双葉社web文芸マガジン[カラフル]

双樹、戦ぐ(大村友貴美)

イラスト:かわのまほ

第一章(承前)


 三日後の夕刻、多聞は、龍之進に頭と口を布で覆わせ、内町の崖沿いに建つ町屋を改築した牢屋敷へ連れて行った。牢番は二人。今はマヌエルの従者の取り調べで牢番一人が付き添って不在のため、侵入しやすいと多聞は言った。裏の柵を乗り越えると、表側の番屋にいる牢番の目を盗み、多聞は牢屋に入った。薄暗く狭い廊下の両側に六つの座敷牢がある。
 沙羅は入口から二番目の牢におり、マヌエルは奥の梯子を下りた地下にいると多聞は教えてくれた。
「私は入り口で見張ってる。半時後にはもう一人の牢番が戻ってくるから、それまでにここを離れるぞ」
 龍之進は頷き、廊下の真ん中まで進んだ。畳のない板間に沙羅が座っていた。
「龍之進、どうしてここに? 捕まったの?」沙羅は、柵に駆け寄った。
「忍び込んだ。沙羅は大丈夫? ケガはない?」
「ええ。平気。無事だったのね」ほっとしたのか、沙羅は、肩で息を吐き出す。「どうなったかと……ペドロのこともあるし、もう会えないかもしれないって」沙羅は涙目になった。「ペドロのこと、知ってる?」
 龍之進は、頷く。ペドロを思うと、顔が自然と強張った。ペドロは、追っ手のポルトガル人の男に頭を殴られて倒れた後、一度も目を開けず、そのまま息引き取ったと沙羅は言った。
「俺は、崖の途中で木に引っかかって助かったんだ。海辺になんとか下りて番屋に隠れようとしたら、漁夫に見つかってさ。山賊に襲われたって言ったら、傷を看てくれて」
「そう、よかった。龍之進、牢番が戻ってくる。すぐにここを出て」
「大丈夫。俺はぜったい捕まらないから」
 沙羅は、不安げに顔を歪ませる。「あれからここに連れてこられて、一人ずつ取り調べを受けてるの。マヌエルは、キリスト教徒よ。それなのに、どうして……パードレに父と母のことを訊かれたの。マカオでのことやマヌエルと父の関係も。マカオを離れた時のことも。わたしはマヌエルに攫われてここに来たんだろうって……父に言われてマヌエルと船に乗ったと話しても信じてくれないの。十歳にもならない時だから、記憶違いだろうって。いったいなんなの? わたしたち、これからどうなるの?」
「沙羅、落ち着いて」沙羅を励ました。マヌエルは人攫いの罪も着せられようとしているらしい。「絶対助けるから。マヌエルに会ってくるよ」
 廊下の奥へ進み、梯子を下りた。暗い。もともとは岩をくりぬいた蔵のようで、水の滴る岩肌はでこぼこしている。奥に蝋燭の明かりが見え、時折、吹き込む風で炎が揺れる。龍之進は、足元に気をつけながら、奥へ進んだ。
 時々、鎖の擦れる音がする。薄暗い明かりの中、床に座る人影が見えた。近づくと、両足と首に鉄の輪を嵌め、鎖に繋がれたマヌエルだった。龍之進は、その悲愴な姿に衝撃を受けた。
 気配に気づいたのか、マヌエルは顔を上げる。「……龍之進? お前なのか?」
 マヌエルは、数日でやつれ果てていた。髪は乱れ、声に張りはなくかすれて唇もかさついている。まるで瀕死の老人のようだ。
 龍之進は、跪いて柵越しにマヌエルのほうに手を伸ばした。マヌエルは、鎖を伸ばし、龍之進に近づいた。柵に体までは寄れず、互いの手が握れる程度だった。
「捕まったのか?」
「いえ、こっそり入りました」
「ケガはないか? 沙羅はどうなってる? 酷い扱いを受けていないか?」
「沙羅も俺も大丈夫です。安心してください」
「そうか……」マヌエルは、力なく微笑む。「わたしに引き取られたばかりに、面倒をかけるな。これまでキリスト教徒として、マカオや長崎で病院と乳児院に合わせて千クルザードを寄付し、薬剤を手に入れ、貧しい人々の救済に努めてきたが……おそらくわたしは罰せられるだろう。ユダヤ教徒は、安息日に働くのを慎む。安息日が始まる金曜日の夕方から土曜日の夕方まで、カルバジャル家では料理をしない……そういった密告が寄せられたそうだ」
「嘘です!」
「そうだ。でも、異端審問官は、目撃証言だけでなく、噂も証言として採用する。厳密な証拠はなくてもいいんだよ。個人的な恨みから、蝋燭を灯して秘密の儀式をしていたと虚偽の申告をされ、有罪になった者もいる。たとえ虚偽だろうと、告発された隠れユダヤ教徒は、よく事情が呑み込めないまま罪状が決まってしまう。それが現実だ」
 諦観と苦渋が交じり合ったマヌエルの口調は、淡々とし、疲れ果てていた。
