双葉社web文芸マガジン[カラフル]

氷河期つるりんこ世代―リターンズー(南 綾子)

イラスト:黒猫まな子

第五話 後編

 約一時間後、川藤英は心なしかすっきりした顔つきでラブホテルから出てきた。
 あれから俺は、嬢や、嬢が呼んだと思われるデリヘル店関係者に見つからないようにしながら、こっそりまたホテルの近くに戻った。久しぶりのダッシュと蒸し暑さで全身汗だくだったものの、その間に十分、頭は冷えた。なぜ、あの嬢は川藤が呼んだはずだと決めつけてしまったのか。あれだけ部屋が埋まっていたのだから、他の男の可能性は十分あるじゃないか。それに、ドキュメンタリー番組についての記憶も、さっきより鮮明になってきた。
 青年はある日、会社を無断欠勤して昼間にホテルに入り、亡くなったと語られていたはずなのだ。少なくとも番組上ではそうだった。俺も家電量販店時代、無断欠勤して死のうとしたことがあった。だからとても印象に残った。
 ということは。
 今夜の奴は、ただデリヘルを利用しただけ。
 バカバカしい。人生で最もバカバカしい時間を過ごしてしまった。それでも万が一に備え、奴が出てくるまで待つことにした。そして奴は今、ホテルから出てきて、俺の数メートル先を歩いている。そのまま駅前のマクドナルドに吸い込まれていった。
 さすがにそこまでついていく気はせず、俺は駅の改札へ向かった。さっきホテル前で奴を待っている間、三か所も蚊にくわれた。そんなことはつゆ知らず、あの男は嬢とアレやらナニやらコレやらやっていたのだ。よい金曜の夜を過ごせたようで何よりだ。
 しかし彼はいつか、そう遠くないうちに、死ぬ。

 その晩、眠る前、いつか見たそのドキュメンタリー番組のことを、思い出せる限り思い出そうとしてみた。
 まず見た時期。これは三十八歳の秋で間違いない。当時、あいまいな関係だった年上の女の家で見た覚えがはっきりあるからだ。
 会社で具体的にどのようなハラスメントが行われていたのか、役者を使った再現VTRで紹介されていた。しかし、その細かい内容ははっきり思い出せない。強制的に丸坊主にさせられて先輩社員から殴られたり、上司から執拗に暴言を浴びせられたりする場面があった気がするけれど、俺自身の体験とごちゃまぜになっているように思えてならないのだ。
 自死を決意する直接的なきっかけとなったのは、上司になんらかの約束を反故にされたこととされていた。昇進とか、昇給とか、そんなようなことだった。
 ほかに、母親がテーブルに子供時代の写真を並べて思い出を語る場面、それから、労働団体か何かが訴訟についての会見をしている場面があった。中でも当時、もっとも俺の心をゆさぶったのは、彼の手帳に残されていた言葉だった。
「つらい」「しにたい」などという言葉が、メモページに乱暴に書きなぐられていた。そのうちで、番組の中で強調するように繰り返し出てきたのが、「にげたい」という言葉だった。
 その言葉だけがいくつもびっしり書き込まれているページがあったのだ。えんぴつかシャープペンで乱雑に、大小さまざまに。重なった文字がにじんでしまいほとんど読み取れず、幾何学模様のようになっていた。
「会社を辞めるだけで逃げられたのに、なぜ人生から逃げてしまったのか」
 母親はそう語っていた。
 一番肝心の亡くなった時期については、はっきりしない。ただ入社して一年未満だったのは確かだ。そのことは番組内で、繰り返し強調されていたから。

