双葉社web文芸マガジン[カラフル]

双樹、戦ぐ(大村友貴美)

イラスト:かわのまほ

第一章(承前)

 三日後、人商人に腰縄を引かれ、龍之進は長崎の町へ入った。
 田畑に囲まれ、海に向かって伸びる岬にできた細長い町。長崎は賑やかで、活気のある港町だった。沖に大きな黒い船や和船が見え、立ち並ぶ店の軒先に見たこともない品が陳列され、通りを商人と荷馬が行きかう。
 龍之進は、逃げ出す隙を狙いながら歩くつもりが、つい珍しい光景に目を奪われた。
 奇妙な袴と短い衣に身を包んだ白い肌や黒い肌、褐色の肌の異国の男たちが歩いている。首から足首までの黒衣の男たちは、店先で日本人商人と談笑していた。
 身なりは汚く、髪もぼさぼさの龍之進を道行く人は一瞥するが、見て見ぬふりだ。
 人商人は、二階建ての商家の前で立ち止まり、龍之進の腰縄を解いた。「おのれの行き先は、ここにおるポルトガル商人や」
 龍之進は、この瞬間を逃さず駆け出した。が、店から出てきた小太りの異国人の男にぶつかり、尻餅をついた。人商人に右腕を掴まれ、捻じり上げられ、龍之進は短い悲鳴を上げた。
「なにごとですか!」異国人の後ろから、童女が現れた。
「逃げようとしよった!」人商人は、龍之進の腕をさらに強く捻る。
 童女は、龍之進が聞いたことのない言葉で小太りの異国人に話しかけると、男は家に入って大きな声を張り上げた。
 まもなく背の高い男が現れ、「マヌエル・カルバジャルです。この子ですか?」と妙な訛りのある日本語で人商人に訊いた。
 マヌエルは、波打つ栗色の髪、鼻が高く、端正な顔立ちの異国人で、見るからに仕立てのいい衣を着ている。
 人商人が手を放すと、童女が肩を痛がる龍之進に駆け寄った。
 顔を上げた龍之進は、着物姿の童女に見入った。日本人のようでも、異国人のようでもある。目は大きく、鼻筋が通り、いいようのない美しさがある。
「ガスパール、ありがとうございます」
 童女が礼を言うと、ガスパールと呼ばれた小太りの男は、顔をしかめて龍之進を一瞥し、去っていった。
 マヌエルは、人商人に小袋を渡した。「約束の銀貨十四ペソが入っている」
 人商人は、袋を開け中身を確認し、顔を綻ばせると、龍之進に見向きもせずいなくなった。
 マヌエルは、龍之進に向き合った。「わたしは、マヌエル。この子は、沙羅。年は十歳。わたしの友の娘だ」
「松田沙羅と申します。わたしの父はポルトガル人で、母が日本人なのです」沙羅は、流暢な日本語で話した。「では、急ぎましょう。パードレがお待ちです」
 家の奥へ案内された龍之進は、異国人の召使いに手伝われ、湯浴みをし、新しい着物に袖を通した。その後、マヌエルと外に出た。沙羅も通辞として付き添い、「先ほどの商人のような手荒なことはいたしません。ご安心ください。われらに付いてきてください」と言った。
 小高い丘にトードス・オス・サントス教会堂と二人が言うキリシタン寺が建っていた。
 教会堂に入る前に、マヌエルは龍之進に「パードレからいくつか問いがある。生まれや年について訊かれるから、正直に答えなさい。龍之進を引き取るにあたっての形ばかりの儀式だ。なにも心配はいらない」と言った。
 中に、黒衣をまとった異国の男がいる。
 マヌエルは、黒衣の男に恭しく異国の言葉で話かけ、男は軽く頷くと、龍之進に日本語で話しかけた。
「二、三訊きたいことがある。どこの生まれか? 名は? いくつになる?」
 男は、マヌエルと同じくらいの年に見える。喋り方に癖はあるが、淀みなく日本語を話すので龍之進は驚いた。「美濃の関ケ原。名は、丹羽龍之進。十になる」
「関ケ原? いつこの長崎にきた? 戦があったのは知っているか?」
「知ってます。その戦で父は死にました。俺は、戦場のそばで攫われた」
「父上は侍か? 内府様方か? 治部様方か?」
「徳川方でした」
「銭を支払い、引き取る者はいないのか?」
「いません。三年前にお母も病でみまかりました。それに銭がない」
「パードレ・バレンテ、龍之進は戦の捕われ者です」マヌエルが言った。「身寄りがない故、わたしが引き取りたいと存じます」
 バレンテは、龍之進をじっと見つめる。「司教様は、出自のわからぬ子や正当な理由なしの日本人の売買を禁じている。年季奉公人と認められるのは、戦の虜囚、親や子に売られた者、自らを売った者に限る。戦の虜囚か……ならば、よしとしよう」
 バレンテは、持っていた紙をマヌエルに差し出した。「年季奉公の証明書だ。大神学校院長様の署名もある」
 マヌエルは、巻き物を受け取り、礼を述べた。
 俺は、戦の慮囚ではないし、銭目当ての人取りに遭ったのに。マヌエルが言った通り、形ばかりの聞き取りらしい。
 次に、龍之進は、バレンテの言われるままに跪いたり、頭に水滴をつけられたり、よく意味のわからない動きをさせられた。それがキリシタンが行う洗礼という儀式で、パードレはキリシタンにとって僧侶のような存在だと後から沙羅に教えられた。そして、洗礼に立ち合ったマヌエルが龍之進の代父だという。代父とは、今後親代わりとなって信仰生活を導く男のキリシタンのことらしい。
 受洗後、龍之進は、タデウスという名とカルバジャルという姓を与えられた。慣例でポルトガル人の代父の姓が年季奉公人に授けられるとバレンテは説明した。
 この日から、龍之進は、タデウス・カルバジャルとも呼ばれるようになった。

