双葉社web文芸マガジン[カラフル]

空の轍と大地の雲と(山田深夜)

イラスト:藤原 徹司(テッポー・デジャイン。)

第10回
 雨に濡れるからとの池上の厚意に甘え、直也はウルエ号を車庫内に移動させた。丸い砥石の回転するものや直立した大型ドリルなどの、工作機械の隣である。どれも油で磨き上げられ、使い込まれた古そうなものであった。直也は訊いた。
「この機械も、アンテナ製作や家電品の修理のために揃えたんですか?」
 池上は頷いた。
「といっても、そのグラインダーもボール盤もエアコンプも、工場や鉄工所から廃棄品として出されたものなんだ。この作業台もね。捨てるのはもったいないと思って譲ってもらってさ。まだまだ使えるし、どれも使ってた職人さんのぬくもりが感じられて、とても気に入ってるんだよ」
 木製の分厚い天板の作業台を軍手で撫でながら、油染みや傷を慈しむように池上が言う。ものを大事にする人であり、また大事にする人を尊ぶ人でもあるのだろう。
 じゃあ行こうか、と池上が母屋に促してきた。
「玄関フード」というらしい二重の扉から入った屋内は、見た限り普通の家屋であった。ダイニングキッチンがありトイレや浴室があり、和室の居間が見える。居間の奥にはふすまがあることから、その先にも部屋があるようであった。だが別宅で使っているためか、全体的に調度品や生活用品は少ない。
 池上が直也を居間に通し、腰道具姿のまま台所に向かう。そこにも満足な調理器具は見当たらないが、冷蔵庫はあった。その扉を開き、中を覗きながら池上が言う。
「喉、渇いたでしょ。ガラナしかないけど、いい?」
「あ、すみません。いただきます」
 ガラナは昨日初めて飲んだのだが、じつは風間食堂と町の自販機でもう何本も飲み、その独特な味わいに直也ははまりつつあった。
 どうぞ、と池上が、居間に立つ直也にガラナの缶を差し出してきた。
「ありが……」
 受け取ろうとした直也は絶句した。缶を握った池上の左手が、指も甲も、小さな瘢痕はんこんでいっぱいなのだ。いや切り傷ではない。火傷やけどのようなあざや皮膚のれである。それもなぜか細長いものが多い。けれど右手にはそのような痕はない。ともかく、先ほどまでは軍手でまったくわからなかった。
「ああ、これね」
 池上が、己が左手を見ながら軽く言う。
半田はんだごての火傷。今はもうそんなことないけど、うつらうつらしながら半田づけしてて、よくアチッてやってたんだ」
 直也はその左手を見つめた。寝る間も惜しんで修理していた証だろう。昼間は役場で仕事をし、夜は疲れた体で半田ごてを握っていたのだ。住民のために。
「あ、もうほとんど消えたけど、ここにもあるんだよ」
 池上が片頰を撫でた。ケロイドまでにはなっていないが、幅の広い線状の薄い痕が残っている。ということは、と直也は訊いた。
「もしかして、半田ごての上に突っ伏したとか?」
「そう、眠くて。でもこれは熱かった。百ワットの半田ごてだったからね。さすがに病院に行ったよ」
 直也には、その百ワットの半田ごての熱さが見当つかない。もちろん、半田ごては知っているが。
「普通使う半田ごてって、何ワットくらいなんですか?」
 別の角度から訊いてみる。そうだね、と池上は言った。
「場所によるけど、プリント基板なんかの細かい部品に使うのは、15から30くらいだね。これなんか、みんなその火傷」
 池上が左手を見せて言う。ならば百ワットでというのは、とんでもない熱さだったに違いない。直也はぞっとした。
「でも、眠気覚ましには一番だよ、半田ごては。一発で目が覚めるからさ」
 池上が目じりを下げる。直也は笑えなかった。正直、理解できない。まったくのボランティアなのに、なぜそこまでして、と。そうさせる想いは、駆り立てる根源は、いったいなんなのだろう。もしかして、「公務員」となにか関係するのだろうか――。
 疑問に思っていると、池上が腰道具を外しながら居間の奥に向かった。
「で、こっちがその、火傷の部屋」
 おどけたように池上が言い、両手で襖を開けた。
「おお」
 直也は小さく唸った。家電品を修理するイメージから、軽作業ができるちょっとした工房を想像していたのだが、まるでどこかの研究室か実験室のようなのだ。フローリングの床に長くて広い作業台があり、その上の棚に、ボタンや小さな画面のついた測定機器らしい装置がたくさん見える。もちろん知識がなく、なにに使うのか皆目わからない。パソコンのセットやディスプレイ、ライト付きの大きな拡大鏡もあった。本棚もあり、電子工学の専門書や修理の手引書らしい背表紙が並び、回路図の束も平置きされている。細かな抽斗ひきだしがびっしりある大型キャビネットは、電子部品のパーツ入れだろうか。工具類もケースに入れられ整然と並んでいるし、ワイヤーネットにも各種かかっている。半田ごても、大きさや太さが違うものが数本ぶらさがっていた。一番大きなものは、こて先が単三電池くらいの太さがある。これが池上の頰を焼いたものかもしれない。
 向こうの壁に見えるドアは、位置的に先ほどの車庫に通じているのだろうと思われた。けれどその前に、頑丈そうなコンテナが何個もある。直也は歩み寄った。覗き込むと、ガラクタのような壊れた電化製品が、無造作に大量に入れられている。基板だけのものも、いくつもある。
