双葉社web文芸マガジン[カラフル]

空の轍と大地の雲と(山田深夜)

イラスト:藤原 徹司(テッポー・デジャイン。)

第8回
「悪かったねえ、さっきは」
 夜となり、店を閉めた風間が、レジ袋を提げてライハにやってきた。直也が板間近くに移動させておいたペール缶の灰皿を脇に退け、風間がゴム長を脱ぎ始める。風間はそれほど喫煙する人間でもないらしい。
「常連さんのほかに、なんだか珍しいお客さんが、いっぱい来ちまってさあ。たまにあるんだわ、こんな日が。ならしてくれたらいいんだけんどねえ」
 気を遣っていた蚊取り線香の缶を、直也は板間に座った風間に寄せた。昼間潜んでいたのかどこからか入るのか、やはり夜に蚊は発生していたのだ。直也はハッカ油のおかげで、まったく刺されていないが。
「結局、シャジさんは来なかったのでしょうか?」
 棚の青いバッグにチラリと目をやり、直也は訊いた。
「うん。店の電話番号は知ってるはずなんだけんど、それもなかったね。まあ、そのうち来るんでないかい。それよりさあ……」
 風間がレジ袋から、日本酒らしい瓶を取り出した。720ミリリットルほどの大きさである。その封を開けながら、ニコニコとして言う。
「やっと直也君と飲める日が来たよ。嬉しいねえ。あ、持ってるんだ、シェラカップ。旅人だねえ。いいんでないかい」
 座卓の上のシェラカップを見て風間は笑った。
 直也のシェラカップは、旅出の前に勘で揃えた装備のひとつである。その形状から「使える」と直感して求めた、ステンレス製のカップだった。
「いいんでないかい、いいんでないかい」
 風間は、先ほどの賑やかな店内同様の、高いテンションのままであった。高揚が続いているのだろうかと思うが、本当にこの日が来るのを待ち望んでいたのかもしれない。「いいんでないかい」とまた嬉しそうに言い、レジ袋から茶碗を出し、「地酒だけんど」と、それぞれの容器に日本酒を注ぎ始めた。
「では直也君、遠路ご苦労さまでした」
 風間が茶碗を軽く上げ、乾杯の仕草をした。直也もならって掲げ、いただきますと口に運ぶ。途端に、舌の上でフルーティーな香りが広がった。夏の果実のような酸味と甘味が、ふわりふわりと口腔に浮かんでくる。日本酒はあまり飲まないために詳しくないが、特上の酒であろうことはすぐにわかった。
「……どうだい?」
 顔を覗き込むようにして、風間が訊いてきた。美味しいです、と直也は、世辞ではなく心より答えた。
「あ、後味もいい。なんというか……」
 直也は、この味わいを表す言葉を探した。
「こう、夏空に舞い上がるとでもいうか、天に羽ばたいてゆくというか……。うまく言えないですが、そんな絵の浮かぶ味ですよね」
「よかったあ」
 満面に笑みを浮かべながら、風間が直也の肩を何度も叩く。そして垂れた目で直也を見つめ、しみじみとした表情となった。
「やっぱり甥っ子だよ、直也君は」
「どういう意味ですか?」
「これ、ツーさんが好きだった酒なのよ。名前も味も気に入ったって、ここではこればっかしだったんだ。ずっと切らしてて、お父さんにはふるまえなかったんだけどね」
 直也は驚いた。
「なんて、お酒なんですか?」
 床に置かれた瓶に首を伸ばすと、風間がつかみ上げて座卓に置いた。その白いラベルを直也が読む。大吟醸 千歳鶴ちとせづる――
吉翔きつしよう……」
 途端に、胸に熱いものが込み上げてきた。嬉々として大空の仕事を話す、伯父の笑顔を思い出す。それはまるで、愛しい人を語る表情であった。いや、まさにそうだったのだろう。生涯独身で恋愛話は欠片かけらもなかったが、空こそ愛する人で、その胸に抱かれ、天に昇ったのだ。この酒は、そんな男が好んでいたもの――。
 直也の目が、そのラベルから、棚の迷彩のシュラフカバーに向いた。鼻の奥がツンとし、胸の熱さが増す。その様子に気づいたのか、まるで背中をさするような声音で、「飲もうよ」と風間が言った。瓶をつかみ、シェラカップに注ごうとする。直也は手振りを交えて遠慮した。
「僕はぼちぼちと。あまり強くないので」