 沙羅は、龍之進の同い年だが、優しく、大人びていた。汚い恰好をしていた龍之進に嫌な顔一つせず接し、召使いたちにも偉ぶらない。家ではポルトガル語が話されるので、沙羅が付きっきりで龍之進に内容を伝えてくれる。そんな彼女をマヌエルは、実の娘のように育てている。
 マヌエルは、貧しさゆえに親に捨てられた子や売られた子を引き取ろうと考えていたところ、人伝に龍之進の話を聞き、養父になろうと決めたと龍之進に話した。マヌエルからすると、戦う人である侍は、騎士であり、騎士は貴族だった。そのため、〝侍〟の父を持ち、読み書きと算術を学んだ龍之進は教養のある〝貴族〟の子ということになるらしい。マヌエルは、龍之進に「お前は働く必要はない。カルバジャル家の子として暮らすんだ」と言った。
 そのマヌエルには、ペドロという名の息子がいる。妻は、ずっと前に病で亡くなったという。ペドロは八歳。龍之進と同じくらいの背丈で、ひょろっとしている。初めて対面した時、龍之進を遠慮がちに観察し、小さな声で挨拶した。

 マヌエル一家は、一年前、みんのマカオという南の地から長崎に来て、町年寄の親族が所有する嶋原町の借家に住んでいた。嶋原町は、長崎でも日本人やポルトガル人の裕福な商人が暮らす町で、家主はキリシタン。借家の周りには同じくキリシタンの三人の町年寄の家もある。そのため、一家は、町年寄と親しく付き合っていた。
 マヌエルの周囲の評判は、よかった。他の異国人のように日本人の遊女を侍らせたり、妾を囲うこともなく、家人と慎ましく暮らしている。病人や寡婦、孤児、貧しい人々の世話をする慈善院に多額の資金を寄付したり、茶の湯を嗜み、畳に布団を敷いて寝るなど、日本と日本人へ敬意を払い、理解しようと努めたので、日本人から好感をもたれているようだ。
 その上、多くのポルトガル人商人にみられるような年季奉公人への虐待もないので、召使いからも慕われているらしい。主人という扱いを受けるのを嫌がり、年季奉公人との契約を勝手に破ったりするような不正もしないという。ポルトガル人は、たいてい一人から六人の奴隷を抱えるそうだが、マヌエルは柬埔寨カンボジア人一人、太泥マレー人二人を雇っている。彼らは、マヌエルの従者、子らの世話係、調理人で、中には年季が明けたにもかかわらず、望んでマヌエルの下で働き続けている者もいる。彼らは、明るく、慎重で、親切なので、龍之進はたやすく一家に馴染むことができた。
 やっと落ち着ける……今日明日どうなるか、強烈な不安を抱かなくてもいい。人攫いに粗末に扱われ、生き死にが主人や監視人に左右されるような境遇から解放されたのだ。
 龍之進は、なんの心配もなく、温かい床で眠れる幸せを嚙み締めた。