「それはジャンク箱だよ」
 背後で池上が言った。
「部品取り用に廃棄品を集めてるんだ。買ったり貰ったりしてね。そんな箱が、他の部屋にいくつもある。電気のゴミ屋敷だよ、まったく」
 自嘲するように池上は言うが、その顔は嬉しそうだった。先ほどの古い工作機械もそうだが、「見捨てられたものを見捨てることができない」とでもいうのか、なんとか再利用して復活させられないかと考える人間なのかもしれない。
 また部屋には、大型のスチールラックがいくつもあった。ひとつには修理前なのか、壊れていると一目でわかる品が並んでいる。ツマミがなかったりケースが割れているラジオや、古い映画に出てくる音響機器などである。もうひとつのラックには修理完了品なのか、外観まできれいに磨かれた、子供の玩具や電気製品がある。といってこれも、昭和のドラマに出てくるようなものばかりだった。
 また、まるで通信機のような、ツマミのたくさんついた大型のラジオもいくつかあった。もしかして、と直也はそのひとつを指差して訊いてみた。
「これって70年代に流行ったという、BCLラジオですか?」
「そう。それはソニーのスカイセンサーだね。その隣はナショナルのクーガ。最近多いんだ、全国からその手のやつの修理依頼が。押入れの奥から引っ張り出してくるんだろうね」
 直也は納得したように頷いた。なるほどウェブで読んだように、ブームが再燃しているのかもしれない。
 物珍しさもあり直也がさらにそのラックに目を向けていると、違うことを思ったらしく、「そこじゃないんだ」と池上が背後から言ってきた。
「道畑君用に見繕ったラジオは上にあるんだよ。アンテナ線を使って、感度を調べていたからね」
 直也は振り向いた。
「というと、BCLの部屋は二階なんですね?」
「うん。ここより涼しいし、上に行こうか。火傷する心配もないしさ」
 池上が笑う。直也はガラナの缶を持ち、やはりガラナを持った池上の後に続いた。

 池上とともに二階に上がり、直也は洋間の一室に通された。
 ここでも直也は、おお、と唸ってしまった。こちらは通信室か無線局といった様相である。いや、送信設備はない。それはマイクや、モールスなどを打つ電鍵が見あたらないことからすぐにわかった。だが通信機のような器機が、横長の机の上の何段もの棚に並んでいるのだ。直也も知っているメーカーのネームが入ったものもあり、おそらくプロ用に製作された器材であろうことがわかった。ヘッドホンもいくつか見えるが、左右の天井付近に、海外の有名な音響機器メーカーのロゴが入った、大きなスピーカーが設置されている。また階下にあったような測定機器もいくつかあり、こちらにもパソコンのセットがあった。パソコンは起動しているらしく、ディスプレイにはスクリーンセーバーらしい、大空に浮かぶ雲が映っていた。
 だがそれらより目を引いたのは、壁に貼られた大きな世界地図と、その下にずらりと並んだ掛け時計であった。バラバラの時刻を示したそれぞれの下には外国の都市名の入ったプレートが貼られ、世界の主要都市の現在時刻がわかるようになっているのだ。まるでこの一室が、世界につながっているようである。
 それらに首を巡らせ、直也はまたもや己の思い込みに恥じ入った。下にあったような家電品のラジオで、スピーカーに耳を近づけ放送を聴いているのだろうと憶測していたからだ。いやそんな様子を想像させる、古めかしい家庭用ラジオもいくつかあるが、アンティークの飾りのように離れた位置に置かれている。
 ともかく直也は、BCLに対しての考えを改めた。受動的な趣味であるはずなのに、とてもアグレッシブに感じる空間になっているのだから。
「まあ、かけて」
 池上が中央に置かれたテーブルに、直也を促してきた。といってこれも作業台を兼ねているらしく、天板には傷や焦げ跡がある。失礼します、と直也は椅子に腰かけた。部屋の設備に目を向けながら、言う。
「先ほどの下の部屋もそうですが、なんというか、圧倒されました。僕、思い違いをしていたようです」
 直也は正直な思いを口にした。池上が首を傾げる。
「思い違いとは?」
 失礼にならぬよう、直也は言葉を選んだ。
「もっと簡素な工房と、なんというかその、やっぱり簡素な受信設備を想像していたんです」
 ガラナの缶をテーブルに置き、池上が窓を開けながら笑った。灰色の雲は厚く、先ほどより霞があるが、雨はそうひどくはない。
「はじめは簡素だったんだけどね。だけどしようだし、他になんの趣味もないからさ。それに独りだし」
 網戸にした窓の外に目をやりながら池上が言う。直也は昨日の沼田の言葉を思い出した。両親はすでにおらず、奥さんも若い頃に病気で亡くしたと言っていた。子宝に恵まれなかった、とも。
 でもさ、と池上が振り返り、受信機の棚に顎をしゃくった。
「こんないっぱい揃ってるけど、そんな大金はかかってないんだよ。ほとんど元はジャンク品で、直して使ってるんだから。下にあるオシロとかテスターとかの測定機もそう。それよりさ……」
 これこれ、と逸る声で言い、池上が机の片隅からなにかを持ってきた。小さなラジオである。正面に腰かけ、直也の前に置く。
「いろいろ考えたんだけど、ツーリングに使うのなら、小型のこれが一番だと思ったんだ。AMとFMの2バンドラジオ。どう?」