 それは本当であるが、本心ではない。酔いが伯父との楽しい思い出を、次から次に蘇らせるように感じたのだ。そうなったら同じように、亡くなった悲しみに次々と駆られ、しまいに子供のように泣き出してしまう気がしたのである。けれど幼さは正直で、視界が少しぼやけてきた。直也は風間に気づかれぬよう、そっとはなを啜った。
「じゃあ、手酌でね」
 こちらを見ていた風間が、瓶を座卓に置いた。そして気遣ってか、そうそう、と話題を変えた。
「池ちゃんと連絡が取れたよ。んで、ラジオなら大きなものから小さなものまでたくさんあるから、どれでもあげるって。この坂の上に、親戚から譲ってもらった家があって別宅にしてるんだ。明日は一日そこにいるそうだから、訪ねてみたらいいっしょ。天気ももちそうだしさ」
 あの忙しい中で取り持ってくれたことに感謝し、直也は礼を言った。なんもなんも、と風間が片手を振る。
「この町道をずっと走ってくと、いろんな形のアンテナが上がってる家が見えてくるから、すぐわかると思う。あ、そんなことはもう聞いてるか。息子さんの車でひさしぶりに来てくれた、あの沼田先生から」
 アンテナのことは聞いていないが、「先生」も聞いていない。直也は身を乗り出した。
「あの人は先生なんですか? 学校の?」
「そう。池ちゃんやオラが通ってた、高校の先生だったんよ。もうとっくの昔に定年で辞めたけんどね。オラと池ちゃんはクラスが別で、沼田先生は池ちゃんとこの担任だったんだわ」
 直也は腑に落ちた。土地の古老だとしても詳しすぎると、あとで少し訝ったのだ。受け持ちの生徒だったのなら、いろいろと知っていても不思議ではない。また、しゃんとし、説明もうまく、外国の格言なども知っていた。それに騒がしい中でもきちんと届いた、あの声音。どれもこれも、元教師と言われれば合点がゆく。ともかくあの老人も、元公務員だったということか。けれど、引っかかる。このあたりでは、辞めたらもう「先生」とは呼ばなくなるのだろうか? 教えを受けていたというのに。それは冷たいような気もするが――。
 そんな疑問や気持ちが顔に出ていたのだろうか。勘違いしないでくれとでも言うような表情をし、風間が片手を振った。
「馬鹿にして『ジッチャン』とか呼んでるんでないよ。あの人は立派な人なんだから。沼田先生がさ、『先生』って呼ばせないんだよ。定年で教師を辞めてからだけんどね」
「それは、なぜ?」
「引退したのに先生と呼ばれるのはおこがましい、って言うんだ。ジッチャンでいいって。そんな立派な考え持ってるんだし、ますます先生って呼びたくなるんだけんど、先生って呼んだら振り向いてくれんもんね」
 風間が苦笑した。
「それと変わった先生で、賭け事が嫌いなのに競馬ファンなんだわ。ほら、北海道は競走馬の産地っしょ。そんな北海道産の馬が、地方や中央で頑張ってるのが嬉しいらしいんだ。それで馬券は買わずに、テレビの前で応援してるんよ。いや馬だけじゃなく、頑張る人を応援するのが好きな先生だね。ジッチャンでなく、沼田先生は」
 直也は思う。池上も立派な人物のようだが、それは沼田という恩師の影響もあったのかもしれない。ともかく――。
 直也もまた苦笑した。
「沼田さんにいろいろ教えてもらったおかげで、やっと謎が解けました。『役場電気の池ちゃん』が、さっぱりわかりませんでしたから」
「だよなあ。オラたちは普通に口にするけんど、はたから聞いたら、ちんぷんかんぷんだわなあ」
 風間は笑い、茶碗を口に運んだ。
「そんで、あらかた聞いたと思うけんど、池ちゃんも立派な人なんよ。役場を辞めた今は、昔の家電品とかの修理を全国から請け負って、生計を立ててるらしいけんどね。町民から持ち込まれた家電修理なんかは、タダみたいな金額で請け負って」
「全国から請け負って? どうやってですか?」
「パソコン、パソコン。池ちゃん、ああいうのも詳しいから。町役場のあの、なんてったっけ? IT化? あれだって、ほとんど池ちゃんひとりでやったんだもん。使い方も職員に教えて。いや、町民に講習会も開いたんだ。『窓について』だっけかな。オラは……」