 次に川藤を見かけたのは、約二週間後の九月はじめのことだった。
 その日は昼過ぎ、飯を食いに行くために乗ったエレベーターで、またしても偶然、彼と乗り合わせた。今回、川藤は俺やほかの乗客とともに二階で降りた。俺はすぐに背後から彼の背中を叩いた。そして、こんなときのためにずっと考えていたセリフを口にした。
「君、『青空』のメンバーだったよね?」
 それは、彼が学生時代に所属していたバンド名だった。
 彼は俺の胸元の社員証をチラッと見て、目をわずかに見開いた。「あ、そうですけど……」と不思議そうにつぶやく。
「甥っ子の大学の学園祭にいったときにさ、ステージで君たちを見たんだよ。コンテストで優勝してたよね?」
 何もかも噓っぱちだった。もちろん、バンド名も学園祭のコンテストのこともフェイスブックで知った。
「君たち、スリーピースですごくかっこよかったのを覚えてるよ」
 川藤は明らかに怪しんでいたけれど、俺のその言葉には、素直に表情をほころばせた。
「よかったら一緒に昼飯どう?」と俺は誘った。川藤は戸惑いつつも了承した。そして二人で隣のオフィスビル一階にあるマクドナルドにいった。ハンバーガーが何よりもの好物らしい。
 二人で窓際のカウンター席に並んで座る。窓からは駅前の景色が見下ろせた。川藤はバンド時代の話をしたいようだったけれど、俺はさりげなく仕事の話題を振った。
「いや、きついっすね」と彼は明るい調子で言った。「マジで、こんなにきついと思わなかったっす。しかも俺、しくじっちゃって」
 数日前まで、彼はある企業に派遣されていたという。そこで深夜の作業中に飲食しているのを、先輩社員に見咎められてしまったのだそうだ。
「飲食っていっても、フリスクを一粒二粒、口に入れただけなんすよ。でもそれだけでめちゃめちゃキレられて。夜の三時ぐらいなのに荷物まとめて帰れって言われて。次の日会社いったら、始末書書かされました。今は待機中です」
 業務改善トレーニングの前に、数日の待機期間があるとは聞いていた。ということは……そういうことだ。
「俺、全然仕事できないんですよ。大学でも何もやってこなかったし。入社前は、ITの知識がなくても、社内研修で手厚くサポートしますって言われてたんだけどなあ。実際やってみたら研修はレベル高すぎて、いやマジで、俺やべえって絶望しました。ついていけない奴はひたすら十キロ走とかやらされるんですよ」
 俺もコンサル時代の研修で、周りに全くついていけず絶望した。十キロ走はさすがになかったけれど。
「やめる同期もたくさんいたけど、新卒で入社した会社を一カ月もしないうちにやめるって、やばくないですか? もう詰みでしょ。とにかく食らいつくしかないと思って、必死で自分なりにいろいろ勉強して……それでも研修が終わってクライアント先に派遣されたら、全然使い物にならなくて。それで多分、ハメられたんだと思います」
「ハメられた?」
「俺らの働きが、直属の上司の査定に直結するらしいんですよ。だから使えない奴認定されたら、ハメられて蹴落とされるんです。そもそも俺、入社したときから、その上司に目の敵にされているというか。俺、身長が大きいほうじゃないですか。デカい奴はその人に絶対嫌われるらしいんです。向こうは百六十センチもないんで」
 なんというセコい男なんだ。俺は言葉もなかった。そんなバカを役職につかせて、この会社は大丈夫なのか?
「一番仲のよかった同期は別のチームなんですけど、派遣先で私語が多いって因縁つけられて始末書書かされて、今、トレーニング中です。今日は上司の命令で原宿にいってます。女子高生をナンパして写真撮ってこいって命令らしいです。コミュニケーション能力が低すぎるから、それを鍛えろって……」
「そんな職場、むちゃくちゃじゃないか。はやくやめろよ」
 俺は思わず声をあげてしまった。川藤は一瞬目を丸くして、それからプッと吹き出した。「そんな職場って、自分の会社でもあるのに」
「いや……」
「でも、鶴丸さんは優秀だし、結果も出してるんですもんね。プロモーション事業部は花形ですよ。勝ち組しか入れない。俺らとはもう何もかも違います。俺なんて、大学でもバンドばかりでろくに勉強も努力もしてこなかったんです。当然、就活もなかなかうまくいかなくて。本当は観光業界とかいいなと思ってたんですよ。でも、一社も受かりませんでした。リーマンショックの前だったらあんなに苦労しなかったんだろうなあ。マジなんだよーって感じです。世代によってこんなに就活に差があるなんて、不公平ですよ」
「俺も氷河期世代だから気持ちがわかる」と言おうとして、やめた。意味もなく冷めたポテトをつまんで、また放る。
「だから今の会社に受かったとき、マジ嬉しかったんです。だって、なんだかんだ有名企業じゃないですか。辞めたくないです。辞めたらもう次はないです。人生詰みです」
「そう思ってしまうのはわかるけど、案外そうでもないよ? もっと視野を広く持って……」
「俺、就活のときに身にしみて思いました。若いうちに努力をしてこなかった奴には、それ相応の仕事しか与えられないんだって。人がやりたくないこと。体力的にきついこと。当たり前のことですよね。早い人は、子供のときから気づいている」
 俺も昔、全く同じことを考えていた。学生時代に努力してこなかった人間に、まともな仕事を与えるほど社会は甘くない、と。就活前、この社会で自分には何ができるのかを考える。考えろ、と企業や大学に迫られるまま。しかし活動がはじまってみると、どこからもまともに相手にされずに、何もないと悟る。
 自分には何の価値もない。
 だから、やっと正社員として雇ってもらえた場所にどれだけ理不尽なルールが横行していようと、どれだけ汚い言葉をぶつけられようと、耐えて続けなければならないと思い込む。やめたら自分みたいな奴は、もう何もなくなってしまうから。そう、人生詰みだ。
「先輩が言うには、俺にはまだチャンスがあるらしいんです」川藤は言った。「直属の上司が、『あいつは根性ありそうだから、まだ使える』って言ってたって。資格とったら評価されるらしいんで、今、必死で家で勉強してます。会社でできたらいいんですけどね。待機中だから時間あるし。でも、業務時間中に勉強するのはなぜか禁じられているんです」
 そう言う彼の表情や口調は、あくまで明るかった。事態を正確に把握できていないのか。針の穴ほどのわずかな希望に、本気ですがっているのか。
「いやあ、それにしても、ビックマック久々食ったけど、うまいっすね。マックはやっぱこれが一番ですよ」
 無邪気にハンバーガーにかじりつく様子は、まるで食べ盛りの小学生男子のようだった。口の端からレタスがぽろぽろこぼれる。
「マジうめえ。マジで、マジでうめえっす」
 そのとき突然、呼吸がしずらくなった。あのドキュメンタリーで見た、彼の子供時代の写真が脳裏をよぎった。
 読売ジャイアンツのキャップを斜めにかぶり、ビックマックらしきハンバーガーにかじりつきながら、おどけた顔を作る小学生の頃の川藤。隣には彼とうり二つの弟もいた。十数年後にこの少年が自ら命を絶つなんて、とても信じられなかった。
「え、ちょっと、鶴丸さんどうしたんですか?」
 気付いたときには涙と鼻水があふれていた。平常心を保とうとしても、顔が勝手に歪んでしまう。恥ずかしくて思わず彼に背を向けた。
 深呼吸を繰り返して気持ちをおちつける。しばらくして、やっと川藤に向き直った。しかし、その眉間にレタスの切れ端がちょこんとついているのを見て(なんでそんなところにつくんだよ)、また悲しみが込み上げ、鼻水が噴き出た。
「大丈夫っすか、鶴丸さん。何か悩みがあるんですか? 仕事がつらいんですか?」
「いや……」
「もし何かつらいことあるんだったら、俺、いつでも話、聞きますんで」
「うん、ありがとう」
「いえ……」
「なあ、君、死ぬなよ」
「えっ、突然なんですか」
「とにかく、一日でもはやく会社をやめなさい」
「いやですよ」
 川藤はハハハっと軽く笑って、ナゲットを二ついっぺんに口に入れた。