 失礼して直也は手に取った。タバコの箱を少し大きくしたような、それでもポケットに入るサイズのラジオである。伸縮する金属のアンテナがあり、ストラップが脇についている。
「それも元はジャンクでね。直すついでに、いろいろと手を加えたんだ」
 直也がそのラジオをぐるりと見まわす。プラスチックの筐体きようたいに割れはないが、傷が多い。周波数を合わせる透明の表示板のスケールにも、線状の傷が何本もある。いや、これは人為的なケガキに思える。なんだろうと目を凝らしていると、それはね、と池上が言った。
「北海道で受信できる、主なラジオ局の周波数。その線にチューニングの目盛りを合わせると、同調できるようになってるんだ」
「あ、それは便利ですね」
「便利なのはそれだけじゃないよ。電池室に段差をつけて、単三電池も単四電池も使えるようにしてある」
「それもすごい」
 すべて正直な感想である。あとはね、と池上がラジオを覗き込んだ。まるで筐体を透視しているかのような顔つきである。これはまた詳しい解説が始まるのかと身構えるが、それほどでもないようであった。
「あとは内蔵のバーアンテナを大きめのものに交換して、スピーカーも音質がいいものに替えてある。トランジスタやコンデンサも全部新品にして、全体の調整もし直したな。だから他のポケットラジオと比べて、断然に感度も音もいい。ただ、将来FMの周波数が広くなるような話があるんだけど、それだけは対応していないんだ」
 このツーリングだけで使うものであるし、FMの件はまったく気にならない。けれどこんな小さなケースなのに、ずいぶんと細工を施し、整備したものである。ここにも自身が言う「凝り性」と、風間の言う「なんにでも根を詰める」性格が発揮されたのだろう。ともかく池上が言ったように、これはツーリングに最適な携帯ラジオに思えた。
「使い方はね……」
 伸ばしてきた池上の手にラジオを渡す。電源を入れ、操作方法を説明してきた。といってもスイッチが少なく、難しい点はなにもない。そして大きさの割に音が明瞭で、受信感度もよさそうである。なにより周波数の表示板のケガキで同調できるのと、二種類の電池が使えるは助かる。直也は気に入った。テーブルに置かれたラジオを持ち、池上に訊いてみる。
「それでこれ、おいくらで譲っていだけるんでしょうか?」
「え?」
 池上が驚いた顔をした。
「あ、ごめん。勘違いさせたみたいだね。これは売りものじゃないんだ」
 池上が直也の手からラジオを取り上げ、隠すように背中に回した。直也はまごついた。
「というと?」
 するといたずらっ子のように笑み、池上がラジオを前に出す。
「旅人にあげるもの。君のようなね」
 池上がラジオを直也の掌に納める。こんな茶目っ気も備えているとはと、直也もまた頰を緩めた。けれどタダというのは気が引ける。といって、金を出しても受け取らないだろう。直也はラジオを見つめた。すると閃いた。あの、と池上に顔を上げる。
「風間食堂のライハをベースにして走るつもりですし、どこかでなにかお土産を買ってくるということでその……。あっ」
 言っているうち、直也は己の愚かさに気がついた。道民に道内の、それも近辺の土産を買ってきてどうするのだ。けれど思っていることは通じたようである。池上が笑みを浮かべて言う。
「なにもいらないから、代わりに土産話を持ってきてよ。どんな人に会って、どんな体験をしたか聞かせて。それなら、いながらにして旅ができるから。ちょうどBCLと同じ。よし、決まり」
「では、そうさせていただきます」
 直也は辞儀をし、ラジオをウエストバッグに仕舞った。そして池上に対する興味がますます増した。それと池上が発した「BCL」にも。なるほど、いながらにして旅ができる、か――。
 棚の受信機類を見る。池上は、ブームになる前からBCLを始めていた。直也は訊いた。
「電波の受信に興味を持ったのは、なにかきっかけがあったんですか?」
「高校の修学旅行だね」
 旅行先でラジオ局でも見学し、それで電波に興味を持ったのだろうか。いやまて。風間は、池上は修学旅行に行っていないと言っていた。
 そのことを問おうと身を乗り出すと、池上のほうが先に口を開いた。
「といっても私は参加していない。したかったけど、健康面に不安があってね。医者の許可が下りなかったんだ」
 風間も、池上は体が弱かったと言っていた。池上が窓の外に顔を向ける。
「肺に疾患があってさ。それで飛行機に乗ることを止められてね。空を飛べなかったんだよ」
 空が好きなのは飛べなかったから。池上は先ほど、山でそう言っていた。おそらく、このことなのだろう。それはともかく――。
「なぜ行けなかった修学旅行が、電波の受信に興味を持つ、きっかけになったんですか?」
「沼田先生だよ」
 どういうことだろうと首を捻る。池上が続けた。
「沼田先生が、旅行中の自習の課題を与えてくれたんだ。『世界の様子をまとめなさい』ってさ。これとともにね……」
 池上が立ち上がり、飾りのように置かれていた、古めかしいラジオを手に取り持ってきた。直也の前に丁寧に置く。
「ソニーの『ソリッドステート11』。当時最高の受信性能で、3バンドで短波が聴けるんだ」
「それを沼田さんから貰ったんですか?」