 行ってねえけんど、と風間が小声になる。直也は苦笑した。「窓」とは、おそらくOSの、ウィンドウズのことだろう。どうやら風間は、パソコンが苦手らしい。けれどこれでわかった。庁内LANが構築できるほどならば、池上にはパソコンやインターネットの知識も相当あるはず。世界につながるネットを使い、修理技術を退職後のビジネスにつなげたのだろう。けれど沼田は、気になることを言っていた。直也は訊いた。
「ではお元気なんでしょうか? 去年の春に体を壊して入院したと、先ほど沼田さんから聞きましたが」
「そうそう、去年の震災のあった何日か後に、上の家から救急車で運ばれてね。自分で呼んだらしくてさ。あれはオラもびっくりしたわ」
「震災の時期に?」
 直也の脳裏に、駐屯地内で息を呑んで見つめた、あの震災時の映像が浮かんだ。
「ということは、家具が倒れたとかで怪我でもして?」
「オラもそう思ったのよ。いや家具とかではなくて、アンテナ直してて屋根から落ちたとか。でもあとで訊いたら、過労だったんだと。まあ修理でもなんでも、根詰めてやる人だからさ、池ちゃんは。それでだろうね。今はもう平気」
 それはよかった。けれどそういえば、北海道の被災映像を見た記憶が曖昧である。いや等しく駐屯地で見て、状況も聞いたはずである。除隊後も、自分なりに情報を集めた。だが三陸の大津波や福島の原発事故の衝撃が大きかったためか、北海道の被災の印象が薄い。今頃ではあるが関心の低さを恥じながら、風間に訊いてみる。
「このあたりも、ひどかったのでしょうか? あの震災での被害は」
「うん、ここいらもかなり揺れて、港なんかに津波の被害はあったよ。太平洋に面してるからね。でも人の被害は、東北と比べたら申し訳ないほどだよ。北海道全体でも亡くなった人はひとりだし、行方不明者なんかゼロだったからさ」
 それは幸いであろう。ともかく――。
「では明日は、沼田さんを訪ねても問題ありませんね」
「ああ、ピンピンしてるから。こないだなんか、定食の大盛り頼んできたし。まあ高校んときは、体が弱かったらしいんだけんどね。そのせいで修学旅行に行けなかったとか、たしか言ってたし」
 直也は訝った。同窓のはずなのに、まるで他人のような口振りである。直也は確認した。
「風間さんと池上さんは、同じ高校で、同学年だったんですよね?」
「そう。でも、さっき言ったようにクラスが別だったせいもあって、当時はそれほど親しくなかったんだわ。オラが戻ってきて店を継いで、そんで仲良くなったんだ。ウチによく食べに来てくれるようになってさ」
 直也は得心した。しかし、戻って店を継いだ?
「風間さんは、ずっとこの地にいたのではないのですか?」
 風間は笑みながらも無言となった。そして唐突に訊いてきた。
「直也君は、今年いくつになるの?」
「二十二です」
「そうかあ……」
 感慨深そうな顔を天井に向け、風間は呟いた。
「次はどこの土地に行こうかなって、ワクワクしながら考えてた歳だなあ」
 意味がわからず、直也は風間を見つめた。すると風間の顔がこちらに直る。
「じつはさあ、オラも旅人だったんだわ」
 風間が棚の迷彩のシュラフカバーに首を伸ばし、その顔を座卓の上の「吉翔」に向けた。いろいろな思いが交錯しているような、複雑な表情である。「直也君さ」と、その面がこちらに向いた。
「今夜はツーさんのことで大事な話があるんだけんど、その前にオラのことを話してもいいかい? 直也君とはこれからもツーさんのように付き合いたいし、ツーさんにもつながる話だからさ」
 直也は大きく首肯し、耳を傾けた。

 風間が語りだした。
「風間食堂は親父が始めた店なんだけんど、オラは末っ子で、そんでガキの頃から放浪願望みたいなのがあってね。そんなことから高校出て内地に就職して、そこもすぐ辞めて、期間工やら臨時工やらしながら、本州のあちこちで働くようになったんだわ。北から南を行ったり来たりして。ああ本州だけでなく、四国にも九州にも行ったなあ。ともかく、ワタリみたいな生活をしてたんだわ、オラ」
「ワタリ?」
 初めて聞く言葉である。風間は頷き、喉を湿らすように茶碗に口をつけた。
