双葉社web文芸マガジン[カラフル]

双樹、戦ぐ(大村友貴美)

イラスト:かわのまほ

第三章

 日本を追放されて八年後―― 一六二二年二月 マカオ
 多聞は、石段をゆっくり上りながら、聖パウロ聖堂を見上げた。近づけば近づくほど、雲一つない青空を背にした聖堂の大きさに圧倒される。聖堂の前面はまだ普請中だったが、今後、聖母や聖者たちの石の彫刻で装飾されていくという話だ。多聞がマカオにくる前から普請をしているそうだが、完成の目途はまだたっていない。
 今でも時々夢にみる。
 荒れた海に激しく揺られ、黒い大波に唐船ごと呑まれそうになった時のことを。そして、夢の中では、私と共に船に乗っていた人々が波に攫われ、一人また一人と船から消えていくのだ……。
 八年前の一六一四年十一月、多聞が乗った唐船は、長崎を船出した。冬の荒波にもまれ、悪天候にも見舞われ、何度も難破するかもしれないという恐怖を多聞は味わった。食料も飲み水も十分とはいえず、ぎゅうぎゅう詰めの船内で体調を崩し、病に倒れ、中には亡くなった者もいた。しかし、そんな苦難を目の当たりにすればするほど、ここで終わるわけにはいかないという気持ちが湧いてきた。自分一人ではそんな気にならなかったろう。不安そうな信者たちを見ていると、彼らのためにも気力を出して堪えなければと思ったのだ。だから、何度も自分を奮い立たせ、信者を励まし続けた。
 出港から約二週間で、マカオに着いた。
 初めてマカオの陸地が見えた時、生きて到着できたことを多聞はパードレや信者たちと喜びあった。
 日本から追放されたキリシタンが三隻の唐船に乗ってやってきたというので、明兵や聖職者、町の人々が集まって港は大騒ぎになった。
 上陸した多聞は、騒ぎを聞きつけた龍之進が港にいることを願ってその姿を捜した。十年も会っていないのでわかりづらいのか、今は航海中でマカオにいないのか、港の人だかりの中に龍之進を見つけることはできなかった。
「みなさんを歓迎します。すべては神の御導きです。大神学校へご案内いたしますので、そこでひとまずお休みください。さあ、こちらへ」
 マカオ管区のパードレの先導で、多聞や聖職者、信者たちは町を歩き、大神学校を目指した。マカオは暖かい、多聞はそう感じた。だが、疲れ果てていたので、周りの景色はまるで頭に入ってこなかった。
 大神学校へ案内されると、信者たちは廊下にへたり込み、思い思いに寛ぎ始めた。
 多聞も彼らに交じって、廊下の壁に寄りかかりひと息ついた。床はひんやりとしているが、揺れないのがいい。肌を刺す潮風が吹きつけてこないのもいい。
 体は衰弱して疲れ切ってもいたので、多聞はそのままうたた寝をしてしまった。
 どれくらい経っただろう。「多聞」と呼ぶ声がした。はっとして目を開けると、目の前に若い男の顔がある。
 誰だ? ここはどこだ? 夢か? 夢かもしれない……揺れてないし。
「多聞、俺だ、龍之進だ」
 男は、多聞の右手を取り、強く握った。温かい手だった。
 龍之進? 寝ぼけながらも、男の顔をまじまじと見る。大人の顔つきになっていたが、紛れもなく龍之進だった。
「龍之進? ほんとに?」
 龍之進は、思い切り多聞に抱きついた。「やっと会えた! ずっとお前の身を案じていたんだ。こうして会えるなんて!」
 龍之進と抱き合いながら、状況が飲み込めない多聞は戸惑った。やがてこれが現実なのだと悟った時、神に感謝した。
 龍之進の体は温かかった。彼そのものだと思った。そして、龍之進がいい生地の着物を着ていることに気づいた。
 多聞は、気まずそうに龍之進を少し放した。「私は……その、臭うだろ。汚いしさ」
「俺だって航海に出れば、そんなもんさ」
 そう言って龍之進は、笑った。
 多聞の髪の毛はぼさぼさで、顔は髭に覆われ、着物は薄汚れており、手足も泥や垢で汚れている。
 龍之進は、そんな多聞のあかぎれで血が滲む手を取り、そっと両手で包み込んだ。
