双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 15 回



【天草龍太郎】
「ほう、なるほどな。ここはたしかにヤバいところだ」
 そそり立つ巨岩の上から海を見下ろす入道さんが、不吉な台詞を口にした。強い海風が吹き付けて、修験者のような衣服をバタバタとなびかせている。
「なにか、感じるんですか?」
 俺は、となりの巨漢を見上げた。
「あんた、ここに居ても、何も感じねえのか?」
 入道さんは、眉をハの字にして苦笑いをする。
「すみません、ぼくは……なにも」
「そうか。まあ、素人はそんなもんか」ぼそっとひとりごとみたいに言って、入道さんは懐から数珠を取り出した。「こいつはな、魔除けにもなるんだぞ」
「数珠が、ですか?」
「ああ。念のため言っとくが、こういう場所は、うっかり心が弱ってたりすると、引っ張られることがあるからな」
「え……」
「人の心のなかにある、自分でも気づかねえような小さな自殺願望が、この場の空気に触れることで急に膨れ上がって、うっかり飛び込みたくなっちまうんだろうな」
 入道さんは「自殺の名所」として全国的に知られた藍色の海を眺めながら、淡々と言う。
「それは、ちょっと怖いですね」
「おう、なかなか怖いところだぜ、ここは。まあ、あんたもせいぜい気をつけろよ」
 意味ありげにニヤリと笑った入道さんは、「てなわけで、俺はちょっくら霊界散歩でもしてくらぁ」と言い放ち、断崖の際に沿ってぶらぶらと歩き出した。右手にはしっかりと魔除けの数珠を握っている。
「ここ、そんなに、ヤバいのかよ……」
 ひとり取り残された俺は、誰にともなくつぶやくと、巨岩が連なって長い崖のようになった荒磯を見渡した。
 この辺りの巨岩は、古いレンガを思わせるようなせた赤茶色をしていた。あまりにも自殺者が多いため、その血で染まって赤くなった――などという迷信があるほどで、なんとなく風景が毒々しく見える。しかも、押し寄せる無数の激しい波が、その赤い岩にぶつかり、ごう、ごう、と重低音を響かせているのも、陰気な風情を助長している。
 いま、ツアーの参加者たちは、あちこちの巨岩の上へと散らばって、それぞれの時間を過ごしていた。
 小雪は珍しく、まどかさんと一緒にバスに残っていた。今日は、岩場を歩く気分ではない、というのがその理由だった。昨日からあまり食事を摂っていない小雪をおもい、俺は「はあ」と息を吐いた。フラれた女の身を勝手に案じている自分が、やけに情けなく思えてくる。
 一方の入道さんは、さすがに健脚で、凹凸のある巨岩の上を登ったり降りたりしながら、どんどん遠ざかっていく。
 あの人は、本当に、本物の霊能者なのだろうか?
 小さくなっていく入道さんの幅の広い背中を眺めながら、俺は、不吉な台詞を思い出した。
 うっかり心が弱ってたりすると、引っ張られることがあるからな――。
 小雪を失い、まもなく仕事まで失おうとしている俺は、ついつい心臓のあたりを叩きたくなった。
 弱るなよ。引っ張られたら、この荒波のなかにドボンだぞ……。
 胸裏でつぶやきながらも、俺はなんとなく興味本位でじりじりと崖の際までにじり寄ってみた。
 そこから、おっかなびっくり下を覗き見てみたら、すぐに足がすくんだ。海面からの高さは、十数メートルはありそうだった。もともと高いところがあまり得意ではない俺の心臓は、みるみる駆け足になっていく。
 荒磯に噛み付く激しい波が、ごう、ごう、と凶暴な音を立てた。
 それにしても、ここから飛び込んだ自殺者は、これまでに何人いたのだろうか。全国に名を轟かせるほどの「名所」だから、当然、二~三人程度では済まされないはずだ。
 崖下を見下ろしながらそんなことを考えたら、ふと背中に鳥肌が立って、ぶるると身震いしてしまった。
 と、その刹那――。
 どんっ。
「うわっ」
 強い風が目に見えない塊となって、俺の背中を押した――気がした。
「あ、あぶな……」
 思わず、声が出ていた。
 へっぴり腰になった俺は、あわてて崖の際から後ずさりして安全地帯へと逃げ戻った。
 暴れる心臓。耳の奥で脈が聞こえそうなくらいだ。
 引っ張られるんじゃなくて、押されたよ、入道さん……。
 声には出さず、ボヤいた。
 どんっ。
