双葉社web文芸マガジン[カラフル]

恋する失恋バスツアー / 森沢明夫・著

© たなかみか

第 11 回



【天草龍太郎】
 二人はそのまますたすたと遠ざかっていった。
 ふいに正面からすうっと森の匂いのする涼しい風が吹いてきて、俺の前髪を揺らす。
「龍さん?」
「え? あ、はい」
 ヒロミンさんに呼ばれて、俺はハッとした。
「どうしたんです?」
「いや、べつに」
 ヒロミンさんは、俺の本意を探るような目でこっちを見た。でも、それもほんの二秒ほどのことだった。
 まだ俺の視界の隅っこには小雪とモモちゃんの背中が見えていた。二人は西側の少し崩れかけた石段を降りていくようだ。
 これ以上、目で追っても仕方がない。
 俺はヒロミンさんに余計な詮索をされる前にと、ちょっと強引に話題を変えた。
「ええと、ヒロミンさんは――」
「あ、はい」
「愛犬を……、亡くされたんですよね?」
 口にしてから、いきなりこの話題もないか、とは思ったけれど、後悔先に立たずだ。
 亡くした愛犬のことを思い出したのか、ヒロミンさんはちょっとうつむいて、そろえた太ももの上に置いた一眼レフを右手の親指でそっと撫ではじめた。
「あ、なんか、すみません」やっぱりこの話題はまずかったか。俺は少し狼狽しながら続けた。「ちょっと、珍しかったもので。愛犬との離別で、このツアーに参加して下さった方が」
「やっぱり、変ですよね」
 ヒロミンさんが、顔をあげた。親指はカメラを撫でたままだ。
「え……」
「愛犬と別れたなんて、そんな理由」
「あ、いや、変とか、そういうのではないと思います。ペットは家族同然だって言いますから」
「龍さん、ペットは?」
「ぼくは、ペットは」犬でも飼っていればすんなり会話が運ぶのだろうが、残念ながら飼っていない。しかも俺は、わりと嘘が苦手なタイプなのだ。「飼ってないです、何も……」
「そっかぁ」
「マンションで一人暮らしなので。すみません」
 頭を掻きながら、ぼそっと謝ったら、ヒロミンさんの頬にえくぼが浮かんだ。そして、「ふふ……」と、小さく声をこぼして笑った。
 えっ、いま、笑うところ?
 俺はヒロミンさんの笑った理由が分からなくて、次にかけるべき言葉を失ってしまった。
 するとヒロミンさんが先に口を開いた。
「すみません、っていう言葉は――」
「…………」
「本当は、わたしが言わないといけないの」
「へ?」
 いっそう意味が分からなくなった俺は、小首を傾げた。
「わたしが別れたランは」
「…………」
「あ、ゴールデンレトリーバーのランはね」
「はい」
 そこまで言うと、ヒロミンさんは、もう一度「ふふ」と小さく笑った。なんだか、大切な思い出の欠片を唇からちょっぴりこぼしてしまったみたいな、やけに淋しそうな微笑み方だった。
「わたしの元彼が飼ってた犬なの」
「え?」
 元彼って?
「嘘を書いてツアーに参加しちゃって……。ごめんなさい」
 ヒロミンさんの頬には、まだえくぼが浮かんでいた。でも、細めた目元には淋しさが張り付いたままだ。
「ええと、それって、つまり……」
「ランは、死んでないんです」
「…………」
「わたし、彼にフラれて、それでランとも会えなくなったんです」
 想定外の告白に、俺はまたポカンとしてしまった。
 ヒロミンさんは、一眼レフを撫でながらぽつぽつとしゃべり続ける。
「このツアーに申し込むときは、まだ彼と別れたことを認めたくなくて。なんか、正直に書けなかったんですよね。で、つい、犬のランと別れたって書いちゃって」
「そう……だったんですか」
「ごめんなさい。嘘を書いて」
「あ、いえ。大丈夫です」
「申し込みのときね、わたし、ちょっと迷ったんです。申し込み欄に、正直に、彼にフラれましたって書いたら、それが本当に取り返しのつかない現実になっちゃう気がして……。っていうか、そのときはもう、現実にフラれてたんですけど」