「沙羅を頼む。沙羅の父は、わたしの友で、命の恩人なんだ。わたしの両親は、迫害から逃れるためにキリスト教に改宗したユダヤ教徒だった。高利貸しとして財産を築き、暮らしは裕福だったよ。でも……改宗したにもかかわらず、わたしたちは差別を受け続けた。信徒会に入れてもらえず、わたしは役所の会計士に就きたかったが、ユダヤ人家系ということで拒否された。善きキリスト者とは、先祖代々キリスト教徒であり、血の純潔を守る者だ。公職に就けるのは、その家系だけだと言われてね」
 マヌエルは、親と同じ商いに就き、さらに交易商になったと話した。
「改宗者の家系は、異端審問から公訴される恐れを常に抱えて生きている。だから、わたしは両親の死を機にポルトガルを離れてインドへ向かった。でも、ゴアで金銭の貸し借りで揉め、隠れユダヤ教徒として相手がわたしを訴えようとしていると知った。それで、明のマカオへ逃れたんだ」
 沙羅の父とは、ポルトガルにいた頃に知り合った。沙羅の父は、マヌエルの家系を知っても態度を変えなかった。しかし、マヌエルの公職に就けない理由が周囲に知られ、あからさまな差別が始まると、沙羅の父も距離を置くようになり、やがて疎遠になったとマヌエルは話した。
 しかし、マカオで二人は再会した。
「裕福な商人になっていた彼は、市政役人を務めていたよ。彼はわたしの家系を他言することなく普通に接した。いつ彼が裏切るだろうと、いつも気が気ではなかった。でも、かつて差別を恐れてわたしと距離を置いたことを彼は悔いていたんだ。自分も同じ目に遭うのが怖かったと。五年前、インドからマカオへやって来たパードレがわたしの素性に気づいたようだと彼が教えてくれた。だから、早くマカオから出るようにと。そして、沙羅をわたしに預け、役人の職務を引き継いでから後を追うから先に長崎へ行くよう頼んだんだ。でも……彼は死んでしまった」
「事故で亡くなったと、沙羅から聞きました」
 マヌエルは、ゆっくり首を左右に振った。
「わたしの船が出た後、彼はその日の深夜、窓から転落死したと人伝てに聞いたよ。事故として処理されたが……わたしのことで責められるのを恐れ、かといってわたしを裏切ることもできず、彼は自らの命を絶ったのだろうと思った」
 マヌエルが頻繁には教会へ通わず、人目を避けるように暮らし、複数の名を使い分けていたのは、身元を知られるのを恐れたためだったのだ。
「だから……沙羅を守らなければならない」
「俺が沙羅を守ります」
 マヌエルは、龍之進の手を握りしめた。「龍之進、もし年季を気にしているなら、お前は既に自由だ。年季は三年、もう明けているし、そもそもわたしはお前を奉公人と思ったことは一度もない。沙羅のことで身が危うくなるのなら、その時はわたしが今口にしたことは忘れなさい。お前の身を大切に。いいね? そして、お前が思い描く、好きな道をゆきなさい」
 マヌエルは、衣に手を入れてなにかを取り出した。開いた手のひらにあったのは、金の指輪だ。マヌエルは、指輪を龍之進に渡した。赤や青の宝石が埋め込まれた太い指輪に小さな屋根の蓋がついており、開けると見たこともない記号が彫られていた。
「それは、カルバジャル家の指輪だ。お前をきっと守ってくれる。その文字はヘブライ語で、《幸運を祈る》という意味だよ」
 先祖代々の指輪を受け取っていいのかどうか、龍之進は躊躇いを感じる。いくらマヌエルが我が子として育ててくれていたとしても、マヌエルはペドロの父であり、自分の父ではないと心のどこかで思っていた。
「だめだよ、これはカルバジャル家の幸運の指輪なんだろ? 持っていたほうが――」
「お前には幸せになって欲しい。だから、渡すんだ。親は子の幸せをいつも祈るものだよ。それに、お前はいずれカルバジャル家の主となる身だ。なんの遠慮もいらない。それをわたしと思い、肌身離さず持っていてくれ。そうすれば、わたしはお前といつも一緒だ。たとえ遠く離れていても、お前のそばにいることができる」
 指輪を龍之進の手に握らせると、マヌエルはいつもの穏やかな笑みを浮かべ、龍之進を見つめる。
「さあ、行きなさい」
 思い返してみれば、マヌエルは、ペドロと自分の扱いに不条理な差をつけたり、ペドロだけを贔屓したことはなかった。龍之進が反抗し、捻くれて黙り込むと、いつもマヌエルは少し困った、悲しそうな表情をした。マヌエルは、龍之進の遠慮に気づいていたのだ。マヌエルの心を知り、龍之進は泣きそうになったが、ぐっとこらえた。
 龍之進は、頷いた。「待ってて。絶対助けるから」
 暗がりに龍之進の姿が消えるまで見つめ、マヌエルは呟いた。「さらばだ……わたしの息子」