 半年後―― 一六〇一年 五月
 龍之進は、家を顧みた。「いいのかな。またペドロ一人残してきて」
「しかたないわ。あの子だけ終わらないんだから。みっちり教わったほうがいいの」
 マヌエルは、龍之進とペドロ、沙羅に学問を修める場を設けた。長崎で学識が高いと評判のイスパニア人を雇ったものの、ペドロはつい遊びがちになるので、マヌエルは困り果てている。
 故国の大学を出たイスパニア人は、イスパニア語、ポルトガル語、ラテン語、算術、太陽や月、星の動き、人体構造と医術といった学問を三人に教えている。これらの学問は、船に乗る商人に必要だとマヌエルが考えたからだが、算術が苦手なペドロは、計算をよく間違えるので、一人だけよく居残りになる。
「ペドロは、以前とまるで違う。明るくなったわ。龍之進のおかげよ。龍之進が好きで、いつも一緒にいたがるし、後ろを付いて回るでしょう?」
「そうなの?」
「そうよ。周りは大人ばかりで、わたしは女だし、きっと淋しかったんだと思う。龍之進がカルバジャル家に来てから、あの子、よく人と話すようになった」
 船主のマヌエルは、船長ガスパール・フェルナンデスとしばしば海に出てしばらく留守にするので、龍之進とペドロと沙羅は、三人で過ごす時間が多かった。とりわけ龍之進は、沙羅からポルトガル語や異国の習慣と作法を教えてもらうので、自然と親しくなった。そして、二人が一緒にいると、ペドロは決まって割って入ってくるのだった。
 龍之進と沙羅は、たいてい毎日海辺を散歩する。沙羅との時間は楽しかった。沙羅は、朗らかで、賢く、感情が豊かで、一緒にいると、いやなことも忘れられる。
「長崎は、マカオと似てる」
「どんなところが?」
「坂が多くて、小高い丘に教会があるところ」
 沙羅に続いて龍之進は、海辺の水夫町へ下り、帆を畳んだ多くの船が停まる海と対岸の新緑の山々を眺めた。
「父は、商人だった……」
 沙羅の父が商人とは聞いていたが、過去のできごとのように話すので、龍之進は聞き間違えたかと思った。
「一年半前事故で亡くなったわ。十二年前、父が交易をするために平戸に着いた時、母と出会ったんですって。父は母を気に入って……母は周りの反対を押し切って父へついていったの。それから亡くなるまで母はずっとマカオにいた。平戸や長崎の話を聞いていたから、どんなところだろうって思ってた。でも、わかった気がする。母は、マカオにいながら、長崎を、日本を思い出していたんだって」
 沙羅は、龍之進を見て微笑んだ。「龍之進とわたしは似てる。一人ぼっちなところが」
 はっとした。龍之進は、父を亡くしてから、ずっと自分だけが一人だと思っていた。でも、沙羅も同じ孤独を抱えていたのだ。
 表からはわからないだけで、皆それぞれ淋しさを抱えているのかもしれない……そのことに龍之進は気づいた。
 四か月前、キリスト降誕を祝う祭りがあった。長崎で暮らす日本人の多くはキリシタンらしく、町を挙げての特別な日となった。龍之進にとって、カルバジャル家の一員になって初めての祭りで、沙羅はキリスト降誕を再現する人形を座敷に飾り、食卓いっぱいに魚料理と甘い干し果実の焼き菓子が並んだ。夜になると、召使いたちを含めた一家総出で蠟燭が灯る教会へ行き、大勢の人々と共にミサに参加した。あの日、沙羅もマヌエルもペドロも、召使いたちも楽しそうで、龍之進にとって忘れられない華やかで温かい思い出となっている。血の繋がりはないけれど、カルバジャル家に集う彼らは、紛れもない龍之進の家族だった。