「なんか、分かります」
 気づいたら、俺の唇はそう言っていた。
「え?」
「本当に大事なものを失ったときって、しばらくは現実が信じられないっていうか、信じないままでいたいって思いますもんね。大切な人と別れました、はいそうですか、って受け入れられるほど、人間って強くないですし」
 俺は、自分でも不自然なくらい、すらすらとしゃべっていた。なんだか、俺のなかにいるもう一人の自分がしゃべっているみたいな気がする。
「龍さん……」
「はい」
「やさしいですね」
 真顔で言われて、俺は少したじろいでしまった。
「いや、別に」
「さすが、同級生」
「あはは。それ、あんまり関係ないと思います」
「そっか。うふふ」
 ヒロミンさんの笑みが、少し明るくなった気がした。淋しさの成分が、半分くらい霧散したみたいだ。
 それからヒロミンさんは、徐々に明るくなっていく風景を眺めながら、ぽつりぽつりと自分の身の上話をしはじめた。
 いわく、犬好きの元彼は、生まれながらの孤児で、養護施設で育てられ、いろいろと苦労をした人らしい。しかし、苦労をした結果、犬は好きだが、人間はあまり好きではなく、とりわけ子供が嫌いな大人になったのだという。
「あの人ね、結婚願望がゼロだったんです」ヒロミンさんは、小さなため息をついて、続けた。「自分には、家族はいらないんですって。奥さんも、子供も、不必要で……。なんでかと言うと、家族との生き方を知らないからだって。でもね、犬だけは必要だって言うんですよ」
「犬だけは?」
 俺は、ヒロミンさんが話しやすいように、ときどき合いの手を入れていた。
「犬は、寂しさを埋めるために必要なんだって」
「人間じゃ駄目なんですかね?」
「うん、駄目みたい……。犬は飼い主に逆らったりしないし、文句も言わないし、裏切ることもないからって」
「まあ、犬って、そういうものかも知れませんけど……」
「あとね、子供と違って学校にやる必要もないから、お金もたいしてかからないのがいいんだって、そんな現実的なことも言ってたなぁ」
 ヒロミンさんは、まるで自分に語りかけるような口調で言う。
「そうでしたか」
 俺がゆっくり頷いたら、カメラを撫でていたヒロミンさんの指の動きが止まった。
「わたしのうちはね、家族が仲良しなんです。だから、いつかはうちみたいなあったかい家庭を築きたいなぁ――って思いながら、彼からのプロポーズも、ずっと待ってたの。でも、ちっともそういう気配がないから、こっちから思い切って――、もう、本当に清水の舞台から飛び降りる気持ちで切り出してみたら」そこでヒロミンさんは、また「ふふ」と笑った。今度は、明らかに自嘲の色を含んだ笑みだった。「俺は家族なんていらないって。結婚も、子供も、まったく考えたくないって。もう、バッサリ」
 自分は幸せな家庭に生まれ育ち、しかし、恋人はその真逆。
 なんだか、俺と小雪の関係と似ている。
「えっと、それで……」
「それで、悲しくなったわたしが泣いて、わあわあ文句を言っちゃって、あっさりフラれて……」ヒロミンさんは、太ももの上の一眼レフをそっと持ち上げて見せた。「で、バリバリ仕事一筋のオンナになる前に、一回くらい失恋気分にどっぷり浸ってみようかなって思って――、いま、ここにいます」
 ヒロミンさんは、顔の横に一眼レフを寄せて、きゅっとえくぼを深くしてみせた。コロコロといろんな種類の笑顔を作る人だけど、この明るい笑顔こそがいちばん似合っていると思う。
「なるほど。そうでしたか」
 俺は、無意識に嘆息した。
「あはは、なんで龍さんがため息をつくの?」