「俺は沙羅を頼まれたんだ。守ってくれって。マヌエルと沙羅を助けるって約束した!」
 弁天窟内に、龍之進の声が反響する。
「外に聞こえるかもしれない。もう少し小さな声で。助け出すどころか、お前まで捕まってしまう」多聞は、熱くなる龍之進を諭すように声を潜めた。「龍之進、お前だけでも逃げろ。この長崎から出るんだ」
「そんなことは――」
「いいから聞け。たとえ牢から出すことはできても、その後どうするつもりだ? 日本にいたら、カルバジャル殿にしても沙羅殿にしてもあの外見だ。目立ってしまう。日本を離れるにしても、カルバジャル殿を乗せてくれる黒船はないと思うぞ。長崎沖に停泊する黒船は、ポルトガルとイスパニアの船だからな」
「マヌエルは、俺をわが子として育ててくれた。親をそのままにして逃げられるか?」
「関ケ原で私たちはお父を戦場に残して逃げたではないか。龍之進のお父は討ち死にしたと私のお父は言った……私のお父も死んでしまったけど、あの場に残して逃げたことに、後悔は……私にはある。でも、あの時、お父は私に『逃げろ』と言った。カルバジャル殿もお前に我が身を大切にと言ったのだろう? それが……たぶん親だと思うぞ」
 龍之進は、黙り込んだ。
「龍之進、頼む。私がなんとしてもお前を長崎の外へ、遠くへ逃す。捕まったら、私はもう手を出せなくなる。捕まってはならん。インドとかいう異国へ連れていかれてしまうぞ!」
 龍之進が返事をしないので、多聞はいらつきを隠せなくなった。
「わかった! 龍之進、少し時間をくれ。カルバジャル殿を助けてくれる人がいるかどうか捜してみる。いいか、くれぐれも出歩くなよ」