「ワタリってのは、旅をしながら仕事する、季節労働者のことさ。沖縄でサトウキビ刈って、愛媛や和歌山でミカンもいで、静岡でお茶の葉つんで、そんでこの時期は北海道にやってくるんだ。鮭やイクラの加工や昆布干しが始まるし、農家も収穫期で人手が足りなくなるしで、それを当てにしてね。道内でしばらく遊んで、それから仕事に就く人が多いね。ウチにもよく食べに来るよ、ワタリの人らは」
 世の中にはそんな生き方があり、そんな人たちがいるのか。直也は興味深く聞いていた。また風間の話す言葉に他所よその方言が交じっていることを不思議に感じていたが、これでその理由がわかった。
 そんでさ、と風間が続ける。
「そんでそんなワタリみたいな暮らしを続けてたら、親父が病気で倒れてさ。だけんど、兄弟の誰も店を継ぐ気がなくって。じゃあオラがやってみんべと思って、旅暮らしから足を洗ったんだ。そんとき付き合ってた今のおっかあも、ついてくって言ってくれて」
 風間が茶碗に酒を注ぐ。結構な度数があるはずだが、どうやら風間は酒に強いらしい。その様子を見ていると、なにか勘違いしたらしく、「ツマミ作ってくんだったね」と、直也にすまなそうに言った。直也は首を振った。あんなに忙しそうだったのだ。後片付けも大変だったろうし、体も疲れているはずである。そんな余計なことをさせては申し訳ない。けれど、それだけの味を提供し、繁盛している店なのである。直也は訊いた。
「では料理などは、それから勉強したのですか?」
「そう。まあ飲食店で働いてたこともあるし、真似事はできるんだけんど、本格的に修業したのはこっちに戻ってきてからだね。具合の良くなった親父から仕込んでもらって。そんでどうにか食堂を継いだら、こんなオラの料理でも、結構お客さんが来てくれたんだわ。美味いって言ってくれて。まあ親父の代からの客も多いから、義理や世辞なんだろうけんどね」
 直也は首を振った。
「お世辞ではなく、雑魚寝丼も海鮮丼も、とても美味しかったです。関東では味わえない味でした。あ、それに……」
 直也は沼田の言葉を思い出した。
「沼田さんがさっき言ってましたよ。『よく親父さんの味を継いだものだ。立派だ』って」
 風間が驚いた顔をした。そしてすぐ、泣きそうな顔となった。涙を堪えているのか、目をしばたかせている。酒のせいも多少はあろうが、案外に涙もろい男なのかもしれない。するとその顔をひとつ撫で、でもあれさ、と笑い皺を深めて言った。
「あの雑魚寝丼だけんど。あれ、じつは金のなさそうな旅人に出してた、裏メニューなんだわ。『たびうどん』って名で」
 これまた斬新な料理名である。ということは――。
「では最初はご飯じゃなくて、うどんだったんですか? シャコ天うどん?」
 ちゃうちゃう、と風間は手を振った。
「今と変わんない。旅人の丼って書くんだ。旅人丼。それを『たびうどん』って名付けたんだよ。旅人って『たびうど』っても読むからさ。まあ、遊び心だね」
 なるほど。「たびうど」と「どん」を、足して縮めて「たびうどん」。直也は自然と笑みが出る。伯父もそんな、言葉遊びが好きだったのだ。「空」を分解して「ウルエ」と呼んでみたり。
「そしたらそれが、ワタリの人らの間で評判になっちまってさ。さっき言ったように、あの人たちは全国まわってるからね。キャンプも得意だし。それで全国から、噂を聞いたツーリングライダーが食べに来るようになってさ。テントとか大荷物積んで、こんなとこまでわざわざ。だけんど、ここいらにはキャンプ場がないんだわ」
「それでこのライハを作り、『雑魚寝丼』として品書きを貼り、宿泊券としたんですね?」
 風間は頷いた。
「まあ昼にも言ったけんど、誰でも泊めるわけじゃないんだけどね。でも、前から考えてはいたんだ。今度は世話する側にまわんないといけないな、ってね。いろんな土地で、いろんな人に世話になってきたからさ、オラ。どこかで、少しでも恩返ししないと」
 直也はハッとした。小宮の言っていた、「旅人の仁義」を思い出したのだ。「ありがたいと感じたら、今度は他の旅人に、なにかしてあげること」。風間も旅人であり、同じ心根の人間なのだろう。