「お前の消息にあったように、俺はまた会えることを望み続けたよ。もし行き先がここじゃなくても、俺は必ずお前を捜し出して会いに行くって決めてた。だから、願いが叶って、ほんとうに嬉しい。お前が無事でほんとによかった!」
 龍之進は、目に涙を浮かべ、多聞にやさしく、そして熱っぽく語りかけた。
 多聞は、ゆっくりとした動作で龍之進を抱き寄せた。
「ありがとう、龍之進。お前なら私がどこにいても、きっと見つけてくれると信じてたさ」
 そう言いながら、多聞も泣いていた。

 七十段近い石段を上りきり、多聞は聖パウロ聖堂を見上げる。
 聖パウロ聖堂は壮麗だ。長崎の「岬の教会」こと、聖パウロ教会堂よりもずっと大きい。長崎から届いた報告では、岬の教会はばらばらにされた後、あらかた燃やされ、長崎の教会施設もすべて破壊された。跡地には、次々と寺が建てられているという。マカオの聖パウロ教会堂がどんなに立派であろうと、多聞にとって岬の教会に代わる教会堂はない。
 悲しい知らせはそれだけではない。マニラへ追放された高山右近は、ひと月後マニラへ着いたが、そのわずか四十日後に病死した。
 多聞は、死を覚悟しながら、微笑む高山右近たかやまうこんを思い出した。なにが起ころうとも、穏やかでい続ける……私もいつかあのような境地にいたることができるのだろうか。
 多聞は、聖パウロ聖堂に入った。中には誰もおらず、ひっそりと静まり返っていた。聖堂内の床は畳敷きではなく石床で、身廊、後陣、側廊、祭壇、合唱隊席、聖俱室などがあり、天井も高い。イタリア人のパードレの話では、これが欧州でよく見る造りだという。
 内部の装飾の一部には、迫害から逃れてきた日本人信者や聖職者が制作したものもある。壁や柱の木材の浮彫細工がそうだ。渦巻模様、唐風模様などは、金色や青色に塗られ、光を浴びるといっそう煌びやかである。天井画も日本人の手によるそうで、聖天使が描かれていた。その絵は、日本の寺で見た釈迦や菩薩を彷彿とさせる。日本人ならばわかるだろうと多聞は思った。色合いや線のひとつひとつに、日本で培われた感性が活きているのを。
 多聞が日本を追放されてから二年後、徳川家康が身罷みまかった。秀忠の治世になると、キリシタンへの迫害はさらに酷くなったそうだ。家康は、棄教を迫り、追放はするが、処刑には積極的ではなかった。が、秀忠は違った。今から五年前、大村藩で潜伏していた宣教師四人が斬首され、三年前には京都でキリシタン五十二人が火刑にされたという日本からの報告を、多聞は原から聞いた。
 にもかかわらず、信者を励まし、教えを説くために宣教師がマニラやマカオから日本へ毎年潜入し続けている。彼らは、みな殉教覚悟だ。多聞が知るだけで、ここ四年間で二十一人が日本へ向けて船出していった。
 多聞と同じく宣教師になるためにマカオへやってきた日本人たちの中には、マカオで満足に学びの場が与えられない苛立ちと日本への望郷の念、そして殉教の恐れから、キリスト教を捨ててマカオを離れていく者もいる。そのような中、多聞は、故セルケイラ司教の推薦もあって、三年間大神学校で漢語、ラテン語、哲学、神学、医薬学、天文暦学などの科目を学んだ。昨年、履修を終えたが、パードレには叙階されなかった。イエズス会のパードレになるには時間を要するという曖昧な説明を受け、より一層奉仕活動に励むよう言われた。だが、ポルトガル人やイスパニア人の同期の神学生は、既にパードレになっている。
 私にはなにかが足りないということか。多聞は、思い悩んだ。
 ――教会を日本人に委ねると、仏教と同じく分裂するのではないか、異端が生まれるのではないか、それを恐れているのです。
 それとも、パードレ・ロドリゲスがかつて話したように、日本人の私はパードレとして信用されていないのだろうか。もし日本人であるが故、パードレに叙階されないのなら、私はずっとこのままなのか。私はここで一生を終えるのか。
 ――パードレになったら戻ってくるの?