 翌朝、龍之進は、早く起きた。じっとしていることはできない。多聞にだけ荷を負わせるわけにはいかない。
 頭から布を被り、顔の前に布でひさしを作った。水夫町へ行くと、日本人や唐人の他にも異国人の商人や水夫が行きかっている。店の軒下で酒を飲んだり、小舟に荷を積む日本人の水夫に声をかけ、近日中に日本を離れる和船はないかを訊いて歩いた。船出間近の船がわかると、水夫頭や船頭に乗船を掛け合った。しかし、交渉相手が子供な上、金銭を持たないと知ると、相手にされず、続けて二隻断られた。
 龍之進は、沖の帆船を眺めた。朝日を浴び、春の出港を迎えた黒船と和船、唐船が煌めく海に停泊している。
「おい、そこの小童」
 振り返ると、唐人の水夫服の上に日本の着物をだらしなく羽織った男が酒瓶を提げて立っている。黒いざんばら髪と日に焼けた肌、年の頃は三十。唐人だろうか。ほろ酔いなのか、男の目はとろんとし、今にも眠りそうだ。
「今日は船出に絶好の日和だナ。船に乗りたいか? 銭は? お、いいもん持ってるネ」
 男は、唐人訛りのある日本語で話しかけ、龍之進の首から下がる指輪に手を伸ばしてきた。
「これはだめだよ」龍之進は、マヌエルの指輪を握り、衣の中へ隠した。
「いい細工だ。高く売れるヨ。銭がないなら、水夫で乗るか? 雇ってくれる船知ってるヨ」
「俺だけじゃない。あと三人いる」
「四人も? 親兄弟か?」
「関係ないだろ」どうも胡散臭い。龍之進は、男の脇をすり抜けようとした。
「水夫頭に知り合いいるヨ。話つけてやってもいい」
 龍之進は、立ち止まる。ツテがあるなら、藁にも縋りたい。「ポルトガル人二人と柬埔寨カンボジア人一人だ」
 男は、先に立って歩き出した。足元が少しふらついている。「お前、ポルトガル人の倭奴わぬか? ポルトガル人はその主か?」
「年季奉公人だよ。もう年季は明けた」
「年季奉公人?」男は大口を開けて笑い、行きかう人々を酔いつつも巧みにすり抜けて歩く。「同じネ。名を変えただけヨ。売り買いする奴隷を、期限あろうがなかろうが、日本では奉公人と呼ぶ。南蛮人に恩義を感じる必要ないと思うネ。儂はマニラで商いやってた。イスパニア人やポルトガル人ともうまくやってる、そう思ってた。でも、ある日イスパニア人が町を襲ってきた。唐人を虐殺し、働ける者は奴隷にした。儂はガレー船に繋がれて漕ぎ続けたヨ。でも、船で暴動が起こって運よく逃げたネ。そこで、儂は悟った。笑っていても腹の底はわからない。人を信じてはならないって。特に南蛮人は」
 男は鋭い目つきで龍之進を見る。
「マヌエルは、そんな人じゃない。信用できる。俺を引き取って育ててくれたんだ」
 男は鼻で笑う。「なぜ船を捜す? さっきから船頭や水夫頭に断られているみたいネ」
 龍之進は、言葉を呑みこんだ。言えない。事情を話したら、どこでどう計画が漏れるかわからない。
「面倒なことに首突っ込んでるなら、よしたほうがいい。南蛮人は、倭奴を人間だと思っちゃいないヨ。この港から何百人と日本人を乗せて異国へ連れ出してるの、お前だって知ってるだろ? 倭奴や傭兵を南蛮人と紅毛人はこき使い、屑のように捨てる。そんなやつらのことナンテ、ほっとけ、ほっとけ」
「約束したんだ。絶対助ける、守るって」
 男は、立ち止まった。「ふーん……で、小童は、なにができるのかナ。融通のきかないやつは、早々に命散らすだけネ」
 それから、海産物屋と古着屋の間の細い道を顎で指す。
「この先に蔵がある。そこに唐船の水夫頭がいるヨ。本気で船に乗る気があるなら、水夫頭に話してみるネ。儂の口利きと言えばいい」
 去ろうとする男に龍之進は声をかけた。「待って。名は?」
「儂か? 李旦りたんだ」李旦は、背中ごしに片手を上げて去っていく。
 龍之進は、深く息を吸い込むと、迷うことなく蔵に向かった。

「パードレ・ロドリゲス、お願いがあります」
 大神学校の図書室で、ロドリゲスは机に向かって書きものしていたが、顔を上げて多聞を見た。
「パードレは、長崎には隠れユダヤ教徒がいるとおっしゃいましたね。どなたか一人でも教えていただけませんか?」
「そんなことを聞いてどうするのです?」ロドリゲスは、ペンを置いた。「マヌエルのことですか?」
「今、カルバジャル殿に手を差し伸べられるのは――」
「セバスチャン、なぜマヌエルにこだわるのです? お前は、パードレになりたいそうですね。小神学校でお前は優秀と聞いています。将来を思うなら、隠れユダヤ教徒とはかかわりを持たないことです。お前も感化されたと思われますよ」
「ただ……カルバジャル殿に世話になった者がいるのです。その者のことを思うと――」
「セバスチャン、諦めなさい」ロドリゲスは、ぴしゃりと言った。
 多聞は、ロドリゲスの決然とした表情を見つめる。
「それに、残念ですが、もう……マヌエルは……」