 風間は室内に首を巡らせていた。しみじみとした声で言う。
「ホントこんなボロ小屋に、日本中から旅人が来てくれてねえ。いろんな土地からいろんな人が」
「で、伯父も食べに来たんですね? 千歳基地からバイクを飛ばして」
 無理やりではなく素直に絵が浮かび、直也は訊いた。伯父は食いしん坊でもあったのだ。転勤するとその赴任地で、美味いものを探してバイクを走らせていると、よく言っていたのである。
「そう、そこでツーさんの登場だ」
 嬉しそうに風間が茶碗を口に運ぶ。
「今でもはっきり覚えてるよ。雲ひとつない、真っ青なよく晴れた日でねえ。ツーさんがバイクでやってきたんだよ……」
 風間は懐かしむように目を細め、何度も顎を上下させた。
「そいつが傑作でねえ。あの映画あるっしょ、なんだっけ……。あっトップガン。あんなワッペンだらけのジャケット着て、やっぱあんなヘルメット抱えて。そんで『先ほど上空からここを見つけたので食べに来ました』つうのよ。たしかにそのしばらく前に、ジェット機が通過したんだ。だからすっかり信じちまってさ。あんな高いところから見えるんだ、ってさあ」
 風間が床を叩いて笑った。その時の様子を想像し、直也も愉快になった。おそらくここに向かっている途中で上空に僚機を見つけ、風間を引っかけるつもりで言ったのだ。伯父らしい冗談であり、楽しませ方である。そのあたりは「雑魚寝丼」のユーモアと通じるものがある。同じ遊び心を持った、似たふたりだったのだ。
「それから仲良くなってね。よく通ってくれて、本当によくしてくれて……」
 でもオラ、と風間が首を傾げた。
「なんか知らんけど、ツーさんの出身地を間違えて覚えてたんだよ」
「神奈川県の横須賀を、どことですか?」
「同じ神奈川の、平塚ひらつか。言葉が似てたからなのか、そこから来てた旅人が一緒だったからなのか、もうよくわかんないんだけんど。そんなんだもの、亡くなったと知って、お悔み伝えんべって調べても、わかんないはずだわね。基地に問い合わせても、住所自体教えてくんなかったし。そんで諦めてたら、去年のあの地震だ。まあ、あとはツーさんの導きだね。こうして横浜の道端さんとつながったし。ありがたいもんだ」
 ありがたいのはこちらである。風間のおかげで、実家の鮮魚店が盛り返したのだから。また風間はさらりと言ったが、横浜のマンションにつながるまで、相当苦労したはずである。「弟が魚屋をやっている」との伯父の言葉を思い出し、横浜に弟がいるらしいことを知り、横浜の鮮魚店一軒一軒に電話をしてくれたのだ。ともかくすべては、風間の努力のおかげなのだ。
 すると、パン、と風間が胡坐あぐらももあたりを叩いた。
「さて、そのツーさんだ」
 ここまでとは違った、風間の声音であった。直也は、話が本題に入る予感がした。
 風間が、姿勢を正して言う。
「電話では『思い出したことがある』と言ったけんど、あれは違う。迷いがあって、そう言っちまったんだ。正確には、『伝えたいことがある』なんだ。いや正直、迷いは続いてた。直也君が来るまでね」
 自分が到着するまで迷っていた? 直也は黙って耳を傾けた。
「これから話すのは、おそらく直也君の知らないツーさんだ」
 いったい、どんな話なのだろう――。
 直也が伯父の好きだった「吉翔」をひと口含む。今度はきりりとした味が、しっかり聞けとばかりに、口腔から胃にかけてまっすぐ落ちる。
 直也は顎を引き、背筋を伸ばした。

 直也は、風間の続く言葉をじっと待った。茶碗をあおり、ツーさんはね、と風間が静かに言う。
「ツーさんは、神奈川からツーリングで来ていたある女性とここで知り合って、恋に落ちたんだ。そんで結婚するはずだったんだよ、その女性と」
 直也は驚いた。初めて聞く話である。という以前に、あの伯父が恋愛していたなど、まるで想像できない。それはおそらく弟である父もそうであろう。「兄さんは女性が苦手だから結婚は生涯無理だろう」と、よく言っていたのだから。風間は、なにか勘違いしているのではないだろうか?