「えっと……」あなたと似た境遇だからです、なんて言えるはずもない。「なんでだろう。自分でも、分からないです」
 ややしどろもどろな俺に、ヒロミンさんはカメラを向けた。そして、ファインダーを覗き込みながら言った。
「ねえ、龍さん」
「はい」
「わたし、十年後もこのままだったらどうしようかな……」
「え?」
「って、思うと、なんか不安だけど」
 十年後もこのままだったら――。
 その台詞が、一瞬、俺の脳内で引っかかり、すぐに思い出した。小雪にフラれた夜、まったく同じ台詞を聞かされていたではないか。
「わたし、とりあえず、カメラを恋人にしちゃいます。カメラは裏切らないから」
 シャコ。正面から写真を撮られた。
 俺は、小雪の顔を思い浮かべながら、ため息をこらえていた。するとヒロミンさんが、思いがけない言葉を口にしたのだ。
「ねえ、龍さんも、失恋中なんでしょ?」
「えっ?」
「小泉先生が、ほら、今朝の自己紹介で言ってたから」
 そうだった。今朝、小雪がバスのなかでバラしたのだ。
「あは、ははは……。まあ、失恋といえば、そうですけど。でも、そんな、たいしたことじゃ――」
 シャコ。シャコ。
 ヒロミンさんは、二度、シャッターボタンを押した。そして、背面液晶で写真を確認する。
「なるほど。それで、こんなに浮かない顔をしてるんですね」
「浮かない顔なら、そんなに撮らないで下さい」
 苦笑しながら俺は本音を口にした。
「あは。ごめんなさい。でも、なんかフォトジェニックないい表情なの。後ろの空の雰囲気とすごくマッチしてる感じ」
 俺は、ゆっくりと後ろを振り返り、自分の浮かない顔とマッチするという空を見てみた。
 灰色の低い雲。
 その切れ間から覗く、いくつかの澄んだ水色の光。
 さっきよりも明らかに青空の面積が増えている。
「龍さんって――」五月の湿った風に髪をなびかせながら、ヒロミンさんはちょっと真面目な顔をした。「思ってること、あんまり口に出せないタイプでしょ?」
 ふいの質問に、俺は一瞬、答えあぐねた。
「えっと……。どうかな。言える人には、言えますかね。って、そんなのは当たり前か。あ、でも……」
「でも?」
「あえて口に出さないでいることは、わりとあるタイプかも知れません」
「やっぱり、そう?」
 俺は小さく頷いた。そして、続けた。
「思っていることをぜんぶ口にしたら、相手も、自分も、きっと傷つきますよね」
「うん」
「だから、言葉は多少は選びます。これでも一応、大人なんで」
 最後は少し冗談めかして言ったのに、ヒロミンさんは、真面目な顔のまま俺を見ていた。
「龍さんは、思いを溜め込まないで、もう少し口に出してもいいタイプっぽい気がするなぁ」
「え、そうですか。どうしてです?」
「なんとなく、そういうタイプかなって」
「あ、いや、そうじゃなくて。どうして、口に出した方がいいんですか?」
「ああ、そっちか」ここでようやくヒロミンさんの頬にえくぼが浮いた。「溜め込んだ思いって、いつか腐っちゃう気がするから、かな」
「思いが、腐る?」
「そう。言いたいことを飲み込んで、ずっと胸に思いを溜め込み過ぎちゃうと、思いが淀んで、腐って、心も一緒に腐りはじめちゃう」
「…………」
「そんな気、しません?」
「なんか、うん、分かる気がします」
 俺は素直に頷いた。
「あ、もちろん、わたしだって分かってますよ。言っていいことと悪いことがあることくらい。ただ、龍さんのこの表情っていうか、たたずまいって――」ヒロミンさんは、あらためてカメラの背面液晶を見下ろした。「溜め込んでる人のそれなんですよねぇ」
「そういうのって、写真を撮ってると、分かるものなんですか?」
「なんとなく、だけど、分かるかな。こう見えても、わたし、悲しいかな、ベテランの域に入ってるし」
 ふふ、とヒロミンさんが小さく笑う。