 龍之進は、沙羅と分かれ、槍の稽古へ向かった。マヌエルが侍の子である龍之進に、武芸の稽古をさせたいと町年寄に相談したところ、槍の名手を紹介され、三か月前弟子入りしたばかりである。
 水夫町から坂を上がり、慈善院の前を通りかかると、揃いの青い着物姿の童男たちがいた。そのうちの一人を見て龍之進は驚いた。
「多聞……? 多聞か?」
 気づいた多聞も目を丸くする。「龍之進! なぜここに?」
 二人は、駆け寄って互いにまじまじと見合った。
「無事だったんだね! その青い衣は?」
「これは、小神学校の着物だよ。実は、今長崎のキリシタン学校で学んでるんだ」
「キリシタンになったの?」
「うん。私は、あれからあの雑兵に捕まった。でも、パードレに助けられて……キリシタンになった。キリシタンの名を賜って、みんなからセバスチャンと呼ばれてるよ。龍之進こそ、どうして長崎に?」
「俺は、あの後野盗に捕まってさ。人商人に長崎へ連れてこられて、ポルトガル商人に引き取られたんだ。今はここで暮らしてる」
「ほんとうに? そうか! よかった。じゃ、これからも会えるな!」」
 多聞の仲間たちは、興味津々の様子で喜び合う二人を見ている。龍之進は多聞を誘って慈善院を離れた。
「この家で暮らしてるんだ」龍之進は、歩きながら借家を指した。
 多聞は、立ち止まり、家屋の全体を見回す。「へぇ、立派な家だね。その着物といい……いい人に引き取られたみたいだね」
「うん。家に入る?」
「いや、いい。まずは話そう。久しぶりだから」
 二人は、再び足を進めた。
「実は、俺も受洗したんだ。タデウスっていう名でさ。でも、家では龍之進って呼ばれてる。多聞も攫われてたなんてなぁ。俺はてっきり寺へ戻れたもんだと思ってたよ」
「私だって。龍之進なら、逃げられると思った」
 いかにも悔しそうに多聞は言う。
「多聞、あの時、別れなくても結果は同じだったみたいだな。別な奴らだけど、二人とも攫われてたなんてさ」
 あっけらかんとして龍之進が言うと、「……うん」多聞は沈んだ声で返答する。
「どうかした? なんかおかしいよ。なにか言いたい……隠してることでもあるの?」多聞の浮かない表情を見た時、龍之進は直感した。「あ、もしかして……あそこで別れようと言ったの……あいつらの目をごまかせるとか言ってたけど、違うんじゃないの? もしかして……俺を逃そうとした?」
 多聞は、言葉を詰まらせる。「いや……」
「まさか……囮になってたりしてないよな? わざとあの雑兵の目につくようなことをしたりして?」
 多聞の顔が強張る。図星だったらしい。
「なんでそんなこと――」
「私といては逃げるのが遅くなる。龍之進は足が速いし、一人なら逃げられるかもしれない……そう思った。お前は、一人竹刀で戦って、私を先に逃がそうとしただろ? 私のお父も死ぬ間際、龍之進のお父に助けられたと言っていたし、父と子で同じようなまねをするわけにはいかないよ」
 龍之進は、小高い岬から、海鳥が舞う碧い空と海を見つめた。心地よい風が顔を撫でる。
「でもさ、俺が関ケ原の様子を見に行くと言わなければ、人取りにーー」
「いや、おかげでお父に会えた。最期にお父と話せて、私はうれしかった」