 新品でね、と池上は嬉しそうに言った。直也が思い出す。沼田の言っていた「まだ、あるだろうか」とは、おそらくこのラジオのことだろう。
「道畑君は、このメッセージがわかるかい?」
 懐かしむような目をラジオに向けながら、池上が訊いてきた。参加できない修学旅行中にラジオを聴く。直也はわからず、首を振った。池上が目じりを下げる。
「国内のちっちゃな旅行なんか気にせず、これで世界を聴いて旅しなさい、ってことなんだよ。世界からの電波を受信し、視野を広く持て、ってことなんだ。でもそんなことは、言葉では言わない。沼田先生はそういう人だから」
 直也は感心した。沼田は、皆と旅行できない池上を不憫ふびんに思ったのだろう。
「それはなんというか、素晴らしい配慮ですね」
 ふさわしい言葉が見つからぬまま直也は口にした。池上は首を振った。
「配慮ではなく、優しさだよ。道畑君」
 その言葉のほうがしっくりくる。直也は己の表現力のなさを、幼さを恥じた。池上が続ける。
「でもその優しさは、私にだけじゃない。先生は、どの生徒に対してもそうだったんだ。ひとりひとりが抱える悩みに、そっと寄り添ってくれる人だったんだよ」
 ソニーのラジオにさらに目を細め、池上は続けた。
「沼田先生はその前に休暇を取ってたから、たぶんその時に内地に飛んで買ったんだ。このラジオ自体、値段が高かったのに。あと『ラジオの製作』という雑誌も一緒にくださった。その本に、アンテナの作り方とか、海外のラジオ局の周波数なんかが載っててね。もちろん、自作ラジオの製作記事もあった……」
 ガラナをひと口飲み、池上が美味そうに笑む。いや、アンテナを作り、夢中で電波を追いかけた、当時を懐かしんでいるのだろう。
「ともかくそんなことがあって、電波の受信に興味を持ち、電気に関心を持つようになったんだよ。それで卒業して働くようになって、あの時のお礼ですってお金を包んで持ってったら、怒られたなあ。わたしを愚弄するのか、ってね。そんな人なんだ、沼田先生は」
 直也は沼田にとても感服した。だが疑問も浮かんだ。
「ということは、沼田さんは以前から短波のことに詳しかった、ということになりますよね?」
「そう。先生は競馬が好きだから」
 それは昨日風間からも聞いた。賭け事が嫌いなのに競馬ファンなんだと。頑張る馬や人を応援するのが好きな人だとも。けれど、直也の中では結びつかない。
「どういうことですか?」
「ラジオで聴いてたんだよ。国内の短波放送局が実況する、競馬中継を。それでチューニングを合わせてて、海外からの日本語放送が受信できることを知ってたんだ」
 なるほど、と直也が思う。いや短波自体聴かないので、どんな放送局がありプログラムがあるのかわからないが、そういうことなら合点がゆく。そしてやはり、清廉な沼田に畏れ入る。
「立派な人だ……」
 思わず漏らしたその言葉に、池上は大きく頷いた。
「私は卒業して札幌の会社に勤めたんだけど、親が病気で倒れてね。それで、こっちに戻って働くことになったんだ。で、一番に考えたことは、沼田先生のような仕事に就くこと。町のみんなのためになるようなね。それで、これだと思ったのが……」
「町役場だったんですね? 同じ公務員の」
「そう。欠員が出て、ちょうど募集中だったんだ。でも採用試験の前に相談したら、みごとに反対されたけどね、沼田先生に」
 直也は意外に思った。
「それは、なぜ?」
「町役場は君の性格には合わない、ってことだった。心身ともに潰れる可能性がある、って。結果的にそれは当たった。肺の病気が再発して、メンタルがダウンしそうになったからね」
 直也は池上を見つめた。情緒的な不安定さはなにも感じられない。だが現役時に、精神的に追い詰められたことはあったのだろう。いや、あったはずである。冷暖房が切られた庁舎で夜中まで仕事していたと沼田は言っていたのだ。冷房はともかく、この北海道で暖房なしはきついだろう。しかも賃金の出ない、今でいうサービス残業である。そして帰宅し眠い目で半田ごてを握る。そのうえ休日も催事や消防団などで活動していたと沼田は言っていた。それらの負荷が心身に出るのは当然だろう。
「でも、これは違うんだけどなあ……」
 苦笑いしながら、池上が長い髪をつかんだ。
「どういうことですか?」
「ハゲ隠しだと思われてるんだよね、町のみんなから」
「ハゲ隠し?」
「円形脱毛症ってあるじゃない。いわゆる10円ハゲ。あれがいっぱいできてたんだ。辞めるまでずっと。でも退職記念でそのまま伸ばし始めたら、その円形脱毛症が、どんどん減ってってさ。やっぱりストレスが溜まってたんだなあって思ったよ。なのにまわりからは、ハゲを隠してるんだなあって思われちゃってさ」
 池上がガラナを口に運ぼうとしてやめ、愉快そうに続ける。
「ずっと長髪に憧れてたんだって、いくら力説してもダメ。若い頃の細野晴臣をイメージしてるのにさ。こないだも、いさぎよく松山千春を目指せ、とか言われちゃったよ」
 池上が笑う。なるほどそんなこともあり、風間は池上の容貌に触れなかったのかもしれないなと、直也も控えめに笑った。
 ともかく池上は、退職後の今も、町の人たちから慕われているようである。そしてそれらの元になった働きは、沼田の影響が大きかったらしいことがわかった。けれど沼田は池上のことで言っていた。「出世はできなかった」と。住民に感謝されても、役場内にはそれを快く思わない職員もいたのだろう。遅くまでの残業も、もしかしたらそんなことが関係していたのかもしれない。