 また、突風が吹きつける。
 崖の下からは、岩に噛み付く荒波の重低音が駆け上がってくる。
 俺は、なんとも言えない嫌な寒気を感じて、とにかくこの巨岩から降りることにした。
 ごつごつして歩きにくい岩の上を、海とは反対の方に向かって歩く。連なる巨岩は、海側は断崖になっているのだが、陸側へ向かうと、ゆるやかな斜面になっている。その斜面を下り切ったところは、くねくねと蛇のように折れ曲がった遊歩道で、左に歩いていけば、ツアーバスが停車している駐車場だ。
 強い風に煽られながらも遊歩道にたどり着いた俺は、ホッとひと息ついて、いま降りてきた赤い岩々をあらためて見上げた。
 すると、視界の左隅に、なにか白っぽいものが動いた気がした。
 目を凝らすと、それはモモちゃんの背中だった。
 モモちゃんは、俺がいた巨岩から三〇メートルほど左の岩の上に立ち、じっと海を見つめているようだった。長い髪を強風になびかせ、頼りなげな細い背中を少し丸めていた。手前に岩の出っ張りがあるせいで、モモちゃんの下半身は見えていないが、距離感から察すると、断崖のすぐ手前あたりに立っているに違いなかった。
 自殺の名所。断崖。リストカット。モモちゃんの過去。
 まさか、とは思いつつも胸騒ぎを覚えた俺は、遊歩道からその動きをつぶさに観察していた。
 すると、モモちゃんの背中が動いた。
 丸まっていた背中を、いっそう丸めたのだ。
 つまり、崖の下を覗き込んでいる?
 おいおい、勘弁してくれよ……。
 俺の足が、無意識にモモちゃんの方へと動き出す。
 同時に、俺は小雪の顔を思い出していた。
 きっと大丈夫だ。なにしろモモちゃんは、敏腕カウンセラーに心を許しつつあるのだから。
 ところが、そんな俺の確信とは裏腹に、モモちゃんの背中はまたさらに丸まっていった。しかも、じりじりと崖の際へとにじり寄っていくではないか。
 えっ? ちょっ、ちょっと待てよ。嘘だろ。
 俺は両手を口の横に当ててメガホンを作った。
 そして、息を吸い、大きな声で「モ……」と叫びかけたところで、喉の奥がギュッと絞られたようになった。
「え……」
 華奢なモモちゃんの背中が、消えたのだ。
 断崖の向こうへと。音もなく。
「う、うそ、だろ……」
 つぶやくや否や、俺は弾かれたように遊歩道を駆け出していた。
 そのまま、モモちゃんのいた岩の上へと駆け上がる。
 途中、岩の凸凹に足をとられて転びかけ、右膝をしたたかに打ち付けた。ズボンが少し破れてしまったようだが、それでもかまわず走り続けた。
 俺は、岩の上に到達した。
 しかし、モモちゃんの姿はない。
「モモちゃんっ!」
 海に向かって叫びながら、俺は、じりじりとモモちゃんの消えたあたりの崖の際へとにじり寄っていった。
 すると――、
「はい?」
 聞き覚えのある、か弱い声。
 それが、なぜか斜め左後ろの下方から返ってきた。
「え……」
 俺は、さらに岩の際ににじり寄って、崖下を覗き込んだ――と同時に、「マジかよ。はあ……」と安堵のため息をこぼした。
 なんのことはない、その岩は、海へと真っ逆さまに落ちる断崖になっているのではなくて、身軽な人なら楽々降りられるような天然の階段になっていたのだ。
 モモちゃんは、いま、くるりと岩を巻くように形作られたその階段を使って、岩の左手奥にある小さな砂利の渚まで降りていた。そして、しゃがんだままこちらを見上げて、ぽかんとした顔をしているのだった。
「あ……、モモちゃん」
「はい?」
「えっと、そこで、何をやってるんですか?」
 俺は、ちょっと気まずいような場の空気を取り繕うように、適当な言葉で質問をしてみた。
「きれいな貝、拾えるかなって……」
 言いながらモモちゃんは、少し申し訳なさそうな顔をして、ゆっくりと立ち上がった。
「あ、そっか。そうでしたか」
 大きく頷いてみせた俺は、とりあえず階段状の岩をトントンと降りていった。そして、色とりどりの美しい玉砂利の上に降り立った。
 荒波は手前の岩にぶつかって崩れるから、その裏側にできたこの小さな玉砂利の渚は不思議なくらいに穏やかだった。
「あの、わたし……。岩から降りちゃいけなかったですか?」
 モモちゃんが、首をすくめて俺を見た。