 昼休憩から戻る前に、川藤と連絡先を交換した。それ以降、俺はマメに連絡し、ときどき夕食に誘った。会うたびに、ときにさりげなく、ときに率直に退職を促した。
 彼は一笑に付すときもあれば、黙って最後まで聞いてくれるときもあった。俺は勝手に求人情報を調べて、良さそうな企業をみつくろって彼に提案することもあった。大手の旅行会社が第二新卒を募集している情報を見つけたときは、興奮が収まらず深夜三時に電話をかけてしまった。しかし川藤からの返事はつねに芳しくなく、やがて、食事の誘いもかわされがちになり、ときどきメールも無視されるようになった。
 十月になった。俺のしる限りでは、先月からずっと、川藤は自席で待機させられている。俺はときどき本人の迷惑も顧みず、彼の部署まで様子を見に行くようになった。大抵いつも、自席にじっと座って周りを不安げな顔で見ているだけだった。
 ところがその月の半ば、ずっと無視されていたメールに、川藤から久しぶりの返信があった。

 クライアント先に派遣されることになりました! 鶴丸さんと親しくしていることを上司にそれとなく言ったおかげかもしれません! 本当、ありがとうございます!

 そんなこともあるのか、と驚いた。もしかすると、と思う。今、少しずついい流れがきているのかもしれない。そう、俺との出会いが多少の影響を及ぼし、このまま何もしなくても、彼が自死する未来を回避できるのかもしれない。
 十一月に入ってしばらくした後、俺は北海道のいくつかの市町村を回る長期出張に出ることになった。出張中、川藤にはマメにメールした。忙しいのか、返信はまちまちだった。少なくとも、来年の一月まではクライアント先に常駐する予定らしい。とりあえず、年内は心配する必要はないとみていいだろうと思った。
 十二月のはじめに出張から戻り、それから間もなく、広告営業部との新しいプロジェクトが立ち上がった。二つのプロジェクトを同時進行するのは初めてだった。ここで結果を出せば、間違いなく大きなステップになる。年の瀬も押し迫り、人生でかつてないほど忙しく、飯を食べ損ねる日も少なくなかった。そのせいで、川藤のことを忘れがちだった。メールの頻度も少し落ちた。今はクライアント先に派遣されているのだし、早急に対策をうつ状況ではないから大丈夫、というのは言い訳で、俺は、自分の仕事に集中したかっただけなのだ。
 そんなある日、午後十一時過ぎまで続いた会議がやっと終わって廊下を歩いていると、背後から「お前の母親も気の毒になあ」と言って笑う声が聞こえた。
 また営業部の誰かが新人でもいびっているのかとちらっと確かめると、汚水のしたたる雑巾を片手に、廊下の壁に背をぴたりとくっつけて立つ川藤の姿があった。