「そうか、それで……」
 直也は呟いた。池上が言問い顔となる。いえ、と直也は首を振った。
 沼田の言っていた「彼ほど恵まれた、恵まれない職員もいない」は、ここに掛かるのだ。そして、それでも信念と理念を持って働く池上の姿に、沼田はあのように語ったのだ。
「……公務員とはなにかを考えさせられる存在であった」
「え? なに? 道畑君」
「沼田さんの言葉です。池上さんを、そう評していました」
「そんなことを……」
 池上は神妙な顔となった。畏れ多い、といったような表情である。
 やはりよい機会だと感じ、直也はまっすぐ訊いてみることにした。池上さん、と身を乗り出す。
「公務員って、いったいなんでしょうか?」
 池上は面食らったような顔をした。池上にすれば、あまりにも唐突な質問だったのだろう。
「……それは、道畑君も公務員だったから? 公務員に疑問を持ってたの?」
 直也は首を振った。
「公務員だったという自覚が薄かったからです。なのできちんと考えたことがなくて。でも次に進みたい進路も、考えてみたら公務員なんです」
「なるほど。うーん……」
 池上は難しい顔をし、腕を組み天井を向いた。直也はじっと言葉を待つ。池上の顔がこちらに直る。どこから話そうかといったような、戸惑いの色が浮かんでいた。
 まずね、と池上が身を乗り出した。
「それは、何度も沼田先生にぶつけてきた質問なんだ。私も、疑問に思うことが何遍もあったからね。けれど返ってきた答えはいつも同じ。『わたしもそれを教えてほしい』と。あの人は求道者でもあるからね。公務員を辞めた今でもそれを考えている人だし。でも沼田先生の姿から、これではないかと感じたことはあった。公務員とはなにかというより、公務員の心構えのようなものだけどね」
「それは?」
「さっきも言ったことだけど、『ひとりひとりに寄り添うこと』。振り返ると、私も無意識にそれを目指していたと思う。自分にできることでね。といっても、たいした力にはなれなかったけど」
 謙遜であろうが、本気でそう思っているような、非力な自分を恥じ入る表情である。直也は池上の左手を見つめた。ボランティアなのになぜそこまでしてと先ほど考えたが、そんな想いが根源にあったからだろう。
 池上から言葉が出る気配を感じ、直也はさらに耳を澄ました。
「それとこれはまったくの私の、本当に勝手な解釈なんだけど。公務員の仕事ってBCLに似てるなって、思うことが何度かあったな」
 BCLという電波を聴取する趣味が、公務員の仕事に似ている?
 直也は腕を組み考えた。

 やはりわからず、というより見当さえつかず、降参したように直也は腕を解いた。ガラナを飲む池上に迫り出す。
「それは、どういうことでしょうか?」
 池上がガラナをテーブルに置いた。
「BCLの醍醐味って、微弱な電波を受信することにあるんだ。大国の大出力の電波ではなく、小さな国の小さな出力の電波だね。そういう国は情勢が不安定だったり、貧しい国が多いんだ。そんな微かな電波を受信するために、アンテナを工夫し、機械も人間も感度を研ぎ澄まし、じっと耳を凝らす。そんなところが、大きな声を上げられない、弱い立場の人の声をすくい上げる、公務員の姿勢というか気構えに似てたかなと……。いやだからって、私ができていたかどうかは別だよ。ともかく、そんな共通点を感じたことが幾度かあったね」
 直也は無言となり、ゆっくりとガラナを口に運んだ。
 公務員とは、ひとりひとりに寄り添うこと。それは染み入るような言葉であった。沼田という恩師に導かれた境地でもあろう。また、弱い立場の人の声を掬い上げる、という池上独自の言葉も、胸の奥に響いてきた。けれどその解釈を生み出したBCLは、あくまでも受け身である。待ちの姿勢である。その点と公務員との差異はどうなのだろう。
 池上ならば通じると思い、表現を変えて直也は訊いてみた。
「でも、送信はしないんですよね?」
「それも似てるんだよ、公務員と」
 意外な答えであった。戸惑い顔をしていたのであろう。だってさ、と池上がこちらに言う。
「公務員って、ゼロから1を生むんじゃなくて、ゼロを保つ仕事だからさ。あ、もちろん私の持論だよ」
 つまり生産性はゼロであり、そのゼロを保つのが公務員の仕事? 知見や人生経験が乏しいためもあろうが、直也によい感触はない。
「……あまりいいイメージは湧きませんが。ゼロの現状維持、ということですよね?」
 いやいや、と池上は首を振った。心得違いを指摘している表情である。
「ものすごい意義のある、大変な仕事だよ。ゼロの現状維持って」
「というと?」
「たとえば、放っておけばなんだって劣化するじゃない。道路も水道管も、公民館も小学校も。人の健康だってそう。つまりマイナスに向かう。これを阻止したり、戻したりするんだから。なんの支障もない状態であるゼロにさ。そして維持するんだから……。わからない?」
「うーん……」
 直也は唸った。言わんとしていることはなんとなく理解できるのだが、輪郭をはっきりさせるイメージが、もう少し欲しい。
 じゃあさ、と池上が言う。
「もっとわかりやすい例で言うね……。『交通事故ゼロ』」
