双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 14 回



 強い海風が、俺の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回す。
 重低音の海鳴りが、胸に空いた空洞で虚しく響いた。
 どうせ、出ないだろうけど……。
 俺は、駄目もとでスマートフォンの画面に社長の名前を表示させた。そして、通話ボタンを押してみる。プルルル、と鳴った呼び出し音が、ずいぶんと薄っぺらなものに聞こえた。社長の名前も、呼び出し音も、海も、空も、風も、海鳴りも、なぜか現実味を失いつつある気がした。リアリティがあるのは、唯一、足の裏の冷たい砂の感触だけだった。
 思ったとおり、社長は電話に出なかった。
 当然だ。おそらく、いま、社長のスマートフォンは鳴りっぱなしに違いない。そもそも俺なんかがかけたところで、出るはずがないのだ。
 呼び出し音はやがて留守番電話になった。
 俺はいったん通信を切った。
 そして、まったく意味がないことを知りつつ、またかけた。
「なんだよ、社長。いまより大きなツアーバスを買ってくれるんじゃなかったのかよ……」
 呼び出し音を聞きながら、ぼそっとつぶやいたら――。
「おう、天草か」
 えっ?
 で、出た?
 俺は、自分でかけておきながら、社長が出たことに勝手に狼狽して、漫画みたいに「あわわわ……」と言ってしまった。
「あわわって、なんだ、お前」
「あ、す、すみません、社長」
 謝りながら、歩いていた足を止めた。
「お前がいきなり電話してくるってことは――」
「…………」
「まあ、倒産のことだろうな?」
 社長の声にいつもの張りがないことに、俺はようやく気付いた。
「ええ、まあ……」
「あれ? そういえば、お前、いま、添乗中じゃないのか?」
「ええ。そうなんですけど、いまはちょうどお昼の後の自由時間なんです」
「そうか」
「はい」
「お前、添乗中なのに、どうして、このことを知ってるんだ?」
「あ、ええと」
 さすがに、ここで有吉の名前は出せない。
「まさか、探偵でも使って調べたか?」
 張りのない声のまま、社長が冗談を口にした。目尻にたくさんの皺を寄せて笑う、愛嬌のある社長の笑みを思う。
「いえ。えっと……、探偵じゃなくて、し、CI――」
「まあ、そんなことはいいか」
 動揺のあまり、思わず、CIAを使って調べました、とつまらない冗談を言いそうになったところで、社長があきらめてくれた。
「あのな天草」
「はい」
「もう、直球で言うぞ」
「…………」
 今日は直球だらけの日だ。うちの会社は野球部を作るべきじゃないな、なんてくだらないことを考えながら、心の準備を整えた。人は極端に動揺すると、現実から逃げたくなって、こんなふうにくだらないことを考えはじめるのかも知れない。
「銀行にフラれちまったんだよ。おたくの会社には将来性がないって言われてな」
「つまり、融資を断られたってことですよね?」
「そういうことだ。竹原信金に続いて、最後の頼みの綱だった山上銀行にもあっさりフラれちまった」
「…………」
 俺が次の言葉を探していたら、社長がほんの少しだけ明るい声を出した。
「ったく、あいつら、冷めてえよなぁ」
「はい……」
「とまあ、そういうわけでな、申し訳ないが、すべて俺の力不足だ。すまん」
「いえ……」
 社長だけじゃない。会社全体の力不足に決まっている。
 社長に直球で謝られた俺は、なんだかじっとしていられなくなって、止めていた足をふたたび動かした。
 さく、さく、と黒っぽい砂を踏みしめながら、その砂が黒光りする波打ち際へと歩いていく。
「あの、社長」
「ん?」
「うちが外資系の会社に買収されるっていう噂は――」
「なんだ、お前、よくそんな噂、知ってるな」
「あ、ええと……」
「探偵どころか、CIAでも使って調べてるんじゃないのか?」
 やっぱり社長も動揺しているらしい。
「はい。CIA、ばっちり使わせて頂きました」
 社長が、くくく、と声を殺して笑う。
「お前、意外と面白い奴なんだな」
「今度はハニートラップでも仕掛けましょうか?」
「そいつはいいや」
 ついに社長は「あはは」と声をあげて笑った。
 会社が倒産するってときに、社長と縁故入社の課長補佐が電話でくだらない冗談を言い合いながら笑っているなんて、なんだかいよいよもって現実味が薄れてきた感がある。
「じつはな、その外資系がらみの買収話は、先月、破談になってるんだ。向こうさんもたいして乗り気じゃなかったし、こっちは銀行がカネを貸してくれるって話だったからな」
「…………」
「でも、さすがにこういう状況になったら、藁にもすがろうってことで、いま、その外資の社長の携帯に俺が直接電話をしてるんだけど、ちっとも出やしねえんだ」