「やめたくないです」
 いつものマクドナルドで川藤は言った。眼球が赤くにじんで、そこにうかんだ涙さえ赤く見えた。
 彼は十月下旬に、ある小売メーカーに派遣された。数週間ほどしたある日の深夜の作業中、同僚と私語をしているのを見咎められ、トレーニング行きになった。三日間のトレーニングの後、三カ月限定でグルメサイト営業部への異動を命じられた。どうやら俺が長期出張に出てまもなくのうちに、トレーニング行きになっていたようだ。
 川藤は口を濁し、はっきり認めなかったけれど、俺と親しくしていることをアピールしたせいで、例の低身長の上司の心証をさらに悪くしたようだった。またしてもハメられたのだ。ショックだった。自分の影響が、こんなふうに現れるとは想像していなかった。よかれと思ってやっていたことが、全て間違いだったということなのか?
 今の部署でIT部門の上司が提示する売り上げ目標を達成できたら、元の業務に戻れる、という話らしい。達成できなければ、時給八百円の契約社員か、自主退職のどちらか。
 営業部では丸一日飛び込み営業をして、帰社すると成果を先輩や上司に報告する。契約をとってきてもとってこなくても、一時間以上は𠮟責されるという。またその合間に、IT部門の上司によるトレーニングも受けなければならない。さらになぜか男子トイレの清掃も義務づけられていた。しかも素手。川藤は完全に退職への道に追い込まれていた。
「『お前みたいなやつでも確実に成果の出せる仕事はなんだ、考えろ』って、上司に言われて」川藤は言った。「俺、咄嗟に『会社の雑用です』って言いました。なんでもやりますって気持ちで。そしたら、『正しい答えを出せるじゃないか、お前はまだ見込みがある』って言われて。それでトイレ掃除をすることになったんです」
 そこまで言って、俺の顔を見た。何か読み取ったのか、言い訳するように「でも、掃除は金曜だけなんで」と付け加えた。他の曜日は、他の新人がやっているのだろう。
「鶴丸さん。見込みがあるっていうのは、前の仕事に戻れる可能性があるって意味ですよね?」
「いや、違うだろう」という俺は言葉を飲み込んだ。ドキュメンタリー番組で語られていた、彼が自死する直接的なきっかけになった出来事。上司に約束を反故にされたこと。ITの仕事に戻れるというほのめかしが、全くのでたらめだったと気づいて……ということだったんじゃないか? 
「だからまだ、やめたくないんです。だって俺、この会社でまだ何にもやれてない。広告は小さいものなら何件かとってこられるようにはなりました。でもまだ少なすぎます。飲食店に飛び込んで小さな広告をもらうなんてこと、大学生でもできますから。もっと頑張らないと。もっと頑張れば、きっと、三カ月以内に目標達成できるんです。役立たずのまま逃げるなんてイヤです。もしやめるとしても、ちゃんと社員として、会社に利益をもたらせるようになってからやめたいんです。まだ何もやれてない。本当に、役立たずなんです。今は文句をいう資格もないんです」
 こいつは誰と会話しているのだろう、と思う。俺のほうを全く向いていない。存在しない架空の人物と会話しているかのようだった。
「本当にそう思ってるのか? 誰かにそう言われて、そう思い込まされているだけじゃないのか?」俺は言った。「だいたい、前の部署に本当に戻りたいのか? あの仕事、本当にやりたいことなの? もっと冷静になって考えて……」
「冷静です。やめたくないし、もとの部署に戻りたいです」
 川藤は膝に置いた自分の拳を見ている。彼のかたくなさに、俺は思わず感情が高ぶり、「あのさあ」と声を荒らげた。
「君のやらされていることは異常だよ。あきらかな人権侵害だよ。わかってくれよ。俺のせいで……なあ、もうやめよう、こんな会社。やめるべきだ」 
「やめません」と川藤はきっぱり答えた。
「今まで何度も言ってきたことを、また言うよ。会社をやめることは逃げることと同義じゃないし、逃げることは負けることでもないんだ。この会社はまともじゃない。何もかもおかしい。そんなところで頑張って何になる? それよりも……」
「そういうことは、鶴丸さんみたいな、ちゃんと成果を出している人にのみ、言う資格があるんです」
「いや、このままじゃ……」とそこまで言って、俺は口をつぐんだ。このままじゃ死んでしまう。そう言おうとしたのだ。
「このままじゃ、なんですか」
 川藤が聞いた。俺は何も言えなかった。そのとき、はじめて川藤が俺の目をまともに見た。そこには、はっきりとした失望が浮かんでいた。
 