「……それは、本当に伯父の話でしょうか?」
 直也は正直に疑問を口にした。いや、伯父をおとしめるつもりも馬鹿にするつもりもない。ただ、事実とはとても思えないのだ。
 風間は無言で頷き、伯父の好きだった「吉翔」を茶碗に注いだ。
「ここで出会ったという恩義からなのか、オラなんかを信じてくれたのか、ともかくツーさんは、その女性の話をよくしてくれたんだ」
 直也は、やはり信じられない。ひとつ呼吸をし、言う。
「横須賀の家にもよく行きますが、そんな話は、一度も聞いたことがないのですが……」
 だろうね、と風間は言った。
「はっきりするまで親兄弟にも同僚にも内緒にしとくんだ、ってツーさんは言ってたから。でも、帰省するたびに会ってたはずだよ。いや、その女性と会うために帰省してたのかもしれんね。同じ県内だし」
「神奈川の、どこの女性ですか?」
厚木あつぎ
「厚木……」
 直也は頭の中に地図を広げた。厚木市は神奈川県のほぼ中央に位置し、横須賀市は県の南東部にある。地図上での直線距離は、三十キロほどであろう。
「でオラ、さっき言ったように、ツーさんの実家が平塚だと思い込んでたからさ。『たしか近いよね』つったら『飛ばせば三十分くらいだ』って言ったんだ。そんでなおさら、厚木の下の平塚市だと思い込んじまった。でも横須賀市とも近いんだよね? 厚木って」
 直也は頷いた。高速を使えば、車で一時間もかからない距離である。伯父がバイクで飛ばせば、たしかに三十分で着くだろう。それと厚木には、海自の航空基地と、米海軍の飛行場がある。陸自だったために詳しくはないが、空自だった伯父と、まったく無縁な土地ではなかっただろう。世界一ともいわれる海自の哨戒機部隊との連絡や連携は当然あっただろうし、親しい米兵も米軍の営舎にいたはずである。なので仕事で私用で、厚木に通っていた可能性は充分にある。そして風間の話が本当なら、彼女にも会いに。いや、彼女と会うためだけに。
 となると、横浜のマンションを訪ねてきたのは、その女性と会ったついでだったのかもしれない。とはいえやはり、にわかには信じられない。女性のことも、厚木という地名さえも、伯父の口から聞いたことがないのだから。
 半信半疑ながらも、直也は訊いてみた。
「それで、その女性とはどうなったんですか?」
「ダメになった。彼女が死んじゃってさ」
 これにも驚いた。
 うつむき加減で風間が言う。
「ツーさんがプロポーズする直前にね。インフルエンザにかかって、あっという間だったらしい」
 風間は面を上げた。笑い皺の線が、なんとも浅い。
「それでツーさんが顔を見せなくなっちまった。で、転勤したことが伝わってきた。そんでしばらくして、訓練中の事故で死んだことを知ったんだ」
 直也は混乱した。とても信じがたいことだが、風間が噓を言うとも思えない。
 風間が座卓の上の「吉翔」をつかみ、その瓶を見つめながら続ける。
「でもさっき言ったように、ツーさんはこのことを内緒にしたがってた。たぶん同僚の誰も聞いてないと思う。直也君のお父さんにも遠まわしに訊いてみたが、知らない様子だった。つまり、オラだけに打ち明けてくれたんだ……」
 そんなさ、と風間は「吉翔」のラベルを撫でた。
「そんな、ツーさんが棺桶に入れて持ってった大事な話を、オラが勝手にバラしていいわけがない。だから誰にも話さないつもりだった。けんど、知っちゃったからさ。それで迷いも消えた」
 知っちゃったから? 意味がわからない。直也は身を乗り出した。
「それは、どういうことでしょうか?」
「その女性の名前を知りたくないかい?」
 逆に風間が問うてきた。直也は頷いた。すると座卓の上の直也のメモ帳を指差し、「いいかい?」と訊いてくる。直也が空白のページを開き、ペンとともに差し出す。風間が女性の名前であろう文字を書きだした。そうして、直也の前にそっと置いた。
 その書かれた名前に、直也は驚いた。
「宇留江……ウルエさん!?」
 苗字だけどね、と風間が言う。とても珍しい姓で厚木でしか聞いたことがないと、その女性が言っていたと話す。直也はその名から目が離せなかった。