 喜久にそう問われた時、私は戻ると約束した。彼らはどうしているだろう? 無事に暮らしているだろうか。長崎で私は彼らに教えを説き、彼らは私を信じ、教えを守っていた。それなのに、彼らを迫害下に置きざりにしたままだ。その心苦しさがずっと私を責め続けている。
 多聞は、龍之進にも後ろめたさがあった。龍之進は、なにかと親身になってくれるし、多聞を頼って相談しに訪れてくる。多聞がこのままマカオに居続けると信じているのである。いつか日本に戻るつもりだとはなかなか言えなかった。
 多聞は、一連のできごとがすべて神からの試練のような気がした。
 いつも神は試される。私が本気なのかを。本心はどこにあるのかを。くじけず、やり通すだけの勇気があるのかを。
 あらゆる試練が神からの問いかけなのだ。
 お前はどうしたい? その真の心を行いでもって示しなさい、と。
 聖パウロ聖堂を出ると、原が大神学校に隣接する東方文書館から出てきたところだった。原は、大神学校の印刷所か図書館にいることが多いので珍しかった。
 原は、どことなく表情が暗い。
「パードレ、どうかなさったのですか?」
「いや……」原は、言葉を濁した。
「東方文書館に御用でも……」東方文書館には、日本の宣教活動で使用された書物や活動報告書などが収められている。「日本からの報告になにか?」
「最近、パードレ・中浦の報告を見ない気がして、ふと気になって調べていた。毎年、九州を点々としていると聞いていたが……無事であればよいのだがね」
 パードレ・中浦は、原と共に少年の時に欧州で見聞を広めるため、ポルトガル、イスパニア、ローマへと訪問した仲間で、原と同時にパードレに叙階された人だ。八年前、日本に残ることを望み、九州に潜伏しているらしい。原はいつも彼を気にかけている。日本人の聖職者や神学生たちの噂によると、原は将来日本人信徒を導く高位の人物として長崎のイエズス会上層部に認められ、迫害がある程度治まるまでマカオへ退避するよう諭されたのだという。パードレ・中浦は、その点信者にそばにいて教えを説くほうが向いていると判断されたということらしい。
「ところで、セバスチャン、ディアス殿の体調はどうだ?」
「最近の寒さが体にこたえるそうで、臥せっておられます。ですから、職務が難しい時は、私が代筆などをしてお助けしております」
 多聞は、大神学校で学ぶ傍ら、司祭館や病院で奉仕活動をしていたが、二年前から医薬学の知識と技術を見込まれて、病に伏した下級裁判所の聴訴官ディアスの世話を頼まれた。齢六十になるディアスは、多聞の語学力、賢明で謙虚な態度に信頼を寄せ、今では多聞に秘書や自分の代理を頼むようになっている。
「そろそろディアス殿は、隠居を考えたほうがいいのかもしれないな」
「ですが、元老院には必要なお方です。あの方の公正な目は議員の方々の拠り所で、ことあるごとに意見を聞きにいらっしゃいますから。それに、バレンテ司教代理と元老院の諍いを収められるのはディアス殿だけです」
 パードレ・バレンテは、今やマカオ司教の役割を担う司教代理だ。二年前、現マカオ司教が司教職から引退を願い出るためポルトガルを目指し、マカオを離れた。現司教の下で補佐司教を務めていたバレンテは、その時、司教代理に任じられて実質上マカオ管区の長になっていた。
「バレンテ司教代理か……あのお方にも困ったものだ。司教代理になった途端、マカオの治安と交易に口を出すようになってしまわれて。ディアス殿も心労が絶えぬな。奥方が亡くなられて以来ご不調であったが、この一年ようやく持ち直したと思ったのに」
「毎年冬になると、激しく咳き込まれるのだそうです。胸に患いがあるのではないかと。私もできる限り、お支え申し上げたいと思っております」

 冬の陽射しが鏡のような海面に反射し、まばゆい光を放っている。
 海風は柔らかく、いつもより暖かく感じられる。
 龍之進は、先立って海辺を歩く沙羅と幼いアンドレアスを見ていた。四歳のアンドレアスは、沙羅の息子だけあって整った顔立ちをしている。
 龍之進が初めて赤子のアンドレアスを見た時、無邪気に笑いかけてくる彼を素直にかわいいと思った。今は成長して全身を使って感情を表現する幼児独特の動きをしながら、つたない言葉で話しかけてくるようになり、見ていると微笑ましくなる。