 これで、マヌエルと沙羅を異国へ逃がすことができる。
 龍之進の心は、浮き立った。役に立てるのがうれしかった。出港は、明後日。それまでになんとかして、三人を牢から出さなければ……。
 弁天窟に戻ると、奥から血相を変えた多聞が飛んできた。「どこへ行ってたんだ! なんでここから出たんだ!」
 龍之進は、戸惑った。
「多聞にばかり面倒はかけられないから、船を捜しに」
「面倒なんて、そんなことはいいんだよ! マヌエル殿が、三人が船に乗せられた!」
「船に!? いつ?」龍之進は、仰天した。
「昨夜のうちに乗せられたそうだ。船はもう出てしまった」
「え!」龍之進は、振り返って外を見た。「どこ行きの船?」
「ゴア行きだ」出て行こうとする龍之進の腕を多聞は掴む。「船が出たのは一時半前だ。もう間に合わない。無理だよ」
 龍之進は、弁天窟を出て、木々を分けて海を見たが、黒船はどこにも見当たらない。へたり込むと、「すまない……力になれなくて」背後に立った多聞が謝った。
「そんな……せっかく唐船に乗れるようにしたのに。明後日出港する船で高砂タイワンまで乗せてくれるって!」龍之進は、地面を拳で叩いた。
「唐船で異国へ行くつもりだったのか?」
「そうだよ。水夫頭に掛け合ったんだ。そしたら、俺が水夫になることを条件に三人を乗せてくれるって。五年俺が働けば、まとまった銭が手に入る。前借りすれば、マヌエルが下船した時渡せるだろう?」
「唐船で五年もただ働きするつもりだったのか、龍之進?」
「銭がないからさ。俺には、そんなことくらいしか……」
 多聞は、小さな溜め息を吐く。「関ケ原の時も……私に構わず逃げればいいのに、そうしなかったな。人を守るためなら、お前は捨て身になれるんだよな」
 龍之進と弁天窟に戻ってくると、多聞は龍之進の手を取った。「龍之進、とにかく長崎を出るんだ。カルバジャル殿を有罪にする証人に仕立てられたくはないだろう? 私が手はずを整えるから、しばらくここを離れたほうがいいよ」
 多聞は、暗くなったら迎えにくると言い残して、弁天窟を出ていった。
 龍之進は、居たたまれなかった。俺一人で逃げるのか? このままでいいのか? もうできることはないのか?
 絶対助けると言った、沙羅を守ると約束したのに。
 龍之進は、立ち上がった。顔を隠すように布を巻き、再び水夫町へ向かった。
 荷運びをする男たちを掻き分けながら蔵に入ると、水夫頭を捜した。彼はまだ奥にいた。商人や水夫たちと話している。龍之進は、急いで駆け寄った。
「インドのゴアへ行きたいんだ。明後日ではなく、もっと早く船は出ないの?」
 水夫頭は驚き、龍之進を凝視した。「なんだ、今朝の?」否定する代わりに片手を振り下ろす。「インド? そんなことまで行かねぇよ。遠すぎる」
「三人がゴアへ……船が出てしまって、後を追いたいんだ」
「お前の都合で船を出せるか。ポルトガル人がどうなろうと、こっちは関係ないんでね。で、乗るのか、乗らないのか」
 龍之進が躊躇していると、男は舌打ちし、「なら、よそを当たれ。ほら、そこ退け!」と龍之進を突き飛ばす。
 表通りに出ると、李旦が店先の樽に腰かけていた。
「なんだ、小童、浮かない顔して?」
「三人が船に乗せられて……その船が出てしまったんだ。俺も後を追わないと。三人が危ないんだ。でも、どうしたら……」
「方法はいくらでもあるだろ。お前が本気なら。で、追ってどうする? なにも知らない異国でどうやって三人守るつもりネ? 銭も力もないのに、まだ童のお前に人を救えるのか? 言っておくが、この世は、金と力ヨ。それを持ってないやつは相手にされない。なぜ人は、金と力を欲しがると思う? 屑のように扱われないため、生き残るため、大切なものを守るためヨ。人を守りたいなら、まずのし上がれ!」
 龍之進は、港に一人立ち尽くした。
 なんの力もない。
 紐に吊るして、首から提げたマヌエルの金の指輪を衣の上から右手に握り締める。
 もっと強く、人を守れるだけの力が欲しい。
 ――沙羅を頼む……沙羅を守らなければならない。
 冬の潮風が顔を刺す。
 龍之進は、ふと海と船着場に視線をやった。雁木に留まる小舟に、貧相な身なりの日本人が次々と乗り込んでいた。小舟は離岸すると、沖に停泊した一隻の黒船に向かっていく。他の小舟に褐色の肌をした異国の男らが荷を積んでいる。そばにポルトガル人らしき男がいて、彼らに指示を出していた。
 龍之進は、雁木に下りてゆっくりそのポルトガル人に近づいた。念のために、わざと下手なイスパニア語で話しかけてみた。「旦那さん、あの船はどこへ行きますか?」
 男は、胡散臭そうに龍之進を見る。「マカオだ。マカオで荷を下ろしたら、そこでまた荷を積んで次はマニラだ」
 マカオ。高砂よりはゴアに近い。できるだけゴアに近づきたいので、さっきの唐船より都合がいい。
「あの人たちは?」龍之進は、黒船に乗り込む日本人を指さす。
「日本人か? 船の傭兵とマニラへ連れていく倭奴だ」
「俺も乗りたい」
 男は、少し身を引き、疑わしそうに龍之進の頭からつま先まで凝視する。「倭奴なら、マニラまであの船で水夫として働いてもらう」
「倭奴と傭兵、どっちが高いですか? 銭が必要なんです」
「傭兵だ。命を張るからな」
「では、傭兵で。槍、使えます。刀も鉄砲も」
 男は、鼻で笑う。「まだ子供のくせに。まあ、いい。傭兵は何人いてもいいからな。ただし、自ら売り込む日本人は、異国へ行くと逃げ出すやつが多い。ただ異国へ行きたい、それが目的だからな。だから、自分で売り込んでくるやつは、通常より安く雇うことにしている」
「俺は……強くなりたい。それだけです。では、役目を果たした時に、正規の金額の差額を払ってください」
「いいだろう。お前がそれまで生きていられたらな」