 その日以降、川藤は「家に帰りたくない」とこぼすことが増えた。彼の身の安全も心配なので、頻繁に俺の自宅に泊まらせるようになった。
 会社の話をすると雰囲気が悪くなるから、あまりしない。川藤は音楽の話もしたがらない。代わりによくするのは、お笑い芸人の話だった。川藤はbeseよしもと時代から千鳥のファンで、今年も含めM-1グランプリの決勝進出を逃し続けていることに、苦汁を飲む思いでいた。あと七年か八年生き続ければ、東京での彼らの輝かしい活躍を目にすることができるのに、と思うと俺は涙が出てくる。俺は千鳥の話が出るたび泣いてしまう。そんな俺の胸中もつゆしらず、川藤は「鶴丸さん、きもいっす」などと言うのだった。
 やがて年が明けて、ついに2011年になった。年末年始の休暇中に、俺はあるアイディアを思いつき、休み明けにすぐに実行に移した。

 川藤は子供みたいに、窓に額をくっつけるようにして外の景色を眺めている。その背中に向かって、「大宮から仙台ってあっという間だよな」と俺は言った。無視された。東京駅で落ち合ってからずっと、彼は不機嫌だった。
 今回の東北出張に、サポートとして体力のある社員を一人貸してほしい、とグルメサイト営業部のリーダーに申し出たところ、あっさり了承をもらえた。最近、プロモーション事業部内の別部署で、男性上司との出張中にセクハラをされたとある女性社員が訴え出たことが、社内で問題視されている。うちのチームには俺以外、若い女性しかいない。よって、俺の依頼はきわめて妥当なものとして受け入れられた。川藤を指名したことにも、とくに難癖をつけられることはなかった。
 反対したのは川藤本人だった。出張の期間中、外回りができずに売り上げ目標達成に悪影響を及ぼすことを心配しているのだ。今回の出張で何らかの成果が得られたら、川藤の評価に反映させるよう掛け合う、と約束してなんとか納得させた。 
 その後で、もしかして約束を反故にした上司というのは俺のことなんじゃないかと思い至り、小便ちびりそうになった。
 そういう恐ろしいことは、考えないことにする。
 今回の東北出張の期間は五日間。以前から取り組んでいる観光プロジェクトにおいて、東北地方の各地方自治体と協力して夏に楽しむレジャーとグルメの企画を立
ち上げたところだった。今回は自治体の担当者と話を詰めたり、企画に合いそうな飲食店やレジャー施設を回ったりするのが主な目的だった。
 俺はひそかに三月の震災を見越して、震災以降にボランティアやチャリティーなどのオプション企画を盛り込もうと勝手に目論んでいる。また、各地をまわって誰かと話をするたびに、津波に気を付けるよう言い添えようと思っていた。俺にできることなんてその程度だ、などと心の中で言い訳をしながら。
 しかし今回の一番の目的は、“松島町のマイケル”に川藤を会わせることだった。