「留守電には?」
「留守電もなにも、そもそも携帯の電源が切られてるんだよ」
「え……、先方の会社には?」
「もちろん、かけたさ。でもな、おかしなことに、向こうの会社の人間も、昨日からずっと社長と連絡が取れなくて困ってる状態なんだとさ」
「そんないい加減な会社……」
「あるんだよ。残念ながら」社長は、また小さく笑って、続けた。「しかも、そんな怪しい会社に泣きついて、助けてもらおうなんて旅行会社があるんだから、余計に笑えるよな」
「笑っていいのかどうか、そこは悩みます」
「あはは。お前、正直すぎるぞ」
「すみません」
「ちなみに――」
「はい」
「期待させると悪いから、事実を言っておくけど、もしも相手の社長と連絡が取れても、買収してもらえる確率はほぼゼロだと思っていてくれ。だから、この話は、他の社員には内緒だ」
 確率ゼロ、か。
「分かりました」
「悪いな」
 それから社長は、電話の向こうで「ふう」と小さく嘆息した。そして、少しやさしい声で続けた。
「天草は、本当に頑張ってくれたよな……」
 社長は、過去形で言った。
「いえ……」
「お前のことは、できる限り再就職できるよう斡旋するから」
「社長……」
 俺には返す言葉が見つからなかった。ただ、ぼんやりと、東西ツーリストからのヘッドハンティングの案件を思っていた。
 社長はまた「ふう」とため息をついた。
 そして再度「天草……、申し訳ない」と言った。
 電話の向こうで頭を下げている姿が見えそうなくらいに、それは誠実な声による謝罪だった。
「社長、やめて下さい」
「ありがとな。お前、正直すぎるけど、いい奴だよなぁ」
「いえ、そんな……」
 社長は、ふふ、と淋しげに笑った。「まあ、とにかく、俺は駄目もとで、例の外資の社長に電話し続けてみるよ」
「はい……」
「天草、ツアーから帰ってきたら、久しぶりに一杯やるか」
「はい。ありがとうございます」
「よし。んじゃ、切るぞ」
「はい」
 どこかで聞いたような会話を交わして、俺は社長との通話を終えた。
 ゆっくりとスマートフォンを耳から離す。
 思い出したように、海鳴りと風の音が戻ってきた。
 足の裏で感じる、湿った黒い砂の冷たさ。
「はあ……」
 俺は魂ごと吐き出してしまいそうなため息をついていた。
 灰色がかった海。
 曖昧に霞む水平線。
 そして、抜けるような青空。
 このシンプルな景色は、ほの暗い心象風景として、俺の内側にタトゥーのように焼き付けられるのだろう。
 どうせなら、写真でも撮っておくか。
 自虐的にそう思った俺は、スマートフォンを正面に向けて構えた。
 海と空がちょうど半分ずつになるようにフレーミングをして、シャッターボタンを押す。
 すぐに撮った写真を確認した。
 澄んだ空の青と、濁ったエメラルドグリーンに塗り分けられた世界は、やけにシュールに見える。
 ふと、俺の頭のなかに、いつかの小雪の声が甦った。

  ――神様はね、誰の人生にも「良いこと」と「悪いこと」がちょうど半分ずつ起こるようにしているんだって。しかもね、半分ずつって、いちばん幸せな比率なんだってさ。

 小雪を失って、仕事も失うのか。
 俺の分配を担当している神様は、どう考えてもミスを犯している。
 なにが半分ずつだよ。不公平すぎるだろ?
 まともに信じたことのない神様に内心でぼやきながら、俺はゆっくりと右手を振り向いた。
 弓なりに延びた渚のずっと向こうを見る。
 さっきよりも、一段と小さな小雪の姿を見つけた。
 その横顔の表情までは見えないが、黒い渚に一本の杭のように立ち、水平線のあたりをじっと眺めている小雪の姿は、俺の気持ちをぐったりさせるには充分すぎるくらいにはかなげだった。
 会社の倒産については、なるべく早めに小雪に伝えるべきだろう。糊口をこのツアーに頼っている小雪は、少しでも早く次の仕事を見つけなければならないはずだ。
 そう考えていたとき、ふと小雪が動いて、こちらを振り向いた。
 表情は見えないのに、なぜだか一瞬だけ目が合った気がした。もちろん、そんなのは気のせいだ。そもそも小雪は近視だから、俺のことなんて見えていないはずなのだ。
 小雪が、歩き出した。進行方向には海の家がある。
 俺は腕時計を見た。いつの間にか、いい時間になっていた。
 強い海風に吹かれたせいで、少し肌寒い。
 シャツの胸ポケットにスマートフォンを戻し、俺もまた、ゆっくりと海の家に向かって歩き出した。
◇   ◇   ◇
「わたし、やっぱりこのツアーの仕事、好きかも」
 隣の席の小雪が、しみじみとそんなことを言い出したのは、バスが黒っぽい渚を出発して数度目の信号待ちをしているときのことだった。
「急にあらたまって、どうした?」