 用事があってシルバ商会に向かっていた龍之進は、偶然にも途中で沙羅とアンドレアスと出くわした。海岸に散歩に行くというので付き合い、沙羅と商談をしながら歩いた。
「早く来て! 一緒に並んでいくの!」
 アンドレアスが振り返って龍之進に向かって手を伸ばした。
 龍之進は、アンドレアスの隣に急いだ。アンドレアスは、沙羅を左手に、龍之進を右手にして二人の手を取って先に進もうとする。
「どこにいくの?」沙羅が訊いた。
「あっち。あのお舟まで」アンドレアスは、浜に揚げられた小舟を指した。
 アンドレアスは、小舟の周りで貝を拾って眺めては、宝物のように目を輝かせて一人遊びを始めた。
 そのようすを見ながら、沙羅が言った。
「龍王、さっきの慈愛堂の寄付金の増額の件だけど、検討するわ。たぶん大丈夫だと思う」
「ありがとう。助かるよ」
 龍之進は、五年前からマカオで日本人用の慈善施設、慈愛堂を運営している。主に日本人から寄付金を募り、そのうち多くが商人からの出資である。中でも、シルバ商会は大口の出資者だった。
 八年前、マカオを管理する明の両広りようこう総督、張鳴高ちようめいこうは、マカオから日本人傭兵九十人を追放した。張総督はマカオから日本人全員を追放させると言っていたが、最終的にはマカオを視察に訪れた時、港にいた日本人傭兵らを退去させることで一旦幕引きを図ったようだ。
 ――総督は、ポルトガル人の手足となる兵が増えることを恐れている。傭兵を何十人と退去させることになるかもしれないが、日本人全員を追放する必要はない。
 李旦がそう話したように、日本人全員がマカオから追放される事態にはならなかった。海賊や異国人の攻撃からマカオを守るポルトガル人の意向をまったく無視するわけにはいかなかったからだろう。
 だが、龍之進は、早急に日本人救済のための施設を作ろうとマカオ在住の日本人有力者たちに呼びかけた。住む場所と働き口があれば、少なくとも貧しさ故に野盗になったり、盗みをしたりせずに済むだろう。明の人々との揉め事が減れば、明の官僚も日本人を追放するとは言わなくなると説得したのだ。
 龍之進は、自分の資産を提供する他、日本人の商人や職人などひとりひとり回って寄付を募った。慈善施設では、浮浪者や道端で行き倒れている日本人を収容し、病やケガの治療、職の斡旋、商いの元手になる資金の貸し出しをすることにした。慈愛堂と名付けられたその施設は、日本人有力者や元老院、教会などの関係者への説明や準備に三年を要してようやく開所にいたることができた。
 多聞の口利きもあって、看護に携わるキリシタンがすぐに集まり、医薬の知識を持ち実務経験のある修道士が慈愛堂を代わる代わる訪問してくれることになった。昨年からは、多聞が慈愛堂の医療責任者を務めることになり、龍之進は少し肩の荷が下りた気がした。
 多聞の存在は、なにより心強かった。多聞は、龍之進にないものを持っていて、それをさりげなく補ってくれる。子供の頃から、そうだった。
 八年前、教会は、迫害から逃れてきた日本人キリシタンたちを大神学校に受け入れた。しかし、マカオにいる明の人々は多くの日本人の受け入れに難色を示し、元老院に不安を訴える者も出てきた。日本人は、これまで徒党を組んで狼藉を働いたり、野盗となって襲ってきたりした。大勢を受け入れれば、ますますそんな輩が増えるのではないかと警戒したのである。
 慈愛堂は、日本人のためだけでなく、そんな明の人々の不安を和らげる象徴的な存在にもなった。
「働く場が見つからないどころか、働けない人々を養うんだから、慈愛堂の運営は大変でしょう?」
 沙羅が言った。
「職人なら聖パウロ聖堂の装飾に携わったり、体力がある人なら砦の普請場や港で働けるけど、他の仕事のあてがあまりない。男なら船工場なり、女なら手仕事なりも紹介できても、概して経験がないと賃金が低くなる。働く場が見つかったとしても、住み込みでもない限り、なかなか慈愛堂を出ることができないんだよ」
「そうなの……。実は、シルバ商会が持っている船が老朽化してきたから、新しくしようと思っているの。その時、積み替えや船内の仕様替えに人手がいると思うから、お願いしようと思って。短期になるけど、それほどきつい労働にはならないと思うわ」
「ありがとう。俺にできることがあれば、なんでも言ってくれ」