 マイケルは観光協会で契約社員として働いている。今回の観光プロジェクトの発足当時から携わってくれている彼とは、出張のたびに酒を汲みかわす仲だった。今回はこちらのスケジュールの都合で今夜帰京しなければならなかったので、観光協会での二時間程度の打ち合わせのあと、近くのカフェに移動して話をさせてもらうことになっていた。
 海が見渡せる居心地のいい明るい店だった。窓際のソファ席に座った川藤は、最近めったに見ないほどリラックスした表情でアイスコーヒーをちびちびすすっている。うっすら白い雪をかぶった松島の景色をながめて、「リアル絵葉書じゃないっすか!」と一人で笑っていた。
 不機嫌だったのは初日だけだった。久しぶりの旅がいいリフレッシュになったのは間違いなさそうだ。観光業界で働きたかったというだけあって、各地域を回るたび、その土地の名産品や観光名所に強い関心を持ってくれることが、俺は素直にうれしかった。それに、どこへいっても彼は可愛がってもらえる。とくに漁協とか道の駅なんかにいるベテラン女性従業員にめっぽう強かった。俺もそのあたりは得意とするジャンルなので、二人でいくと食べきれないほどの試食品を出されたり、大量の土産物を渡されたりした。
「ねえこれ見て、この首の跡。これね、自分で首つろうとして失敗した跡」
 三人揃って注文したチーズケーキが運ばれてすぐ、マイケルは真顔で首を突き出して言った。川藤が心を閉ざしてしまわないよう、なるべく自然な流れで話してほしいとお願いしていたのに、極めて不自然かつ不気味な切り出し方に俺は落胆した。そもそもマイケルは身長百九十センチ体重五十五キロ、逆三角形の顔面に長すぎる手足を持つカマキリ人間で、存在しているだけですでに若干不気味なのだ。
 マイケルは俺の二歳上で、だから当然、氷河期ど真ん中世代だ。しかし俺とは違い、国立大学卒の理系エリートである彼は、氷河期の喉の奥さえ焼けそうなほど冷え切った空気を吸うことも、膨大なエントリーシートにもお祈りレターにもほとんど触れることなく、活動のごく初期に大手電機メーカーの内定を得た。
 入社して、最初に配属されたのは地方にある研究所だった。入社二カ月目には残業時間が月百時間を超え、夏にはうつ病と診断された。二週間休職し復帰すると、同じ研究所内の別の部署に配置転換された。残業時間は変わらず、それにくわえて、新しい上司からのパワハラがはじまった。
「正直、何があったか、ほとんど記憶がないんだよね」と、マイケルは言った。「なにせほとんど眠れていなくて。休みもないし。あったとしても、眠れないし。ただ、毎日上司に長時間𠮟責されて、そのたびに大量に鼻血を出していたことは覚えてる。会社をやめてしばらくたってから気づいたよ。自分の持ち物のほとんどが自分の血で汚れてた」
 最初の自殺未遂は、一年目の終わりだった。社員寮の部屋のドアノブにネクタイをひっかけて首をつろうとした。幸い、部屋に様子を見にきた同僚に発見されて一命をとりとめた。首にある跡はそのときについたものだった。二度目はそれから二年半後。衝動的に研究所の最上階の窓から身を投げたのだった。両脚や腰などを骨折し、全治半年のケガを負った。
「四年近くもあの会社にいたなんて、今考えたらとても信じられない。もっとはやく辞めるべきだった。でも当時は、辞めるなんてこと、一秒も考えなかったんだよね」マイケルは言った。「あんな怪我をしたあとでも、会社に迷惑をかけたことがひたすら申し訳なくて、一日でもはやく復帰することばかり考えてたよ。休んでいる間に、どんどん仕事がたまっていってしまう。そういう考えがとまらなくて、狂いそうなほど怖かった。でも俺の入院中に、俺の先輩が本当に命を絶ってしまった。それで考えが変わった」
 そこまで言って、マイケルは黙った。俺はちらっと川藤を見た。うつむいて、もう溶けた氷しかないグラスの中身を、細いストローですすっている。
「俺がいなくなったあと、その先輩がターゲットにされたんだよ。俺と同じようなことを言われたりされたりしていたようだったけど、一つ違ったのは、毎日、素手で便器を掃除させられてたこと。そのトイレで、首を吊ったんだ」
 俺はまた川藤を見た。無反応だった。
「そういうことに耐えていると、いつかくる。絶対くるんだ。逃げたい。休みたい。死んだら逃げられるんじゃないかって思うときが。はじめは小さな声。すぐにかき消せる。でもだんだん、その声が大きくなって、どうやっても消せなくなる。君はどう? もしかしてもう……」
「いや全然ないっす」
 川藤は即答した。