「あ、今ピンときました。そうですよね。災害ゼロ、病人ゼロ、犯罪ゼロ、失業率ゼロとか。それはすごいことですよね」
「そうそう。ゼロを現状維持するためには、ものすごいプラスの力が必要なんだ。君がしていた公務員の仕事も、まったく同じじゃない」
「え? 自衛隊が? どういうことですか?」
「領海や領空の侵入侵犯ゼロ、他国からの侵略ゼロ、つまり平和を維持するため、戦争をゼロにするための仕事じゃない……。あれ? 私、そんなに驚くようなこと言ってる?」
「いえ……」
 なにか不意打ちを食らったような心境だった。自衛隊も、ゼロの現状維持が仕事。いや、わかる。自衛隊の基本理念は防衛であり、なにも起こらないために、起こさせないために、日々備えているのだから。けれど自分は、そこに生産性を求めていた。地面に苦労して塹壕ざんごうを掘り、そして元通りに埋め戻す。これではプラスマイナスゼロであり、国民の負託になにもこたえていないではないかと、疑念を抱いたのだ。
「どうしたの?」
 訝るような池上の声に、テーブルに置いた両の拳をぎゅっと握っていたことに気づく。震えていたのかもしれない。チラリと見ると、掌に爪痕がついていた。なんでもないという素振そぶりで首を振り、直也がガラナの缶を口に運ぶ。氷入りのグラスだったら、ガシガシと中の氷を嚙み砕いていたかもしれない。
「でもさ」
 池上が言う。ここまでと違い、声が暗い。
「でも、なんでしょうか?」
 直也は訊いた。池上の表情が、窓の外のように曇っていた。
「去年の震災で、わからなくなったよ。公務員というか、『パブリック』がね」
 去年のあの震災? パブリック? 直也こそわからない。
「どういうことでしょうか?」
「電波は公共財なんだ。つまりみんなのものであり、公共心を持って使うもの。でもあの震災時には守られなかった。皆がパブリックの精神で助け合うべき状況だったのにさ。そのことに、とてもショックを受けたよ」
 ますますわからない。直也は首を傾げた。
「これ、聴いてみて」
 池上が立ち上がった。パソコンの前に行き、キーボードとマウスを操作する。ディスプレイの画面が変わった。何層もの波形のようなものが映る。天井近くのスピーカーから雑音が流れてきた。するとそのノイズの中で、誰かが叫んでいるのが聴き取れた。とても緊迫した声であった。
〈非常非常、非常非常、どなたか聴いてませんかっ、こちらは岩手県……〉
 するとその音声に、突然大きな口笛が被さった。さらに「あーあー」というテストでもしているような声。それが消えると再び緊迫した声が浮かび上がった。
〈一方的に送ります、どなたか関係機関に連絡してください、現在住民が多数取り残され……〉
 するとまた妨害するように、今度は音楽が流れてきた。能天気な歌謡曲である。
 苦々しい横顔を見せ、マウスを操作し池上が音を消した。直也に向く。
「震災時の非常通信だよ。難を逃れたアマチュア無線局が、非常通信周波数で助けを求めてるのに、誰かが邪魔してるんだ。正体はわからないけど、やっぱりアマチュア無線局だろうね。一応、総務省に録音データとレポートを送ってあるけど。もちろん被災者から聴き取れた内容は、リアルタイムで警察に伝えたけどね」
 池上がテーブルに戻り、溜息をついた。
「とにかく人間不信になりそうだった。こんなやからが多くて。アマチュア無線局といえど、みんな国家資格を持っているわけで、ひとりひとりが公務員と言ってもいい状況だったのにさ。公共心って、パブリックっていったいなんなんだって、怒りと嘆きでどうにかなりそうだったよ。それでも、じっと聴き続けたけどね」
 直也はハッとした。
「震災の時期に過労で倒れ、救急車で運ばれたって風間さんから聞きましたが、もしかして……」
 池上が頷いた。
「発災直後から、SOS信号をサーチしてたんだ。非常通信周波数はバンドごとにあるから、それを全部。携帯とかの通信網が復旧するまで、寝ないでさ。そしたら、体がおかしくなって。それで自分で、救急車を呼んだんだ」
「それは自主的に? 誰かに頼まれたとかではなく?」
 池上は無言で頷いた。なんて人だと直也は驚いた。そして先ほどの非常通信の様子にも、驚きと呆れを感じた。けれど「パブリック」。公務員というより「公」を理解するワードであろうが、池上にすればイコールに近いのかもしれない。
 池上が言う。
「でも結局は個々人、つまり『パーソナル』の問題なんだろうなって、運ばれた病院のベッドの上で考えた。道路も公共物だけど、ルールを守って走る人ばかりじゃなく、暴走する人もいるんだしさ。その私が乗せられた救急車だって、道を譲ってくれたドライバーばかりじゃなかったみたいだったし」
 パブリックとパーソナル。「公務員とはなにか」まではなんとか追いついてゆけたが、ここまで来ると思考のキャパシティを超えている。けれどとても重要なワードに思える。すると直也は違うことを思い出した。
「昨日お聞きしましたが、沼田さんも同じ病院に入院されてたんですよね?」
 そうそう、と池上は苦笑した。
「寝間着姿で見舞いに来てくれてさ。なんだかふたりで笑っちゃった。沼田先生は既往症の検査入院でさ。それで訊かれて、入院に至った経緯を話したんだ。パブリックに悩んだこともね。失望や憤りや悲観が混じった話なのに、先生は、じっと聞いていてくれたな。それだけで心が軽くなって。やっぱり沼田先生だよなあ」
