよね?」と言った。
「…………」
 サブローさんは、まだ返事をせず、ただ曖昧に微笑むだけだ。
 しかし、その顔は、淋しさの裏側に同情とやさしさをにじませていたし、なぜか「死」にたいする清々しいまでの誠実さを感じさせた。
 すると、どういう風の吹きまわしだろう、俺は、その表情に、なんとも言えない「ゆるし」のようなものを感じてしまい、気づけば、誰にも語ったことのない身の上話をはじめていたのだ。
「なんか、シスコンとか、女々しいとか言われたら嫌だなと思って、フラれた彼女にもフェイスブックのことはずっと内緒にしてたんですけど――、でも、この投稿、日々の習慣みたいになってまして……、なんとなく、やめられなくて」
 しゃべりながら俺は、意識の一部が糸のようになって、するすると過去へ引き込まれていくような、妙な感覚を味わっていた。

 妹の美優と俺は、年齢が十も離れたきょうだいだった。
 ここまで歳が離れていると、さすがに喧嘩もほとんどしないし、俺は、なかば保護者のような心持ちで美優を猫っ可愛がりしていた。そして、美優もまた、家族のなかでは俺にいちばん懐いていた。いわゆる自他共に認める、仲のいいきょうだいだったのだ。
 美優は、二十三歳で夭逝ようせいしたのだが、晩年はほとんど病院のベッドの上での生活を強いられていた。
 一方の俺は、旅行会社に勤めて添乗員となり、全国各地を飛び回るような生活だった。だから俺は、ベッドに張り付けられたままの美優に、少しでも旅の気分を味わってもらおうと、あまり興味のなかったフェイスブックをはじめることにしたのだ。
 それからは、旅に出ればあちこちで写真を撮り、短いコメントをつけてフェイスブックにアップし続けた。病床の美優は、それを日々の愉しみにしてくれて、身体の調子がいいときは、投稿に長文のコメントをつけてくれた。そこにまた俺がコメントを返せば、旅先での様子をいっそう美優と共有できる気がしていた。
 フェイスブックをはじめる以前は、メールで旅先の写真を送っていたのだが、それだと律儀な性格の美優は、体調のすぐれないときでも無理に返信しようとするのだった。それが、かえって俺には負担だった。その問題が、フェイスブックを使ってからは一気に解消した。美優がただ「いいね」ボタンにタッチするだけで、小さなやりとりが出来るようになったからだ。投稿した写真がアルバムのようにどんどん溜まっていくのもよかった。ときどき美優は、過去にさかのぼりながら投稿された写真を眺めては、過ぎ行く日々に想いを馳せていた。
 そんな生活が続いたのは、二年間ほどだったろうか。
 美優は、真冬のある夜、永遠に目を閉じ続けることになった。
 それは、俺が添乗に出ている夜のことで、しかも、その日は旅先でトラブルが相次ぎ、フェイスブックに何も投稿できずにいた日だった。
 後日、母に聞かされたのだが、美優はベッドで眠ったまま、誰にも知られずひっそり息を引き取っていたらしい。朝、冷たくなっている美優に、看護師が気づいたのだ。そして、そのとき、美優の手にはスマートフォンが握られていたという。
 可愛がっていた妹を失った俺は、自分でも驚くほど喪失感に打ちのめされた。
 少しでも気を紛らわせたくて、仕事に没頭した。
 つまり「失恋バスツアー」の企画と立ち上げに傾注したのだ。
 そして、ちょうどその頃、俺は小雪と出会った。
 小雪はカウンセラーだけあって、放っておいたら堕ちていきそうな俺の心を、逢うたびに上手に引き上げてくれるのだった。
 まさに地獄に仏を見た俺は、日増しに小雪に惹かれていった。
 しかし、そんな小雪にすら、俺は亡くした妹のことをしゃべれずにいたのだ。
 なぜ、しゃべれなかったのか?
 理由のひとつは単純だ。心痛がひどすぎて、美優について語ることに強い抵抗があったからだ。
 だが、もうひとつの理由は、少しばかり複雑だった。もしも俺が「美優が死んだ」という事実を過去形で口にしてしまったら、その瞬間から、美優も、美優の死も、まるごと「過去のもの」になってしまって、現在から未来へと無抵抗に流されていく俺から、過去に置き去りにされた美優がどんどん離れていってしまいそうで――、つまりは、そういう妙な観念に、俺は恐怖を抱いていたのだ。
 だから俺は、美優のことを小雪に伝えられないまま、ただひたすらフェイスブックへの投稿を続けていたのだった。
 美優がもうこの世にいないという事実は、もちろん頭では理解していた。でも、なんだかフェイスブックに投稿さえしていれば、スマートフォンを手にしたまま天国に行った美優が、それを見てくれているような――、そんな気がしてしまうのだ。
 もちろん、それがタチの悪い妄想だということなど、俺だって重々承知している。それでも尚、俺は、線香でも手向たむけるような気分で、天国の美優に向けて投稿を続けたくなってしまうのだった。
 そうこうしているうちに、俺と小雪は恋仲になった。
 やがて互いに気心が知れる頃になると、俺は例の「ファミコン疑惑」をかけられるようになった。そうなってくると、いっそう美優のことを話しづらくなってしまう。なにしろ死んだ妹を相手にフェイスブックをやっているのだ。そんな怪しい行動を知られたら、いったいどうなることやら。相手はプロのカウンセラーなのだ。俺は変態に近いシスコンで、心が完全に壊れた人――、という烙印を押されないとも限らない。
 だから俺は、習慣のようにこっそりと投稿を続けたのだった。
 すると今度は、「いつも誰にメールしてるわけ? また家族?」などと、不審がられるようになってしまった。当然、俺は、他の女性にメールをしているだなんて、あらぬ疑惑を持たれたくはないから、「ファミコン疑惑」を覚悟しつつも「うん、家族だよ」と答え続けていた。
 天国にいても、美優は俺の家族だ。嘘ではないからね、と自分に言い聞かせながら。
 そして、ついさっき、俺はギターの形をした雲と出会った。
 美優は幼少期から音楽が大好きで、かつてはピアノもギターもそこそこ上手に弾いていたのだ。それを思い出しながら、俺はギターの形をした雲を撮影し、また性懲りもなくフェイスブックに投稿したのだった。

「なるほど、そういうことでしたか……」
 サブローさんは、ため息をついて、ゆっくりと頷いた。
 俺は、小雪については上手に省きながら、美優のことだけをサブローさんに打ち明けていた。
「なので、このフェイスブックは……」
「分かりました。これからも妹さん専用ですね」
 サブローさんが、少し目を細めて言った。
「すみません。なんか、自分でもときどき虚しいなって思うこともあるんですけど、でも、妹が最期にスマートフォンを握ったまま逝ったんだと思うと、つい――」
「私は、それでいいと思いますよ」
「…………」
「さっき、龍さん、線香でも手向けるつもりでって、言ってたでしょう」
「はい」
「亡くなった人って、生きている人に忘れられることがいちばん淋しいんだと思うんです。だから、お線香の代わりでも、そうやって気軽に投稿してあげたら、きっと妹さんは空で喜んでいると思いますよ」
「…………」
 俺は、目の裏側がじんと熱くなってしまって、うかつに声を出せなくなっていた。
「龍さん」
「はい」
「さっきの雲は、やっぱりひょうたんじゃなくて、ギターで間違いないですね」
 やさしいサブローさんが、わざと悪戯っぽい顔をして言った。

(第21回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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