「マイケルさんってなんでマイケルっていわれるんですか?」
 通路を挟んだ隣の席に座った川藤が言った。俺は遊覧船の窓から、午後の光を反射する海面と、白い粉砂糖をまぶされたケーキみたいな島々を眺めている。松島海岸駅からの電車は本数が少ないので、いっそ遊覧船で塩釜までいってしまったほうが、帰りがスムーズだとマイケルが教えてくれた。
「わからない。とにかく、最初に会ったときにマイケルって自己紹介された。このへんの人はみんなマイケルって呼んでいるらしい」
 驚くべきことに乗客は俺たちだけだった。平日でも観光客はたくさんいたけれど、人気なのは松島を出て松島まで戻ってくる周遊コースのほうだった。
 マイケルは最初の会社を退職した後、十年近く実家の自室に引きこもっていた。それから唐突に家出して、親戚を頼って松島にきた。しばらくはアルバイトでその日暮らしをしていたらしい。数年前、現地でできた知人のつてで今の仕事に就いた。もちろん、非正規だから稼ぎは少ない。安アパートで一人きりで暮らしている。金がなくても、家族を持てなくても、気楽がいい、と彼は言う。
 別れ際「俺、失敗しちゃったんじゃない?」とマイケルは心配そうに言っていた。彼の話は間違いなく川藤の心に響くはずだと、相当の自信を持って俺はこの出張に臨んでいた。今は、わからない。川藤の表情からは何も読み取れない。俺はまたしても間違ったのかもしれない。
 川藤が何か言った。エンジン音でよく聞こえないので、彼の隣に移った。川藤はあからさまに不愉快そうな顔になった。
「え? なんて?」
「いや、とってつけたようなことを言ってたなって」
「何が?」
「今が一番幸せだ、とか。はやく逃げたほうがトラウマは残らない、とか。俺、トラウマとかすぐ言う奴、大嫌いなんすよ」
 ガムをぺっと吐き出すような口調。その、自分が地面に吐き捨てた言葉をさげすむように、じっと足下を見ている。
「俺はあんなに弱い人間じゃない。負け犬でもない。逃げません。いつか全員見返してやります」
「お前さ」と俺は思わず声を荒らげた。「せっかくお前のためにマイケルは話してくれたんだぞ。彼だって、完全に傷が癒えたわけじゃない。それを負け犬なんて……」
「別に俺は何も頼んでません」
 川藤は窓の向こうを見ながら、きっぱりと言った。かたくなさに、俺はますますイラついた。
「なあ、もっと客観的に物事を見ろよ。今の会社にこだわる必要あるのか? たとえ元の部署に戻れたとして、その仕事にお前は向いているのか? 向いていないことにこだわり続けても、時間の無駄……」
「鶴丸さんは、ずっと変わりませんね」
 川藤は言い、俺をちらっと見る。その目に浮かんでいたのは、軽蔑だった。
「俺をずっとバカにしている。俺の話なんて、聞く価値のないものだと思ってる」
「そんなわけないだろう!」
「バカにしています。心底バカにしている。俺のことを何にもできない役立たずのバカ野郎だと思ってる。下に見てる。はっきり言って不愉快です。頼みますから、もう俺にかかわらないでください。迷惑です。もし今後も近づいてきたら、セクハラされたって訴えます」
「セクハラ!?」
「上、いってきます」
 川藤は立ち上がると、俺の脚をまたいで通路に出て、逃げるようにデッキへ続く階段をかけ上がっていった。
 ひそかに恐れていたことだった。もしかしたら、いらぬ勘違いをさせてしまっているかもしれない、と。そう、薄々気づいていたのだ。うちに泊まるときも、絶対に俺の前で服を脱がないし。
 やり方が強引すぎたのだ。でも、じゃあどうすればよかったんだ? いっそ俺は未来人だと告げるべきだったのか? 
 そのとき、窓枠から何かがごとんと落ちた。拾い上げる。川藤の手帳だった。さっき、何かをこそこそと書きつけていた。
 俺はまずそれを、彼が座っていたシートの上に置いた。
 そして。最初に試してみたのは、念力だった。

 手帳よ、開け!

 もちろん何も起こらない。背後を確かめる。外はかなり寒い。風もかなり強いはずだ。しかし、あの様子ではしばらくここへは戻ってこないだろう。
 俺は周囲に気を配りつつ、そっと手帳を開いた。
 カレンダーページにはこれといったことは書き込まれていなかった。どんどんめくってメモページにたどりつく。
 息をのんだ。
 そこには一ページ一ページにぎっしりと、悪口が書き込まれていた。
 俺の。
 俺の悪口が。

 ツルマル、バカにしやがって。いちいちうるせえんだよ。コネ入社のくせにえばりくさってバカじゃねえの。しつけえんだよ。めーるしてくんな。うぜえ。ホモやろうホモやろうホモやろう。バカにするな。あんなやつにバカにされたくない。絶対にまけない。みかえしてやる。オレのほうが正しかったってみとめさせてやる。
 
 メモページの最後にたどり着く。そこにはえんぴつかシャープペンで「たたかいたい」という言葉が五つ、大小さまざまに書き込まれていた。
「あ」と俺は声を発した。
 これは、あのドキュメンタリーで見た「にげたい」の言葉が書き込まれていたのと同じページじゃないか? いくつも同じ言葉が書き重ねられ、ほとんど判読不明だったけれど、数個の言葉がかろうじて「にげたい」と読めた。だからすべての言葉が「にげたい」だと誤読されていたのだ。
 そうだ。それは間違いだ。ここには最初「たたかいたい」と書かれていたのだ。それがいつしかたくさんの「にげたい」に覆い隠されてしまった。そういうことだったのだ。
 俺の話なんて、聞く価値がないものと思ってる。
 さっきの川藤の言葉が脳裏によみがえる。その気持ちを、俺は十分理解しているつもりだった。社会で何の役にもたっていない自分の話に、耳を傾ける者は誰もいない、という悲しみ。結果。結果が全て。結果が出せない会社員に、文句をいう資格など一切ないという絶望。
 お前の話には価値がある、と俺は一度でも、あいつに伝えたことがあるだろうか。そもそも俺は、本当にそう思っていたのか? 
 手帳をシートに置き、立ち上がった。階段をつたってデッキにあがる。川藤はデッキの先頭部分でびゅんびゅんと風に当たられながら海を見ていた。今にも洗濯物みたいにとばされそうだった。
 やがて俺に気付いて、ちらっと振り返った。すぐにまた前を向いた。俺は彼に近づいていき、「たたかおう」と言った。
 風の音が強すぎて、聞こえなかったようだ。
「会社とたたかおう」と俺はできる限り精いっぱい、大声を張りあげた。
「え?」と川藤が振り返った。
「一緒にたたかおう。俺たちはたたかえる。結果を出しているとか出していないとか、そんなことは関係ない。理不尽な目にあったら、誰だって文句を言っていいんだ。人権を侵害されたら、誰でも抗議できて当然なんだ」
 川藤は詐欺師でも見るような目で俺を見ていた。塩釜方面からのびる西日が、死ぬほどまぶしかった。
「でも、今のお前のたたかい方は間違ってる。そんなやり方じゃ勝てない」
「は?」
「会社を訴えよう」
 川藤は小さく息を吐いて、また海を見た。まだ俺に失望し続けているような顔だった。