「いえいえ、そんなことはないです。えっと、ですね、じつは、遊歩道からこちらを見ていたら、モモちゃんが、岩の上から海に飛び降りたように見えたので」
「え?」
「それで、まあ、ちょっと、慌ててしまって……」
 しゃべりながら恥ずかしくなって、俺は首筋に手を当てた。
「…………」
 モモちゃんも、なんだか困ったように眉をハの字にしてはにかんでいた。
「でも、よかったです。ぼくが思ったようなのじゃなくて」
「なんか、わたし……、すみません」
「いや、べつにモモちゃんが謝ることじゃなくて、こっちが勝手に勘違いしちゃって……」
 俺は自分のまぬけな早とちりにくすっと笑ってしまった。その笑いがモモちゃんにもいくらか伝染してくれたようで、柔和な笑顔を見せてくれた。あらためて、この娘はアイドル顔をしているな、と思う。
「で、きれいな貝は、ありましたか?」
 気を取り直すように、俺は訊ねた。
「あんまりきれいじゃないですけど……、これを」
 小首をかしげたモモちゃんは、左手の人差し指を立てて、こちらにかざしてみせた。色白で細長いその指には、潰したドーナツみたいな形をした、白くて小さな輪っかがハマっていた。見方によっては、丸い貝殻の真ん中に穴を開けたものにも見える。
「ああ、それは、タコノマクラの仲間ですね」
 俺は、言った。
「え、タコの?」
「タコノマクラ。貝殻に見えるかも知れないけど、じつは棘のないウニの仲間なんです。タコノマクラの殻が打ち上げられて白化すると、中心だけが砕けてドーナツ状になることがあるんです」
「これ、タコノ、マクラ……、なのに、ウニ」
「はい」
「なんか、変な名前。平べったいし」
 モモちゃんは、自分の指にハマった白い輪っかを、不思議そうに見つめた。
「ですよね」と、俺は微笑む。「海のなかで、タコがそのウニを枕にして寝ているっていう迷信があって、そこから、そんなおかしな名前が付いたらしいですよ」
「タコが、寝る」
「おもしろいでしょ?」
「龍さん」
「はい?」
「詳しいんですね」
「あ、いや、それほどでもないんですけど。でも、子どもの頃からなぜか魚貝類には興味があって、よく図鑑を眺めてたんです」
「……オタク?」
 控えめな表情と声だが、しかし、言葉はなかなか直球だ。
「あは。まあ、ほんの少しだけ、魚貝オタクかなぁ」
 そう言って、俺は照れ笑いをした。
 巨岩の裏側から、ごうごうと荒波の重低音が響いてくる。しかし、足元のきれいな玉砂利に寄せては引いていく波は、しゃわしゃわと耳の奥から癒してくれるようなやさしい音を立てていた。
「タコの指輪」
 モモちゃんが、ぼそっと言った。
「え?」
「これ、枕っていうより、指輪かなぁって……。あっ、タコには指がないから、タコの腕輪かも」
「あはは。たしかに」
 モモちゃんが、目を少し細めるようにして微笑んだ。
 その表情を見て、俺は確信した。
 大丈夫、この子は、自殺なんてしない――。
 ホッとした俺は、ふと腕時計を見た。
「あ、そろそろ、いい時間なんで、のんびりバスに戻りますか?」
「はい」
 俺たちは、足元に気をつけながら、赤い巨岩を巻くように延びる天然の階段を登りはじめた。階段といっても、場所によっては一メートル近い段差のところもある。
 途中、俺の背中に向かって、モモちゃんが波音にかき消されそうな声を出した。
「あの、龍さん……」
「ん?」
 俺は足を止めて、後ろを振り返った。
 モモちゃんも足をとめて、ひとつ下の段からこっちを見上げている。
「えっと……、あ、あの……、やっぱり、いいです」
「え?」
「ごめんなさい。なんでもないです」
 モモちゃんは小さくはにかんで視線を逸らした。
 名前を呼んでおいて、なんでもないとは――、さすがにちょっと気にはなったけれど、しかし、俺はただ「そっか、うん」と頷いて、ふたたび階段状の岩を登りはじめた。
 いまは、モモちゃんを問い詰めなくていい。彼女が自然と話したくなったときに、まるごと受け止めるように聞いてやればいいのだ。
 小雪だったら――。
 きっと、俺と同じように振る舞ったはずだ。
 ごう、と海風が吹いた。いきなり人の背中を押したりする、凶悪な風だ。
「モモちゃん、突風に気をつけて下さいね」
 後ろを振り向いてそう言ったとき、思い出したように俺の右膝がズキンと痛み出した。そういえば、さっき、岩に打ち付けたのだった。