「伯父は命名の由来は話してくれませんでしたが、父や僕は、てっきり『空』を分解して読んでいたのかと……」
 直也は黙った。というより理解が追い付いてゆかず、言葉が出ない。風間が言う。
「訊かれたら、そう答えたかもね。だってツーさんにはイコールで、どっちも大好きだったんだから」
「『知っちゃったから』とは、このことだったんですね。伯父がウルエ号と呼んでいたことを知ったから……」
 手帳から顔を上げると、風間は首を振った。
「違うよ」
「というと?」
「直也君の乗ってきたあのバイクは、その彼女が乗ってたものなんだよ」
 さらなる驚きが直也に被さった。見つめていた風間の唇が動く。
「新車で買って、慣らしがてら北海道にやってきたって言ってた、相模ナンバーのついてたバイクだ。ツーさんが引き取った経緯はわからんが、間違いない。マフラーについてる傷はここで立ちゴケした時のもんだし、なによりリアキャリアに鉄棒が溶接されてるっしょ。あれ、荷掛フックが足りないって困ってた彼女のために、ツーさんが鉄工所に持ってって溶接したんだもん。そんなのを……」
 風間が茶碗を口に運ぶ。
「そんなのをここで見て、こりゃあやっぱり乗り継いでくれてる直也君だけには話しとかなきゃなって、そう思ったのさ。そんな物語のあるバイクなんだよ、ってさ」
 直也の頭の中に、知らない伯父が次々に現れた。混乱しながらも、頭の中を冷静に整理する。
「……ということは、まず父から『ウルエ号』と名付けられたバイクがあることを聞き、それが彼女のものかもしれないと思い、それをたしかめたくて、僕を北海道に呼んだということでしょうか? それで、もし彼女のものだったならばすべてを話そうと?」
 風間を見つめていると、風間は静かな声音で言った。
「勘違いしないでよ。北海道に遊びに来てもらいたかったのは本心なんだから。それが第一番だよ。ツーさんの甥っ子と酒が飲みたかったんだ」
「感謝してます……」
 曖昧な言葉だなと思いながらも、直也はそう口にした。風間が、遠まわしに弁解しているように聞こえたからだ。いやそう感じたのは、世間知らずの幼さのせいでもあろうが。
 もちろん風間に、欺いたり偽ったり、自分を利用しようとする意図があったとは思えない。それはここまでのもてなしからも明らかだ。純粋に北海道に呼びたかったのに違いない。けれど、バイクをたしかめたかったのも事実だと思う。自分が逆の立場でも、たぶんそうだろう。そして、明かすべきかどうかで大いに迷っただろう。ともかく、捻くれて受け取ってはいけない。しかし明かされた身とすれば、すぐには咀嚼できない、意外すぎる話である。
 すると風間が、「迷惑だったかもしれんね」と、ボソリと言った。
「そんな乗る人が次から次に死ぬ、縁起でもないバイクになんか乗りたくない、とか思うかもしれんよね」
 いや、そこまでは思わない。大好きだった伯父の形見という思いのほうが強いのだから。けれど風間は、そんなことまでも懸念し、明かすのを迷ったのだろう。
 もしね、と風間が言う。諭すような声音であった。
「もし縁起でもないとか思うんだったら、それは間違いだかんね。縁起ってのは縁の起こり、つながりの始まりのことなんだ。それを知ることは過去と未来の間にいる、自分を知ることなんだから。そんで旅ってのは、そんな見えない縁に気づく、いい機会なんだ」
 直也は風間を見つめた。失礼ではあるが、風間からこんな仏教的、哲学的な言葉が出るとは思わなかった。いや、旅から得た人生哲学を語っているのだろう。でも、そうなのだ。困惑はあるが、自分は知るべきことを、知るべき時に知るべき場所で知ったのだろう。亡き伯父もそれを望み、それで親しかった風間の口を借りたのかもしれない。
「おっと……」
 風間が腕時計を覗いて立ち上がった。
「オラがしたかった話は、これでおしまい。まあ、ゆっくり遊んでって。あ、明日は万が一のために、どこ行くにもカッパを持ってったほうがいいよ」
「ありがとうございます」
 直也は明瞭な発声にて返事し、風間に辞儀をした。あとは話を聞いた、こちらの問題だと自覚したのだ。粛々と整理し始めた、心の動きもたしかに感じる。
 飲んでよと「吉翔」を残し、風間はライハを出ていった。