 池上が、思い出すように窓の外に笑った。直也も外を見る。すると灰色の空合いのせいもあろうが、だいぶ暗くなっていることに気づいた。慌てて腕時計を見る。すっかり長居してしまった。
「あの、僕そろそろ……」
 直也は腰を浮かした。
「あれ?」
 池上が外に目を向けたままで言った。直也も目をやる。町道からこちらに、車が入ってくるところだった。
 あの四駆、と池上が訝るように言った。
「もしかして、沼田先生のところの車じゃないかな」

 直也は池上とともに、照明を灯した車庫内に佇んでいた。前の広い庭には四輪駆動車が停車している。沼田の乗った車とのことであるが、先ほどからずっと、車内でごそごそとしていた。運転してきたのは、沼田の下の息子らしい。
「上の息子さんは、内地で大学教授をしててね。それで一緒に住もうって言われてるんだけど、こっちがいいって、隣町の下の息子さんの家にいるんだ。でも、どうしたんだろ、急に。というか、なにしてるんだろ」
 階下に下りた池上は、すぐに庭に停まった四駆に駆け寄っていた。けれど、車庫で待ちなさいと沼田に言われ、こうしてここで待機している。直也も辞するために車庫にいた。
「傘、じゃないんですか?」
 直也が空を見上げた。雨はひどくないが、それでも傘がいる程度は降っている。けれどもう、数分は経っている。
「やっぱり傘を探してるのかな。それか、傘が壊れてたり。でも、余計な世話を嫌がる人なんだよ。人一倍の世話好きなのに。いや、持って来よう……」
 池上が玄関に向かおうとした。すると運転席のドアが開いた。五十がらみの男が傘を持って助手席にまわり、沼田をエスコートするように傘を開く。ドアが開き、なにかを大事そうに抱えた老人が下りてきた。たしかに昨日風間食堂で相席した、沼田である。
「沼田先生っ」
 池上が声をかけた。「ジッチャン」と呼ばぬことに直也は訝るが、誰よりもリスペクトしている池上であり、特別に許されているのかもしれない。息子に傘をかざしてもらい、ゆっくりと沼田がこちらにやってきた。直也を認めたらしく、小さく笑んでくる。直也は辞儀をした。けれど池上に向けた目は厳めしい。ふたりが車庫に入ってきた。
「『先生』はやめなさいと、何年言ったらわかる」
 沼田が叱るように池上に言った。
「すみません、先生」
 真顔で池上が答える。まるでコントのようで、直也は吹き出しそうになった。
「で、先生。今日はいったい、どうしたんですか?」
 沼田は池上を睨むが、呆れたように首を振った。
「これを渡すのを、すっかり忘れていた。昨日、そこの彼と話していて思い出してな」
 直也をチラリと見て言う。沼田が手に持った、小さな風呂敷包みを池上に差し出した。訝る顔をし、池上は受け取った。
「いったい、なんでしょうか?」
 沼田が風呂敷包に顎をしゃくる。開けろと言っているようであった。池上もそれを察したらしく、片手で結びを解く。ひもで綴じられた、紙の束であった。書類か、なにかのレポートのように思える。その表紙を読んだらしい池上が、言葉にした。
「『パブリックに関しての一考察』。どうしたんですか、これ?」
 足元が滑ったのか、沼田が小さくよろけた。
「あ、気がつきませんで、どうぞ」
 池上が片手で、作業台の下にあった丸椅子を持ってきた。勧められ、沼田が腰かける。すると恩師を見下す体勢を不遜にとったのか、池上は沼田の前に両ひざをついた。それでも不敬に思ったらしく、コンクリの上に正座した。これもまた滑稽な絵ではあるが、両者の間に戯れの気配はない。
 沼田がひとつしわぶいた。
「去年のあの病室で、ずいぶんと君が悩んでいるようだったんでな。それでわたしも、つらつらと考えてみたんだ。まあ、つまらん書き物だ」
「覚えていてくれたんですか。それでわざわざ……」
 池上が、畏れ多いという表情で包みを見つめた。
 すると傘を振り雨滴を払っていた沼田の息子が、池上に向いた。苦笑混じりで言う。
「昨日の風間食堂からの帰り道に、明日車を貸せって急に言い出して。何年も運転してないのに。それで理由を聞いて、だったら代わりに届けてくるって言うと、それではダメだ、自分が渡すことに意味があるんだって言い張って。本当は、池上さんと会いたかったんでしょ? 親父」
 無視するように、沼田はあらぬほうに顔を向けていた。
 池上は、沼田とその息子を交互に見ていた。泣き出しそうな顔をしている。いや、すでにはなすすっていた。
「あ、ありがとうございますっ」
 包みを胸に抱き、池上が沼田に頭を下げた。そうして上げた顔をチラリと直也に向けた。その表情には「先生はこういう人なんだよ」と、たしかに読めた。
「まあ、それでだ」
 沼田が言う。昨日同様、やはり不思議に通る声をしていた。
「読めばわかるが、まず日本語における『オオヤケ』の概念から考察してみた。古代史から始めたが、刮目かつもくすべきはやはり明治期で、教育者で西洋思想の研究者でもある福沢諭吉翁も、『公私』について多くを論じている。『パブリック』が清国では『公』と訳されていると、我が国に最初に紹介したのが、福沢翁でもあるしな。けれど先の敗戦で、公の最たる『国家』が崩壊し、『パブリック』という概念もまた見直されることになる。だからまだまだ馴染んでいない、いや咀嚼そしやくできていない言葉なんだな。パブリックは。しっくりとした和訳も、じつはない。つまりまだ完全に理解されていない。だが、だ……」