「はい」
 モモちゃんが、か細い声で返事をする。
 少し血が出ているし、あざにもなってるな。ったく、なんて不吉な場所だよ。
 胸裏でボヤいたけれど、よくよく考えてみれば、おそらく俺はもう二度と、この不吉な荒磯を訪れることはないのだった。
◇   ◇   ◇
 その日の宿は、海から清流沿いの道をバスで三〇分ほど登ったところにある、旧小学校の廃校だった。
 過疎化が進んで子どもがいなくなり、三年前に閉校となった小学校の古い校舎を、町の第三セクターがそのまま宿泊施設として再利用しているという。昭和のかおりのする校舎は、中身もほとんどそのまま残されていて、教室の入り口には「一年一組」「理科室」「視聴覚室」「図書室」などの札もちゃんとあるし、図書室には当時のままの本がズラリと書棚に並べられている。校庭には鉄棒やタイヤ跳びなどの遊具はもちろん、朝礼台もサッカーゴールもある。
 ツアーの参加者たちは、口々に「なつかしい」と顔をほころばせていたが、唯一、浮かない顔をしているのはジャックさんだった。理由は聞かなくても分かる。夜の教室に一人で寝るのが怖いのだ。
 ジャックさんは、ことあるごとに小雪に親切にしていた。俺としては、どうにもそれが気になるのだが、よくよく観察しているうちに、どうやら教授や陳さんや入道さんまでもが、小雪の気を引こうとしているように見えてくる。
 そこそこ美人だとはいえ、いくらなんでも、モテすぎではないか?
 俺は、少し冷静に考えてみた。もしかすると、フラれた俺の目線がおかしくなっているのかも知れない、と。つまり、いまや誰の手に渡ってもおかしくはない「フリーの小雪」という存在が、やたらと危なっかしく見えてしまうというわけだ。俺はすでに小雪を取り戻す自信を失っていて、だからこそ、なんでもないような男性陣の親切までもが、いちいちスケベ心に思えてしまう。そういうことではなかろうか? ようは、つまらない嫉妬心が俺の内側に芽生えてしまったのだろう。
 とにかく――仕事中は、感情の乱れをセーブしなければ。
 俺は自分に言い聞かせながら、淡々と今宵の任務を遂行していった。
 この施設の管理人は、今年、七七歳の喜寿を迎えた山田さんという老人だった。少し腰が曲がっているし、かなり背も低いのだが、足腰はとても丈夫らしく、いまだに山に分け入っては鉄砲撃ちをしているという。そのおかげで、今夜のご飯は牡丹鍋だった。
 一階の廊下のいちばん奥にある家庭科室にそのまま残されている子供用の机と椅子を借りて、俺たちは夕食を食べはじめた。鍋とはいっても、あらかじめ、それぞれ一人用の食器に分けられている。ひとつの鍋をみんなで一緒につついたりすると、うっかり会話が盛り上がってしまいそうなので、あえて取り分けてもらったのだ。
「私たち、でかいイノシシに襲われた。怖かったね。でも、いま、イノシシ食べてる。これ、神様の悪戯いたずらだろう。おもしろいね。おい、添乗員、イノシシ怖くても、ご飯、喉に詰まらせるなよ」
 食事中に陳さんが俺を揶揄して、数人がくすくすと笑った。となりにいる小雪も失笑したけれど、やはり、あまり食欲がなさそうに見える。
「陳さん、そういうおもしろいことを言わないで下さい。いまは落ち込むためのツアーの途中なんですから」
 俺は、やんわりと釘を刺したつもりだが、厚顔なこの人には通じない。
「中国では、四〇〇〇年前から《自分の嫌いなモノに、いちばん感謝しろ》と教わるね」
「へえ、それ、ことわざですか?」
 横から小雪が口を挟んだ。
「おお、イエス、ことわざね。嫌いなモノは、いつかラッキーを運んでくるモノだろう。お前たち、イノシシは怖かった。だから嫌いだろう。でも、イノシシがいるから、いま、美味いメシを食っているね。これはラッキーだろう。がははは」
 陳さんは、いまいち理屈の通らない例え話を好き勝手にしゃべって、ひとりでウケていた。さすがのるいるいさんも、あまり興味のなさそうな顔をして、黙って牡丹鍋をつついていた。

(第16回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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