 しばし二人は、無言のまま煌めく海を見つめた。生まれてから互いに半年も離れたことはない。これからも一緒だと思っていた。でも、関ケ原の戦場で別れてから、境遇は違ってしまった。にもかかわらず、この一瞬で龍之進は昔に戻った気がした。
 龍之進は、多聞を連れて岬の崖下に向かった。緑の葉が生い茂る木々を搔き分けると、岩の裂け目がある。そこに龍之進は入って行き、多聞を手招きする。中は、奥行きのある空洞だった。
「ここは、弁天窟というんだって。弁天様を祀ってたんだけど、何十年か前にキリシタンが取り払ってそのままになっているらしいよ。寒い日は暖かいし、暑い日は涼しいんだ。一人になりたい時、よくここに来る」
 多聞は、岩屋の中を見回す。「へぇ、奥もあるんだね」
 龍之進は、大きな岩に座った。「多聞は、パードレに助けられたと言ったけど、どこで会ったの?」
「京都だよ。私は、京都で売られそうになって、隙を見て逃げ出して市中を彷徨った。雨が降ってきたし、腹が減って道端に座り込んでたら、声をかけられたんだ。私はたまたま教会の前にいたんだよ。パードレは、私を教会の中へ導いて、食べ物を分け与えてくれた。私がここにいたいと言ったら、パードレはあれこれ訊かずに受け入れてくれたよ。小神学校で学べるように手配もしてくれてさ。そうだ、龍之進、あの戦の半月後、京都で石田様が処刑されたって知ってる?」
 龍之進は、足元にあった小石を拾い、外へ放った。「パードレから聞いたよ。でも、俺にとっちゃ、どっちが勝っても負けても同じさ。お父がいないんじゃ……。それで、多聞は、小神学校で学んでからどうするの?」
「パードレになろうと思ってる。私は、もう関ケ原に戻るつもりはない」
「え? どうして? 多聞には、お母もお兄も――」
「お父は死んだからな。お母が大変だよ。お兄とお姉は、お母を助けられるけど、私はまだ役に立たないし、男は女よりも食うからな。庄屋様は、あの戦のせいで飢饉になると言ってたし、一人でも食い扶持は減ったほうがいいだろ」
「聞いてたの? 寺での和尚様との話を」
「うん。家に食い物がないのは、わかってたし」すると、急に話題を変え、多聞はやけに明るく言った。「学問はいいぞ。日本と南蛮の知識を得るのは楽しいよ。日本の読み書きはもちろん、南蛮の言葉も習うし、日本や南蛮の書物も読むんだ。南蛮の笛や琴、太鼓を奏でて……そう、茶の湯も嗜むし、すべてがおもしろい!」
 二人は、海岸から岬へと上がった。岬の先端で普請が行われている。ひと月以上前、キリシタンたちが献金し、長崎で一番大きく壮麗な教会堂の普請が始まったのだ。
「来年、この教会ができるのが楽しみなんだ。日本で一番大きいんだって」
 普請場には、大工や職人たちの掛け声や木材を大工が手斧で荒削りし、鑿で木材を割る音が響く。
「パードレのそばにいると驚くことばかりだよ。今にも死にそうな病人の世話をしたり、売られた童を銭を払って引き取って読み書きを教えたり、自分の食い物を削っても病人や童に与えている。自分の親でも子でもないのに……あんな慈悲深い人たち、見たことないよ」
 雲の晴れ間から光の帯が海へのびている。海に顔を向ける多聞は、龍之進の知らない、どこか遠くの世界を見つめていた。
 多聞は、新しい居場所を見つけたのだ。その聡明さを活かせる場所を。
 まぶしさと淋しさを感じる反面、龍之進は自らも奮起しなければと思った。
「パードレか。お前ならきっとなれるよ」
 その何げない言葉がどんな意味を持つのか、その時の龍之進はわかっていなかった。