 直也は建屋内にひとりとなった。シェラカップの残りを飲み干すが、さらに飲もうという気にはなれない。飲めばおごそかに働いている心が、麻痺するか停止してしまうだろう。直也は寝床をつくり、横になってみた。当然眠くはならない。目というより心が冴えている。そして少しずつ、気持ちが均されてゆく感触がする。
 直也は起き上がり、装備品のヘッドランプを頭につけて外に出た。
 ライハの外には、暗く静かな夜が広がっていた。食堂の建物を見ると、居室であろう二階も含め、すべて明かりが落とされている。脇の町道を走る車のライトもない。
 雲があるらしく、頭上に月は見えず、星の瞬きも少なかった。だが遠くに連なる山々の稜線は、おぼろげに見て取れた。それら判然としない風景は、まるで今の心の中と同じである。
 深呼吸をしてみる。本州のような狂気じみた蒸し暑さも虫たちの音もなく、ひっそりとした涼しさと遠くの潮騒が、柔らかく体を包んでくる。
 少し離れて止めてある、ウルエ号にライトを当てる。道中の風雨と砂塵にまみれ薄汚れてはいるが、メッキ部品がキラキラと反射していた。そしてその全体の姿は、なぜか違うバイクに思えた。
 直也は、センタースタンドにて佇むウルエ号に歩んだ。
 風間の言っていた、マフラーの傷を照射する。銀色の塗料で補修してあったこともあり、まったく気にしていなかった。その光を、キャリアに向ける。増設された、L字型の細い丸棒が闇に浮かび上がった。後付けなのは気づいていたが、これもきれいに塗装されていたし、不便に感じた伯父の工夫だろうと、ずっと思っていた。しかし、それぞれにストーリーがあった。いやこのバイク自体に、秘められた物語があった。
 といって、もちろん、細かなことはわからない。死別した彼女に代わり乗り出した経緯も、そしてウルエ号と名付けた想いも。
 ふと、思う。
 ――機械にも記憶があるのだろうか。
 ――想いが宿ることがあるのだろうか。
「……わからない」
 直也は首を振った。この旅に出て、「わからない」ばかり呟いているような気がする。いや、旅に出たからこそ、この事実がわかったのではないか。風間という縁を得て。
 ようやく、心が落ち着いてきた。
「ウルエ号……」
 呟いたその言葉には、もう違う響きが、違う重さが伴っていた。
 夜露で濡れたシートに、そっと手を置いてみる。大好きだった伯父と、その伯父が愛していた女性が座っていた、座席。おそらく自分は、三人目の乗り手になるのだろう。
 キャリアの隙間に挟んでいたボロにて、濡れた座面を丁寧に拭う。新しい乗り手ですと、今頃ではあるが心の中で挨拶をする。
 そうしてボロをキャリアの隙間に押し込むと、まるで馬が振り返るように、ヘッドライトが横を向いた。いや、重心のせいでフロントが傾いだのである。けれどそれはやはり、馬がこちらに顔を向けたように思えた。
 このウルエ号が僕を乗せ、必ずどこかに導いてくれる。いやすでに、導いているのだろう。このウルエ号に初めて跨った、その時から。今夜は、そのことに気づく夜だったのだ。
 直也の心の夜空が澄み、往く道を照らす満月が昇り始めた。
(第9回へつづく)


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山田深夜Shinya Yamada

1961年福島県須賀川市生まれ。地元の高校を卒業後、横須賀市で私鉄職員として約20年間勤務する。99年、専業作家になるため退職。2007年『電車屋赤城』が吉川英治文学新人賞の候補になり、09年「問題小説」掲載の「リターンズ」が日本推理作家協会賞短編部門にノミネートされる。他の著書に、「本の雑誌」で「2005年上半期ベスト10」に入った『横須賀Dブルース』、『千マイルブルース』『ロンツーは終わらない』『横須賀ブロークンアロー』『ひとたびバイクに ツーリングを愛する者たちへ』『風になる日』などがある。愛車はホンダワルキューレ。

  • 双葉社
  • 小説推理
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