 俺は、表情を読まれないよう心を砕きながら返事をした。なにしろ小雪は心理学のスペシャリストなのだ。ちょっとした仕草に違和感を見つけて、俺の_胸に秘めごとがあるってことに気づいてしまいそうな気がする。
「なんかね、今回のツアーのお客さん、すごくやさしくて、癒されるんだよね」
「やさしい?」
 俺の脳裏には、小雪に手を差し伸べたジャックさんの照れ臭そうな顔が浮かんだ。
「うん。最初は、変わり者ばかりで大変そうだなって思ったけど、話してみたら、みんな、中身はあったかい人たちなんだもん」
「みんな?」
「うん。みんな」
 やさしいのはジャックさんだけではない、ということか。
 そのことを知って少しホッとしている自分が情けないが、しかし、まあ、よく考えてみれば、小雪の言うことも分からないではない。身を挺してイノシシから小雪とモモちゃんを守ってくれたサブローさんは、やさしさの塊みたいな人だし、ヒロミンさんも、るいるいさんも、桜子さんも、決して悪い人には見えない。見た目はかなりヤバそうな入道さんだって、腹に悪意を抱えているタイプの人ではない気がする。教授と、陳さんと、モモちゃんに関しては、まだ、いまいち掴み切れていない部分が多いけれど、それでもやっぱり悪人とは思えない。
「見た目は、まあ、ちょっとアレな人たちばかりだけど、たしかにそうかもな」
「でしょ?」小雪は、まるで自分が褒められたような顔をした。「結局さ、龍ちゃんのことを陥れようとした課長、まんまと作戦失敗してるよね」
「まあ……ね、うん」
 そうだといいな、とは思うけれど、しかし、このツアーの参加者たちは、俺のことをネタに、こそこそと噂話をしていた可能性が高いのだ。だから、正直、俺はまだ、小雪ほど手放しに彼らに心を許せそうにはなかった。
「ねえ、次は来週だっけ? 再来週だっけ?」
 小雪の言う「次」とは、次回の失恋バスツアーのことだ。
「ええと、再来週だったっかな?」
 俺は、わざととぼけて見せた。ようやく少し笑顔を見せてくれるようになった小雪に、倒産のことを話す気にはなれなかったのだ。
「あのさ、小雪」
「ん?」
 俺は、話をそらすためにも、気になっていたことを口にした。
「もしかして、体調、悪かったりする?」
「え……、わたしが?」
「うん」
「どうして?」
「いや、なんかさ、昨日から、あんまりご飯を食べてないなぁって」
「そう?」
「さっきだって、弁当を半分くらい残してただろ?」
 信号が青になり、バスがゆっくりと動き出した。
 すると小雪はなぜか目尻にやわらかな笑みをためて、そのまま俺を睨むようにしたのだ。
「龍ちゃん、人がご飯を食べているところ、覗き見してたわけ? 趣味悪う~」
 は……?
「覗き見って、人聞きが悪りいな」
「覗き見じゃないなら、なに?」
「なにって――、俺は、その……、小雪のこと、ただ普通に心配してやってるんだろ」
「ふぅん。心配して『やってる』わけね。上から目線で」
 このときのちょっと愉しそうな表情を見て、俺は少し安堵した。小雪は、こっちが心配するほど体調が悪いわけではなさそうだ。
「もちろん。俺は思いっきり上からですが、なにか問題でも?」
 喧嘩別れする以前のように、俺が半笑いでそう言うと、
「ひゃあ。この添乗員さん、覗き見するんだぁ」
 小雪は、悪戯っぽく声のトーンを上げた。
「わっ、馬鹿、こら、声がデカいって」
 俺は、反射的に小雪の唇を人差し指で押さえ――ようとして、躊躇した。
 その指を、自分の唇に持っていく。
 そして、「しー」とやってみせた。
 小雪は黙った。
 そして、小さく微笑んだまま俺を見ていた。でも、顔はスマイルのカタチをしているのに、よく見たら、目は笑っていない気がした。さっきまで咲いていた花がすうっと萎れてしまったような、妙なもの哀しさを漂わせているのだ。
「後ろに聞こえたらどうするんだよ」
 俺は、息苦しいような沈黙を避けたくて、そう言った。
 小雪は、ゆっくりと二度まばたきをした。そして、それを合図にしたかのように、カタチだけのスマイルを閉じると、膝の上のバッグから例のタブレットを取り出し、前を向いたまま一粒だけ口に入れた。かりかりかり、とかすかな咀嚼音を立てる。
 あれ? もしかして、いまのって――。
 仲直りのチャンスだったのか?
 小雪の横顔を眺めながら呆然としている俺に、小雪は「ん」とタブレットのケースを差し出した。
「あ、うん、サンキュ」
 一粒もらう。
 重苦しいような空気の感触に、俺はまた振り出しに戻ってしまったことを悟った――と同時に、この先、まだ仲直りのチャンスがあるかも知れないという期待感も、わずかに抱きつつあるのだった。

(第15回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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