「いつも助けられているわ。去年、広州の市に行った時、危うくお金を引き出せなくなるところだった。でも、シルバ商会の沙羅本人だと知ったら、店主が慌てて換金してくれたの。あなたのおかげよ」
「俺の? 俺は別に……」
「シルバの女主人に妙なことをするなと、広東商人の間では知られた話みたいね。人攫いをしたり、騙したり、盗んだり……そんなことをしたら、後で制裁を受けるって」
「それは李旦だよ。彼は広東商人に顔がきく。李旦がそのように手を回したのさ」
「わたしと李旦の間に直接の取引はないわ。李旦と関係があるのは、あなたよ。あなたが手を回してくれたんでしょ」
 沙羅は、龍之進に微笑みかけた。
 さとい沙羅は悟ってしまう。きまりが悪い龍之進は、素直に肯定することもできず、少し顔を背けて押し黙った。
「わたし、もっとしっかりしなきゃね。あの時の店主は、それまで付き合いのあった商人の甥御だったの。その商人が隠居を理由に店を畳む時、書面を渡されて、『次回はこの店のご利用を。儂の甥です』と紹介されたのよ。信頼した店主の縁者だからと安心していたんだけど、まさか詐欺に遭うとは思わなかった」
「その商人二人が共謀したの?」
「いえ。甥の店主が詐取を考えたのよ。ポルトガル人から為替でお金を騙し取るのはよくあることだし、シルバ商会から送られてきた多額のお金に目が眩んだのね。わたしが持ち込んだ為替手形を、架空の請求先に書き換えた偽物の為替手形にすり替えて、請求先はこの店じゃないから換金はできないと偽為替を突き返してきたわ。これはわたしが渡した手形じゃない、偽造だと主張したけど、まるでだめ」
「それで、どうしたの?」
「うちには唐人の従業員もいて、その人が隠居した元店主を連れてきてくれたのよ。そしたら、わたしがシルバの女主人だとわかったようで……甥の店主は、ひどく慌ててたわ。本物の為替手形もちゃんとあったし、無事お金を引き出せた。店に現れたのが女だったから、恫喝して追い返せば、うまくいくだろうって思ったんですって。まさかシルバの女主人本人が大勢の供も連れずに現れるとは思わなかったって。女だと、いろいろ甘くみられるわ。商談していても決定するのはわたしなのに、商人たちはわたしの隣にいる年下の書記を見て説明するのよ。その書記が男だから」
 沙羅は、わざとらしく短く溜め息をついてから笑った。
 こうして二人でいると、龍之進の記憶は、二十年前に戻る。
 互いに三十歳を過ぎたが、沙羅は変わらず凛としていて美しい。残念なことに、龍之進は、頻繁に沙羅に会えるわけではなかった。
 これ以上は進めない、行き詰まりの愛か。愛していても、愛せない。沙羅がどう思っているかは……知らないほうがいいのだろう。
「あ、おっきい船がくる!」
 貝を数えていたアンドレアスが突然立ち上がり、海を指さした。
 海の向こうから一隻のガレオン船が小舟の先導で港に向かってきて、少し沖に碇を下ろした。
「龍王、あの船の船長、知ってる?」
 沙羅が訊いた。
「いや……」
「フェルナンデスよ。ほら、マヌエルの船の船長だった」
「ああ」
 龍之進は、初めてフェルナンデスに会った時のことを思い出した。汚い身なりをしていた十歳の龍之進を彼は冷たい視線で一瞥した。龍之進が長崎にいる間、龍之進を卑しい存在と見下し、そんな態度を隠そうともしなかった。
「あのガレオン船の前にフェルナンデスが乗っていた船は、元はマヌエルの船だったのよ。船名は変えていたけど」
「マヌエルのナウ船は、教会に押収されたんじゃなかった?」
「ええ、そうよ。詳細は知らないけど、あの後、フェルナンデスが船長になったみたいね。でも、十年前に座礁させてしまったそうよ。彼には裕福な資産家がついているんですって。その人が船主になって、フェルナンデスに船長を任せていると聞いたわ。それがあの船よ。そんなことより、フェルナンデスの商売には、芳しくない噂があるの」
「どこか胡散臭そうな男ではあったけど……それ、どんな噂なの?」

 沙羅がアンドレアスを連れてシルバ商会に戻ると、トリスタンが二階の部屋で待っていた。
「おかえり、沙羅。どこへ行っていたのかな、アンドレアス?」
 トリスタンは、満面の笑みで駆け寄ってくるアンドレアスを抱き上げた。
「浜辺。龍王と遊んだの」アンドレアスは、トリスタンの顎髭を引っ張って遊んでいる。