 ガスパールがマヌエルの借家に入ると、店の間でバレンテが仮差し押さえた交易品を一つ一つ手に取って確認していた。
「パードレ・バレンテ、ご相談があります」
「わかっている。望みどおりのものを渡してやる」
「では、マヌエルの船を譲っていただけるんですね?」
「航路もそのまま引き継げばよい。ガスパールの密告で、マヌエルが隠れユダヤ教徒とわかったのだからな」
「共に行動するうち、偽名を使ったり、人目を避けたり、マヌエルに不審な点がいくつか出てきましたんでね。でも、まさかゴアで公訴されていたとは思いませんでしたよ」
「マヌエルの罪は重い。生糸を不当に安い価格で売って、生糸を仕切るイエズス会と日本人商人との関係に水を差した。イエズス会の収入を減少させ、いわば、長崎、いや、日本での宣教活動を妨げた。ことは重大だ」
「でも、禁忌の肉食だけで公訴できたのでは? できるだけ罪は重いほうがいい……全財産を没収するために。そうでしょう?」
 バレンテは、ガスパールを睨みつける。「勘繰りが過ぎるぞ」
 ガスパールは、したり顔で笑う。「証人の日本人奴隷が一人見つかりませんが?」
「タデウスか。捜すのは手間だ。あやつにそれだけの価値はない。放っておけ。調書は揃っているし、インドにいた頃からそばにいたという従者一人いれば十分だろう。一番よくマヌエルを知っている」
「そうですね。タデウスは、逃げたところで寄る辺もなく、いずれ野たれ死にでしょう」
(第5回へつづく)

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大村友貴美Yukimi Omura

1965年岩手県生まれ。中央大学文学部卒業。2007年『首挽村の殺人』で第27回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、デビュー。他の著書に『奇妙な遺産』『犯罪に向かない男』『存在しなかった男』『梟首の遺宝』など。近著に『緋い川』がある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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