 槍の稽古を終えて帰ると、店の軒先でマヌエルが待っていた。
「龍之進、さっき荷が届いたんだ」マヌエルは、店の間に所狭しと置かれた積み荷の間を縫って龍之進を手招きする。「欲しいと言っていただろう?」
 龍之進が掛け物を取ると、人の頭くらいの大きさの球体が現れた。
「ペドロはカルタ、沙羅は衣装人形で、龍之進は地球儀だったね。龍之進、これがそうだ。世界の地図がこの球体に貼りつけてある。ここが日本の長崎だよ」
「こんなに小さな島なの?」がっかりした。
「うん……まあ……」マヌエルは、苦笑する。「この地球儀は、オランダ製だから……ここから、こういうふうに海を渡って、この長崎まで来たんだ」
 マヌエルは、巧みに地球儀を回しながら、人差し指で航路を描く。
 龍之進は、興奮した。「すごい! こんな遠くからきたの?」
「そうだよ。地球儀を龍之進が欲しがっていたから、人を介して廻り廻って手に入れた。まあ、それがわたしの商いでもあるんだが」
「商い? 船で品を運んでるんじゃないの?」
「ただ品を積んで運んでるんじゃないよ。欲しいと思っている人のところへ欲しい品を手に入れて届けているんだ。例えば、船にビスケットや小麦粉、牛肉を積んでマニラへ渡る。マニラでは、こういった食べ物が不足しているから喜ばれる。国や土地によって、欲する品は違うから、それを把握して、彼らの望む品を届けるんだよ。常に海の危険は付きまとうが、国や人のためになるやりがいのある生業だ」
「へえ。ポルトガルはどこ?」龍之進は、地球儀を回した。
「オランダより南にある、ここだ。沙羅が生まれたマカオはここ。長崎には、マカオから定期船がやってくる。絹、緞子、麝香、金を運んできて、長崎からは銀を運び出す。日本は明の生糸や絹を欲し、明は銀を望んでいるから、双方の要求に合っている。わたしは、そういった仲立ちをしている。そして、生糸と絹を安く日本人商人へ譲るから、とても喜ばれているんだ」
 地球儀を回す龍之進の胸は、ときめいた。「俺も……いつか海に出たいなぁ」
「もう少し大きくなったら、船に乗るか? それまで海の向こうや商いについていろいろ教えなくてはね」
 龍之進は、大きく頷く。マヌエルも微笑み、龍之進を抱きしめた。
 海に出る。この地球儀の世界へ。日本を出て世界へ。
 マヌエルは父であり、商いの師だ。ペドロは弟で、沙羅は……大好きな人。三人は、いつも新たな世界を俺に見せてくれる。俺にとって、この上なく大切な人たち。
 もう誰一人として失いたくない。この人たちとずっと一緒にいたい。
 きっとここが俺の居場所で、進むべき道の入口なのだ。
(第3回へつづく)

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大村友貴美Yukimi Omura

1965年岩手県生まれ。中央大学文学部卒業。2007年『首挽村の殺人』で第27回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、デビュー。他の著書に『奇妙な遺産』『犯罪に向かない男』『存在しなかった男』『梟首の遺宝』など。近著に『緋い川』がある。

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