 それから三日後、会社帰りの川藤を凜子と一緒に待ち伏せして、強引に俺の自宅へ連れて行った。そして、会社を訴えることについて、凜子の労務に関する専門的な知識を活用しながら、川藤にプレゼンした。要はパワハラ訴訟をおこすということだ。
 川藤は全く、これっぽちも関心がなさそうだった。しかし、凜子の「会社に文句を言うなんてただの甘えだって思ってるでしょ。でもわたしに言わせれば、従業員を酷使しないと経営を成り立たせられない会社のほうが甘えてるんだよ、わたし達に」という言葉には、少し心を揺さぶられたようだった。
 訴訟にはとにかく証拠が大事だ、と凜子は繰りかえした。会社でされたことの一つ一つを記録に残してほしいと訴えた。川藤は「鶴丸さんも一緒に会社を辞めてくれるならやりますけど」と言ったあと、「あ、いいです」とつぶやいたきり口をつぐんだ。本当に、始発で帰るまで、一言も話さなかった。
「もう余計なことはしないほうがいいと思うよ」という凜子の言葉に従い、その後、俺は川藤への接触を控えた。本当は心配でたまらなかった。一方で、自分の余計な行動が引き金になるのが怖かった。
 そのまま月日は流れる。ついに、2011年三月十一日を迎えた。俺はなすすべもなく、仕事を休んで家にいた。夜勤明けの凜子もきた。二人並んでソファに座って、ずっとNHKを見ていた。2ちゃんねるに予言書き込みをするかどうか、少し前に二人で相談してしないと決めてあった。どうせまともにとりあってもらえないし、のちのち誰が書き込んだのか追われても嫌だ。
 しかし、何も起こらなかった。
 俺は一晩中起きていたけれど、これといった異変は一切なかった。凜子は深夜二時過ぎに「もし揺れたら起こして」とつぶやいてついに眠りに落ちた。明け方、うとうとしかけたとき、ピンポーンとインターホンが鳴った。
 ドアを開けると、Tシャツ短パン姿で坊主頭の川藤がいた。
 川藤がここ一週間ほど、この恰好での出社を命じられていることを俺は知っていた。結局、前の部署には戻れなかったことも。髪は社内で刈られたことも。
 川藤は以前より大分やせていた。目はさらに充血し、近づくとほんのりと納豆のような匂いがした。外はまだ暗い。ここにたどり着く前に、間違いなく最低一度は職質を受けたことだろう。
 川藤が無言のまま、何かを差し出した。ICレコーダーだった。
「今日、やっと『死ね』って言われました。これ、証拠になりますよね。俺、たたかえますよね?」
 彼の赤い目からはなたれる強いまなざし。芯の通った強い声音。心が激しく震えた。怖い、とすら思った。このとき俺ははじめて、川藤のことをずっと舐めていたのだと自覚した。
 社会で何の役にも立っていない、文句など誰も聞き入れない、ただその場を立ち去ることしかできない人間だと。
 あまりの恐ろしさに、次第にがくがく体が揺れだした。思わず川藤にしがみついた。その肩と腕は冷たく、骨ばっていて、今にも死にそうな人間の体つきだと思った。 
 でも違った。
 俺の体を支えようと差し出されたその手の力は、おそろしいほどたくましかった。
「地震です」と彼は言った。「やばい、めっちゃ地震です。超地震です」
 超地震ですってなんだよと俺は思った。やっぱりこいつは舐めてかかってちょうどいいやつなのか? 
 そのとき、部屋の中から何かが倒れる音がした。ついで凜子の甲高い叫び声が聞こえた。
(第11回へつづく)

南 綾子Ayako Minami

愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18文学賞」大賞を受賞しデビュー。『ダイエットの神様』『21世紀の処女』など著書多数。

  • 双葉社
  • 小説推理
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