「今日は暖かいから、アンドレアスと海辺を散歩していたの。そうしたら、龍王が……シルバ商会を訪ねる予定だったんですって。たまたま途中でわたしたちを見かけて話しかけてきたそうよ。慈愛堂の寄付金について相談されたわ」
「へえ、そうなんだ」トリスタンは、そこでアンドレアスを下ろした。「沙羅、相談があるんだ。アンドレアス、またあとで」
 もっと構ってほしそうに振り返るアンドレアスを柬埔寨カンボジア人の家事使用人ベルに預けると、トリスタンは部屋のドアを閉めた。
「リスボンにいる兄なんだが、いよいよ体調が芳しくないらしい。前々から戻ってきてほしいと親族たちから催促の書簡が届いていたが、これまで兄の死を本気で考えてこなかった。でも、ほんとうに危ういと……兄もわたしに会いたがっていて、衰弱してきているし、この調子ではあと二年、いや、一年もつかどうかと書簡に書いてきた」
 椅子に腰を下ろしたトリスタンは、深く息を吐きだした。
 沙羅は、思い悩む夫の表情を見つめた。考えてみれば、トリスタンはもう四十歳。マカオの暮らしが気に入り、気がつけば十八年もの年月が過ぎていた。本来ならリスボンで病身の兄を支え、カリバーリョ家を盛り立てていたに違いないのだ。
 トリスタンは、リスボンに帰ったほうがいい。
 背後からトリスタンの両肩に手を置くと、沙羅は優しく摩った。
「兄は頑なに結婚しなかった。相続を複雑にしたくないからと……」トリスタンは、沙羅の手の上に右手を重ねると、沙羅を見上げた。「わたしはリスボンに戻らなければならない」
「そうね、そのほうがいいわ」
「沙羅。アンドレアスは、将来カリバーリョ家を継ぐことになる。リスボンで教育を受けさせたい」
「あの子をリスボンへ連れて帰るの?」
「そう。もちろんキミも。母であるキミが一人ここに残るわけにはいかないだろう?」
 少なからず動揺した。このような事態がいつかくるかもしれないと思っていた。結婚前に伯母からトリスタンの兄が病弱で、トリスタンが跡取りになるかもしれないと聞いていたからだ。しかし、これまでどこか他人事だった。リスボンは遠く、行ったこともない土地で、現実感がまるでない。
 わたしは、ほんとうのポルトガル人社会を知らない。マカオを離れる? 生まれ育ったマカオを。
 沙羅は自分がマカオ生まれのポルトガル人であり、日本人でもあると思っている。だから、ポルトガルへ行けば、おそらく自分は異国人に見られるだろうし、自分もポルトガル本国の人々とは違うと意識するだろう。しかし、それは問題ではなかった。
 アンドレアスは、ポルトガルへ行ったほうがいい。それもわかっている。それに、わたしはまだ幼いアンドレアスと離れるわけにはいかない。子供のうちに、母と別れる辛さと淋しさはよく知っているから。
 心に引っかかるのは、マカオでの仕事……シルバ商会だ。交易に携わるのはやりがいがある。周りの人々にも恵まれている。そして、ふと気づくと見守ってくれている龍之進の存在がどんなに心の支えになっていることか。それらすべてを断ち切っていくことになる。
「沙羅、シルバ商会を誰かに譲渡するか、畳むことを考えてくれないだろうか。お父上が一族から借りたというお金は、既に返済を終えたのだろう? 急で申し訳ないんだが、半年以内にどうするかを決めてほしい。勝手なことを言っているのはわかっている。でも、他になにか……その、案が思い浮かばなくて」
 父がわたしに残してくれた会社を畳む? 唯一残された父との絆を失くす? 子供の頃の父や母との思い出が一瞬のうちに、沙羅の脳裏に浮かんでは消えた。
 沙羅は、即決できなかった。「少し……考えさせて」
(第18回へつづく)

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大村友貴美Yukimi Omura

1965年岩手県生まれ。中央大学文学部卒業。2007年『首挽村の殺人』で第27回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、デビュー。他の著書に『奇妙な遺産』『犯罪に向かない男』『存在しなかった男』『梟首の遺宝』など。近著に『緋い川』がある。

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