 池上が抱える風呂敷包みにチラリと目をやり、沼田は続けた。
「考察するうちに、このパブリックを理解するのには、やはり『P』を頭文字とする、いくつかの単語が関わっていることが推察できた。これはわたしにも、じつに興味深いことだったな」
 まるで生徒のように頷きながら聞いていた池上が、やはり生徒のように手を挙げた。それを沼田が顎で指す。これもまた寸劇かなにかのような情景だが、笑わせぬ緊迫感がある。
 池上が言う。
「私人、『プライベート』はわかります。『ワタクシ』あっての『オオヤケ』でしょうから。そして個人、『パーソナル』も重要でしょう。その他にも関係する『P』があるのでしょうか?」
「もうひとつある。そしてそれが、最も重要な鍵を握るとわたしには思えた。まあ、ゆっくり読みなさい。書いてあるから。用件は以上だ。さて……」
 沼田が腰を浮かそうとした。
「あ、あの……」
 直也は思わず声に出した。沼田が再び腰を下ろす。ふたりに遠慮し離れていたが、沼田に数歩寄る。
「僕も気になるのですが、それを今教えていただくわけにはいかないでしょうか?」
 頭を通さぬ、反射的な質問であった。ぜひ今知りたいという、抑えきれぬ衝動があったのだ。
 沼田が直也を見つめてきた。口が開く気配はない。関係性から言っても、それはそうであろう。昨日食堂で相席したというだけの旅人に、思索し導いた答えを明かすいわれはなにもない。直也は後悔し、また深く恥じ入った。また、幼さが出てしまったようである。
「いえ、なんでもありません。たいへん失礼しました」
 直也は頭を下げた。とても極まりが悪い。
「先生……」
 池上が割って入ってきた。直也をチラリと見て、沼田に言う。
「この道畑君も、じつは元公務員なんです。それで先ほどまで、『公務員とはなにか』をふたりで考えていました。彼は自衛隊にいたんです」
「ほう……」
 沼田の表情が変わった。直也に顔を向ける。
「旅のお人は、元自衛官であったか……」
 しばし間を置き、了承したように、沼田の顎がゆっくりと上下した。皺に囲まれた唇が、静かに開く。
「今述べたように『パブリック』にはいくつかの『P』が関係するが、その最大は『パトリオティズム』だよ」
 パトリオティズム。すぐに頭に浮かんだのは、米軍の地対空ミサイルの「パトリオット」である。もちろん在日米軍にも配備されており、航空自衛隊も各地に配置している。そしてその意味は日本語でいう、愛国者。ということは、パトリオティズムとは――。
「愛国心、ですか?」
 沼田は首を振った。
「これもまた日本では血肉になっていない言葉で、そう訳されることが多いが、違うな。『愛国心』ではなく、『郷土愛』がもっともふさわしい」
「郷土愛……」
 沼田が頷いた。
「飛躍しているように思えるかもしれんが、パブリックを、いや公務員を語るのであっても、この『パトリオティズム』、つまり『郷土愛』が欠かせないだろうというのが、わたしの至った結論だよ」
 池上が、感心したように何度も頷いていた。直也もまた、まるで大切な授業を受けているような心持ちだった。
 いいかね、と沼田が、優しさのにじむ声音で直也に言う。
「大切なのは、郷土愛だよ。道畑君」
 直也の心の中で、なにかがカチャリと鳴ったような気がした。歯車が嚙み合ったような、あるいはボルトの頭に適性工具が嵌ったような、金属的ではあるがしっくりとした感触である。もしかしたら、すべての疑問を解決するヒントかもしれない。さらには将来をも指し示す言葉にも感じられてくる。
 沼田が皺だらけの顔を撫でた。疲れが出ているように見える。
「といっても、老いさらばえた元教師の、つたない考察だ。それでも興味があるのなら、池上君が読んだ後にお願いして借りなさい。さて、今日はここまでにしよう」
 沼田が、息子の手を借りて立ち上がった。池上も立ち上がる。
 今日は、なにかとてつもないものを、続けざまに貰った気がする。
 背中を見せた沼田と、その背に頭を下げる池上に、直也は深々と辞儀をした。
(第11回へつづく)

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山田深夜Shinya Yamada

1961年福島県須賀川市生まれ。地元の高校を卒業後、横須賀市で私鉄職員として約20年間勤務する。99年、専業作家になるため退職。2007年『電車屋赤城』が吉川英治文学新人賞の候補になり、09年「問題小説」掲載の「リターンズ」が日本推理作家協会賞短編部門にノミネートされる。他の著書に、「本の雑誌」で「2005年上半期ベスト10」に入った『横須賀Dブルース』、『千マイルブルース』『ロンツーは終わらない』『横須賀ブロークンアロー』『ひとたびバイクに ツーリングを愛する者たちへ』『風になる日』などがある。愛車はホンダワルキューレ。

  • 双葉社
  • 小説推理
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