「笑えますよね?」
「え?」
「失恋バスツアーの添乗員が、本当に失恋中だなんて」
 言いながら、苦笑している自分がちょっと情けなくなってくる。
「うん。たしかに笑えるかも」
 頷いたヒロミンさんが、わざと悪戯っぽく笑ってくれた。きっと、やさしい人なのだ。
「あ、やっぱり?」
「なんだか、売れない小説とかにありそうな設定じゃない?」
「え、売れないパターン……ですかね?」
「うん。なんか、ありがちっていうか」ヒロミンさんのえくぼが、いっそう深くなる。「でもね、ご近所で育った失恋仲間の同級生としては、心から同情します」
「ありがたき幸せでございます」
 俺も冗談めかして答えて、大袈裟に頭を下げてみせた。
 ヒロミンさんが、くすっと笑う。
 俺も釣られて、同じように笑った。
 この瞬間、ふと愉快な気分になりかけたけれど、でも、こういう掛け合いをいつもなら小雪と楽しんできたんだよなぁ――と思うと、胸の奥がズンと重くなってしまうのだった。
「とりあえず、龍さんもわたしも仕事っていう逃げ場があってよかったですね。忙殺してれば、悲しい気持ちも忘れてられるじゃない?」
「……ですね」
 たしかに、俺にはまだ仕事がある。この「失恋バスツアー」があるのだ。だから、ヒロミンさんのように、最後は「仕事に生きる人生」を送ればいいのかも知れない。そう思うと、ほんの少しだけど、背筋が伸びる気がした。
 眉をハの字にした二人が、淋しく笑い合った。
 俺はなんとなく照れ臭くなって、後ろを振り返り、空を見上げた。
「このあと、夕陽、見られるといいですね」
 でも、ヒロミンさんは、俺の台詞を無視して、自分勝手な言葉を口にした。
「うふふ。元気だせよ、同級生」
 ぽん、と背中を叩かれた。
「え? あ、はい……」
 ふたたびヒロミンさんに向き直った俺は、苦笑してしまう。
 なんだかなぁ……。ツアーの添乗員が、お客さんに慰められるという図は、そろそろ終わりにしないとな。
 そう思って、俺はベンチからゆっくり立ち上がった。
 そして、るいるいさんみたいに元気よく両手を天に向かって突き上げた。
 全力の、伸び――。
「んあ~」
 シャコ。シャコ。シャコ。
 ベンチに座ったままのヒロミンさんが、また俺を撮った。そして、背面液晶を確認しながらにっこり笑った。
「ねえ、今度は、未来に希望がありそうな絵が撮れた。ほら」
 俺は、どれどれ、と少しかがんで背面液晶を覗かせてもらった。
 なるほど、伸びを下からあおるように撮ったせいで、「俺はやるぞー」という吹き出しを付けたくなるような絵になっていた。
「あはは。本当ですね。同級生、ありがとうございます」
 俺が言うと、ヒロミンさんは、今日いちばん深いえくぼを浮かべて、Vサインを返してくれた。

(第12回につづく)

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森沢明夫Akio Morisawa

1969年千葉県生まれ。早稲田大学卒業。『津軽百年食堂』が2011年に映画化。2012年『あなたへ』が高倉健主演映画の小説版としてヒットする。『虹の岬の喫茶店』は2014年『虹の岬の物語』(主演・吉永小百合)として映画化され、話題に。2015年には『ライアの祈り』が映画化、『癒し屋キリコの約束』が連続ドラマに。他の著書に『夏美のホタル』『大事なことほど小声でささやく』『ミーコの宝箱』『ヒカルの卵』『エミリの小さな包丁』、エッセイ『あおぞらビール』、カラフル連載が2016年1月に単行本刊行された『きらきら眼鏡』などがある。近著に『たまちゃんのおつかい便』。

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